2020年12月13日日曜日

一言メモ: 民主主義の健全さとメディア産業の経営と

 市場経済が国民の厚生という視点から最適な資源配分を達成できるかどうかには、経済学では周知の事ながら、大事な必要条件がある。

中でも大事な条件は、どの経済主体も市場価格を与件として行動すること。そして、どの経済主体も市場支配力をもたないことである。この段階で、現実は市場経済の理想とは隔絶している。

そして、同じ程度に重要な要件は《情報・知識》である。消費者(にとどまらずBtoBの購買者全般を含む)が、買おうとしている財貨・サービス、そして競合品の価格、品質、信頼性などについても完全な情報・知識をもっていることである。

これらを考えると、理想型どおりの市場経済が現実にはどこにも存在しないのは、当たり前なのだ。

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分権型の民主主義社会が健全に機能することにも必要条件が幾つかある。必要条件を満たさなければ、名目だけ民主主義であっても、そのプラスの側面は現実のものにはならない。

複数政党制と普通選挙が不可欠の要件であることは誰もが知っているが、これに加えて、正確な情報が低価格で提供され、国民が情報の意味を理解できる十分な知識をもっていることも大事だ。

だからこそ、民主主義社会の発展とメディア企業の健全な成長とが強く関連してきたわけである。

その「メディア産業」が実は非常に重要なのだ。日本の近代化の歩みを振り返っても、文明開化から自由民権運動が盛んになる明治10年代に日本の新聞産業は勃興した。

日本のマスメディア産業の原点とも言える時代、新しい事業でもある「新聞」は江戸以来の「瓦版」とは全く異質であった。慶応義塾の福沢諭吉は高級紙『時事新報』の発行を始めた。明治15年3月の事だ。当時の福沢は日本国内で内外の事情、学問の諸分野に通じた最高レベルのジェネラリスト的知性であったろう。また明治21年に陸羯南が創刊し主筆を兼ねた『日本』は正岡子規との縁で有名だが、その記事内容は現在に置きなおせば、多分「岩波新書」のレベルに匹敵するほどの高水準だった。

記事として書く文章には書く人の学識、経験がにじみ出る。端的に言えば、新聞は(出版社側の品質管理努力が厳しいということで挙げているだけだが)たとえば「岩波新書」を出版できるほどの知識水準をもった人物が記事を書くことで、はじめて「新聞」としての機能を果たすことが可能になる。そう思うようになった。というより、そういう高度の学識に裏打ちされた人物でなければ、社会に影響を与えてはならない。そうではない人物が「口先」で社会的影響力を発揮してしまうときの「悲劇」(というべきだろうか)は歴史が実証するところである。学識に基づいて語るのでなければ、山勘か欲望、そうでなければ愉快を求めて語っているに違いないわけである。これが「マス・メディア」というものを論じるときの基本的視点だろうと思うのだ、な。

現在の新聞社に雇用されている新聞記者(≒ジャーナリスト?)のマンパワー・レベルと新聞草創期の執筆者とは、その学識、実績、経験の広汎さにおいて、比較にならないのではないだろうか?

小生は、今年の3月一杯で購読していた新聞を止めてしまった。毎月の購読料4千円は記事内容に比べて引き合わない。この感覚は日本国内のほとんどの新聞にも当てはまる。紙面の半分が、明治の福沢諭吉や陸羯南、あるいは後の時代の徳富蘇峰や石橋湛山などと同レベルの記者によって執筆され、どの記事が誰によって書かれているかがキチンと署名され、記事を書いた人物の略歴、学位、実績、著書が公開されている、そんな新聞であれば、小生は毎月購読料が2万円であっても読みたいと思うだろう。ページ数は減ってもかまわない。

理由は実に単純で<欲しい情報>だからである。

そもそも株式欄などはYahoo!Japanが無料で利用できる現在、不要であり、紙の無駄である ― 新聞の株価欄で株価をみている人はいまどの位残っているのだろう?

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人はいつでも知的な刺激をうけたいと願うものだ。現在の新聞メディアが発行する新聞にはワクワクするような知性も着想も情報も哲学もない。このくらいなら自分にも分かっている。あるといえば、細々としたディーテイルであるが、保存しておきたいと思う程ではない。無料のインターネットで十分だ。そんな「情報」ばかりである。だから4千円でも高い。

新聞の販売部数の減少トレンドが止まらないのは、インターネットに読者を奪われているからではない。

ネットをみれば十分な内容の記事しか新聞にはない

これが主要因である。予約をしてまで買うはずはないのである。だから読者が離れる。ネットでは読めないハイレベルの記事を載せればよい。ネットにはハイレベルの情報はない。ハイレベルの情報が無料で提供されるはずはないのだ。そんな記事が新聞にあれば読者は戻ってくる。理屈は誠に単純である。

民間TV局に至っては、プロ野球中継、ドラマ、バラエティのどれも昔のインパクトを失い、それもあって「貧すれば鈍す」であろうか、今ではインターネットを追いかけて「政治談議」で視聴者をつなぎとめている始末だ。が、これもあと何年も続けられるものじゃあない。「専門家」も「コメンテーター」も底が割れてきている。楽屋裏が見えてきている。

マスメディア産業も電波行政や再販価格制の規制と保護を外し、グローバル資本の参入を認め、競争の波に洗われるべき時代が近づいているような気がする。

堀江さんは<報道規制>を主張しているらしいが、言い出せる人は永田町にも霞ヶ関にもいない。ここは<消費者本位>、<規制緩和>の名の下に、メディア産業を世界に開放するほうが効果的であろう。最後に残るのは、老舗、名匠のような「高級紙」だろう。「言葉の壁」が「日本の知性」を日本人のために残してくれるはずだ。

それが日本の民主主義を守る近道だろう。



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