2021年2月4日木曜日

一言メモ: 森・五輪委員会会長の失言について

東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長というえらく長い職名で呼ばれている森喜朗氏を知らない人はいないと思う。その森氏が、(昔から往々にしてあったのだが)また問題発言をしてしまって(以前は舌禍事件と呼んでいたが)、世間を騒がせている。「失言」という面では何度もやってしまっているのだから「劣化」ではない。近年の日本社会で目立つ「劣化現象」とは別のことがらである。ある意味で「一貫」しているのだ、な。

要するに、委員会の中で女性委員が多くなると、女性委員はしゃべりたがるので、発言時間を制限しないとダメだと。報道—するほどの価値があるかどうか疑問なしとしないが―によれば

女性の理事を増やしていく場合は、発言時間をある程度、規制をしないとなかなか終わらないので困ると言っておられた。だれが言ったとは言わないが

こんなことをオンライン会議で語ったという。

小生の個人的印象では、勤務先の教授会の場を思い出しても、特に女性教官だからといって「長々と意見を述べたり」、「争うように発言したり」することはなく、むしろ年配の男性教官が左翼的な立場から反学長的見解をトウトウと語る事の方が多かった。こちらの方が迷惑だった・・・そんな記憶の方が強い。

まあ、確かに「失言」であるのかもしれない。が、同氏は昭和12年生まれで今年84歳になる。戦前派ではないが、戦後日本の価値観が定着する前の焼け跡派世代には属する。

小生の父親は、戦前の旧制中学で軍事教練を受け、全寮制の旧制高校を卒業した完全な戦前派だった。理系に所属していたので学徒動員にはかからなかったが、カミさんの亡父は文科であったので赤紙が来て出征した。終戦時は満州にいた。復員したのは終戦後何年もたってからだった。

そんな父親世代なら何と言うだろうかと想像すると、やはり今回の森会長と同趣旨の意見、というか「女性観」は語るのではないかなあと想像するのだ、な。叔父達も(聞いたことはないが)同じだ。男性社会を代表するような父権主義的圧力を幼少時から体感してきたのだから間違いはないと思う。

なにしろ小生の父方の実家、例えば法事などでは「女子衆」が厨房を占め、読経のあと住職(=男性である)を囲む、会席の場では夫婦であっても男と女は離れて座る。カミさんなどはその情景を初めて見たとき、衝撃をうけていた様子だった — カミさんの実家は祖父が内務省の末端官吏であったせいか、より現代的であったわけだ。

これは多分に現代日本にある世代ギャップのなせる事だろうと小生は思っている。そのくらい、いま日本社会を構成している各世代のメンタリティには大きなギャップがある。隣国・韓国でも年齢によって考え方の大きな違いがあるようだ。これは認めておかなければならない事実だろうと思うし、否定したくとも現に世代ギャップはあるのであるし、仕方がないことだろうと思う。大きな戦争が「100年もたたないつい3四半世紀前に」やっと終わったばかりであり、つまり歴史の中では同時代に戦争をした国であり、だからこそ現代日本も帝国主義時代の「贖罪」をいまもなお隣国から求められているわけだ。

古い思想と価値観がまだなお日本社会に残存していても当然で、それはダメだと怒ってみても、あるものはあるのだから仕方がないだろう。加えて、現代日本の豊かさを築いた功労者は外ならぬ高齢者世代(の生き残り?)であって、決して若者世代ではない。いまの若者世代は、豊かさの享受者であり、まだ何物をも成し遂げてはいない。これもまた見ておかないといけない点だろう。

ある人は、言葉はともかく、ホンネの考え方がそうなんでしょう、それが問題ですと、こんな立ち入った暴言を吐く人がTV画面に登場したりしているが、内心で何を考えるかには絶対的自由がある。これが現代社会の基本である ― ポストモダンでどうなるかは分からないが。問題になりうるのは、対外的に何を発言するかという社会的行為のみである。TV局は、内心を問題とする発言には注意するべきだ。その対外的発言という点において、明らかな失言をした。これに尽きる。しかし、あの時代の人ならそんな暴言もはくワナ、と。

とまあこんな風に思われるので、最も若い人たちの感覚と価値観で、最も高齢の人たちの感覚と価値観を非難しつくすとすれば、それは「天に唾する」ほどの幼稚かつ傲慢な態度であろうと、そんな印象をもっている。

結局は、あんなことを言っているが、実力はあるのでしょうか?問題はこれだけになるのではないか?

詰まるところ、この世の中の評価はただ一つ「実績主義」である。ヒトの評価は「棺桶の蓋が閉じられたとき」に人生全体の合計値として定まる。まだ成果・実績がなければ、発言力もないのが、浮世の鉄則である。参政権などクソラクエである。人格・人柄などは現実には無力であり、ただ「鼠をとらえた猫だけが良い猫である」としかいえない。そう思うのだ、な。 ― 森会長がいかなる鼠を捕らえたかについては情報通がいる。少なくとも政治家としては、あまり大した実績は残せなかったのではないかと思うが、これは外野にいるものの憶測でしかない。

それはともかく・・・

森会長の失言は別として、今夏に延長された東京五輪はとても開催はムリじゃあないか、中止するべきじゃあないか、といった「意見」が日本国内でもずいぶん増えているらしい。

しかし、まず確認しておかなければならないのは、

日本の側から五輪開催の中止を要請するわけにはいかない

この一点ではないか。

第1回のアテネ大会が(日清戦争のすぐ後の)1896年に開催されてから、近代オリンピック運動は100年を超える歴史を歩んできた。その100年を超える歴史の中で、一度開催が決まった五輪が中止されたのは、僅か3大会である。

  1. 1916年:ベルリン大会(第一次世界大戦のため)
  2. 1940年:東京大会(日中戦争泥沼化のため日本政府が返上)、ヘルシンキ大会(東京大会返上のため代替開催となったが第二次世界大戦勃発のため中止)
  3. 1944年:ロンドン大会(第二次世界大戦のため)
第二次世界大戦が終わった直後の1948年大会は、直近の開催予定地であったロンドンで、ロンドンの次は東京の代替開催地に決まっていたヘルシンキで1952年に行われた。敗戦国の日本が五輪に復帰したのはヘルシンキ大会である。

この他に中止されたオリンピックはない。また、開催に立候補しながら、開催国の都合によって返上された大会は1940年の東京のみである。

もしも今回、世界の中では新型コロナ感染状況が軽度であるにもかかわらず、日本の側から五輪開催を返上したいとの意向を表明するとすれば、同一国・同一都市による2度目の返上となる。

こんな「英断?」を日本人がとるなら、今後は一切、東京がオリンピック開催都市として立候補する可能性はないものと考えるのが筋であろう。

近代オリンピック運動の理念に賛同しているからこそ、五輪開催に立候補した理屈である以上、IOCがあくまで開催するのであれば、日本としては徹底的に協力と支援を惜しまない姿勢をとるべきだろう。

単なる義理と人情ではない。過去の国家的我儘への贖罪にもなる、というものだ。


パリ、ロサンゼルスの後に開催が認められるかもしれないし、パリの代わりは無理だろうが、米、欧州の受けとり方次第では、ヒョッとしてロサンゼルスの前に開催できるかもしれないではないか。

何ごとも「短気は損だ」。細々したことに怒らず、大きな絵を描くべきだろう。

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