「男女共同参画」という言葉は小生の若い時分にはなかった、という意味では全くの「新語」である。ということは、新しい時代背景の下で初めて意味のある言葉であるということだ。言い換えると、古くて新しい問題ではなく、まったくの新しい問題に応じて生まれてきた言葉である。このくらいはすぐに推論できることである。
逆に言うと、ずっと昔には「男女共同参画」という言葉が必要な社会状況はなく、今日になって初めて「男女共同参画」という言葉が必要になってきた、ということでもあるのではないか?
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要するに、本質的な点は、女性が働く場所がこの3~50年間の変化の中で解体されてきたということだろう。
いま、女性は「家」でも、「家族」でも、「親族」でもなく、まして「村」や「里」でも「地域」でもなく、いかなる血縁関係、婚姻関係、地縁関係からも切り離されて、文字通り「社会」の中で人生を生きていくしか居場所がない。少なくとも個人、個人の女性に「ない」と感じさせるような変化が、雰囲気として、価値観として、また生活実態的にも進んでいる。もちろん男もこの変化の中に漂っているが、女はより先鋭的に感じる、そんな変化の事である。
鴨長明は名著『方丈記』の中で、「人とすみか」と言っているように、どこでどう生きていくかを人生の主題とした。それと似た問題なのだと思っている。
19世紀の英国・プロレタリアートは、いかなる土地からも自由となり(=農地を奪われ)、大都市の労働者として身を売るしか生きるすべがなかった。同じ観点から、「働く女性」をとらえることが可能だろう。
いま女性が日本社会で仕事をしながら生きていくのは大変だ。これが本質的論点である。
男性の小生すら「組織」や「交友」に対して「疎外感」を感じることはママあったわけである。小生は、酒席も献酬も大嫌いであるし、大人数の宴会などはいかにして欠席するかを常に考えていたくらいだ。そんな場で、疎外されている感覚、余所者である感覚、仲間ではないという感覚を何度感じたか、数えられる回数ではない。大学に戻って何より有難かったのは、集団で仕事をする義務から解放されたこと。「変人」であることが「独創的」、「横紙破り」であるのは「進取の気性」として評価された点である。やはり
一般社会の常識は大学では非常識、大学の常識は一般社会では非常識
ここが嬉しかったのだ。ヤドカリが自分の住むべき貝を見つけたようなものだ。
つまり「常識」という圧力がある。多種多様であるべき常識をただ一つの「常識」に統一化したがる性癖が日本社会にはある。「意識統一」という言葉が以前にはあった。今でもあるかもしれない。ここに日本社会の生きづらさの病根がある。
世に従へば、身、苦し
従はねば、狂せるに似たり
鴨長明が生きた平安時代から鎌倉時代にかけての日本。その時代にも生きづらいと思う人物はいたわけだ。
女性は「社会」で生きていく。ここが20世紀以前の社会と21世紀以降の社会とが違うところだ。だとすれば、旧来の社会で感じさせられていたような疎外感を女性に感じさせるとすれば、それは既存の社会システムの側の問題である。仕事をする女性には気の毒というしか言いようがない。問題解決しなければならない。
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とはいえ、何度も投稿しているが、男女の性差というのは明らかに観察可能である。男女の違いは、子供を育てる中で容易に確認される明瞭な傾向として誰もが気がついている事実であるに違いない。
つまり、男性には男性の比較優位が、女性には女性の比較優位がある。
小生が育てられていた時代において、男女の比較優位分野はそれぞれ、家庭・社会全体の中ではホボホボ半々であったように感じる。そして、「家族」は市場経済原理からも競争原理からも無縁な共同体である。
しかし、「社会」では競争があり、市場が働く。
男性と女性が性差に由来する比較優位に基づいて、得意分野により多くのエネルギーを注ぎ、結果として男性優位の業務、女性優位の業務が分離してくるとしても、それは当たり前のロジックである。ちょうど、製造業が優勢な国・地域もあれば、金融業が盛んな国・地域もある、農業地帯もあれば、油田地帯もあることと同じである。IT産業が、いま最も有望な産業だからと言って、どの国も、どの地域もIT産業を誘致しようとするのは、かえって自らの利益にはかなわない。自らの利点を活用しない非論理的な希望となる。男女の違いも同じ視点で考えればよい。
故に、あらゆる活動分野で男女が均等であるような政策目標を掲げるとすれば、これはそれぞれの良さを生かさない愚かな政策であると思われるのだな。
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亡くなった母は「生涯一専業主婦」であったが、いま女性が母と同じ人生を送るのは無理だろう。
「家庭」でも「地域」でもなく「社会」で生きていこうとするときに、比較優位を表現できる適切な働き場所が社会の中に十分にある。こんな社会システムを構築する努力は必要なのであって、個人個人の「最大多数の最大幸福」に至る途でもある。
日常生活は時間効率化され余暇ができた。余暇‐所得選好図式によっても仕事への需要は高まるわけだ。そんな状況が続けば、賃金には低下圧力が生まれる。
その低賃金トレンドは、AI(=人工知能)導入などによる生産効率化投資を抑え、日本の経済発展にはマイナスである。働く世代の幸福にもつながらない。もし小生が元の職場の現役であれば、育児、失業、病気、高齢化という4大リスク(?)をカバーする公的保険を統合し、保険料の雇用者負担を引き上げ、実質的な高賃金状況をつくる。支給拡大による家計収入安定と企業側の効率化投資の促進を狙う。そんな原案をつくるに違いない。きっと面白い仕事になる。単なる「最低賃金引上げ」ではダメだ。リスクカバーと再分配につながらなければダメだ。
流れとしては、女性の生きる場が家庭から社会へ移っていくのは止めようがないだろう。しかし、急な変化には世代間の意識のギャップが日本では大きすぎるような気がするのだ、な。伝統的かつ支配的な「常識」の下で疎外感が形成されてはならない。
「男女共同参画」がいわばお上から押し付けられた努力義務として認識されてしまう所に学問的な貧困がある。多くの人もそう感じてはいないのだろうか。
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