2021年2月11日木曜日

民主主義のために我慢を強いられる「騒音」は様々ある

民主主義に選挙はつきものだ。しかし、我慢するべきコストもある。ずいぶん前に、こんなことを書いている

 (Walkmanで好きな音楽を)聴いていると、街宣車、いやいや来週末にある市長選挙に立候補している誰かが選挙運動で周っている声がする。何を言っているか分からないが、スピーカーから大声が聞こえてくる。

ヤレヤレ、1分か2分、スピーカーで『この町を変えましょう、この町には問題が山積しています。変えましょう!』などと叫んで回ったからといって、誰が投票するかねえ、あなたに

せっかくの名曲も台無しになった。

まったく、叫んで走り回ったから票をもらえると本当に思っているのだろうか?だとすれば、阿呆である。

民主主義で我慢しなければならないのは「選挙運動の騒音」だけではないことに気がついた。負のバブルのようなSNS、ネット、TVの騒音である。 貴重な意見もノイズのような騒音にかき消されて、伝わってこない。

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そもそも、小生は「変わり者」であるせいか、「言葉」や「文章」というものは全く信用していない。「説明」や「ご卓説」はいい。学生にも

説明はいいからさ、どんな計算結果になったか、それを見せて

だから、教育者としては落第であった。教育者には確かに「言葉」が大事だ。「教育」や「躾」は言葉が極めて大事な限られた分野であると思っている。

さて、 

前々回の投稿ではこんなことを書いている:

理にかなったことを提案すれば通るだろうし、無理な事を主張すれば通らないだろう。やっぱり「なせばなる なさねばならぬ」が現実だと思うのだ、な。年長者のせいではなく、行動できないのは、自分にその気がないからだ、と。そうとしか思えないのだが、違うのだろうか?

思うのだが、民主制だろうが、君主制だろうが、何事によらず結果を出すために必要なことは「なせばなる なさねばならぬ」のスピリットの方であって、「言えばなる」と考えるのは完全な間違いだ。「言えばなる」なら、とっくに世界平和が訪れている。核兵器も地球上から消失しているはずだ。難しい問題など何もないという理屈だ。

口で言うだけではダメで、実行しなければならないから、難しいのだ。

世間を支えているのは、実質のある仕事をしている人たちであるから、真っ当な人であれば「言葉」より「実行」が遥かに重要であることは誰もが分かっている(と思う)。というより、口から出てくる「言葉」こそ、最も注意しなければならない、往々にして騙されるのは「言葉」によってである。これまた実際に仕事をしている人であれば、骨身にしみて分かっている「常識」だろうと思う。

だからこそ、口先ではなく、書いた文章にしておく。これが契約である。ことほどさように口先の言葉に意味はない。口から出た言葉で「ああ言った、こう言った」と口喧嘩をするなら無害であり、却ってホンネを言い合って相互理解も深まるというものだが、言い合いもせず、ダイレクトに社会の実生活に影響が及ぶなどは、幼稚の限り、精神年齢を疑うというのが、小生の変わらぬ原理、原則であったし、この数日の世間の騒動振りを観察していると、ますますその思いを強くする。

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言葉で勝負する研究者でもそれは同じだ。

研究結果を伝える道具はなるほど「言葉」である。しかし、伝える中身を得るために、どんな着想に立ったか、かつ一度の思い付きにとどまらず、どれほどの長い時間をかけて一つのテーマを追求し続けたかの方が、はるかに決定的である。無数に繰り返した実験、何枚も反古にした計算用紙、長時間の対面インタビュー録音、etc.、これらに現れる労苦が結果の価値を決めるという意味では(何度も投稿しているように)小生は労働価値説の支持者なのである。この辺の理を実感できるのは、なにも研究だけではなく、あらゆる開発、マーケティングも同じだろう。真っ当なジャーナリズムも言葉を支える土台は言葉以外の汗と労苦であることに変わりはないはずだ。

こんな投稿があった:

 ■森会長の状況は弁慶の立ち往生のようだ

 私はこういった究極の判断、局面を迎える時に、誰が矢面に立てるのだろうかと考えている。これまで、多くの与野党政治家やスポーツ界関係者が森会長を「弾よけ」にしてさまざまな事業を進めてきた。それにもかかわらず、その森会長が苦境に立たされている場面で誰も表に出てこない。

 このフワッとした世の雰囲気に、自分では何もやらない方ばかりの社会風潮。マスコミも一方通行な批判しかしない社会では、常にフワッとした空気に流されるだけで、私は本質的な日本社会を変えられないのではないかと危惧する。

 たとえ、森会長が大きな判断をされても、こういうズルい人たちがいては開催是非の判断という目の前に迫る最大局面を乗り越えられないと考えている。イメージ的には、弁慶の立ち往生のように森会長だけ無数の矢を受けて、安全な場所にい続けた方々に矢を受ける覚悟があると思えない。

(出所)President Online, 2021-02-11 09:16配信

 まあ、今の世に弁慶が生きていたら、完全に男権中心主義の信奉者であったろうなあ…というのは冗句であるが・・・それにしても、なぜ森会長、女性委員についてあんな話をしたのでしょうネエ。カミさんとはこんな話をした。

小生: 問題発言の前後をネットで読んでみたんだけどネ、これって「女性蔑視発言」になるのかなあ?

カミさん: 「女性は」って言わなくともいいでしょ!

小生: まあ、事実としては、会議で長広舌を繰り広げるのは、大体が男だな。だけど、喫茶店で居心地のいい一角を占めてさ、声高でおしゃべりを続けてさ、時々「キャアッ!!」とか、「エエっ!!」とかみんなが声を揃えて絶叫したり、悲鳴をあげては、周囲をビックリさせる。そんな行動をするのは、ほぼ全て女性グループだよ。男でも騒々しい連中はいるけど、騒々しくするのはもともと五月蠅い居酒屋の中だ。確かに、女性がおしゃべりに興じはじめると、時間を忘れるってところはあるわな。

カミさん: そんな目線がそもそも女には腹だたしいのヨ。

小生: ふ~ん、そんなものかねえ。女性は「男ってさ」ていうのは言わないの?

カミさん: お喋りでは言うけど、会議でわざわざ発言はしないわよ。

・・・とまあ、こんな会話をしたのだが、女性が増えてくると、それが自然になって『殿方たちは〇〇』とか『男性の方は、女性と比べて〇〇』という発言をしたりするようになるのではないか?

それで、カミさんとの雑談にはまだ続きがある:

小生: 大体、何を言ったかで腹が立ってもだよ、女性の立場で言い返せばいいんじゃない。言葉には言葉で言い返して、口喧嘩をすれば、それでいいように思うけどネエ。本来、腹が立ったのなら、口喧嘩をして、本音をぶつけあえばいい話だろ。腹が立ったから、「辞めろ」、「社会を変えろ」というのは、気に入らないことを言ったから、実力行使をするってことで、こりゃあ俺には「暗黒社会」そのものにしか見えんけどなあ。中世ヨーロッパ世界では「神を冒涜した」人物は牢獄に入るか、火あぶりになるかで、世間から抹殺されたけど、今の世は「男女平等の理念を冒とくした」ってことかねえ・・・。

カミさん: もうこの話し、したくない!!

・・・ということで、終わりになったのだが、口喧嘩をするのも不愉快だから、存在を抹消する。いま世界で流行しつつあるこの発想は極めて危険であるというのが小生の考え方だ。

行動志向こそ価値を生むのであって、言葉志向は近年目立つ幼稚化現象の象徴としか思えないのだ、な。おしゃべりは、詰まるところは、おしゃべりであって、口先の言葉に余り高い価値をおくべきではないし、おだてやお追従に笑みを浮かべるのは阿呆の証拠である。こんなことはシェークスピアの昔から分かっている。演説で扇動されるような社会は単に軽薄な国民性を示しているのだと思う。

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やはり、民主主義であっても、民主主義であるからこそ、「なせばなる」が大事で、「言えばなる」は間違っているというのが基本だ。

気に入らないことを言う人間を排除していけば、結局のところ、残る人物はタレーランのいう

言葉が人間に与えられたのは、考えていることを隠すためである。

La parole nous a été donnée pour déguiser notre pensée.

この種のタイプの人物たちだけになるのではないかと危惧する。ちなみに、このタレーランの言葉はフランスの古典派劇作家・モリエールのパロディだ。

  La parole a été donnée à l'homme pour expliquer ses pensées

 「言葉は思うところを表現するために人間に与えられた。」

作家や言論界なら商売道具の「言葉」を賛美するだろうが、ウソと真実の境目で仕事をしてきた小生はとても言葉を信じる気にはなれない。 

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