辞任した森喜朗オリパラ会長の後任が橋本聖子五輪相に決まったものの、五輪開催については日本国内で「再延期あるいは中止」を求める声が多数であり、今回の会長就任は「火中の栗を拾った」とも表現されているようだ。
それにしても、「どうせ開催は無理だろう」という声が日本国内で急速に増えているのは、正直、驚くべきことだと小生は感じる。
前にも、こんな投稿をしている:
オ・モ・テ・ナ・シの予定を気が変わってオ・コ・ト・ワ・リにしても世論がそうなら仕方がないが、テーゲーなところで「そろそろ限界です」とあきらめて、あとは一切謝絶するというのも、いったん立候補した開催国としてはいかにも誠実味がなくて、器が小さい話だ。
検査効率化、低コスト化、自動化を叫ぶなら理屈が通るが、GDP第3位の「経済大国」日本が、それもロクに検査もしないうちから、今から敗北主義に立って『検査費がかかりすぎるンですヨネ』と泣きを入れるとすれば、その弱虫振りはやはり恥ずかしいネエ。
何と言っても、どこに頼まれるわけでもなく、自らが決めて立候補して、「贈賄」を疑われるほどの強引な誘致活動を展開し、最後には当時の現職首相である安倍さんまでがマリオに扮して登場したのが五輪開催都市としての「東京」であり、それを支援した「日本」という国であった。
確かに、コロナ禍で世界情勢は一変したが、日本は欧米に比べると感染者数も死亡者数もずっと少ない。
『もう無理ではないかと思うんですけど』と言うかなあ、正直、そう感じる。折しも、オーストラリアでは、アメリカから「クレイジー」と揶揄されながらも、厳重な感染予防体制をしいた上でテニスの全豪オープンを開催中である。
「オ・モ・テ・ナ・シ」できそうになくなったので、今度は「オ・コ・ト・ワ・リ」したくなったということですか・・・
「状況が変わればすぐに嫌になるんだネ」と、(もしも)そう海外から言われると、今度はメディア主導で「安全な開催に努力してこそ誠意というものだ」、「日本人には出来るんだというのを見せよう」と、またまた、連日のように「国民運動」を展開して叫びまわるのだろう。そう思うと、その騒動の五月蠅さが想像されて、いまから嫌になる。
状況の変化で気分が「蝶のようにヒラヒラと」変転する《気分屋》という日本人の国民性は、時に「もののあはれ」を感じとる繊細さにつながるのだが、一貫した目的をあくまでも追求する大地に根の生えたような強靭さとはほど遠い。
コロナの蔓延に失望するのは仕方がないが、失望しながらも可能な選択肢の中から選択をして、ノーアウト・フルベース・ノー・スリーのような状況になっても、冷静さを失わない姿勢というのは、それこそオリンピックという場で培うべき精神なのではないだろうか?
立候補しておきながら、早々と諦める薄情さということに加えて、この態度はそもそもオリンピック開催都市として相応しくない、と。小生はそれほどのスポーツマンではないが、そう思いますがネエ。
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