2021年2月3日水曜日

ブログより面白いAmazonの書評コメント

 Amazonで本を買うかどうかを決める時、アップされている書評コメントを一覧するのは誰もがやっていることに違いない。

中には、本ブログに並んでいる詰まらない繰り言より遥かに面白い投稿もある。

余りに素晴らしいので、引用したくなったものをここに転載しておく。堀田善衛『方丈記私記』に対する感想である。引用箇所が元のコメント。インデントなしの部分は、本投稿の地の文である。

★ ★ ★

ちくま文庫の『方丈記私記』は著者と五木寛之との対談を付録として含む。この中で五木氏が面白いことを指摘する。鴨長明におかまの匂いがするらしい。

そういえば、

 〇 つきはなした冷徹なものの見方

 〇 すべてに対する広い関心

 〇 一種の疎外感

つまり、いろんなことにとっかかりがあってしかもすべてから締め出されているところ。中途半端。何かことが起こると、その現場に行って確かめたいと言う内的逼迫。おっちょこちょい。これらはおかま的資質である。

(と、五木氏が言っている。)

ひょっとして、「小生もおかま?」と思ってしまいました。何にでも広い関心がありすぎて、知的関心が拡散してしまったことが、研究成果という点で我ながら物足りなく思う結末をまねいたと反省しているし、「つきはなした冷徹なものの見方」は、時に会議の場で意見として述べてしまうこともママあったりして、それが周囲の良心的かつ常識的な同僚たちを引かしてしまうことにもつながった。そんな反省と後悔の念は、このところ高まる一方なのだ。それで一種の疎外感をもったりしているのも、ズバリ、的中しているのだから、これはそうだな、と。

 高校で『方丈記』を学んだ。「無常観の文学」のひとことで片付けられたが堀田善衛はそんなもんじゃねえだろうと自分の体験を方丈記に重ねている。例えば1945年3月10日の東京大空襲。死者10万人超。3月18日の天皇による焦土視察は、朝9時に宮城を出発し、まず深川富岡八幡宮跡で下車、ついで汐見橋、東陽公園、小名木川橋、錦糸町、押上、駒形橋、田原町と経て上野経由、宮城帰着10時。たった1時間。永代橋では人びとは土下座して、責任は家を焼かれ家族を殺されたわれわれにあると天皇に詫びたという。「あの戦争をおっぱじめたものは、天皇とそのとりまきである」のは明らかなのにどうしてこんなことになっているのか。なぜいったい、死が生の中軸でなければならないような日本になってしまったのか?

まったくその通りだ。日本の「天皇制」がもたらしているもの、日本人に押し付けている「日本のお国柄」に向ける「冷徹なものの見方」がこれ以上明らかな形で表現されている文章を小生はあまり見ない。 戦後は、全てが180度逆転してしまって、生は無限に重く、死は無限に避けなければならないが故に語ってはならないことになってしまった。死は家族の間からすら忌み嫌われて排除され、砂を噛むようなルーティン的日常の繰り返しが不安のない人生に成り上がった。そしてその象徴に天皇がいる。何かに対して愚かなほどの忠義を感じる日本人の姿が浮かび上がるというものだ。

 そして『方丈記』に書かれていたことがこれと瓜二つだったことに思いが至る。当時の「皇族・貴族集団のやらかしていること」と「災殃にあえぐ人民」という図式は何も変らない。長く続くことが尊いことなのか。伝統ばかりが尊いことなのか。

「生む」ではなく、ただひたすら「守る」という日本社会の性癖にウンザリとする人は多いはずである。 

 ・・戦時中ほどにも、生者の現実は無視され、日本文化のみやびやかな伝統ばかりが本歌取り式に、ヒステリックに憧憬されていた時期は、他に類例がなかった。・・この考えかたは現在でも相変わらず続いている。個人の幸福を追求できない仕組みが日本の社会には厳然と存在する。これは日本民族の宿痾なのかそれとも麗しい美質なのか。

「個人の幸福」よりも「日本の伝統」とか、「古来の文化」を優越的な位置に置きたがる日本のお国柄への問題提起、というか一種の絶望である、な。まったく同感するところだ。 

この観点で『方丈記』を読みなおしてみると堀田善衛の目に見えてくるのは、鴨長明の偏執的ひらきなおり、ザマミロといった具合のふてくされ、厭味、無常というにはあまりにも生ぐさい態度、世を捨てたからこそなんにでもイチャモンをつけられる姿勢・・。鴨長明は楽器の名手で楽才があった。『方丈記』の文章からは強烈なリズムが響いてくる。もしラップが当時あったなら、長明はこころの奥に鬱積した怒りをぶちまけるすごいラッパーになっていたに違いない。

★ ★ ★ 

ネット上にあふれかえっている数多の自称・専門家による社会時評を超える内容が、Amazonの書評コメントという世間の目をあまり引かない場所にヒッソリとアップされているとは・・・日本社会の知的レベルは、表面から心配されるほどには、劣化していないということかもしれない。

社会の表面で目立つ言動をしている人々は、それだけ人気欲、注目欲、名誉欲等々の▲▲欲という邪念に動機づけられているのかもしれんネエ、と。『石が浮かんで落ち葉は沈む 』、そんな転倒的な世相が21世紀序盤の日本社会というものなのだろう。

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