昔、「誰かが言ってましたが」
論理にだけは、誰であっても服さなければならない。
論理で負けて意地を通せばバカだと思われるだけである。
その論理が最も透徹しているのは、数学ということになるが、その数学でも「公理」という大前提があって、公理だけは証明抜きで認めておく必要がある。
ユークリッド以来の幾何学の公理(の一部)を否定して構築されたのが非ユークリッド幾何学である。アインシュタインの相対性理論はその一つの結実である。
大数学者ガウスは、非ユークリッド幾何学が可能であることを知っていたが、生前それを公表しなかった。非難を怖れたからである。
誰もが認める公理は、数学の世界でも疑ってはならない大前提となり、否定したときに何が言えるのかという考察さえも抑圧する《価値》になってしまうのだ。
論理だけから構成されているかに見える数学にもこんな歴史があった。
とはいえ、誰もが服さなければならないのは、《論理》だけである、というのは小生の人生哲学である ― そのために犠牲になったことは、正直、多いのだが、幸いにして《被抑圧感》というのは感じずに過ごすことができた。
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日本の家庭の中の役割分担、職場の中の男女の業務分担などには、確かに、現代社会と不調和なところが多い。
解決しなくてはならない問題は多い。ただそれらが全て「男女平等」という言葉からアプローチするべき問題なのかどうか。そこには理念がもたらす「認知バイアス」もあるとは思っている。
小生が、20年も昔に、初めて学科長になったとき、まず「断行」したのは女性職員が担当していた「お茶出し廃止」である。不必要な業務であり、不合理だったからだ。
主観的には「断行」であったが、提案してみると思ったよりも賛同者が多く、一部にブツブツ言っている御仁がいたものの、スンナリと承認されたものだ。まあ、「古い慣行」とでも言えばいいのだろうか、現実には続いているから続けているだけであって、積極的に支持している人は案外少ない、そんな慣行は非常に多く残っているのが日本社会の実相なのだろうと感じる。
提案しないのは、細かなことを言い立てて目立つのがイヤだからだろう。得になることはなく、損になるかもしれないことには、手を出さないのが日本人の傾向である。まだ残っている男女の問題もそんなタイプの問題であることが多いような気がする — もちろん全てではない。本当の問題もある。が、小さな問題を片付けていくだけで、風通しはずいぶん良くなるはずだ。
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確かに、上のような事情はあるにしても、『だから日本は遅れている』、『先進国とは言えない』等々と、言われると『お前たちがいうか』と腹だたしくもなる。
というのは、どの国が「先進国」かと言えば、言うまでもなく「ヨーロッパ」と「アメリカ」、ヨーロッパの中でも特に英仏独といったあたりだ。
小生、可笑しくてならないのは、「自分たちは先進国だから」と自分たちで言うか? と、そういうことであります。
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ヨーロッパの自称「先進国」は、どこもかしこも、かつての植民地宗主国であり、帝国主義国である。
最初は、軍艦で支配し、次に製造業で支配し、それが衰えると金融資本で支配し、それも崩壊すると今度は理念で支配しようとする。キリスト教が健在なら、宣教師も「先進国」による世界支配に参加している事だろう。
中国が欧米の傲慢に怒りを表明する気持ちは、一面、小生も理解できるのだ。
いまは「多様化の時代」といいながら、何かといえば「それは遅れている」、「その価値観は共有できない」というのが「先進国」である。語るに落ちるとはこのことだ。「多様化の時代」を唱えているのは自らの国益のためである。自らの国益を度外視して理念を語れば、口先では誉めながら、心の中では阿呆と思うのが国際政治の最前線だろう。
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欧米の胸の奥は「見え、見え」である。にもかかわらず、「遅れている日本」を力説している日本のTV各局は、「恥の上塗り」と言わずして、どう言えばいいのだろう?
多分、同じ敗戦国のドイツはともかくとして、「米英仏」あたりに「ほめてほしい」。そんな心理が日本の上層部には働いているのだろうが、このような心理自体が、いま世界を支配している「差別構造」の本質であると感じるネエ・・・
我を通して傍若無人な迷惑行為を繰り返し、ついに実力行使で体罰をくらい、激しく叱責された幼児が、今度は親の顔をみながら一生懸命に「いい子ね」と褒めてもらいたいと願う。こんな風情だと思います。
ああ、恥ずかしい。といったところだ。
・・・ ・・・
とマア、こんな投稿があってもよいと思われるような あまりの最近の成り行きで御座います。
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