2021年2月12日金曜日

一言メモ: 「近代オリンピック運動」の終わりの始まりか?

新型コロナに、今度はオリパラ会長の森喜朗氏による「女性蔑視発言」が加わって、投稿のネタはつきない。

例によって、取材能力の限界、それに時間不足もあるのか、TVはいかにも浅掘りの報道を続けている。

昨日になって、後任が川淵氏になりそうだというので、今朝のワイドショーはその話題で持ちきりだ。多分、今日は一日中、すべての異なる情報番組で同じ内容を繰り返し伝えては「専門家」があれやこれやと意見を開陳するのだろう。

何だか、飽きて来たねえ・・・

と小生は思うのだが、TVをつけておくと時に臨時ニュースが入ったりするので、やはり便利なのだ。つけておくと、同じ話が自然に耳に入ってくる。

何だか、「国民運動」のようで、嫌な世の中だネエ・・・

と、黒船が来航して、「攘夷」だ、「尊皇」だ、「武士」だ、「平等」だなどなど、明治の10年頃までは、そんな雰囲気が日本社会に広がっていたのではあるまいか?

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森発言でにわかに「男女平等」が日本で議論されるようになった。急に盛り上がってきたのだから、いかにも付け焼刃だ。

小生は、学生時代に「男女別・産業別労働需要関数」を勉強したことがある。ゼミの恩師の専門分野が実証的労働市場分析であったからだ。

人によっては『そもそも男女別に労働市場を分析すること自体がGender Discriminationである』と、科学的観点を無視した超越的視点から非難を加える向きもあるかもしれない。

今回の「男女平等問題」だが、憲法や法律では両性の平等は担保されているので、広く問題になっているのは「形式的平等」ではなく、結果としての「実質的平等」である。

小生は、経済学から入ったので、実質的平等を問題にするなら、なぜ『あらゆる所得格差、資産格差は許されない』と人々は言わないのか、実に不思議である。男女の不平等を遥かに超える実質的不平等が、今の日本社会には現に存在しているではないか。不平等より平等の方が善いと考えているなら言うべきだろう。

男女間だけが問題で、他の実質的不平等ならあってもよいのか?何故よいのか?

実に不思議だ。

これが一つ。

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政府も「男女共同参画」という政策理念をかかげている。

最近投稿したように「男女共同参画」が必要になった背景は社会の現実として確かにある。しかし、あらゆる経済問題に言えることだが、

経済問題は社会の現実から生まれ、やがて理念という衣裳をまとう

小生はこう思っているのだ。

ビクトリア時代の英国に思想家(というより日本でいえば小林秀雄に類似するような評論家)トーマス・カーライルがいた。主著は『衣裳哲学(Sartor Resartus)』である。カーライルは夏目漱石も読んでいたはずだ。小生も原文をAmazonからダウンロードしているのだが、まだ全体を通読はしていない。やはり漱石の読書力はすごいと思う。

例えば、ネットで感想・レビューを検索したりすると、次のようなコメントが見つかったりする:

読了。良著だった。 科学が発展し神が宇宙の外の存在となった時代、功利主義的な思想の流行へ批判を加え、霊的・精神的な観念や宗教的なものへの評価を架空の哲学者の口を通し語った作品である。多々目を引くような巧緻な表現があったが、完全に理解するまでには至らなかった。能力不足を感じる。 いずれもう一度読んでみたいものだ。

URL:https://bookmeter.com/books/31682 

コトバンクには次のような紹介がある:

 ドイツの大学教授トイフェルスドレック (悪魔の糞) の伝記という形をかりて,カーライルがみずからの思想の発展を述べたもので,ドイツの超越的観念論の影響のもとに,感傷的ロマン主義と功利的産業主義を否定し,この世の人間的制度や道徳は,すべて存在の本質がそのときどきに身に着ける衣装で,一時的なものにすぎないという哲学を力説した。「永遠の否定」から「無関心の中心」を経て,「永遠の肯定」にいたる精神的危機の物語は,狭い主我的な懐疑と苦悩に閉じこもるバイロン的傾向を捨てて,明るく広いゲーテ的境地に救いを求めた,カーライル自身の経験による。日本では明治,大正期に広く読まれ,ことに新渡戸稲造,内村鑑三らに大きな影響を及ぼした。

私たちの現実の生活から色々な社会問題が生まれる。それらをどう観るか、どう解決するかは、本当は社会科学的な分析に基づく方法が最も有効である ― 必ずしもキレがいいという意味ではない。しかし、問題を解決するための方法に必ず理念という衣裳がかぶせられる。その方法は善なのだという思想が生まれる。思想が人々の頭の中を支配するようになる。本来は、問題を解決するということから始まることが、コレコレの理念を冒とくしてはならないという精神的抑圧の手段となって、人々を押さえつける。

英国の全盛期であったビクトリア時代にあって、善い結果を引き出すための方法は善いのだと断じる功利主義的哲学の危うさを批判的に指摘したカーライルには、夏目漱石という皮肉屋も大いに共感を覚えたわけである。

どうも「男女平等」、「男女共同参画」に関する今回の騒動をみていると、そんな風に感じるのだな。

何を解決したいのか?

もう一度、<日本の中の>問題確認を明確化する方がよい。男女平等については、地球上で色々な問題の諸相がある。欧州には欧州の、イスラム教国にはイスラム教国の、アジアにはアジアの、インドにはインドの男女不平等問題がある。男女共同参画は日本の中のいかなる問題を解決するための言葉なのか?そういう確認である。

★ ★ ★

今回、特に<先進的自由主義圏>と目される欧米のマスメディアから森発言への非難が報じられてきた。

その世界的世論(特にアメリカのTV局であるNBC?)に抗しきれず、IOCも会長辞任要求へと向かったことが辞任の直接的契機になったと言われている。

思うのだが、口先の言葉で男女不平等を容認する(とも受け取れる?)発言をして、それが許せずに退場を求めるならば、実際に基本的人権を抑圧する行為をしているのならば、もっと悪いわけであるから、中国の人権抑圧に目を背けてはならない。そういう理屈になるだろう。女性を男性に比べて不利に処遇するという人権抑圧よりは、女性も男性も含め一律に抑圧する方が、もっと悪いことになるのではないか。それとも

男女一律に人権を抑圧するなら、それは男女平等だからいいのです

こういう「へ理屈」を通すのだろうか?

香港市内やウズベク族居住地において人権抑圧行為が現に中国政府によって採られている以上、それに対しても声をあげなければ、理屈が通らない。小生はそう考えるのだが。

ちゃんと声をあげるのでしょうネエ・・・という疑問。これがもう一つだ。

今回、男女平等という理念を冒とくしたという咎で辞職を求めた以上、求めた報道機関は中国、のみならずあらゆる人権抑圧行為を繰り返している国の政府にも、五輪から退場を求めるべきだろう。

ロジックはそうならざるを得ないのだが、欧米にそんな覚悟はあるのだろうか?

これが三番目。

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オリンピックは、本来、あらゆる国の政治的行為から独立して、スポーツによって国際平和の精神をはぐくむために生まれた運動である。「男女平等」は明らかに基本的人権にかかわる問題であり、基本的人権にかかわる以上、必然的に国際政治上の問題である。その問題に振り回される状況を受け入れたIOCはもう近代オリンピック運動の精神から逸脱している。

近代オリンピック運動の模範となった古代ギリシアのオリンピア — 町の古名だがこう呼んでおこう— は、例え戦争をしている当事国であっても、オリンピア開催期間中は停戦をして、競技に参加したと伝えられている。近代オリンピックの現状と何という大きな違いだろう。

アメリカのヘゲモニーの下で自由主義圏による集団的ボイコットが行われた1980年のモスクワ五輪より前にもオリンピックは既に政治的表現行為の舞台として利用されていた。IOCの存続とは裏腹に、近代オリンピックは「運動」としては精神的にもう敗北している、と小生は思っている。今回また一例が追加されたわけだ。

現在の五輪が20年後にまだあるかと言われれば20年後にはまだあると思うが、40年後にもまだ続いているかと問われれば、それは分からないと思う。

近代オリンピック運動は、消滅か、堕落か、変質か、いずれかの道を辿っていくのではないかと予想する ― ま、自分の目で確認するのは無理だろうが。




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