2021年2月10日水曜日

「シャンシャン会議否定論」の危うい思想

結構長く仕事をしたが、日本は「会議の国」だという記憶はまだなお強烈だ。とにかく「会議」が多い、というか多かった。

どこでも会議の数を減らそうと努力はしてきたとは思うが、今はどうなのだろう?一時は、会議を減らすための会議があるとも聞いた。

会議にもレベルがあり、最高意思決定会議もあれば、その下の個々の現場に密着した会議もある。

オリパラの森喜朗会長の「女性蔑視発言」というテーマがとうとう作られてしまった中、延々と毎日繰り広げられている「世論?」をフォローしていると、『日本では会議の前に結論が出ている。会議は最後のシャンシャンでしかない』など、これは日本文化そのものではないかという議論にもなっているようで、五月蠅い、五月蠅い・・・

政府関連のハイレベル会議の委員などに任命されると、これで国の方向決定に自分も参加できると思う御仁もいるのだろう。ところが、アニハカランヤ、結論は委員長と事務方で事前に決まっている気配がして、自分が独り会議当日に異論をたてるのは遠慮らしい、せっかく時間を割いて多忙の中を出席しているのに何だかバカにされている。まあ、こんな感想をもつ委員はそれなりに多いのだろうと想像されるわけだ。

日本人は実に「会議好き」であるという日常の実感と、逆に、委員に任命されて出てみると、会議以前に結論が出ているようで、会議の意味がない。こんな不平もまた同時にある。

「会議好き」と「会議は形」と、どちらが本当なのだろうか?

例えば、株式会社の最高意思決定機関は株主総会である。

しかし、株主総会の当日に議論百出して、議事が紛糾し、紛糾の末に総会当日の深夜に至り、ようやくのこと社の運命を決する一大重要案件に結論が下された。そんな事例を小生は聞いたことがない ― というか、株主総会は完全に形骸化しているという事実は誰もが知っている。むしろ一大重要案件が株主総会まで持ち越されて結論が不確定であれば、経営不透明感からその会社の株価は暴落しているに違いない。

将来が視えないということはそれ自体「リスク」である。

リスクを最小化するべき努力が組織のマネージャーには要請される。多くの関係者に取り巻かれている組織であれば理の当然である。

であるので、一大重要案件については、それより下の取締役会議で、更にはその下の各事業部レベルで関係者と調整のうえ、あらかじめ結論を出しておく。その結論をオフィシャライズする。日本の会議はそのためにこそある、というより会議というものが果たすべき機能は、(外観はともかく)国によってさほど大きくは異ならないはずである。

つまり、意思決定の場である「会議」が重要であればあるほど、シャンシャン大会になるのは当たり前なのであって、多くの人は「確かにそうだよねえ」と想い返すはずだと思う。

よく考えれば、高々3時間か、4時間の「最高会議」が開催されるまでは結論が出ず、その会議でどの委員がどんな意見を述べるかも予想がつかず、従って会議でどんな議決がされるかは五里霧中であるという状況が日常的なのであれば、それこそ日本中の会社で「イギリスのEU離脱国民投票」で世界があっと驚いたのと同様な「不測の事態」が、同時多発的に発生する理屈である。

そんな杜撰なマネジメントをするなど、危なくて、とてもじゃないが日本企業には投資はできまい。多数の関係者から協力を得るには不透明感は何よりも禁物だ。

ずっと昔、国民経済計算(SNA)関係業務を担当していたことがある。SNA体系は国際的な統計基準なのだが、しばしば改訂される慣行でもある。

近々公表が予定されている新体系がどのようなものになるかという見通しは担当セクションの業務計画を決めるには重要な点である。日本は最終的決定を待って準備を始める姿勢をとることが多かった(という印象をもっている)。しかし、たとえば欧州では毎月のように(国によって、時によっては毎週のように)SNA専門家が会って意見交換や議論をしている。そんな日常的な作業や会議に基づいて、重要案件がハイレベルの会議の議題に提出されれるよりはるか以前に、結論は基本的に出ているのだ。そこには落ちついた安定感と方向感がある。実に合理的で着実な進め方をとっている。これには統計行政分野の大先輩であるK先生から聞いた話も混じっているのだが、この辺の「危なげのない進め方」を感覚する感性というのは、案外、国を問わず共通のところがあると小生は思っている。

うまくいかない場合、日本はその日常的なインナーサークルには入らず、公式の会議で最終案が出てきたあとから勉強を始めたりする。そうすると、勉強を始めた時点で日本の作業状況には遅れが発生し、そのために急ぎモードとなり、議論が足りず、消化不良のまま、書かれた文書を一生懸命に勉強して、一言一句に注意しながらついていく。そんな風になりがちである。むしろ、こんな状況において「会議」という形式は実質的な機能を果たすのである。「決定事項」であるというわけだ。

故に、小生は「会議」で物事を決めるのは状況が良くない証であり、諸事円滑に運んでいる時はむしろ会議はシャンシャンと終わるものだと心得ている。

『会議の前に結論ありき』ですという不満は、せっかく委員に任命された機会を有効に(かつ期待されたほどには)活用せず、結論形成に貢献できなかったというそれだけの事ではないだろうか。

組織や場所を問わず、色々なレベルの会議が数多開催されているが、会議をよく観ていると、積極的に会議に貢献している人、眠狂四郎のように斜に構えている人、誰かの意見の提灯ばかりを持つことにしている人、反対ばかりする人、一言居士等々、あらゆるタイプの人がいるものだ。会議の場で物事の判断を決着させることは、議長にとっても時に至難である。結論が出なければ「持ち帰り」となるが、みな多忙なので次回会議の日程調整がつかない。その結果、出すべき結論が出ないまま、それこそ10年裁判のように検討が長期化するのである。五輪のように後が切られている場合は、持ち越しができない。なので当日に結論を出すことが至上命題となる。であるので、会議当日の前と後の時間を活用して、理解の共有や定着を図ったりするのが日常である。

議長を補佐する事務方にとっては当たり前の実務である。会議の目的は、会議自体にはなく、会議で承認された決定事項の実行にあるのだから、会議当日の前と後がより大切なのである。つまり、最高意思決定会議自体は、理屈から言って、シャンシャンである、というより「あるべき」だ、というのが小生の実感だ。


この辺の理が分からないとすれば、頭が悪いからに違いない。『言論のための言論』、というより「おしゃべりのためのおしゃべり」ということなら無害であるが、実務とは無縁の御仁が、意思決定システムについて、それは「善い」とか「悪い」とか、徒然なるままに批評して言いまわる所為は、メディア売上高には貢献するのだろうが、これまた選挙運動と同じで「これも民主主義のためには我慢するべき騒音なのだろうか?」と。そんな疑念を抱かれるだけになる。目的をもった組織の意思決定システムは「善いか・悪いか」ではなく、「能率基準」が唯一の評価基準である ― 逆に、目的なき共同体組織においては平等や公正などのその他の評価基準が関係してくる。




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