役所から大学に転じてからもう25年以上もたつのにまた変な夢をみた。
出世頭とも言うべき大先輩の部屋を訪れると、その先輩が要職を退任した記念に出版された本が置かれている。机の背後の壁にはプロジェクターから何かのスライドが投影されていて、その先輩の業績を称える画面になっている。
ところが面会したいその大先輩は部屋にいないのだ。困った小生は少し時間をつぶそうと思い、外に出てさっき降りたばかりの駅の方向に歩き始めた。ところがずっと先を二人の男性が歩いていて、その一人は小生が会いたいと思ってやって来た大先輩。もう一人は、小生とも少々の縁がある先輩である。どうやら大先輩に会うために先にやってきて、二人で食事に出たということらしい。
なぜ小生はその大先輩に会いにやって来たのだろう。夢の中で『●●に行けなかったとはネエ』と揶揄される言葉が響く。●●というのは誰もが知っている国際機関の名前である。何も小生がそこで仕事をしたかったわけではない。親元の役所が推薦したところ、突き返されたわけだ。どこかが不十分だったのだろう。それもあって何かを大先輩に頼みたくなったのだろうか。ところが先を越されたということか。夢の中とは言え、不愉快な気持ちが胸に広がっているところで、目が覚めた。
目が覚める前に考えていたことは
田舎でのんびり暮らせばイイことさ。もう頼むことは止めよう。
ということだった。そう思うと、不愉快な思いは弱まったが、今度は無力な空しさがわいてきた。
で、目が覚めたというわけだ。
「評価」なんて糞食らえ、だ。人間をダメにする。
目が覚めてからまだ余韻が残っていた。嫌な夢をみたものだ。
★ ★ ★
それにしても、妙に生々しい夢だ。まだ小役人時代の意識が古層のようになって、小生の胸の奥には埋もれているのだろうか?
その頃の感覚や価値観は、心の垢だと思って洗い落としたと思っていたが、まだ意識しないところに染みついているらしい。
だとすれば、三つ子の魂ともいうが、幼少時代の記憶もそのうち何かの拍子で蘇るときも来るのかもしれない。どちらにしても《生々しい感覚》というのは、言葉にならない形で《記憶》されているものだ。
除くべきは「卑屈」な考え方そのものなのである。卑屈な人間に幸福が訪れることは(理屈上)絶対にない。
夏になると年中行事のように永井荷風の『濹東綺譚』を読み返すことは何度も投稿しているが、この8月は余りの猛暑で仕事をする気もなくなり、久しぶりに谷崎潤一郎の『細雪』を全巻読み通してしまった。あのような何が起こるわけでもない長々しい小説を最初から最後まで読むなど、よほど時間ができない限りしようとは思わないものだ。
ところが、読んでいるうちに、昭和13年から16年にかけての頃だろうか、日中戦争が激化する頃から真珠湾奇襲に至るまでの戦前期・日本にあった最後の平和な時分なのであるが、そこで織りなされている普段の会話が小生にはたとえようもなく懐かしく思えたのだ。会話はすべて大阪の船場言葉、つまり生粋の関西弁で書かれている。小生が少年時代まで暮らした四国・松山の言葉とは少々違うが、話す調子は共通しているので、語りの音声は再現できるのだ。しかし、懐かしく感じたのは会話からにじみ出る《生々しい感覚》なのだ。
たとえば、作者の分身である貞之助の妻である幸子がホンネを思うところ:
幸子は、この間から自分が何よりも苦に病んでいた問題、——自分の肉親の妹が、氏も素性も分からない丁稚上がりの青年の妻になろうとしているこの事件が、こういう風な、予想もしなかった自然的方法で、自分に都合よく解決しそうになったことを思うと、正直なところ、有難い、と云う気持ちが先に立つのを如何とも制しようがなかった・・・
妹である妙子が(勝手に)婚約したという板倉青年が外科手術の失敗で死に瀕している場面である。「身分」という生々しい感覚。会話の物言いからにじみ出ている。
現時点の日本であれば、こんな感覚で作品を公表すれば非難轟々となり、日本社会から抹殺される塩梅となるに違いない。ところが、上のようなホンネの感覚は、例えば小生の母や、また父にも、確かにあり、時にふれ、話題により、しばしば同じような言葉を小生は聞いていたように思うのだ。だから実に久しぶりに両親の声を聞く感じがして、非常に懐かしさを覚えたのである。
あるいは、下巻の終盤、ドイツに帰国した親しい友人であるシュトルツ夫人から届いた手紙の中にある下り:
このことは向上に努める若々しい民族が負わねばならぬ共通の運命とでも申すべきでございましょうが、日向に一つの席を占めると云うことは、そうたやすく出来ることではございません。
日向に席を占めているのは米英である。向上に努めているのは日独である。ドイツにあってその努力をしているのはナチス政権であり、責任者は総統ヒトラーである。作品の中にこのような文章を書きこむのは、戦後世代には無理である。そんな意識がない。つまり「持たざる国」という言葉に込められていたリアルタイムの《生々しい感覚》を小生は共有できないし、したがって現実的な言葉ではなく、まして現代日本の若い人であればもっと縁のない言葉になっているだろう。戦前期の日本社会で毎日を過ごしていた人間でなければこのような文章は書けない。このリアルな感覚もまた小生の父や母は確かに持っていた。戦後も20年以上もたってから、時々、思い出したようにそんな思い出話をするときがあった。
そうか、こんな感覚で日本人は昭和13年から16年頃までの時代を生きていたのかと・・・、そう思うと、父や母がおくった毎日がまさに《生々しい感覚》をもって、小生の意識にものぼってくるようなのだ、な。
歴史は事後的に書かれるものである。故に、歴史としては日本人やドイツ人がその時に考えた
このことは向上に努める若々しい民族が負わねばならぬ共通の運命とでも申すべきでございましょうが、日向に一つの席を占めると云うことは、そうたやすく出来ることではございません。
このような思考は間違っていたと判定されているわけである。また、
幸子は、この間から自分が何よりも苦に病んでいた問題、——自分の肉親の妹が、氏も素性も分からない丁稚上がりの青年の妻になろうとしているこの事件が、・・・
という価値観は間違った価値観であると、現代の日本人なら考えるはずである。
しかし、その時間を生きた人物たちは、間違っているとは考えなかった。迷いながら決めたことを後悔することはあるにせよ、もう一度、その局面に立てば、やはり同じように行動するだろうと考えるのではないか、真面目な人間なら。この事実は重い。
今でも学校推薦図書によく登場する夏目漱石も森鴎外も、谷崎潤一郎よりよほど古い時代の作家である。「分かるのかな?」と思ったりするのだ、な。
人は迷いながら行動する。後の世代は歴史を書く。何のために人は歴史を書くのかが問題の本質だ。《生々しい感覚》まで共有してしまえば、「間違った決断」という歴史的判断を下すのは難しくなろう。しかし、過去の出来事をリアルな感覚とともに意識せずに書く歴史は、歴史としては間違っているだろう。
さて、「間違った決断」と「間違った歴史」と。この二つの誤りを識別するには、どうすればよいのだろうか?
ある一連の出来事を後になって振り返るとき、その時の当事者の決断が間違いであったという見方がある。逆に、当事者が与えられていた情報、情報処理の合理性、行動ルール、そして人々の生々しい感覚を考えれば、決断に誤りはなかった。少なくとも共感できる。間違いであったという見方が間違いだ。そんな立場もある。
「決断が間違っていた」と「間違っていたという見方が間違いだ」という二つの見方。この二つの見方は両立しない。いずれかが間違っている。これを識別するにはどうすればよいのだろう?