2021年8月31日火曜日

断想: 歴史にも二つの「誤り」がある

役所から大学に転じてからもう25年以上もたつのにまた変な夢をみた。

出世頭とも言うべき大先輩の部屋を訪れると、その先輩が要職を退任した記念に出版された本が置かれている。机の背後の壁にはプロジェクターから何かのスライドが投影されていて、その先輩の業績を称える画面になっている。

ところが面会したいその大先輩は部屋にいないのだ。困った小生は少し時間をつぶそうと思い、外に出てさっき降りたばかりの駅の方向に歩き始めた。ところがずっと先を二人の男性が歩いていて、その一人は小生が会いたいと思ってやって来た大先輩。もう一人は、小生とも少々の縁がある先輩である。どうやら大先輩に会うために先にやってきて、二人で食事に出たということらしい。

なぜ小生はその大先輩に会いにやって来たのだろう。夢の中で『●●に行けなかったとはネエ』と揶揄される言葉が響く。●●というのは誰もが知っている国際機関の名前である。何も小生がそこで仕事をしたかったわけではない。親元の役所が推薦したところ、突き返されたわけだ。どこかが不十分だったのだろう。それもあって何かを大先輩に頼みたくなったのだろうか。ところが先を越されたということか。夢の中とは言え、不愉快な気持ちが胸に広がっているところで、目が覚めた。

目が覚める前に考えていたことは

田舎でのんびり暮らせばイイことさ。もう頼むことは止めよう。

ということだった。そう思うと、不愉快な思いは弱まったが、今度は無力な空しさがわいてきた。

で、目が覚めたというわけだ。

「評価」なんて糞食らえ、だ。人間をダメにする。

目が覚めてからまだ余韻が残っていた。嫌な夢をみたものだ。

★ ★ ★

それにしても、妙に生々しい夢だ。まだ小役人時代の意識が古層のようになって、小生の胸の奥には埋もれているのだろうか?

その頃の感覚や価値観は、心の垢だと思って洗い落としたと思っていたが、まだ意識しないところに染みついているらしい。

だとすれば、三つ子の魂ともいうが、幼少時代の記憶もそのうち何かの拍子で蘇るときも来るのかもしれない。どちらにしても《生々しい感覚》というのは、言葉にならない形で《記憶》されているものだ。

除くべきは「卑屈」な考え方そのものなのである。卑屈な人間に幸福が訪れることは(理屈上)絶対にない。


夏になると年中行事のように永井荷風の『濹東綺譚』を読み返すことは何度も投稿しているが、この8月は余りの猛暑で仕事をする気もなくなり、久しぶりに谷崎潤一郎の『細雪』を全巻読み通してしまった。あのような何が起こるわけでもない長々しい小説を最初から最後まで読むなど、よほど時間ができない限りしようとは思わないものだ。

ところが、読んでいるうちに、昭和13年から16年にかけての頃だろうか、日中戦争が激化する頃から真珠湾奇襲に至るまでの戦前期・日本にあった最後の平和な時分なのであるが、そこで織りなされている普段の会話が小生にはたとえようもなく懐かしく思えたのだ。会話はすべて大阪の船場言葉、つまり生粋の関西弁で書かれている。小生が少年時代まで暮らした四国・松山の言葉とは少々違うが、話す調子は共通しているので、語りの音声は再現できるのだ。しかし、懐かしく感じたのは会話からにじみ出る《生々しい感覚》なのだ。

たとえば、作者の分身である貞之助の妻である幸子がホンネを思うところ:

幸子は、この間から自分が何よりも苦に病んでいた問題、——自分の肉親の妹が、氏も素性も分からない丁稚上がりの青年の妻になろうとしているこの事件が、こういう風な、予想もしなかった自然的方法で、自分に都合よく解決しそうになったことを思うと、正直なところ、有難い、と云う気持ちが先に立つのを如何とも制しようがなかった・・・

妹である妙子が(勝手に)婚約したという板倉青年が外科手術の失敗で死に瀕している場面である。「身分」という生々しい感覚。会話の物言いからにじみ出ている。

現時点の日本であれば、こんな感覚で作品を公表すれば非難轟々となり、日本社会から抹殺される塩梅となるに違いない。ところが、上のようなホンネの感覚は、例えば小生の母や、また父にも、確かにあり、時にふれ、話題により、しばしば同じような言葉を小生は聞いていたように思うのだ。だから実に久しぶりに両親の声を聞く感じがして、非常に懐かしさを覚えたのである。

あるいは、下巻の終盤、ドイツに帰国した親しい友人であるシュトルツ夫人から届いた手紙の中にある下り:

このことは向上に努める若々しい民族が負わねばならぬ共通の運命とでも申すべきでございましょうが、日向に一つの席を占めると云うことは、そうたやすく出来ることではございません。

日向に席を占めているのは米英である。向上に努めているのは日独である。ドイツにあってその努力をしているのはナチス政権であり、責任者は総統ヒトラーである。作品の中にこのような文章を書きこむのは、戦後世代には無理である。そんな意識がない。つまり「持たざる国」という言葉に込められていたリアルタイムの《生々しい感覚》を小生は共有できないし、したがって現実的な言葉ではなく、まして現代日本の若い人であればもっと縁のない言葉になっているだろう。戦前期の日本社会で毎日を過ごしていた人間でなければこのような文章は書けない。このリアルな感覚もまた小生の父や母は確かに持っていた。戦後も20年以上もたってから、時々、思い出したようにそんな思い出話をするときがあった。

そうか、こんな感覚で日本人は昭和13年から16年頃までの時代を生きていたのかと・・・、そう思うと、父や母がおくった毎日がまさに《生々しい感覚》をもって、小生の意識にものぼってくるようなのだ、な。


歴史は事後的に書かれるものである。故に、歴史としては日本人やドイツ人がその時に考えた 

このことは向上に努める若々しい民族が負わねばならぬ共通の運命とでも申すべきでございましょうが、日向に一つの席を占めると云うことは、そうたやすく出来ることではございません。

このような思考は間違っていたと判定されているわけである。また、 

幸子は、この間から自分が何よりも苦に病んでいた問題、——自分の肉親の妹が、氏も素性も分からない丁稚上がりの青年の妻になろうとしているこの事件が、・・・

という価値観は間違った価値観であると、現代の日本人なら考えるはずである。

しかし、その時間を生きた人物たちは、間違っているとは考えなかった。迷いながら決めたことを後悔することはあるにせよ、もう一度、その局面に立てば、やはり同じように行動するだろうと考えるのではないか、真面目な人間なら。この事実は重い。

今でも学校推薦図書によく登場する夏目漱石も森鴎外も、谷崎潤一郎よりよほど古い時代の作家である。「分かるのかな?」と思ったりするのだ、な。

人は迷いながら行動する。後の世代は歴史を書く。何のために人は歴史を書くのかが問題の本質だ。《生々しい感覚》まで共有してしまえば、「間違った決断」という歴史的判断を下すのは難しくなろう。しかし、過去の出来事をリアルな感覚とともに意識せずに書く歴史は、歴史としては間違っているだろう。


さて、「間違った決断」と「間違った歴史」と。この二つの誤りを識別するには、どうすればよいのだろうか?

ある一連の出来事を後になって振り返るとき、その時の当事者の決断が間違いであったという見方がある。逆に、当事者が与えられていた情報、情報処理の合理性、行動ルール、そして人々の生々しい感覚を考えれば、決断に誤りはなかった。少なくとも共感できる。間違いであったという見方が間違いだ。そんな立場もある。

「決断が間違っていた」と「間違っていたという見方が間違いだ」という二つの見方。この二つの見方は両立しない。いずれかが間違っている。これを識別するにはどうすればよいのだろう?



2021年8月27日金曜日

ホンノ一言: 「コロナ分科会」の能力は本当に信頼できるのだろうか?

コロナ分科会会長の尾身先生といえば、いまでは菅総理大臣よりも国民から信頼されている(観すらある)人物だ。少なくとも、日本国内のマスメディアはそんな風に伝えている。

例えば

尾身会長「臨時医療施設作らねば現状に対応できない」

こんな風に伝えているわけだ。いわゆる「野戦病院」を早く設置してほしいという意見だ。


なるほど《ごもっとも》なのであるが、臨時病院なら昨年4月の段階で、神奈川県は臨時病院の設置を決定している(公表資料) 。大阪府が「大阪コロナ重症センター」の運用を開始したのは昨年12月である。設置を公表したのは、それより前、8月であった(公表資料)。

やっている地域ではとっくにやっている。そうも言えるのではないか ― 量的に不足したという結果論はあるとしても。

分科会の考えが神奈川県や大阪府にどの程度伝わってそうなったのかは知らない。あるいは意見交換をしたうえで、神奈川県や大阪府が臨時施設を設置しようと考えたのかもしれない。


しかし、新型コロナウイルスが日本に上陸してから1年半余り。分科会の尾身会長が発言していることは、菅総理大臣が言い始めるよりも概ね1カ月程度先であったにすぎない。尾身会長の発言とほぼ同時期に西村担当大臣が同じ主旨のことを発言し始め、それから1カ月か1か月半ほど遅れて、菅総理もその方向で発言をする。どうも、ずっとそんなパターンであったような印象があるのだ、な — 詳細に発言日時をデータとして整理したわけではなく、あくまで「印象論」ではあるが。

まあ、確かにGOTOへの反対、オリ・パラ中止の提案(というより無観客の提案)をめぐって、政府の意向と衝突する場面もあるにはあった。分科会は政府より遠くが見えていたのだろう、とは思う。

ではあるが、要するに、分科会の現状理解から1か月か1カ月半ほど遅れて菅総理は意思決定に至るという具合。「政策ラグが1カ月もあったのは怪しからん」とも言えるが、分科会の判断に1月遅れで政府が着いて行ったとも言える。これがどうやら日本のコロナ対応の楽屋裏ではなかったのか、と。景気判断ではないが、変化する感染動向の中で、尾身先生と分科会は先行指標、菅総理の意向は遅行指標。遠くから眺めていると、外観としてはそんな印象をもつのだ、な。

《山岳ガイド》、《水先案内人》として分科会をどう見ればいいのかな、という問いかけはやはりあると思う。少なくとも「検査能力拡大」、「医療体制の強化」、「ワクチンの早期特例承認の必要性」について、昨年の早い段階から尾身会長なり、分科会から基本的な対処方針が発表されたことは一度もなかったと記憶している。


菅内閣のコロナ対策が「場当たり的」で信頼できないという評価は多い。が、そうであれば分科会の医療専門家は、高々1カ月か1カ月半くらいは早く状況を把握し、警告を出せてきたわけで、「まあ、そんな仕事っぷりでしたかねえ」という辺りの評価になるのではないか。まるで「あさって台風が来ます」と予報するようなもので、分科会の仕事が「予報」であるならそういうことなのだろうが、小生は中身のある仕事とは到底思えず、大体「あさっては台風です」と警告されても、「今からじゃあ、予定をキャンセルするしかないナア」くらいの対応しか出来ることがない。で、実際に似たような経過をたどってきた。

もちろん「あさって台風が来ます」という警告を受けてもそれを軽視して旅行をし、実際に台風が来てからズブ濡レになり、大慌てで雨宿りをするという姿に似た菅内閣の《低脳ぶり》こそ、「恥ずかしい」の一言だ。これは間違いないと思う。

が同時に、分科会の仕事ぶりも内閣に負けず劣らず「場当たり的」であったのじゃあないか。どうもこの1年半余りを想い返すと、こういうことではなかったか、と。小生にはそう思えるのだが、どうなのだろう?

内閣支持率を世論調査で質問するなら、コロナ分科会の「仕事ぶり」に対する評価も一度問うてみてもよいのではないか?


むしろ都道府県、市町村で良好なコロナ対応をしている地域を総務省にモニターさせ、厚労省にフィードバックさせて政策原案を作らせるほうが、少しはマシなコロナ対策につながるのではないか? 同じ旧・内務省系列の官庁であるから、相性もよいであろう。


そう思ったりする昨今である。

2021年8月25日水曜日

ホンノ一言: 前に書いた「上は仕事をしていない」という文の意味

先の五輪に次いでIPCが主催する東京パラリンピック開会の挨拶にバッハIOC会長が再来日したというので、何と国会審議でも批判されたよし。

時代は変わったものである。

もしも亡くなった父や母の時代であれば、アメリカ、イギリス、EUほどの感染状況ではなく、加えてイギリスやEUでは行動規制解除に向かいつつあるという状況であるにもかかわらず、日本で医療逼迫を起こしてしまえば、それこそ『日本の恥である』との批判が世間に噴出し、政府は直ちに《医療関係者総動員体制》をしき、関係者一同は一致団結して、不眠不休で感染者急増に対処していたに違いない。なにしろ父の世代は『国家総動員体制』の下で育ち、教育されていたのである。「総動員体制」を受け入れる精神的準備は身に染みついたものになっていた。この点は、普段の発想、話しぶりから明らかであったのだ。

ところが現代日本では、医療逼迫が「国の恥」であるどころか、「日本の医療危機」の最中に開会の挨拶に来日したバッハ・IOC会長のほうが非常識であるということで、日本国民の憤激をかっている。

この違いから小生は過ぎ去った過去、歴史となった昭和時代というものを感じる。

その背景として

日本は先進国であるに決まっている

そんな自信(過信?)が、この半世紀で国民共有の感覚になってきた、ということを挙げてもよい気がする。自信が日本人の国際感覚を変えてしまったのである。1人当たりGDPでもはや韓国にも抜き去られたいま(参考資料)、そんな自信があるのは滑稽というものなのだが、一度形成された自信は自尊心ともなり、市場メカニズムによる新陳代謝を活用せずには社会のあり方は変わりようがない。

そんな中、

菅総理大臣がお疲れのようである。こんな記事もある。

現在72歳の菅首相。8月は全国的な感染拡大が止まらない新型コロナウイルスの対応や、西日本での大雨対応、そして今回のパラリンピックと、めまぐるしく変わるテーマに対処している。衆院選を秋に控える中で、お膝元・横浜市長選での自民系候補の敗北もあった。23日には産経新聞が、安倍晋三前首相を超える「148日連続勤務」となったことを伝えている。

URL:https://news.infoseek.co.jp/article/20210825jcast20212418934/?tpgnr=poli-soci

Source:Rakuten Infoseek News、2021年8月25日 17時28分

いまはそんなことはあるまいと願っているが、小生が過ごしてきたオフィス内の雰囲気を思い出しながら、皮肉を述べてみたい。

総理、閣僚などとは、その責任の重さが比べ物にならないが、小生も学科長やら教務委員長を「やらされた」ことがある。「やらされた」というのは、大学の役職というのは、まず貧乏籤であって、雑用などを自らかって引き受けるような御仁は、まずはいるはずがないからである。

教務委員長であれば教務委員会だけに出席すればよいので、まだマシであるが、学科長となると自動的に委員に含まれる委員会が結構多数あるのだ。なので、学科長在職中は、とても研究教育モードの毎日などではなく、時間をとられる雑用モードが延々と続くわけだ。3年もそんな仕事をすれば、まず頭脳が雑用向きに再構成されてしまって、研究者としては落ちこぼれになる・・・これが大学という世界でメシを食っている人であれば共有されている感覚だと思う。

もしも学科長ではなく、「総長」、「学長」になればどうか。ほとんど全ての重要会議に出席しなければならないはずである。研究室に短時間でも移動することは時間的に難しく、毎日のほとんどの時間を事務局の奥にある「学長室」で過ごすことになろう。会議の合間には、面談を求めて、人が出入りする。おのずと分刻みのスケジュールになり、したがって秘書が不可欠になるわけだ。

美しく言えば「大学行政」などという言葉が使われているが、これは「気休め」、「憐憫」の域を出ない残酷な言葉であると小生はひそかに思っている。ある期間、同僚で大学を去る人が複数人発生してしまい、悪くすれば次の専攻内運営をやらされるかもしれないという可能性を意識してしまう状況になったことがある。小生は、それは勘弁してくれと内々で根回しをしたものである。この辺の感覚は、いわゆる「世間」とは180度正反対なのではないかと想像する。


さて、もしも総理大臣であればどうだろう?小生には、その残酷なる毎日を想像することすらできない。


しかし、今になって小生思うのだが、学長なり総長として重要会議に出席するといっても、自ら司会をするわけではなく、会議の運営をするのは大体において副学長であったりする。そして副学長は分野ごとに複数人いるので全分野に向き合うわけではない。学長は、自ら議論をリードするわけでもなく、多くの場合、ただ聴いているだけのことが多いのだ―まあ、小生の勤務した大学は小規模の大学であったから、学長自らが短兵急に意見を述べる場面も多かったが、それは全国では例外的であると確信している。

大学を問わず、日本国内の官公庁、企業、その他機関もご同様だと思うが、トップがやるべき仕事は、会議に出て色々な意見を聴いて、多くの人に会って話す。時間的にはこういう仕事が大半を占めているはずだ。

ずっと前に「頑張る現場とダメな上」という問題意識で投稿したことがある。そこで、こんなことを書いている。

小生は何度か記したことがあるが投下労働量で価値が決まるという労働価値説に共感しているものだ。もしも上が下に比べてダメであるのが本当なら、それは上は下ほど<実質的な>仕事をしないからである、と。この極度にシンプルな観察は、意外に当てはまっているのではないかと自信があったりするのだ。

何しろ日本では太平洋戦争の勝敗の行方が混とんとしている真っ最中、英米では総司令官が参謀と寝食をともにして24時間頑張っている時に、東京の大本営に勤務する高級参謀は補給に苦しむ最前線をヨソに定時退庁していたと伝えられている、そんなお国柄である。集団主義とはいうものの真の意味で組織が一枚岩になれないところが日本にはある。それは何故なのだろうという問いかけである。

それぞれの担当参謀は案外定時退庁したりしたのだろうが、おそらく参謀総長は全ての会議につきあって、「忙しい」毎日を送っていたに違いない、と想像しているのだ。

しかしネエ、

仕事をしている = 忙しい = 拘束される

 本当にこの三味一体の等式は成り立つのだろうか?ただ、席にいて出席者の意見を聴いておくことが本当に「付加価値」にむすびつく、生産的な行動なのだろうか?むしろ、トップがそこに臨席していること自体に意味がある。トップがそこに臨席しているからこそ、組織として意思決定してもよいのだ。こんなことを考えているのじゃないか。もしもトップが、トップ自身の考え方を会議の席上で語り始めれば、他の出席者は甚だしく困惑するのではないか?

小生は会議が大嫌いであったが、当時もそんな風に思っていたし、その感覚ばかりは今も変わらないのだ、な。

上に引用した部分にある

もしも上が下に比べてダメであるのが本当なら、それは上は下ほど<実質的な>仕事をしないからである

というのは、そういう意味である。 


・・・以上書いたことが「皮肉」であり、「時代錯誤」であれば幸いだ。とはいうものの・・・

・・・もしも近年の日本のスローガンであった《政治主導》が機能しているのであれば、

上は優秀だが、現場は平凡

そうなっていて然るべきではないか?

しかし、マスコミの報道、ネットの情報を見る限り、どうみてもそうではない。日本は依然として

頑張る現場と、ダメな上

そんな情景に変わりがない。

もし現場の声を聴くだけでよいなら、現場の声に従って多数決を通せばよいという理屈で、「政治家」や「上層部」は一切不要である。

しかし、現場の声だけに従っていれば、戦えば敗戦必至であることは、何も『三国志』や『項羽と劉邦』を読むまでもなく、誰にでも分かるわけだ。

だからトップの役割が決定的であるのだが、現在までのところ、リーダーシップが機能していない。この理由が小生には分からない。機能しない原因が、ヒトにあるのか、システムにあるのか、ハードウェアにあるのか、原因がよく分からない。


 

2021年8月23日月曜日

一言メモ: デルタ株の流行は日本の問題ではない、ということ

現時点の日本国内のコロナ問題の核心は、デルタ型感染者の急増そのものよりも、現在の新規感染者数で既に医療システムが崩壊寸前(?)にあるという《危機の感覚》が形成されているという事実である。本日投稿の問題意識は、なぜ《危機の感覚》が日本で形成されているのか? その危機感覚は、現実の正確な認識に裏打ちされた正しい感覚なのか? こんな疑問である。


例えば、イギリスは新規感染者数が(投稿編集時刻現在で)31417人、人口10万人当たりで47人。フランスは新規感染者数が23004人、人口10万人当たりで34人。アメリカになると、新規感染者数が151227人、人口10万人当たりで46人になっている。


Source: The New York Times, Coronavirus Pandemic

いずれも日本より感染状況は一層酷い(?)数字になっている。日本は上記サイトによると新規感染者数が22487人、人口10万人当たりで18人である。「これならイイんじゃないの?」と言われそうな数字である。しかし、日本では連日のように「医療危機」が報道されている。イギリス、EU諸国では、医療崩壊が連日報道されるという状況にはなっていない。

感染防止に(いまのところ)成功しているのはドイツで、新規感染者数が6507人、人口10万人当たりで7.8人となっている。そのドイツでも新規感染者数は上昇トレンド初期にあり、現時点の感染者数にとどまっているのは、(日本国内の首都圏、地方との相違もそうだが)フェーズのズレによるものと受けとれ、今後が心配されているところだ。


Source: The New York Times, Coronavirus Pandemic

コロナ感染は、グローバルな現象であって、鎖国でも出来ない限り世界の中で観察を続け、国内政策を決めていくしか対処のしようがない問題だ。

ずっといる「経済活動停止過激派」を一掃することはできまいが、米国内の一時的な(?)インフレ高進、あるいは最近の半導体不足による世界の生産活動の混乱ぶりをみれば、全てを理解して言っているとは思えない―ロックダウンの名手(?)である中国であってすら、全国的なロックダウンなどは、出来ていないし、出来るものではない。食料、ライフライン、交通、治安など止められない活動がある以上、完全なロックダウンなどは、そもそも出来るはずがなく、どこまでを停止できるのかを理解している人間もいるか、いないか、怪しいものだ。

これが第一の勘所。

感染者数の変動が、一国の政策のみの帰結であると言わんばかりの「報道」は、軽薄にすぎると思うのだ、な。


そのイギリスだが、2回接種者(fully vaccinated/フルチン?)の比率は62%、それに対して、日本は40%である(いずれも8月21日現在)。つまり、理屈で考えれば『日本はワクチン接種率が低すぎるために、つまりは「ワクチン政策の失敗」が原因となって、デルタ株新規感染者の激増を招いている』とは、結論できないわけである。

現在、最もワクチン2回接種率が高いのは、マルタの81%、次がUAEの75%、シンガポールが同率の75%というところだ。いずれも比較的人口の少ない小国である。日本の感染動向をどう受け止めるかは、ワクチン接種状況をにらみ合わせながら、海外との比較の下で、観察・評価していくのが適切な「まなざし」というものだ。

その中で、特に日本において、なぜ「医療崩壊?」が社会的なパニックとも言えるほどの「混乱」をまねいているかと問えば、やはりその背景として「医療システムの不備」というものも当然あるのだが、それより以前に「政治不信」の高まりや、更には「データ・情報の提供の不備」というものもある。そう思いながら観ているのだ、な。

実は、本日投稿で引用したデータ、グラフなどは、全てThe New York Timesの紙面(デジタル版)に掲載されているもので、同紙では全世界のコロナ関連データを毎日アップデートしながら読者に提供している。

なるほど、現在の日本人の不安は、確かに政府がもたらしているところが大きい。が、政府が実際に進めている政策とその効果に相応する評価が得られないというのは、評価するにもそのための材料がサッパリ提供されていない。これも結構重要な点である。

マア確かに、『データならGoogleで検索できるでしょ、いつでも分かるじゃないですか』と、そんな指摘というか、意見もあるわけだ。しかし、『Googleでデータは拾えるよネ』と言われても、それはあたかも野原で特定品種の花を探すのに似ていて、極めて非効率的なのである。大体、『生活に困れば生活保護があるじゃないですか』と言ったというので総理を非難したのはマスコミ各社である。Googleで検索すれば確かに分かるのだが、そこを整理して、操作しやすく、かつ特定テーマについて網羅的である、そんな風にして多数が求めている情報を効率的な方法で提供する。これが正に付加価値というものである。『情報産業ならやれよ』。これが主旨である。

アメリカのメディアはそこをチャンとやってるヨ、と。そういう意味において、現在の日本でコロナ関連の《情報不足・データ不足》は甚だしいわけである。なるほど、(たとえば)NHKは「特設サイト 新型コロナウイルス」を提供している。朝日新聞は『新型コロナ最新情報』を提供している。世界の感染状況もメニューにある。が、世界の中で日本を観るという感性は(小生は)まったく感じないし、そこには「専門家」による解説もなく、コロナ感染がグローバルな現象であるという最重要な事実が全然伝わってこない(伝える意識がない?)。これでは、日本人が現在のコロナ感染に立ち向かう合理的な感覚が形成されないだろう、と。


確かに「政府」の政策努力はこの1年間余り極めて不十分であった。やるべきことをやってこなかったという面は「検査体制」、「医療体制」において、多々ある。しかし、日本人がコロナ状況を把握するための情報を提供しようという意欲や熱意が日本国内のマスコミ各社には不足している。日本国内のマスメディア各社は、この1年余の間、何か真剣に取材してきましたか? データ・情報を提供する努力をどの位してきましたか? そんな疑問も小生には相当あるのだ、な。

まさにどちらもどちら、《目くそ鼻くそ》の部類である。そんな感覚がある。

覚え書きまでに書き留めておこう。

現時点のイギリス、フランスのワクチン接種率、デルタ株に対しては日本国民とヨーロッパ国民との免疫状況にそれほど大きな違いはないかもしれないという点、これらを考えると、日本においても新規感染者数が現時点のヨーロッパ並みにまで増えるという可能性は大いにある。総人口を考慮すると、ワクチン接種が一渡り希望者に行き渡るとしても、それでも日本全国の新規感染者数が4万人~5万人レベルにまで増える可能性は大いにある。小生にはそう思われる。

であるので、今年の冬かもしれないが、そのレベルにまで新規感染者が増加した場合、医療サービスの提供はどう確保するのか?

足元の課題は、既に明らかではないかと思っている。

ちなみに、拙宅では

大晦日までに1日の新規感染者数が45000人を超える日がほぼ確実に来る

と。カミさんとはそんな話をしている。


2021年8月22日日曜日

断想: ウィズ・コロナ下でアフター・コロナを構想するしか道はないだろう

《ゼロ・コロナ》、《ウィズ・コロナ》、《アフター・コロナ》などなど、少しネットを調べてみると、この日本ではまだ戦略的な目的選択のステージが終わっていないのではないか、まだ迷っていて、何が正しいのか分からない、そんな日本国内の社会心理学的状況がダイレクトに伝わってきて、本当に情けない気持ちになってしまう。

目的が定まらなければ戦略も決まらず、行動方針も決まらず、為すべき事も決まらないのである。その時は、毎日公表される現状をみて、悪ければ落胆する、良ければ浮かれる、そんな漂流状態になって社会全体に虚無感が広がるのである。これが最悪の展開である。

目的が決まらないのは、多分、日本が単言語的な島国という環境に置かれているからだろう。

比較対象が身近にいない。多国間コミュニケーションが草の根で形成されていない。

ただ、世界的には

ウィズ・コロナで社会を安定させるしかない

この目的でまとまりつつあるようだと、小生は観るようになった。この潮流について、日本国内のマスメディアが何かを語ることはまだない。


一部のブログではもうハッキリと意見が出されつつあるようだ(例えば、これ)。

ノーベル生理学・医学賞受賞者で京都大学の本庶佑特別教授も以前より「感染はゼロにはならない。(出口戦略は)感染はあるが死人は一定の数に抑えられる、感染防御は続けるが外に出て経済活動をやろう、という形。死ななければ感染症は怖くない」と仰っている。これからは“ウィズコロナ”としてバランス感覚を持って対応していくべきだろう。

Source: 上記リンク先 

日本人の中に「ゼロ・コロナ論者」がいなくなる状況はやって来ないだろう。しかし、日本社会として為すべき政策を選択するためには、目的を明確化することが必要である。そろそろ、日本政府もハッキリと《ウィズコロナ下で医療上の安定を目指す》と断言するべき時だろう。ワクチンを拒否する人の中には、感染をして、落命する人も出るだろうと覚悟しなければなるまい。それは「犠牲」として受忍する。そんな覚悟も必要だろう。

もはや「感染しない/感染させない」を第一目標にするのではなく、「医療システムの限界内で社会を安定させる、それでいい」、こんな目標に舵を切るべき段階になった。そう観ている。

ここから明確にいえることは、医療システムをこれまでよりは日常的に「縦深型」というか、ぶ厚い体制をしいておく。 おそらく、国立病院機構、公立病院、自衛隊の医療衛生部門の量的配置が見直されるはずだ。小生がいま暮らしている町に移住してきた時は、まだ結核患者向けに整備されていた「国立療養所」が郊外にあった。いまそれが残っていれば、現在の新型コロナ感染者の療養に転用できていただろう。そう言えば、小生は小学4年から6年までの3年間弱を伊豆の三島市で過ごしたのだが、そこには旧・陸軍病院を継承した施設であったのだろうか国立三島病院があった。頻繁にお世話になったものだ。が、ここもずっと前に隣町の国立沼津病院と統合されて、今は静岡医療センターになっている。

《戦略的余剰能力》をもっておくことは、寡占企業のビジネスだけではなく、公共サービスを提供する政府部門にとっても有意義な戦略なのである。

新薬開発の研究基盤もそう。ちょうどアメリカがアフガニスタンに投入していたリソースを他用途に転用する余裕をもったのと同じ意味で、日本においても資源のリアロケーションが今後進むに違いない。

予想できるのは、「東京2020」を見込んで拡大投資を重ねてきた観光関連ビジネスはスリム化の道をたどらざるをえない、ということだ。

製造業で進むはずの対中デカップリング、グリーン・イノベーション等々も考えると、この10余年の日本の基本戦略であった「観光ツーリズム戦略」は全面的見直しになる。これだけは、ほぼ確実であると思われる。「観光庁」が今後これまでほど必要であり続けるのか、小生は極めて疑問だ。もっと必要な公的機関があるに違いない。

現在のコロナ禍で委縮した生産活動をどこまで下支えするかという量的選択でも、この辺の将来構想は必ず反映されるものだと思っている。

2021年8月21日土曜日

覚え書き: こんな「報道」はまずいヨ、の一例

コロナワクチン先進国であったイスラエルからこんな報道があったようである:

重症化している人の半数はワクチン2回接種済みである

これをみて

ワクチンなんて役に立たない

そう思ってしまう人が多いのではないだろうか?

が、これは数字のマジック、(フェイクではないが)不適切な報道がもたらすマジックの一例である。

数字例で主旨をメモにしておく。

総人口を5千万人とする。未接種者が(ある一定期間内に)コロナ感染する確率を5%とする。感染した場合に(中等ないし)重症化する確率を20%とする。一方、ワクチン2回接種者がコロナ感染する確率を1%、感染時に(中等ないし)重症化する確率を2%とする。この数字例は非現実的だが、計算のロジックには影響しない。

(1)全ての人がワクチン未接種であるケース

中等・重症患者数の期待値=5千万×0.05×0.20=50万人

(2)全ての人がワクチン2回接種したケース

中等・重症患者数の期待値=5千万×0.01×0.02=1万人

従って、全国民がワクチン2回接種を終えれば、中等・重症患者数は50分の1に減る。

(3)98%の人がワクチン2回接種したケース

ワクチン未接種者で重症化する患者=0.02×5千万×0.05×0.2=1万人

ワクチン2回接種者で重症化する患者=0.98×5千万×0.01×0.02=9800人

(中等ないし)重症患者数=19800人(うち、ワクチン2回接種済者の割合=49%)

上の3ケースの中の、最後のケースだけを数字として報道するだけでは誤解を与えることになり、報道としては不適切であると思う。

仮に、全国民がワクチン未接種であったとすれば、状況はどうなっていたか、それを《標準ケース》とすれば、現在はどの程度のワクチン効果があったと評価できるか。《標準ケース》と《現状》の2ケースを2本の折れ線グラフで表示して、2本の折れ線に挟まれた部分が《ワクチン効果》である、と。接種率を複数仮定して標準ケースと比較シミュレーションしてもよい。

ともかく、こうした伝え方をしなければ、ダメである。

現在、重症化している患者の半数はワクチン2回接種者であるという報道は、それ自体として「フェイクではない」とは言えるが、ほとんど「フェイク」と言ってよいほどの不適切なデータ利用と言える。こうしたデータの使い方は《データ・クッキング》のラベルを付与してもよいだろう。

「報道」と自称する情報については、情報の質を伝えるスコアを横に表示してほしいのだが、いまの「コロナ野戦病院?」と同じで、あれば良いのは勿論だが、それを担当する人がいない。これが問題だ。

2021年8月19日木曜日

断想: アフガニスタンで起こるべき「内戦」の後がポイントではないか?

世界中の一流紙、二流紙、etc.が変化するアフガニスタン情勢、中央アジアを舞台に繰り広げられるだろう大国間のパワーゲームの見通しについて、論説記事を掲載し続けているのが足元の状況である。


現時点のアフガン情勢をどう観るかはともかく、日本の明治維新直後、第二次世界大戦後の世界情勢をみても、状況が落ち着くまでには数年以上、多分10年単位の時間を要するに違いない。

日本は維新直後にはフランスを模範に陸軍を創設していたが、そのうちに気が変わって(ドイツ帝国の優勢もあってだが)、ドイツを先生にするようになった。革命期の指導者は、しばしば「気が変わる」ものである。それ以前に、明治維新の10年後には「西南戦争」という大きな内乱があった。西南戦争は「維新勝ち組」の中で起こった内紛である。


政治的革命のあと「内乱」はほぼ確実に発生する。複数の外部勢力が干渉しようとする。そして「国民精神」を確立して内乱をおさめる方便として、外部に敵を求めるのも、ほぼ普遍的な歴史の法則である。フランス革命でもそうであった。明治の「征韓論」もそうだ。「征台の役」もそう。そもそも革命勢力は、ほぼ常に《革命の輸出》、《正義の輸出》を願望するものである。

このままタリバン勢力がアフガニスタンを統治するとして、安定するまでに発生するだろう「内乱」の果てに、何をタリバンの敵、イスラム教の敵と認識するに至るか?

ここが今後数年間の大きなポイントだろうと思っている。


アフガニスタンに侵攻した旧ソ連軍とは1979年から89年までの10年間を戦い、ソ連軍を撤退に追い込み、その後ソ連は国家として崩壊した。

アメリカとは2001年から21年までの20年を戦い、撤退に追い込んだ。アメリカは撤退したが、アフガン侵攻の主目的であるウサマ・ビン・ラディンへの報復は達成したのである。

となると、現にウイグル族に民族同化を押し付けつつある中国が、まだ戦ってはおらず、イスラム教徒の怒りをかっているかもしれないが、中国政府はその辺は巧みに立ち回るかもしれない。とはいえ、現代の中国は清王朝の領土を(基本型として)継承しており、その清王朝は女真族が漢民族を征服して出来た王朝であって、その全盛時である乾隆帝の時代、チベット族、ウイグル族、四川省南部の苗族などを支配下に入れ、皇帝は自らを「十全老人」と称していたわけで、したがって今の中華人民共和国は領土拡張によって生まれた「東アジア帝国」と観ることもでき、いわば「最後に残った大帝国」とも解釈できるのだ、な。イスラム帝国であったオスマントルコが第一次世界大戦後に崩壊霧消したことを思い起こすと、イスラム教徒から上のような視線でみられることは、中国にとって最も避けるべき事態であろう。


いずれにしても、先のことを見通すには、不確実性が多すぎる。



2021年8月17日火曜日

一言メモ: 日本の大手メディアの驚くほどの劣化を示す証拠だろうか?

先日はTVの情報番組(ニュース、ワイドショーその他)でも早速以下の総理表明を報道していた:

酸素投与が必要な自宅療養者向けに「酸素ステーション」を整備するよう関係閣僚に指示した・・・

これに対して、カミさんもよく観る朝のワイドショーでは、総理発言に対して

これに対して、ネットでは・・・

と言いながら、インターネットに投稿されたコメントを紹介していたものだから、小生は絶句して開いた口がふさがらなかった。

小生: おいおい、テレビ番組っていうのは、総理はこう言った、それに対してインターネットではこんな意見が出ていますってサ、こんなことをやるのが仕事になっちまったのかネエ。なにもやってないじゃないか。まったくマスコミの社員ってのは、「気楽な稼業ときたもんだ」っていうのを地で行ってるネエ。・・・取材らしい取材って、もうやらないのかなあ?

カミさん: しょうがないでしょ、人と会えないんだから、みんなリモートで出演している位だから

小生: 大体、『総理が指示しました』ってサ、誰に指示したんだろう?厚労省の田村大臣か? 製造側も関係するっていうので経産相の梶山大臣にも指示したのかな?「指示された側」に「総理の指示にどう応えますか?」くらいの質問をしたっていいだろうにね。なんで聞かないのかね? 大体サ、「指示いたしました」って、前の安倍総理が何回言ってたっけネエ。結果はさっぱり出てこなかったけど、そのうち『どこか目詰まりが・・・』って言い始めたら、今度はそれをそのまま『どこかに目詰まりがあるようです』って報道するわけだから、まあ、こんなものなんだと思えばイイんだけどネ・・・

というわけで、「それでも観ていると面白い」というカミさんと、「なくてもいいなあ、こんなのは」という小生と、またまた朝の井戸端会議が繰り広げられたのであった。

何回か前の投稿では

日本国内のマスコミ報道は、ワクチン接種が進む現状の中で、伝え方がもう古いのではないかと思われる。

どうもこの辺にも、日本のマスメディア各社は、TVも新聞社も含めてどこもかしこも、不勉強で、この1年間の惰性で資料を作成し、スタジオでも資料を無批判に使って語っている、そんな様子が伝わってきて仕方がない。

こんなことを書いて、日本のメディア事情を嘆いている。末尾には

上のグラフをみると、確かに新規感染者数は激増しているが、死者数とのクロス相関は明瞭に変化が見てとれる―死亡者数の動きにはラグがあるので、まだ新規感染者数の増加が反映されていない可能性は残るが。この点をどう受け取っておくか、海外とのデータ比較もしながら、適切なニュース解説が求められているところだろう。

が、日本国内の「ニュース情報番組」がとりあげる話題はますます一面的になるばかり。

こうなったら「専門と違うとはいえ俺もデータ解析専門家のはしくれだ」と思って、関係データをダウンロードしたのだが、2、3日前に問題意識の高い方であろう、すでにこんな投稿があるのを確認した。結論的な部分を下に引用しておこう:

このように致死率に関してドラスティックな変化が生じているにもかかわらず、分科会の専門家と称する人たちがまったくそのことを国民には知らせず、人流を50%減少させるためにロックダウンなどという暴論が渦巻いていることは理解不能です。

英国の第4波が何もしないでピークアウトしたのは、英国国民が気の緩みを解消したからと日本の専門家が考えていたとしたらギャグ以外の何物でもありません(笑)

 (決してけなすわけではないのだが)上の投稿は、決して統計的に高度の分析スキルを用いているわけではない。着眼さえすればデータを入手して(ほとんど誰でも)確認可能な事実を指摘している。

指摘した事実が、医療の専門的見地からどれほどの意義があるのかといえば、専門家は「これも雑音です」というかもしれない。しかし、データから示される事実は、やはり事実なのである。現状把握をするなら、これもまた念頭に置いておくべき重要な事実の一つだと小生には感じられる。

「ネットではこんな意見があります」と日頃から言うのであれば、「こんな意見もある」と言って、専門的見解なるものを専門家に問うてみるのも、メディアの果たすべき責任というものだろう。

・・・ ・・・

今回の「コロナ第5波」は、五輪開催による日本国内の感染拡大というより、問題の核心はワクチン接種は別にして、《医療体制の強化・広域化》、《PCR、抗原検査の普及と拡大》を怠ってきた純粋に政策上のミスだと思われる。この実態と背景、原因を追究していない点に、日本のニュース情報の劣化がある、小生はそう観ているのだ、な。

マスコミが報じるニュースの存在意義は、存在自体にあるのではなく、「伝えるべき情報」を広く公衆に伝えて、それによって政府当局(及びスポンサーである「上級国民」達?)の独善を指摘できる点にある、だからこそ民主主義には欠かせない要素だと言われるのだ。

日本のメディアはもうジャーナリズムを実践することを諦めたようだ。文字通りの「マスメディア」、広告主に奉仕する媒体になってしまったんだネエ・・・。「なくてもいいなあ」という小生の言い分にも、それなりの根拠がある。


そんなわけで、世界情勢も大きく変化するかもしれない中で、日本のマスメディアはいよいよダメだと感じ始めるに至り、欧米の電子版を購読するかなあと探してみると、The New York Timesが何と”0.5$ per week"だと。毎週50円。毎月大体200円。最初の1年はこれでいいと。2年目からは標準料金"2.00$ per week"。それでも毎月概ね800円。The New York Timesはそれほど好きな編集方針ではないが、日経を購読すると電子版で毎月4277円だ。200円と4000円。比較にもならんでしょう、というわけで、日経は1年前に契約解除したあとのFreeを続けることにして、New York TimesをDigital Subscriptionで購読することにした。これに加えて、BBC、あるいはReuter(日本語版・英語版)、Bloomberg(日本語版・英語版)、CNNがあれば、アジア情報、日本情報を含めて、量的には十分以上である。質も良い。小生が特に変わっているとは思われない。ニュース情報収集において日本国内のメディアはもう既に辺境の位置づけに追いやられつつあるのではないだろうか?

更に、現役時代は必ず読んでいた英誌"The Economist".  年間購読料はデジタルで38640円だ。日経を1年続けると51324円になる。週刊誌と日刊紙をそのまま比べることはできないが、情報の品質とバランスの良さを考えると、いま日経を購読する経済的動機は薄い。こんな経済計算は、現役のビジネスマンなら誰もが思うのではないだろうか?

比較的「取材」に汗をかいている新聞でこんな状況。テレビとなれば、もう上のような状態。いよいよ、日本国内のメディア事情も煮詰まってきたようである。

亡くなった父は毎日配達される朝日新聞を熱心に読んでいた。この変わりぶり、悲しい事である。


 


 

2021年8月15日日曜日

断想: イヌとトリと、人間には二つのタイプがある

恩師から聞いた話を前にも投稿したことがあるのだが、ブログ内検索をかけてもすぐに出てこない。日記帳媒体でも簡単にはみつからないだろうが、ブログでもGREPで検索という具合にはいかない。

話しと言うのは、

研究するときもネ、二つのタイプがあって、一つは犬の目で一点、一点を嗅ぎまわるタイプ、もう一つは鳥の目で高い所からみるタイプ。この二つに分類できるのですヨ。

こういうことだった。

***

小生は(統計分析が専門のくせに)細かい計算や検算が嫌いであったから、鶏の目かなあ、いやもとい、鳥の目かなあ、と思いながら聴いていたことを思い出す。

例えば、マクロ経済学を創始したケインズは鳥の目の持ち主。他方、貧民窟や工場の現場を視て回りながら、新古典派のミクロ経済学を完成させたマーシャルは、犬の目をもっていた。そんなプロファイリングになるだろうか。

研究畑だけではなく、経営でも、政治でも、人はトリ型か、イヌ型かの二つに分類できるような気はしている。

常に、個別の具体的な点にこだわって、クンクンと嗅ぎまわり、その集積で結果をあげていくタイプの人がいる。かと思えば、誰にも反対しにくい理念を旗印に高々と掲げて、そこから為すべき事を現場に落とし込んでいく手法を好む人がいる。

***

恩師直伝のこの二分類法は、昔は流行した血液型性格分類よりは、よほど信用できると思ったりしているのだ。

実は、イヌかトリか、A型かO型かという話以前に重要なのは、《分類》は、全ての科学、全ての学問の第一歩という点である。

分類とは、《違いに気づく》ということと同じであるから、ビジネス現場の鉄則にも通じる、メイン・プロブレムである理屈だ。

違いに気づく意識から、《測定》する感覚を身につけ、《定量的》に物事を考える方法の有効性を認識し、そして《法則の発見》に至る道筋は、まさに近代以降に人類がたどってきた道であって、これこそが《科学の本質》をなすものである。

違いに気づく。違いを活用する。違いに対応する。

ここに(大げさに聞こえるかもしれないが)人間の知性の働きを見てとれると小生は考えている。

違いを云々すること自体を否定するべきではない。人間の知性とはこういうものなのだ。違いについて考えなければ、いまも人類は原始人と同じレベルにあったに違いない。ここはしっかりと押さえておきたいのだ、な。

***

ところが、何事にも《副作用》はある。

違いに関心をもって、違いに注目する意識から、分類から区別へと、区別から差別へと行動変容を招くとすれば、やはり生きづらい社会をつくってしまうことになる。

これは丁度、モノを裁断して生活を便利にするために創られた刃物が、人を傷つける目的にも使われてしまうのと同じ理屈である。

確かに、差別は解決するべき社会問題である。しかし、差別の根底にある、区別や違いの認識までを含めて、根底的に人間社会の一切の違いを議論せず、考察しないという決定が正しいなどと考えれば、結果としては穏やかではあるが、知性が衰え、不活発な社会が現れてくるのは間違いない。

人間のやることは全て、表と裏がある。過ぎたるは及ばざるが如し。薬と毒とは紙一重。無条件に善いこと、無条件に正しい事はなにもなく、善いか悪いかは良い結果が得られるかどうかで判断するしかない。そんな立場に立つよりほかに、どんな立場がありうるだろうと、最近は思っている。

***

日本社会の上層部を形成する一つである政治家も、イヌ型とトリ型に分類できるようである。

個別の問題を解決するのが得意なヒトもいれば、最上段から理念や理論を語るのが好きな御仁もいる。

しかし、経験主義者が多いイギリスから包括的な力学体系を構築したニュートンが出た。電磁気学を体系化したマクスウェルが出た。中世スコラ哲学が盛んであった大陸欧州からは、実験派の大物ガリレオが現れた。

イヌ型の政治家も、個別の問題解決を包括する基本的な理念を持つ必要がある。逆に、高い理想を語るトリ型の政治家も、個別の具体的な問題解決に理想を落とし込んでいけなければ、単なる「口舌の徒」になる。

結論としては、トリなら上から下へ、イヌなら下から上へ、全体を把握しなければダメだということになるが、そんな大人物が常に現れると限ったものではない、というのが大きな問題だ。

思うのだが、イヌ型の政治家の器が仮に小さいとしても、具体的な問題はマアマア、解決されるのである。しかし、トリ型の政治家が無能であれば、語るばかりであって、それこそ何の結果も残せないわけだ。

器の小さい人物ばかりの世であれば、トリよりはイヌの方が、ずっと世の中の役にたつ。小生は、こう思っている。


2021年8月12日木曜日

ほんの一言: これは典型的な「撤退戦略」である、な

ビジネスにゲーム論を応用するとき、直接効果×戦略効果をX軸、Y軸にして各種戦略の特性をプロットする視覚化マップは、授業でも非常に基本的なトピックである。

中でも、「撤退」がなぜ「撤退戦略」になりうるのかという問題は、履修する学生にとって理解度を試す格好のエクササイズであったものだ。

例えば、激しい競争を繰り広げるデジタルカメラ市場において、ある大手メーカーが(先手を打って)コンパクト・デジカメから撤退しようとする。その後の展望が何もなければ、それは単なる「敗退」であって、企業としては「縮小」してしまう。その行動が「戦略」であるためには「将来展望」が不可欠である所以だ。「将来展望」に裏打ちされている場合、「後退」は単なる「敗退」ではなく、「撤退」という立派な戦略でありうる — 「ありうる」であって、「ある」と断言できるわけではない。その将来見通しが希望的観測ではなく、合理的なものであることがポイントだ

つまり、直接効果は自軍にとってマイナスであるとしても、長期的・将来的には自軍にプラスであると見通せるなら、戦略としては合理性があるわけだ。この時、分析上のポイントとなるのが《戦略的代替性》、《戦略的補完性》というキーワードだが、これらの用語は既に経営現場でも常識になりつつあるのだろうか・・・

ま、それはさておき:

アフガニスタンから米軍が撤退する、というのは教科書通りの「撤退戦略」であろう。アメリカは既に中国を相手にゲームを行っているようだ。首都カブールが陥落しても、「撤退」するアメリカは何とも感じないだろう。

スケールは小さいが、ロジックはキャノンがニコンを相手にカメラ市場で経営ゲームを展開してきたのと同じである。

米軍が姿を消すからには、将来的には、中国は内陸部の国境地域により多くの国防資源を投入せざるをえないだろう。そうしなければ、米軍撤退後の空白をイスラム教勢力が獲得することになるからだ。中国は、今後将来、西部国境のイスラム教勢力により多く神経を使わざるを得ないだろう。中国が、これまで通り、海軍拡大に力点を置き、東方海域に進出しようとする戦略に執着すると、西部国境地域が不安定化する可能性がある。合計すると、中国は地域的覇権を追求するうえで(追求せざるを得ないのである)、これまでよりも一層多額の国防費を覚悟しなければならないだろう。経済成長に投入できる資源は抑えざるを得ない。中国国内の生活水準の向上ペースは停滞する可能性がある。カネがあるなら、西部辺境により多くの投資を行い、『平和をカネで買う』選択を迫られるかもしれない。どちらにしても、これまでよりはカネがかかる。アメリカが払ってきたカネを中国が払う。アメリカはアフガニスタンにおける勢力維持のための軍事コストをカットして新規分野に資金を振り向けることが出来る。これが基本的なロジックだろう。

軍事力はタテに育てて、ヨコに使うものである

こう言ったのは、明治維新期の天才的参謀・大村益次郎であるそうだが、本来、中国は膨大な陸軍を育成・訓練しなければならない地政学上のポジションにいる。近隣より富裕化した「大国」はvulnerable(=奪われやすく危ない)なのだ。地続きの大陸国家ならば猶更だ。今後、この中国伝統の(?)弱みが顕在化するものと予想する。

・・・思うに、現時点の人民解放軍はいざとなると、戦闘力はそれほどではないのではないかと、小生、憶測したりしている。これまでの中国歴代王朝がそんな風であった。

もはや「第二次世界大戦後」ではない。これだけは明瞭になった。

しかし、中国により強い圧力をかけて、仮に中国そのものが不安定になるのは、日本にとっては悪夢だろう。

2021年8月8日日曜日

ほんの一言: 酷暑の五輪マラソンに想う

東京五輪(TOKYO 2020)のマラソンが札幌で開催されるのは、東京の酷暑を避けるためのやむを得ぬ変則方式である。

今日が五輪最終日で男子マラソンが朝7時にスタートしたのでTV観戦した。沿道には相当の観衆が(朝早くにもかかわらず)<密>になりながら声援を送っているのだが、その心理は小生にも分かる。

事前には

この酷暑の中、マラソンを開催するなどは、まさにクレイジー。

そう思っていた。

事後になると

これこそ本来の「マラソン」というものではないだろうか。

そう思っているから不思議だ。

マラソン発祥の起源となった《マラトンの戦い》は、紀元前490年9月12日に古代ギリシアとペルシア帝国との間で戦われたそうだから、季節的にはまだ残暑が厳しかったと推測される。

Wikipediaには以下のような解説がある:

早朝、ほぼ全軍を重装歩兵でかため、最右翼にカリマコス率いる主力部隊を、最左翼にプラタイアの主力部隊を配置したギリシア軍は、ペルシア軍に総攻撃を仕掛けた。アテナイ・プラタイア連合軍は敵陣と同じ長さの戦線を確保したため、中央部はわずか数列の厚みしかなく最大の弱点であった。しかし、ペルシア軍の戦法を知っていたミルティアデスは、ペルシア軍に駆け足で突撃するという奇襲戦法を用いた。これについては、

  • 敵陣までの8スタディオン(約1,480メートル)を一気に駆け抜けた
  • 弓の射程距離まで徒歩で接近し、突然駆けだした
  • ペルシア軍が行軍してきたところに駆け足で突撃した

といった説が提唱されている。この行為をペルシア軍は自殺行為と侮ったが、白兵戦に持ち込んだギリシア軍は、重装歩兵密集陣を駆使して長時間にわたって戦い抜いた。

戦線を拡張したため、数列しか編成されなかった アリステイデス率いる中央軍はペルシア歩兵に押し込まれたが、両翼は十分な厚みを持っていたため逆にペルシア軍を敗走させた。両翼の軍は敗走する敵を追わず、そのまま中央部のペルシア軍を包囲して壊滅させ、撤退する敵軍を追撃した。この時、カリマコスを含むギリシア軍の死者192人に対して、ペルシア軍の死者は6,400人に達したとされる。

武具、武器を身に着けた長時間の白兵戦のあと、この「ギリシアの勝利」をアテネ市民に知らせるために、戦場からアテネ市までの42キロ余を一気に走り通し、勝利を報告するなり息絶えたフェイディピデスの心意気(この言葉もまた今の日本では死語となってしまったが)を偲んで生まれたのが、近代オリンピックの「マラソン」である。

まあ、TVで甘々の観戦をしたに過ぎないが、酷暑の中で体力の限界まで力を尽くす競技者の姿をみていると、タイムを競う最近のマラソンレースとはまた違った趣を感じたのであって、そもそもオリンピックでマラソンを復活させた元来の狙いと言うのは、こういうことではなかったのか。

五輪サイトで一寸調べると、106名の出場者中で棄権者が30人に達したというから棄権率が28パーセント。ドーハの酷暑と言われた世界陸上ドーハ大会に並ぶ、というより上回る(?)棄権率になったのではないだろうか。


第一印象としては、北海道の夏もやはり暑く、その意味ではマラソンの開催地を東京から札幌に変更した甲斐もなかったようにも思われるが、終わってみれば

マラソンというのは、そもそもこういう限界への挑戦なのだ

こんな風に達観してみると、本日のマラソンは実に見ごたえのある、感動的なドラマであり、ここ近年のスピードを競う単なるレースよりは、余程オリンピックらしく見えた。

マラソン2連覇をしたケニアのキプチョゲ選手は、走り終わってから、BBCに以下のように答えたという。一部を抜粋して残しておきたい:

"Tokyo 2020 has happened, it means a lot. It means there is hope. It means we are on the right track to a normal life," he told BBC Sport. "We are on the track to our normal lives, that is the meaning of the Olympics.

"I am happy to defend my title and to show the next generation, if you respect the sport and be disciplined you can accomplish your assignment."

URL:  https://www.bbc.com/sport/olympics/58132919

Source: BBC, Dates: 23 July-8 August Time in Tokyo: BST +8

《希望》ですか・・・そして《日常への復帰》、"On the right track"、《この方向でよい》と。《次の世代》を眺めれば、こんな魂になるのであろう・・・


五輪を開催することの意義が見いだせないと、日本国内では「五輪懐疑派」がずっと優勢であったが、ワクチン接種が進む中、コロナ感染防止のほかにも世界にとって意義のあることがある。そう伝わってくるのも事実だ。

それにしても、ゴタゴタが山ほどありましたな・・・

この段落、投降後に加筆。

以上、心覚えまでに記す。

2021年8月5日木曜日

一言メモ: 外国人からみた日本のマスコミと日本人の弱みについて思う

 構想や戦略や政策、プラン等々を決める前に論争を繰り広げるのは善いことである。

しかし、論争をするためには議論をするためのスキルを集団として身につけておくことが不可欠である。使われるボキャブラリー、反論の仕方、禁じ手など、論争も一種の知的ゲームであるから、将棋や碁と同じでルールが要るし、参加者がルールを理解していなければ有益な論争を展開することは無理である。

論争することが無理な社会になれば、非知性的な派閥抗争が進む。敵対する派閥に対する感情的な嫌悪感が形成されると、一方が他方を抹殺するまで状況は悪化する。もはや「問答無用」というわけで、戦前期の日本でも海軍青年将校が使ったことがある。

故に、論争技術を習得しておくのは、ソーシャル・インフラの一つである。

***

今日もまたコロナと五輪をめぐって、TVでは批判とも非難とも応援ともつかない、分かり難い演出でワイドショーが放映されているが、例えばThe New York Timesには、以下のような記事がある:

The Japanese news media have resorted to gotcha journalism, trying to catch foreigners who have breached quarantine protocols, traveling on public transport or lingering at restaurants when they are supposed to be eating at their hotels. On Monday, the broadcaster NHK denounced the lack of social distancing on crowded Olympic buses. Although those of us here for the Games have gone through many rounds of Covid testing, there were no requirements that we be vaccinated to enter the country. 

URL: https://www.nytimes.com/2021/08/03/world/asia/tokyo-olympics-host-city.html

Source:The New York Times, 2021-08-03, "Outside the Olympic Cocoon, a Tokyo Abuzz Only With Cicadas"

"Yellow Journalism"はアメリカの大衆迎合的なマスコミを揶揄した言葉であるのはよく知られている。どうも今の日本のマスメディアは"Yellow Journalism Japanesque"には見えないらしい。そうではなくて、"Gotcha Journalism"だと・・・

"Gotcha"とはGoogle辞書によれば

I have got you (used to express satisfaction at having captured or defeated someone or uncovered their faults).

という意味である。日本語でズバリ言うと《荒さがし》という意味になろう。

五輪報道を担当している当該記者には日本のマスコミは《荒さがしジャーナリズム》に映るようだ。"Yellow Journalism"が大衆迎合的な煽りやゴシップ記事を主とするのに対して、"Gotcha Journalism"の攻撃対象は、荒さがしのしがいのある政治家、大企業、著名人ということになるだろうか。

いずれにしても健康な報道活動には思えないのだ、な。小生にも・・・

***

日本人には気持ちの上で伝わる異論や反論が、外国人には単なる《荒さがし》 に映ってしまうとすれば、それが知性でなく感情から発しており、意見というよりは《怒り》を直にぶつけられている感覚があるからだろう。知性から出てくる発言や意見は、万国共通でグローバルに通じるが、感情や感覚はあくまでもローカル、かつ頭ごなしであって、感性を共有していない外国人にはなかなかストンと理解してもらえないものである。

なぜ知的な意見や論争が日本人は苦手なのか?

原因はある程度明らかだと小生は思っている。


ディベートのトレーニングを学校教育でまったく行っていないのが主因であろう。ブレスト(=ブレイン・ストーミング, Brain Storming)は、日本国内の企業現場にも浸透していると思うのだが、小生がいたビジネススクールで担当した科目に限るにせよ、そこで行ったグループ討論では、「揚げ足はとらない」、「否定はしない」、「KJ法や特性要因図で議論を視える化する」くらいの基本ルールは徹底されていたものの、創造的で自由活発な意見の嵐(=Brain Storm)が形成されるという理想には程遠いものがあった。これでは一定の課題について賛成、反対の立場に分かれて、意見を知的に戦わすディベートは難しいに違いない。こんな傾向は、たとえば日本国内の学会で開催されるパネル・ディカッション、報告後の質疑応答でも似たようなものではないだろうか。

このようにディスカッションが苦手であるという日本人の傾向は、幼少年期以降の学校教育にその遠因があると、小生は確信しているのだが、それでは日本の学校教育のどこがまずいのかと言えば、一方向的な授業、いわば《正解伝達主義》とでもいえる授業スタイルにあるのは、もはや確かなことであると思う。

そもそも《正解》がある問題は、問題として重要なものではない。ちょっと調べれば正解はすぐに分かるからである。分からなければ、正解を知っている人は必ずいるわけだ。あえて教育するべきことは

ヒトはいかにして正解と思われる結論を得るのか

つまり獲物は何かが重要なのではなく、獲物をとらえる方法が重要なのである。

議論を展開する時、自分が考える所を主張するのは勿論だが、それは柔道でいえば技をかける行為に相当するわけであって、相手が自分を上回る可能性は常にある、議論で負けることはどういうことなのかをよく理解しておく。これは何であれ論争をするときの最低限の常識である。

ここがよく理解されていないと、集合知が形成されず、その結果としてチグハグした組織行動につながるものだ。五輪をめぐる色々な問題、マスコミ報道の品質管理を目にするにつけ、こんなことを考えた。


2021年8月1日日曜日

一言メモ: またまた、日本のマスコミの報道能力が露呈しているのだろうか?

開催中の東京五輪だが、これまでの大会にはなかった(というより、既にあった問題も一層拡大された形で)様々な問題が表面化している。

一つは言うまでもなく、パンデミックと五輪開催とは両立可能なのかどうかという問題である。

100年前のスペイン風邪大流行時には、アントワープ大会が敢然として開会されている。それは第一次世界大戦という未曽有の戦火が終わったことを喜ぶという意識が強かったからだろう。

今回も100年前の故事を踏まえれば、『開催しなければならなかった』と明言したマクロン・仏大統領に小生は賛成する立場にいる。五輪を開催することの意義は、感染を抑えるということの意義とは、別にある。だから、その大小関係をどう観るかということだ。

BBCも五輪開催中の感染者数増加には関心を払っている。2、3日前にも報道しているが、報道する際の主データに以下のグラフを使っている。


URL: https://www.bbc.com/news/world-asia-58024158

日本国内のTV局は、新規感染者数の動向を伝える上段のグラフのみを使っているのだが、海外の報道ぶりをみると、例えばThe New York Timesでも、"New Cases"と"New Deaths"の二本立ての数字を併記している。CNNでも、"US Cases and Deaths"の中で、"Cases and Deaths"の2数字を並記して伝えている。

日本国内のマスコミ報道は、ワクチン接種が進む現状の中で、伝え方がもう古いのではないかと思われる。

どうもこの辺にも、日本のマスメディア各社は、TVも新聞社も含めてどこもかしこも、不勉強で、この1年間の惰性で資料を作成し、スタジオでも資料を無批判に使って語っている、そんな様子が伝わってきて仕方がない。


ただ、NHKの《特設サイト 新型コロナウイルス》では、「日本国内の感染者数」と「日本国内の死者数」の二つの図を並べている。流石に、国際感覚が伝わるフォーマットを採っているようでもある。ただトップページの相当下の方に配置しており、最上部には「東京都 新型コロナ 4058人の感染確認 過去最多 初の4000人超」とヘッドラインを出しているので、その他マスコミ各社と意識は同じであるようだ。


どうも、ずっと以前、5月上旬頃にも日本国内でコロナワクチンの数不足が盛んに報道されているときに、ロイターが「数は足りているはずだ、今の問題は打ち手の確保とロジスティックスだ」と、先に報道されるという恥ずかしい状況を演じたが、足元のコロナ報道もまたデータのまとめ方、事実の適切な伝え方において、おかしなことをやっているようである。

上のグラフをみると、確かに新規感染者数は激増しているが、死者数とのクロス相関は明瞭に変化が見てとれる―死亡者数の動きにはラグがあるので、まだ新規感染者数の増加が反映されていない可能性は残るが。この点をどう受け取っておくか、海外とのデータ比較もしながら、適切なニュース解説が求められているところだろう。