2021年12月1日水曜日

ホンノ一言: オミクロン型と岸田政権による一律入国禁止措置について

南アフリカで確認されたコロナ変異種「オミクロン」だが、岸田首相が世界に先駆けて、全世界を対象に外国人の入国を全面的に停止する。1か月間を目途とする、と。こんな決定をテキパキと公表したところ、世間では非常に評判が良い — というより、評判が良いとマスコミ各社が一致して報道している・・・のが今日の状況である。

しかし、マスコミがそろって評価するような政策など、そんな政策は本当に良い政策なのだろうか?そんな報道はホントに良い報道なのだろうか?

もちろん逆のケースもあるわけで、マスコミがそろって非難する政策は本当に悪い政策なのだろうか、そんな問いかけもある。

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これまではユルユル(?)かつズブズブ(?)のコロナ対応を続けてきた日本が、突如としてイスラエル並みの強硬策を採ったというので、英国BBCでも米国The New York Timesでも、一寸大きめの報道をしていたから、今回の日本の措置は海外に(ここ近年の日本にしては珍しい)一種のハレーションをひき起こしたことは確かなところだ。

小生も<今回だけに限定すれば>的確な措置の範囲内ではないかと思う。最初に締めて、状況に応じて徐ろに緩和するというのは、緊急対応の鉄則だろうとは思う。しかし、WHOは一律の渡航禁止には反対するとの声明を出した。英国や米国は全面入国禁止には踏み切っていない。韓国もそうである。

思うのだが、2020年初め以来、日本が採ってきたコロナ対応策は世界の中でも不徹底な点が多く。特に、PCR検査拡大には一貫して消極的であった。安倍元首相は「日本モデル」と称していたが、事後的に振り返ると単に「怠慢」ではないかと判定されても仕方がない側面もあったと、小生は感じている。

コロナ・ウイルスに対して世界でも突出してユルヤカな政策姿勢をとり続けてきた日本が、今度は世界でも突出して厳しい姿勢をとった。

ゆるいか、厳しいかという前に、この「突出」という点が共通している。ここに、日本社会というか、日本政府というか、何だか日本的であることの本質的な核心がうかがえるような気がするのだ、な。

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要するに、

日頃の《相談相手》が日本にはいないのではないか

と、そんな風に憶測されたりするわけだ。

独りで悩んでいる控えめな人物が、前触れもなく、相談することもなく、過激な行動に走って世間をビックリさせる。いま現代社会でこの種の事件がいかに多いか。国際外交社会でもこんなロジックは、やはり当てはまっていると思う。 

パンデミックにいかに対応するかという問題は、これ自体が国境をまたいだグローバルな性格の問題であって、一国だけで「こうするのが正解だ」という結論は出せないはずである。一国にとっての最適戦略は大なり小なり関係国がとる(と予想される)戦略に応じて変わるものである。その結果として、連立方程式の解が定まるように、多国間の均衡戦略が決まってくると観なければならない。故に、今回の「オミクロン型」のような新変異種が確認され、いずれ自国にも侵入してくる事態が予想される時には、まずは近隣諸国、もしくは情報を共有している国と「そちらはどうするつもりか?」と(水面下で)確認をとりながら、また意見を交換しながら、行動方針を決めていく、というのが定石であるはずで、この辺の事情は我々の日常的なご近所付き合いとまったく同じロジックがあてはまりもするわけだ。そして、近隣諸国、利益を共有する諸国とヤリトリする中で、同じ問題に対して、多くの国が大勢として概ね似たような政策方針で対処するようになる。これが国境をまたいだ問題にいかに対処するかという時の基本的なロジックであろう。

世界の中で突出した政策を採ることが多い。しかも、左右のブレが甚だしい。

こうなる原因は(ひょっとして)日本だけで独善的に政策決定しているということではないか。そればかりではなく、その突出ぶりを自画自賛する傾向もある・・・。小生は、こんな傾向は極めて危ないとしか感じられない。

というのは、意見を交換し、政策を相互調整しようという国が日本の周りにはいないということの裏返しではないかと小生には思われる。とすれば、日本政府は「日本国内の評判が最も良いと思われる政策を実行しよう」と、ただひたすら、こんな政治的動機に沿って意思決定をするはずで、これが正に今回の事例に当たるのではないかな、と。

やっぱり、ずいぶん底が浅くなってるネエ

正直なところ、これが感想だ。

一部の人間集団だけが表舞台で頑張る(頑張らざるを得ない?)という近年の日本の何か「底浅い」社会状況をどこか象徴しているではないか。真の「国力」というのは、国民全体の活動が集計されるという次元で表れるものだ。実際、(一つの側面だけを測定しているに過ぎないが)GDPも集計値として定義されている。それがいま一つ伸びないのも、どこか通底しているのかもしれない。

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日本国内にも今回の「一律入国禁止」には反対する意見を述べている人もいる模様だ。当然である。例えば、再入国が突如として禁止された外国人留学生の「人権」はいかにして保護されるのかという議論が、まったく見られないのは不思議である。こういう異論を可視化するというのが、本来はSNSの役割であり、マスメディアも複数の意見を紹介することが報道機関としては重要であるはずなのだが、いまの日本社会では — 世界も同様だろうが ― SNSもマスメディアも「正しい見方」、「正しい決定」を確認するための場になってしまっている。口では「多様化」と唱えているが、それは人種、男女差別に対抗する際の呪文に過ぎず、実際には「正しい見識をもって正しく行動をせよ」の一点張りである。ここが現代社会の一番危ないところではないかと思っている。

メディアは「正しい見方」を伝える事とは無関係である理屈だ。もしも「地動説は間違っている」と主張する専門家が現れれば、

地動説に疑問を表明する専門家がいます

と報道するのが、良いにしろ悪いにしろ、マスコミというものなのだ。

地動説が正しいに決まっているから、そんな主張を流して、混乱させるべきではない

こう考える方が、実はマスメディアを社会的死に至らせる発想である。

信用できる、時には「面白い」と思われる発言、出来事も含めて、様々な情報を早く伝えることに果たすべき役割がある。マスメディアとは国民に奉仕する《伝令》である。国民に考えてもらうことが最終的な目的だ。「世論」の形成にメディアは中立的であるのが最善である。報道機関が自ら意見をもつとすれば、もはや「報道機関」とは言えない。「宣伝」でも「エンターテインメント」でもない本当の「報道」はますます少なくなってきたのが、21世紀という時代なのだろう。

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