研究活動を職業とするには、才能より、むしろ性格が適しているかどうかが遥かに大事であるという点については本ブログでも何度か投稿済みである(例えばこれ)。
どの程度の高みにまで到達できるかという点では確かに才能がものをいう。が、才能を十分に開花させるためには、時間と根気が要る。何年も、ある場合は一生を通して、倦まずたゆまず一つの問題意識に執着し、自分が納得するまで試行錯誤を繰り返すには、それに適した性格が不可欠だ。何より(研究に限らずどんな仕事でもそうだが)その仕事に性格が適していれば、仕事が面白いと感じるはずで、たとえ超一流の実績があげられずとも、そんな職業上の競争を超えた所で、その仕事に携われたことに満足し、幸福を感じるはずである。
ただ職業上の幸福が得られても、人生は仕事のみから出来ているわけではない。家族、友人、師匠、先達をはじめとする人の縁、カネの縁も最終結果としての幸福な人生には欠かせぬであろう。
よく人生の達人になるには
知性・野性・感性
の三つが大切だと何度かきいたことがある。あるいは、
知・情・意
が三大要素であるとも聞いたことがある。
しかし、いま職業生活を思い返してみると、備えるべき最重要な条件は
一に体力、二に性格、三四がなくて五に幸運
若い頃には修養を心掛けていた(つもりの)「理性・野性・感性」も、「知・情・意」も、所詮は「畳スイレン」、モラル好きの「机上の空論」、あまり意味はなかったなあ、と。こんな感想を抱いているところである。
生まれついての才能の違いは、努力を何十年も続けて疲れを知らない体力があれば、ほとんど有意な違いをもたらさないような気がする。ある人は「直観」が大事だと言うが、それは後からみた自画自賛であって、要は「運が良かった」というただそれだけの事である(ような気がする)。
シンプルに概観すると、職業的な成功をおさめた人は、小生が知っている限り、若い頃からずっと健康に恵まれ、基礎体力が充実した人物である。しょっちゅう風邪を引いているようではダメだ。アレルギーで悩んでいるようでは集中力がそがれる。もちろん大病をしたときに失う時間資源は測り知れない。体力が最も重要で、全てのカギとなる。例外はないと思う。病弱な蒲柳の質を知力でカバーする諸葛亮孔明のような人物は小説の中のフィクションであると思っている。
体力は意志の強さを支え、意志は知性の土台となり、感性の良さが行動を完璧なものとする。誰もが知っている格言のように
健全な精神は健全な身体に宿る
時代を問わず、この名句が人生には当てはまっているのだと今では確信している。
明治以前、武士の家庭では自ら求めて武道の修練を続けなければ、(農家とは違って)体力は衰えるばかりであったはずだ。書物を読んで勉強する以前に、黙々と木刀の素振りを始める習慣は、サムライの気構えという以前に、成長への土台造りにもなっていたのだろう。体を動かすのを嫌う若者を元気な同世代は《文弱の徒》とバカにしていたが、日本人のこんな気風は、亡くなった父の思い出話をいま振り返ると、全日本人男性に兵役の義務が課された明治以後の近代日本にも、何がしか継承されていたような印象がある。身体的訓練を重視するこの習慣が、戦後日本で世代を重ねるうちに、少しずつ廃されてきた。
現代日本の価値観に基づけば、何が大事であるかは個人個人によって多様であって、身体的訓練が嫌いなら無理に稽古をする必要もないと、そう考えるわけだが、この考え方はどこか「不健康のすすめ」であるようにも感じるのが小生の世代である。三島由紀夫の『不道徳教育講座』は、読めばどの章も一理あると思うのだが、いま流行の「多様化」は昔の武士道に比べると、どこかイカかタコのような軟体動物的な《骨なしモラル》のように見えて仕方がない。
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