最近は歴史的に一貫して<男性専科>であった軍隊にも女性が参加してきている。同じく<男性専科>であった警察は、ずっと以前から同様の組織変革が進んでいる。
古来、女性が命のやり取りをする軍人に(基本として)ならなかった理由は、実に単純であって、種族|部族|民族などの人間集団が自己保存を図るためであって、それ以外の体力、志向などの要因があるにせよ、主たる理由は明らかだと思う。女性が生き残りさえすれば、いかに男性が戦いで淘汰されようとも、次世代を育てる力を残せる理屈である。
この点については、小生もかの天才的(?)ポルノ小説作家である宇能鴻一郎が言ったという
男はタネをばらまく性だが可憐な相手はつい愛してしまい、すると広くタネを散布できなくなる。
前にも投稿したことがあるが、この男女観が自然の事実に合致していると考えている。
ところが、歴史的に一貫したこの慣行を現代人類は捨て去りつつあるように見える。命のやりとりをする危険な現場に女性を配置して、そのことに社会が不安を覚えないのは何故か?
こうした感覚の変化と並行して進行してきたのは、人工授精、更には精子、卵子、受精卵の凍結保存技術の発展である。これと合わせて、今後、人工子宮など胎外保育技術が一層進歩すれば、もはや危険な現場において男性と女性の配属をしいて区別する理屈はまったくなくなる。極めて危険な職務に従事する前に、自分の精子、卵子を提出、冷凍保存し、人工授精については所定の方式で依頼できる手続きさえ定めておけば、あとは生身の身体はどうなっても、その人間集団の生存に危険が及ぶことはない。親の身体と子孫の保存を分離できるからだ。
そんな社会が到来すれば
ぬちどぅたから(命こそ宝)
であった時代は歴史の彼方に過ぎ去るわけであり、
国立遺伝子情報保存センターこそ国の宝
こんな価値観が支配的になるだろう。
男女を問わず生身の人間から、次世代を育てるという役割と機能が完全に分離され、夫婦や家庭は解体され、一人一人の個々人は社会を構成する「細胞」として純粋に機能化される。もちろん乳幼児保育、給食、初等教育から高等教育までの養育は全面的に公益法人が担当し、両親は子弟養育義務から解放され、職業的義務(といえばイイのか)に専念する、そして寿命がくれば自動的に死を甘受して次世代と交代する・・・ウ~ム、こうなると人生の目的が幸福であり続けるかどうかも分からなくなる。小生が生きてきた社会とはまったく別の宇宙人のような社会だけどネエ、たしかに未来の可能性の一つだろう。
蟻や蜂は人類よりも地球上ではずっと先輩のはずだ。彼らが造っている社会システムは、これから人類が歩むであろう未来図なのかもしれない。そういえば、大半を占める働きアリや働きバチは全てが雌、というより生殖機能が退化しているので無性であると言える。
男女の均等とジェンダーフリー、社会の全分野における男女の公平な協同を支える技術基盤があるとすれば、それは結局、生物としてのヒトが自然にもっている男女間の性差自体を人工的に消失させる段階に至って、はじめて完結する。これがロジックではないだろうか。
社会で進んでいる一つの現象には、これと関連して別の現象が必ず進んでいるものだ。観察可能な現象の背後には、共通の因子が根本的な駆動力として働いているものだ。そしてその駆動力は多くの場合は《科学技術》である。科学技術が生産活動で応用されることで社会は進歩し、価値観も変わり、制度も変わる。文明の進歩の実体とはこういうことだと思う。生きている人間は、そうした変化を理解し、受け入れ、それが正しいと考える理屈を事後的に発案して新しい社会に順応していく。これが《思想の発展》だといえば、確かに思想の発展である。そのように発展する思想によれば、社会の要請に基づく変化はすべて民主主義に沿った進歩になるはずだ。何度も投稿しているが、やはり小生はマルクス流の唯物史観を肯定しているようだ。
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