2022年2月3日木曜日

つまらないメモ: 日本の感染対策が遅れがちである原因?

コロナ感染対策によらずデジタル化への対応、AI(人工知能)関連産業の育成等々、何かというと海外の事例を参考にするべきだと強調されるご時世だ。

確かに「海外の事例」を参考にすれば得られることは多く、なにより「車輪を発明する愚」をおかさずにすむ。

だから海外発の技術、政策を導入することは(基本的に)良いことだと小生も思っているが、そうなると今度は『もっと徹底しないとダメだ』、『導入するのが遅い』といった批判が乱れ飛ぶことになる。そして、ダンスを初めて習う生徒さながら、インストラクターの身振りを一挙手一投足、一拍子だけ遅れて真似をする練習風景さながらになる。一拍遅れてついていくのに懸命で、動作が自然と小さくなる。手足の動きが伸び伸びとしない。やらされているような感覚になる。自分の身についていないので、自然に動作することができず、常にインストラクターを目で視ながら動くことになる。自分で発案し、自分で考察し、自分でまとめあげた演技ではないので、なぜそれが合理的で美しい動きであるか理解しているわけではない。だから自分が動いているにもかかわらず、次の動きを自分で理解してはいない ・・・

日本の《輸入文化》の伝統もこんなところがあって、遡れば奈良時代に唐から輸入した「公地公民」、「律令による統治」もそうであったし、江戸時代の儒学による文治政治もそうだ。いずれも極めて不徹底で、出来上がったのは輸入文化と土着文化とのハイブリッド型社会であった。いわゆる《二重構造》の源流は遥かな過去にある。

「海外では・・・」と「日本では・・・」の2タイプの《でわの守》が平和共存しながら時流に乗ろうと競っている。日本という国のそんな特徴は明治維新後も続き、戦争を経た現代に至っている。

今回のコロナ禍においても、中国(ニュージーランドも?)の「ゼロコロナ政策」から欧米の「ウィズコロナ政策」まで、それぞれの国民性に応じた政策スペクトルがあるが、日本はその中間で揺れ動いている。どの感染予防戦略が「最善」であるかは、長時間を経た将来においてのみ事後的に確認できる事であろう。なので、「いまやっていることは正しくないのではないか?」という疑問感は感じる必要はないし、そんな自信のなさは寧ろ有害であるはずなのだが、今日もまた新規感染者がまだまだ多数であるにもかかわらず行動規制を撤廃しつつあるヨーロッパをみて

いいなあ・・・それにしても緩和して大丈夫?

と、そんな憧れと懸念の気持ちを表出する ー そして、ヨーロッパで採られてきたような厳格なロックダウンは御免だと、ああいうことはしたくない、と。コロナ感染対策をとってみても、やはり欧米先進国についていきたい、でも嫌なものは嫌だと、そう願う明治以来の日本人の心理がそこはかとなく滲み出ている。

ま、どういう理由かは知らないが、日本人のコロナ犠牲者数は欧米先進国よりは少ない。これは日本人の自尊心を底辺で守るために、案外、大きく寄与しているはずだ。

そんな風に思う今冬であります。自分の国の政策は自分で決めるような気配のある欧米諸国とはどこか違って、何だか遅れがちであるのは、やはり欧米のやり方がどこか手本になっているためでありましょう。先ずは世界の状況を見ながらという決まり文句は、結果を先に確かめてから手を打ちたいという手本重視の行動で、これこそが一貫した日本モデルに外ならぬ。リスクを恐れず、怖がらず、「清水の舞台から飛び降りる」つもりで欧米の先を行くという気概がどうしても欲しい所ではござんすが、80年ほど昔に一度死んだつもりで思い切って飛び降りてみたらばホントに死ぬほど痛い思いをしちまった。それがトラウマになってそれ以来『あつものにこりて、なますをふく』みたいに慎重になったのは無理もネエっていうものでござんしょう。

今日はこんなところで。


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