2022年2月1日火曜日

覚え書き: 「世相」にも長期循環があるのか

埼玉県ふじみの市で数名を人質にとったうえ訪問治療に熱心な地元クリニックの医師が散弾銃で撃たれて殺害されたという事件は実に傷ましく、社会的にも多大の損失を被った悲劇だった。

これにとどまらず、2011年の東日本大震災以降の日本社会を振り返ると、いやそれ以前に2009年のリーマン危機、というよりもっと遡って1997年から98年にかけての金融恐慌辺りを境にして、日本社会はそれまでとはベクトルを異にした変質、というか劣化が進んでいる印象がある。一部の人は行き過ぎた《新自由主義》にその原因を求めているのだが、そう簡単には判定できないところもある。

永井荷風の日記『断腸亭日乗』から抜粋すると以下の様な下りがある。日付は昭和11年4月11日だ。

昭和11年4月10日。新聞の雑報には連日血腥きことばかりなり。昨9日の新聞には小学校の教員、その友の家にて或女を見染め妻にせんと言い寄りしが、娘承知せざれば教員は直に女の親元に赴き掛合ひしが同じく断られたり。教員は警視庁人事相談掛のもとに到り相談せしに、これまた思ふように行かず。遂に殺意を起し劇薬短刀等を持ち娘の家に乱入せしところ、娘は幸外出中にて教員は家人の訴によりその場にて捕らへられたりといふ。乱暴残忍実にこれより甚だしきはなし。現代の日本人は自分の気に入らぬ事あり、また自分の思ふやうにならぬ事あれば、直に兇器を振って人を殺しおのれも死する事を名誉となせるが如し。・・・人生の事もし大小となくその思ふようになるものならば、精神の修養は無用のことなり。

出所:岩波文庫『断腸亭日乗(上)』、351~352頁

昭和11年という時代にあって日本で流行していたのはむしろ「社会主義」、「計画主義」であって「自由主義」ではない。伝統的な資本主義の正当性は、復元への努力が政策当局の間でずっと払われ続けていたにせよ、古い社会への信頼は第一次世界大戦と1929年以降の「世界大恐慌」で失墜し、新しい社会が求められていたのが、世界の潮流であった。

現代社会と共通しているのは「経済格差拡大」であるが、それは第一次世界大戦による特需の恩恵を日本が享受し、戦後になってバブルが破裂するかのように長期停滞と経済集中化が続いたことによる。格差拡大の原因は「主義」ではなく「政策の失敗」である。このロジックは現代にも当てはまるはずだ。

引用文中「血腥きことばかり」というのは、同じ年の2月に発生した「2.26事件」が背景になっている。

引用した文章の中の「新聞」を「TVのワイドショー」に置き換えて読めば、日付が仮に2022年1月30日になっていたとしても、そのまま自然に通ってしまうのではないか、と。そんな気がする。

それにしても永井荷風のような親からもらった遺産で好きな事をやりながら食っていた一代の遊蕩児が

人生の事もし大小となくその思ふようになるものならば、精神の修養は無用のことなり。

というなど、今なら『お前には言われトウない』と返す場面だろう。 

この下りをそのまま読むと

人生、思うようにならないことが多いからこそ、精神の修養が要るのだ。

こういう主旨になる。やはり荷風が言うことではない。

永井荷風もこんなことを書くときがあったのかと愛読者としては驚きだ。とはいえ、何ごとも思うようになるなら、なにも精神修養に汗を流すことはしなくともよい、というのは当然の理屈だ。いつも満足して、この世は楽チンである。「弱いメンタル」をもってしても「世間の荒波」などは襲っては来ないという理屈になる。が、現実はそうではない。


そもそも同じ日本人でも小生と父の世代、祖父の世代とでは、人生経験、受けた教育、仕事の環境はまったく異なるし、価値観、生活習慣も重なるものがなく、同じ日本人とは思えないほどの大きな違いがあったものだ。父の世代と祖父の世代にもものの考え方に大きな違いがあったという印象が残っている。もちろん小生と愚息たちを比べても持っている感覚、常識、生活習慣、置かれている職場の環境等々、全てがまったく違っている。こんな事情は、日本特有というものではなく、ひょっとすると韓国や中国にも、というよりアジア全域にも共通した世代間格差があると思う。それほどの急激な歴史的変動を乗り越えてきたからだ。これに比べると、英米のように敗戦や政体変革を経験していない国では世代間の違いは相対的に小さいかもしれないと思うし、英米に比べると、ドイツなどではやはり育った時代によって大きな違いがあるのじゃないかと思うのだが、永らくそこで暮らした経験があるわけでもないので、こんな国際比較は小生にはできない。

つまり、同じ日本人でも時代が異なれば、まったく異なった世間、別の国のような生活習慣、全然違った常識がそこにはあったと想像しなければならないはずだ。

こんな風に思うのだが、「にも拘わらず」と言うべきか、永井荷風が苛立ちを増していた昭和10年代と今の日本とで、何だか同じような世相になっているとすれば、偶然とは言えないナア・・・そう考えるのが自然だろう。「似たような時代」というのは歴史に何度か反復して現れるものかもしれない。


ところで、上にいう「精神の修養」は学校教育にあっては「道徳」であったり、「修身」の授業であったりしたわけだが、戦前期の日本でいくら熱心に「倫理」や「精神修養」を授業で叩き込んでも、それでも血なまぐさい事件は多発したのが戦前期・日本である。

戦前期・日本の実情を観るだけでも、「精神の修養」は学校教育ではどうにもならないことが分かる。思うのだが、戦後日本のしばらくの期間、時には贈収賄、金権政治などへの批判が激しくなったにもせよ、概ね政治家、官僚が比較的清潔で、《パブリック》という価値をしっかり理解していたように感じられたのは、今日のようなワイドショーがなく実像が知られなかったということがあるかもしれないが、やはり多くの人々が戦争という「精神修養」を経てきたという社会的リアリティがあったからではないかと、そんな風に思ったりしている。決して戦前期・日本の学校教育で道徳教育が充実していたからではないと思っている。

現在の学校教育で道徳教育を行っていないことが現在の世相を招いているという認識は(多分)間違いだろう。個々人の心構えは、学校の授業ではなく、社会のあり方で決まるものだ。戦争は悲劇であったが、兵役という憲法上の義務に従って戦争の最前線に立つことで身をもって学んだことも多かっただろう。それは戦後社会で日本の人的資産を構成したに違いない。

とはいえ、戦争なり、軍事演習を国民的教育の場にするというのは、全体として"effective"であるという見方はありうるにせよ、やはり実に無慈悲で、かつ愚かな政策であると思う。そう思うし、それに「倫理」や「モラル」を鍛えたとしても、国民のモラルを良くしさえすれば、それで良い社会が訪れるのだ、と考えるのは流石に無理である。モラルの無力であることは既に経験で学んだことでもあるはずだ。


他にも色々とかけそうだが、ま、今日のような世相に対する批判が、90年近い昔の人と共有できそうなことを知るだけでも、本を読むことの意義はあるというものだ。

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