2022年2月20日日曜日

断想: 仕事や活動にも「集中型」と「持続型」の二つのタイプがある

プロ野球でも「短期決戦向きの監督」、「長期のペナントレース向きの監督」と言われることがあるが、亡くなった父もこの例えで様々人物評を語っていたものである。

確かに「強いチーム」を造ることには長けているのに、7回勝負の日本シリーズではほとんど負けるといった監督もいる。そんな人は「悲運の名将」と言われるが、仕事が求める個性とその人の個性とがミスマッチしているのかもしれない。

これと関連した話だが・・・

4年にたった一度きりのオリンピックで戦うアスリートは典型だと思うのだが、長い時間をかけて到達した成果を、限られた短時間、時には陸上短距離のように10秒ほど、あるいはマラソンであっても2時間ほどの時間の中に努力を凝縮させて表現する。そんなタイプの活動がある。

長期間の努力の成果を一瞬間に集中させる

長い自己研鑽の積み重ねがあるとしても、その積み重ねた努力の成果を最後に「自己表現」するという段階では極めて短期集中型になる。芸術では音楽演奏や舞台演劇もこれに似ているし、(まるで戦前の軍国少年のようではあるが)陸軍よりは海軍に近い。海戦は陸戦に比べると

準備は長期間、結果は短期間

というところがある。そんな「集中型」とでも言える仕事のスタイルがある。


これに対して、

努力の積み重ねの最終到達点がそのまま成果となって現れる

こんなタイプの仕事もある。いわば「持続型」である。

美術は絵画であれ、彫刻であれ、このタイプである。例えばレオナルドの『モナリザ』は、制作者が生涯を通して身近に持ち歩き、一筆ずつを加えて完成形に近づけ、それでもなお最後は未完成であった、と考えられているそうだ。海の戦いに比べて幾つかの都市全体が移動しながら優勢を一歩一歩築いていくような陸戦は、絵具を少しずつ重ねていく絵筆の運びにも似ている面がある。製造業の新製品開発もこれに似ている。反対に、成果が外形化されないサービスはモノ作りより集中型の色彩が強い。日本人が得意とする「おもてなし」は長年の準備と修練がいるのと同時に、最後の段階でそれを表現できるかどうかが大事である。


小生は、「瞬間」にかける仕事はずっと苦手だ。今風にいえば肉食系ではなく草食系なのかもしれない。何より現場の情勢を読んで瞬時のうちに対応を変化させる柔軟さに欠けている。プレゼンは今でも苦手だ。学会発表もどちらかと言えば苦痛だった。発表自体はよいのだが、その場で出てくる質問に対して的確に一言でズバリ回答するのが苦手なのだ。言葉足らずになったり、丁寧すぎて長広舌になったりする。勘が悪いのだ、な — その割にはスピーチは得意だから不思議だ。それよりは執筆が好きである。執筆という仕事は典型的な持続型である。100のうち80までをやり遂げれば、少し時間をおいても、成果はそのまま残る。だから、努力を長い期間にわたって継続し、レベルを上げていくことが最も大事になってくる。瞬間風速ではなく、平均風速が大事になってくる。そんな仕事のほうが好きである。

試行錯誤しながら再計算を繰り返したり、データを整理したり、着想をその都度書きとどめておく積み重ねの最後の到達点がそのまま結果になる仕事のスタイルを好んだ。大きな成果を残せなかったのは、そもそも素質が「才能なし」、せいぜいが「凡人」であったにもかかわらず、選んだ主題を徹底して一貫させ、同じテーマに関して深堀を続けるだけの根気に欠け、関心が拡散したためであったと自己評価している ― ま、やりたいことをやったのサ、という点では満足度はそれなりに高く残っているが。


少し以前の投稿で、

人間はイヌ型とトリ型の二通りがある

という恩師の人間観察をメモしておいたが、

仕事には集中型|持続型、たとえば音楽型|美術型の二通りがある

これも言えるような気がする。思い出したので書いておこう。


0 件のコメント: