2022年2月12日土曜日

断想: 運、不運を語りたがらない不毛な評論家と賢明な庶民との違いなのか

北京冬季五輪ではメダル競争とは別の面で色々なドラマが進行している。

日本選手が金メダルを獲得すれば日本人は喜ぶがどの国でも事情は同じだ。が、一つ言えるのは、メダルの色が金であるか、銀、銅であるかというよりは、戦っている選手の人間的素顔に人はより強い関心を持っている(ように見える)点だ。戦っている選手の心の中に入りこみ、不安や野心、その他の思いを知ったり、触れることで、人はより深く「面白い」と感じ入るものだ。不審な判定に対する不審そのものより、個々の選手がそんな不運に対して、どのように対応し行動したかということで視ている人は深く感動したりする。「不審な判定」は、審判の責任でもあるのだが、かと言って審判がおかしな判定をするとは予想はできず(予想されていればクレームが殺到するはずだ)、事後に「結果」をなかったものには出来ない以上、競技の結果は《運・不運》によるとしか言えず、それにそもそも運や不運はなにも審判の誤審のみからもたらされるわけではない。

こんな運や不運を《神のはからい》と達観するとすれば、まさにトロイア戦記であるホメロス『イリアス』のようにこの世は神々の悪戯であるという世界観になり、また日本の『平家物語』に表れる諸行無常の世界にもなるわけである。司馬遼太郎の歴史小説には様々批判があるが、歴史に名を残している個々の人間がリアルタイムでどう考え、どう行動したかを現代日本人にも理解可能な文章で再構成している点は、やはり文学的に創造された価値になっていると思う。

大体、自分の努力で結果が決まるなら、最も努力をした人が勝つというロジックになるが、こんな理屈を信じている庶民は誰一人いないであろう。

五輪の場で戦っている多くの選手たちの姿に何かを感じる心の動きと、例えば映画"The Longest Day"や「トラ・トラ・トラ!」を観たあとに何事かを思う心の動きは、互いによく似ているはずで、実はほぼ同じようなことを考えている。

オリンピックという競技の場で誰が勝つか、誰が負けるかは運・不運が強く影響する。

勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし。

野球という勝負の世界に生きた野村監督はこの辺りの機微を実践的に把握していたのだろう。

同じように、ビジネスの世界で行う新規事業投資が成功するか失敗するかも、最後の段階で運・不運が影響する。かつて三井グループがイランのバンダルシャプールで展開したIJPCプロジェクトは投資としては典型的な失敗例であるが、その失敗の原因を突き詰めていけば、結局は「ホメイニ革命と革命政権」、その後の「イラン・イラク戦争」を事前に予想できたかどうかにたどり着くわけである。もしもこれを予想するべきであったとすれば、予想可能であったロジックとなるが、10年前に革命勃発を事前予想できたのであれば、更に10年前の段階で革命を予想できる情勢になることが予想できていたことになり、こうして再帰的に遡っていけば1000年も前から「将来、こうなるネ」という風に未来が分かっていた、と。こんな議論になる。バカバカしい限りだろう。

努力はいますべきこと。結果は未来に運・不運が混じって決まるものなのである。別に難しい事ではなく、普通の人なら当然知っていることだ。

競技や新規ビジネスだけではなく、人が行う様々な計画や努力には、例外なく《運・不運》がつきまとい、それから逃げることは出来ない。

人は神の意志から逃げることはできない

こんな認識で近代科学登場以前の人々は世の中というものを理解していたことは、その時代の文学作品を読めばすぐに分かることだ。小生がまだ学校在学中であった頃には「不可抗力」という言葉がよく使われていたものだ。「不運」と言っても、「不可抗力」と言っても、主旨は変わらない。

それに対して、現代日本では

物事にはすべて原因がある。原因を知ったうえで、それをコントロールして望ましい結果を実現するのが、私たちのやるべきことなのです。

こんな意見を述べる「専門家」、というか「評論家(?)」、「話芸従事者(?)」が世間には目立つ昨今だ。が、もしこんなことが現実に可能ならば、望ましくない事が起これば全てそれはどこかの誰かの管理ミスということになる。いま世間で「不可抗力」という言葉が使用不可になりつつあるのは、ひょっとしてこういう思考が背景にあるのではないかと思ったりもするのだ。

確かにこれは一つの世界観であるには違いない。

そういえば、小生が大学学部にいた頃、いまこの瞬間に宇宙のあらゆる粒子の位置と速度を知ることが出来れば、未来の事はすべて正確に予測できる。予測できないのは、ひとえに人間の知識が足りないためである、と。まさに「ラプラスの魔」を地で行くような、科学至上主義の教授がいた。

理念やモラルではなく科学の発展のみが社会の進歩を実現できることは、その通りだと小生も思っているが、精密科学に基づく決定論を小生は信じていない。ま、この論点は「科学」よりは、その以前の「信仰」に似た問題だと思う。

ただ、こういう世界観の大前提は実はいくつもあるのであって

  • 物事の原因は知ろうと思えば正確に知ることが出来る
  • 原因が判明したとして、その原因を人が高い精度でコントロールできる手段がある

要するに、テキサスで発生した竜巻の真の原因であるブラジルの一匹の蝶の羽ばたきを科学者は特定できるのかという《バタフライ効果》の問題であって、少なくともこの二つは前提しなければ、《科学的社会管理》は不可能である。そればかりでなく、科学を応用して社会の安全を制御するというこの発想は、そういう制御に人々は従うべきであるという「科学的社会主義」の薫りを濃厚に持っているとも言えるだろう。

経済学では、決定論的な純粋経済学は現実には適用されないものだ、ということが既に分かっている。経済の動きは確率的にしか理解できないということだ。経済成長、つまり実質GDPの増加プロセスは長期的には非定常な過程であることも確認されている。なので、20年後の経済状態を現時点から予想するとしても、役に立ちそうな予想は出ては来ない。

「確率的ノイズ」を「神のはからい」とは決して言わないものだが、事後において発生したノイズを逆評価してみると、なぜそんなノイズが発生したのか理論的には説明できない以上起こったことをそのまま受け入れるしかないわけで、あたかも「神のはからい」に見えるとしても、それは寧ろ自然な受け取り方と言えるだろう。

神のはからい、偶然、確率的ノイズ、そして運・不運。所詮は「ものも言いよう」の事柄なのである。

だからこそ、今でも人は運、不運を語り続けるのであり、不運に見舞われた人はそれにどう向き合ったか、幸運にも成功した人はどのような人生を送ったかを、人は知りたいと思う。今も昔も変わらない。それはちょうど、鎌倉、室町時代に生きた人たちが、伴奏付きで「平家物語」を弾き語る「平曲」を愛したことと変わらない。今日の日本人がオリンピックの中継を視聴する気持ちと大して違っていない。そう思われるのだ、な。

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