IOCが代表するオリンピックの理念は誰もが知っている。本ブログでも何度か投稿しているように、そもそも近代オリンピック運動は戦争当事国であったとしても五輪開催期間中は休戦をしてスポーツを通して勝敗を競う、そんな平和運動として発足したものである。その手本が古代ギリシアで開催されていた「オリュンピア祭」であることも周知のことで近代オリンピック運動はそれを継承するものだと最初から謳われている。
そのオリンピックの意義に対して最近は色々なクウェスチョン・マークが付けられるようになった。その背景の第一が昨夏の東京五輪で、コロナ禍であるにもかかわらず、無観客で開催を強行した。第二が今回の北京冬季五輪で、ウイグル族に対する人権抑圧があるにも拘わらず、政治からの中立という美名のもとで現状を追認するかのように開催が強行されている。そんな批判がある。
TVの「サン・モニ」は日曜朝にみるワイドショーであるが、そこでも同じ批判が今日は展開されていた。
IOCは政治からの中立と言葉では語っているが、実際にはアメリカのTV局が支払う放映権収入の上に経営が成り立っているビジネスになっていて、どんな事情があっても五輪を開催することが優先されてしまう。それによって『いまのままでよい』というメッセージをオリンピックが発することになってしまっている。独裁者がそれを自分の権力維持のために利用するようになっている。これは政治的に中立ではないし、五輪憲章とも矛盾している。
具体的に語られた言葉とは違っていると思うが、(小生の記憶では)まあ、こんな意味の意見が若い世代から寄せられていた。
なるほどネエ・・・
と強く印象付けられた。確かにこういう批判は真っ当である。戦前のヒトラー政権に五輪が利用された前例は世界にとっての悪夢であるに違いない — 1945年以降の歴史観に立つとすればだが。
しかし、どうなのだろうナア?
オリンピックが開催されること自体が、「善からぬ国」、「善からぬ権力者」、「望ましからぬ現状」を追認することになるとしても、そもそもそうした国なり、人なり、政治状況が「悪しき状態」、「否定するべき状態」と考えること自体が、一つの《政治的立場》であり、そんな政治的立場に立ってみているからこそ『望ましくはない状態を継続させる行為を敢えてしている』と、そう判断するのではないか。(自分が)望ましくないと考えている状態も、対立者側からみればそれが望ましいわけである。つまり《対立》がそこにはある。他の何かがあるわけではない。そして、「対立」など、時代を問わず、あって当然である。
「政治的中立性」とは、対立する一方の側には与しない、というのが元来の意味である。社会や国のあり方としては何が望ましく、何が望ましくないかという、こういう政治的立場の相違から超越した観点に立ったうえで、オリンピック運動を継続していく。こういうことではないか、と。「どうでもよい」とまでは考えていないだろうが、統治の在り方、社会の在り方などの政治哲学も個々の政治問題もすべて"Set Aside"して、開催期間中は競技をしよう、と。そういう《理念》、というか《運動》なのだろうと小生は思っている。なので、結果として社会の在り方の現状が続くことになるであろうというのは、当然の帰結である。
だから、様々の政治的矛盾や社会的対立を現実に解決するためにはオリンピックは無力である理屈だ。それでも古代ギリシャで長い期間にわたって「オリュンピア」が開催されたのは、そもそもそれが《祭》であり、競技は神々に捧げる《奉納》であったからだ。現実には戦争をしているが、双方とも源流を辿れば同じ民族であり、同じ神々を信仰している。神々の守護を望む点においては、戦争継続中の二国であっても共通の基盤があった。神々は人間世界の現実には束縛されず自由である(という理屈だ)。故に、人間社会の現状と神への祈りは関係しないという理屈もある。
オリンピックはたとえ戦争当事国であっても五輪開催期間中は停戦をするということの主旨は
開催期間中は停戦をするが、五輪が終了すれば、戦闘が再開される。
そういうことでもある。オリンピックがどの地であれ開催され自国が敵国とともにそれに参加すると言うことは、敵国の現状を認めることにもなるし、そのままで良いというメッセージを発するという理屈にもなった(はずだ)。こんなオリュンピアはボイコットするべきではないか、開催そのものを中止させるべきではないか、こうした世論が古代ギリシアの都市国家にもあったかもしれない。もし古代ギリシア社会に現代のワイドショー的なメディアがあったなら、
いま「オリュンピア祭」を開催することによって、同じ民族同士でいま戦争をしているという悲劇的現実を解決するどころか、現実がこうであるのは仕方がない、それでもいい、そんなメッセージとして伝わってしまうのではないでしょうか。
こんな意見を述べる御仁がいたとしても可笑しくはないわけだ。人間社会の本質だけをみれば、現代と古代とで大きくは違わないものだ。
それでもギリシア民族によって開催されていた「オリュンピア祭」は紀元前8世紀頃からローマ帝国の版図に入っていた紀元後4世紀まで、千年を超える歴史を歩んだそうである。実際に、政治問題をなにか解決したかと言えば、その点では無力であったろう。が、ギリシア民族の共有の「伝統」を思い出させる「祭事」としては開催継続への強い動機が働いていたことが推測される。つまり《政治》ではなく《文化》であった。人々がこだわる対象は実に多彩なのである。
そもそも古代ギリシャのオリュンピア祭開催都市であったエーリス市オリンピア地区は、競技関係者が落とすカネで財政収入の相当部分が賄われていたに違いなく、開催側としてはどうしても開催を続けて欲しいという動機もあったであろう。この辺り、人間のやることは時代を問わず、国を問わず、時空間を超えて似たようなものである。
近代オリンピック運動はこれに比べると遥かに短い歴史しか有していないが、
いかなる意味でも、オリンピックと政治とは無関係であるべきだ
こういう思想、というか理念は小生には今日的意義があるように思われる。大体、古代ギリシア世界からローマ帝国の領土に編入されるということは、政治的には大変動であったに違いない。それでも、「祭」は続いた。政治環境の激変とは関係なく続いた。「いまの社会を受け入れるべきか、否定するべきか」などといった政治哲学とは無関係にオリュンピア祭は開催され続けたのである。
人はパンのみにて生くるにあらず
というが、
人間社会は政治のみにて動くにあらず
と観るのがより本質に近いだろう。
地球上に生きる現代の人間達に、オリンピック開催への動機がある限り、オリンピックは続くであろうと小生は予想している。
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