2022年9月7日水曜日

ホンノ一言: 「問題発生」へ迫る最初の第1歩の方向が間違っているのか?

加筆:2022-09-08

経済問題に限らず感染問題でもそうだが、日本政府は、というより日本企業、いやもっと一般に日本社会全体と言うべきかもしれないが、発生した問題の解決に向けて行動を起こすスピードが海外に比べるとかなり遅いという事実は、もう多くの人が感じているのではないかと思う。そのため分野を問わず旧来のシステムが残存していて、それが必要な《構造改善》を益々困難なものにしている。マア、頭ではもう多くの人が分かっているのじゃあないかと思っている。

日本経済の成長復活には「構造改革」が必要だと、口先ではメディアも唱え、政治家も与野党を問わずアピールしているが、株価に例えると「長期横ばい基調」にあって、実はほとんど何も結果を出せていない。こんな状態に対して、日本国民の方から危機感の高まりが不安になって表出しているとも感じられるのが、足元の状況ではないか。

ただマア、こんなことは、もう無数の人がネットでも書いているので、限りなく月並みな内容である。

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結局、《問題》が確認されるときの第1歩、というか最初の発想が日本はまずいのではないか、と。いや、いや、これも結局は月並みな指摘だなあと思う。

例えば、Wall Street Journalにこんな記事がある。アメリカの雇用はコロナ前の水準を回復しているが、労働生産性が低下している事実とその原因に関する記事である:

企業はこの1年間、欠員を埋めることに全力を注いできた。企業は賃金を上げたり、実務経験などの採用要件を下げたり、人手不足を解消するためにその場ですぐ採用する体制を整えたりしてきた。

 こうした努力の結果、米国経済はコロナ感染拡大初期に失われた2200万人の雇用を回復した。

 だが従業員の経験の浅さや、ベテラン従業員がこれまで以上に新入社員の教育に時間を割く必要が出ていることなどを背景に、ここ数四半期の労働生産性が低下していると、経営者やエコノミストは指摘する。

URL:https://jp.wsj.com/articles/service-is-slow-luggage-is-awol-companies-struggle-with-an-influx-of-new-hires-11662427252

Source: WSJ、2022 年 9 月 6 日 10:22 JST

要は、コロナ禍の最中、企業経営者は社員の首を切り過ぎた、解雇された社員は別の分野に転職した者も多いので、コロナ感染を解決した後、人数を揃えても技量が低下してしまった、と。こういう実に単純な因果関係であるわけだ。

GDP、つまり一国の付加価値合計は「雇用者数×労働生産性」に等しいので、人数がコロナ以前に戻っても、労働生産性が低下すればGDPは元には復帰しない。つまり国民所得も元には戻らないという結果になる。そのしわ寄せは、需要の停滞ともなるので、アメリカの経済成長はその分抑えられたものになる。こんな予測が簡単に出てくる。

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ただ、WSJの記事の論調からすぐに分かるのは、問題をネガティブにとらえていないことだ。問題の確認を<非難>や<批判>には結びつけていない。まして、問題発生は誰の責任であるかなど、一言も触れていない。

問題をどう解決するかで、知恵を出す必要がある。

一言で言えば、これに尽きている。

そもそも、ある問題が社会レベルにまで拡大した、つまり局所的な問題が社会に共通する全体の問題に拡大した段階で、その<責任者>を探すことにはほぼ意味がないと思っている。問題が社会化する要因なり背景は社会全体の方にあり、社会は少数の政治家ではなく、国民全体が共同で作っているものである。だから、社会の在り方には特定の個人に責任はないとしか言えないからだ。

《責任》というのは《意志》と裏腹にある。故に、責任を論じるなら、特定の人間に与えられていた自由な意思決定の機会と結び付けて語る必要がある。社会的問題に特定個人の責任を問うても意味がない。法と制度を論じるしか解決のしようがないわけだ。

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WSJの記事だが、最後は

コロナ下の最初の2年間は、学生や病院スタッフ、患者を守るために病院内で研修を行うことができなかったため、マネキンを使った指導が行われていたという。

 「彼らの専門性のレベルに合わせなければならない」とザンガーレ氏は言う。「現在の労働市場には大きな流動性があり、人々は職業を変え、新しいことに挑戦し、医療分野から去る人もいれば、逆に入ってくる人もいる」

 就職前に実際の業務訓練を経験していないことや、親身なサポートが少ないことが、新人看護師の離職率が高くなる一因になっているとザンガーレ氏は指摘。アレゲニーでは、新人看護師の1年以内の離職率は、コロナ前の19%から36%に上昇したという。

こんな風にまとめている。どうしても、アメリカ社会の健全な積極性、将来志向性、ずばり言えば《ポジティブ思考》をここには見てしまうのだ。 

少なくとも、コロナ禍で進められてきた《過剰な雇用調整》を厳しく指摘して、この間の企業経営者の《無能》を非難したり、とるべき《責任》を追及したり、そうした愚策がアメリカ社会に対していかに負の作用をもたらしてきたか等々、議論をフレームアップするなどの論調は全くゼロである。

本日、言いたいことはこれでオシマイ。あと、思いついたことを気ままに書き足そう。


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言い方は悪いが、メディア産業は大災害や大事故、大問題が確認されるときに、売り上げが増加する。

極端なケースだが、もしもいま世界で懸念されているようなロシアによる核兵器使用が(万が一)現実のものとなれば、その万が一のケースは日本のマスコミにとっても空前の稼ぎ場となろう。多数の人の目や耳を需要しているスポンサー企業が報道に対してより高額の料金を支払うからである。これがメディア・ビジネスの基本論理だ。それでも、万が一のケースが発生した時、マスメディアが提供する「情報」を待つ人は多いはずだ。

問題は、出来るだけ多数の人にコンテンツを提供しようとするマスメディアはどんな中身をパッケージングして提供するだろうかという企業行動のロジックである。もし「非難」することが習慣化し、その種の行動に中毒化した社会であれば、非難するべき対象を情報として伝えることはメディア・ビジネスにとってのビジネス機会になるであろう。

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やはり、電波に乗せて他者を非難するというコンテンツが、これほど多くの人に需要されている社会は不健全であると感じる。

経済発展は、基本的に将来志向で健全な社会でのみ実現できる成果である。小生はずっとこう理解している。そもそも

問題を起こしたこと自体で関係者をネガティブに非難することによってその問題が解決に至ることはない。

これは自信をもって言える。故に

「非難ビジネス」の社会的生産性はメディア企業の個別生産性に比べると非常に低い。

こう感じるのだ、な。ひょっとすると、社会的には負の作用を与えているのではないかとさえ思う時がある。

そもそも、同じ日本人と日本人が築いてきた会社なり組織を厳しく非難するというのは、平和を前提しての行為であり、戦時においても同じように非難し、排除していけばよいかと言えば、そんなことはなく、国にとっては決してプラスにならないというのは単純なロジックではないかと思う。


またまた過去を回顧するようだが、この当たり前の常識は大正世代、昭和一桁辺りの父の世代の人々はシッカリ理解していたような印象がある。

最近では死語となったが「亭主関白」であり、家族には横暴であり、よく言えば「向上心」、悪く言えば「欲深」で、身なりに構わず「弊衣破帽」、清潔感にも欠けるのだが、とにかく与えられた課題に結果を出すことには上手であったように思う。

世代平均をとれば生まれながらの頭脳水準にはそれほどの違いがあるはずはないにもかかわらず、問題解決に際して感じられた手際の違いは、結局のところ、父の世代は戦争と平和の二つ両方を自らの経験をもって理解していた。この他には、小生、理由を何一つ思いつかない。敵と相対して大胆かつ細心、味方をみるときも用意周到。やはり確かな《実力》というのは平和なご時世だけを経験して育まれるのではない。

知は静寂の中で、力は激流の中で

ゲーテのこの言葉は前にも引用したことがあるが、正にその通りだと思い返している。


どうも今日は、テレビを観ればキャスターが暗い顔で暗いニュースばかりを語っている、新聞は暗い記事ばかりを小さい文字で書き連ねて購読料をとろうとする、ネットはこれまた人の悪口ばかり、こんな世相にポジティブに明るくなれるはずはなく、月並みな事をまた書いてしまった。マンネリだなあ・・・まあ、これも数年もたてば、こんな時期もあったネエと思い出すヨスガになるというもので。


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