祖父から聞いた話だが、戦前期には判決文も毛筆で書いていたそうであるし、ある時期までは文体も候文であったという。そう言えば、昭和初期の大阪上本町の旧家を舞台にした谷崎潤一郎『細雪』が(ずっと前に)映画化されているが、手紙を出すにも巻紙を手に持って毛筆で書いていたものだ。江戸時代と同じスタイルだ。日本文化の伝統といえば<伝統>であったはずだが、そんな毛筆文化も候文も現世代には別の国の生活様式のように感じるはずだ。何年か前(と言ってももう昔と言うべき程の前だが)、中国出身の同僚を拙宅に招いたことがある。そのとき手土産にもらった品が一本の毛筆であった記憶がある。せっかくの毛筆であったのだが、非文明的な小生はそれを使うこともなく、どこかに失せてしまった状態であるのは実に慚愧の念に堪えないところだ。
イギリスの女王・エリザベス二世が亡くなったというニュースで持ち切りだ。英紙は、TelegraphもGuardianも一面ぶち抜きで女王の遺影をのせ、当然ながら日本でいえば天皇崩御と同じ扱いにしている。明治の人が英出身の友人に手紙を出すなら
故国女王陛下崩御の報に接し小生も又惆悵哀傷の心情を大兄に伝えたく存候・・・
こんな書き出しで墨色も鮮やかに多分出すのだろうナアと想像したりする — 英人に日本語候文は奇妙であるが、何分、想像の世界だ。読めずとも書道的美術として残るだろう。
これで何だか安倍元首相の「国葬」の影が薄れてしまうかもナアと考えたりもする。
昨日は(遅ればせながら)国会に岸田総理が出席して国葬の意義や根拠を説明していたが、発案や事務執行は政府が行うにしても、「国葬」と称するなら(最低限でも)衆参の議長や最高裁長官などが賛同するなどして、形は整えておくべきだったネエ、と。それが<用意周到>というものではないか。
用意周到の正反対は<軽率>である。実に大事な問題で答えを間違えてしまったネエ。首相は軽率だった。成績で言えば<不可>かもしれない。単位を落とした。そう感じる人はいま非常に多いのだと思う。
「国葬」という儀式を選択すること自体には小生は賛成である。が、保守派に近い麻生副総裁(更にもっと上からも?)から熱心な申し入れがあったと伝えられている。そんな風に時の流れに流されるような弱さが垣間見えるようでは、やはり総理大臣を務めるには不適格だ。北海道の小さな港町から観ていても「危ない」と思いますぜ。理念をもたず原理原則に無理解なトップというのはあらゆる組織にとって最も危険であるというのが経験則である。
もう決めた事をやるしかない。覆水、盆に返らず。もってあと1年位ではないかと予想する ― こと政治情勢については小生の予測は外れっぱなしだが。
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