昨日、安倍晋三元首相の「国葬儀」が岸田文雄内閣によって武道館で催された。概ね4千人が内外から参列し、2万人を超える人たちから献花があったと伝えられている。一方で、主催者声明では1万人から2万人程度の国葬反対デモが都内で行われたよし。
こんな風に日本社会が「分断」されている中で
国葬への賛否で社会が二極化されていることをみれば、一つの価値観を国民が共有するのは困難である時代になった。そういうことではないか・・・
まあ、こんな趣旨のコメントをする専門家(?)が多いようだ。
まったく同感。賛成である。
いま、「ロシア=ウクライナ戦争」で旧・西側諸国は、《自由・資本主義・法の支配》だったか、もっと増やして《自由・民主主義・基本的人権・法の支配・市場経済》であったか、要するに「普遍的価値」という価値観を共有すると常に語っている。
国葬をめぐって賛否が二極分化する足元の日本社会をありのままに認めるとすれば、「普遍的価値」かどうかはともかく、特定の価値観を国民全てで共有するのは、もはや困難である。こう結論づけるのがロジカルだ。
人の価値観はバラバラであるという現実を認めた上で、結果としてバランスのとれた平和な社会状況を実現するのが(世界の)政治家の役割である。少なくとも17世紀序盤の宗教戦争を克服してウェストファリア体制を構築したヨーロッパはこのことを心底から理解しているはずではないか。
バランスとは《譲歩のバランス》であり、《妥協のバランス》になるのは、やむを得ない。
価値観で平和は実現できない。まあ、こういう帰結になるのではないか。小生はこう観ている。
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