2022年10月29日土曜日

メモ: 日本経済の最大の問題を解決する・・・いま絶好のチャンスが来たのにネエ

 野球で1死満塁といえば絶好のチャンスだ。しかし、それでも確実に得点できるとは限らない。スクイズが失敗すれば、最悪の場合、ゲッツーで無得点。打ってもショートゴロ併殺でゲッツーかもしれない。安全なのは四球押し出し狙いが最も安全だが消極的に過ぎる。ここはリスクを覚悟して、強攻かスクイズか、指示を出すのが監督の役割である。野球は点をとって勝敗を競うゲームなのだ。点を取りに行くのを怖がってどうする・・・という理屈は最初からある。

いま日本が置かれている現状で日本国民の意見が分かれているわけではない。

  1. 海外では上がっている賃金が、日本では20年間ずっと上がらない ― 韓国にも抜かれてしまった。上げるべきだという点で国民の意見は一致している。
  2. 海外では金利を上げてインフレを抑えようとしているが、日本ではゼロ金利をずっと続け、金利を上げられないでいる。それが急激な円安を招いている。物価上昇の原因にもなっている。日銀は金利を上げるべきだ。この点でも、国民の意見は概ね一致しているかに見える。

賃金が上がらない。金利が上がらない。この二つが日本で大きな問題であるのは、ほぼすべての日本人で共有されている問題意識だと言ってもよい。

いま世界はインフレに悩んでいる。海外は例外なくインフレを止めようとしている。日本の国会でも『なぜ金利を上げないのか』、『お辞めになったらどうか』などと日銀総裁が責められている。TVのワイドショーなどでは『上がらない賃金、どうすれば上がるでしょうか?』などと連日のように話題になっている。

日銀が決断すれば金利は上げられる。実質金利は日本経済全体から決まってくるが、名目金利の引き上げなら日銀には可能だ。

それから賃金だが、これも名目賃金である。実質賃金ではない。実質賃金は一人一人がどれだけ効率的に仕事をしているかに依存しているので政府がコントロールするのは難しい。しかし、名目賃金なら上げられる。いま多くの企業では初任給が最低賃金スレスレになっている。だから最低賃金を上げればよいのだ。それにどう対応するかは民間企業側の創意工夫に任せるべき事柄だ。政府が命令したり、指導したり、配慮したりするべき筋合いではない。政府は政策実行の結果をみて、次の政策を考えるべきだ。

マクロ経済政策において、政府・日銀に出来ることは幾つかある。昨日「総合経済対策」で29兆円の財政出動(財政投融資分を含む)が決定されたが、確かに「財政」は政府に出来ることである。

しかし、賃金が上がらない、金利が上がらないという最優先の経済問題にどの程度効果的かといえば、所詮は電気料金、生活支援など小手先の対処策だと批判されても仕方がない。

行政府の長である総理大臣は、高校野球で言えば、監督に当たる。いま、金利を上げるように日銀と協議をする。最低賃金を今後引き上げていく方針を発表してそれにコミットする。これに反対する国民の声はまず(?)出ては来ないだろう。

インフレと円安を心配する国民の声が社会に満ちている今は、《賃金引上げ》、《金利引き上げ》を強行する《絶好のチャンス》ではないか。

最優先の課題をまず解決する。それに伴って派生する次の問題は、次のステージで解決する。

これがアメリカ生まれの品質管理(QE)の鉄則《重点志向の原則》の考え方である。

全ての問題を同時解決できる《名案》があったり、神速のスピードで全ての問題を瞬時に解決できる《天才》がいれば、それらに頼ればよい。しかし、名案も天才もないのである。

絶好のチャンスに打つべき手を打たないとすれば、

賃金引上げも、金利引き上げも、ヤル気がないってことですネ

と思わずにはいられない。

為すべき政策を既に20年余りも先送りしてきた。今回のイギリスが直面したような危機に現実に直面して初めて決断するという選択肢もあるが、英語を武器に世界のどこにでも移住して働ける英国人とは異なり、狭い国土で生活している大部分の日本人には国家的危機に陥ったときの惨めさがより痛切に感じられる。打つ手があるうちに手は打つべきだ、というのは何もプーチン・ロシア大統領のような脅しではない。真っ当なエコノミスト、経済学者がそう力説しないのは、世間の嫌われ者にはなりたくないという単純な理由からだろう。

日本に残された時間は長くはない。今回の世界的インフレは千載一遇のチャンスだ ― ひょっとすると、最後のチャンスかもしれない。

こう考えるのが本筋だろう。

ただ、実際に賃金、金利を引き上げれば、そのコスト増に堪えられない脆弱な企業は非効率な所から順番に倒産していくはずだ。

倒産した企業にいた従業員が人出不足の分野に移動していく。失業手当と職業斡旋システムを分厚く準備しておくことが大事だ。

このような《産業効率化》を日本は(追い詰められてか、政争の果てにか)何度かやったことがある。最初は大隈重信蔵相による放漫財政を否定して思い切ったインフレ抑制へと舵を切った「松方財政」。これは憲法草案をめぐる伊藤・岩倉と大隈との政争もあったし、西南戦争後の混乱に対応するという大義名分もあった。2回目は先日の投稿でも引用したが、浜口雄幸内閣による「金解禁」だ。そして3回目が昭和20年代のGHQ主導下で断行した「ドッジライン」である。その直後の朝鮮戦争による特需に生産面で対応できた背景としてドッジラインの中で進んだ産業再編を見逃すべきではない。

数は少ないが、これらの「荒療治」によって、日本の国内産業は苦難に満ちた再生を遂げることができたという前例は、現時点の日本人にとっての教訓でもあり、慰めでもあるのではないだろうか。要は

所得を増やしたいなら、何をすればいいか、自らが食える道を探していく

他にどういう言い方があるだろうか?同じ目的を達成するためのソフト・ランディング戦略が存在して、実行可能ならとっくに実行しているはずだと思うが、いかに?

さて、足元の話しになるが、コロナ禍で表面化した大きな問題は、日本の倒産件数が異常に減少しているという事実だ。大量のゾンビ企業が、大量の潜在的失業者を抱えて、一方では観光、運輸などの分野では厳しい人出不足に悩んでいる。同じ事実は広く認められる。

資源のミス・アロケーションとこれを調整できない日本経済システムの(ガチガチともいえる程の)硬直性は、コロナ禍が始まって以来、露わになっている。望まれる方策はもう明らかである。経済専門家の意見も(ホンネ部分では)一致しているはずだ。要するに「日本病」だ。最近も関連する投稿をしたが、同じ内容を繰り返すまでもない。

日本は社会主義ではないので企業、家計に細かい指示を出す計画経済は採っていない。政府は(法律で認められた)政策変数を操作するだけで、後は市場規律に期待する。自由経済体制である以上は、このやり方にシンパシーをもって、経済的成果を出していく。これが戦後日本の建て前である。ある意味、(どの国もそうだが)政府の政策が効果を発揮するためには、その国が前提としている<精神的基盤>、というか<気風>とも<エートス>とも言えるが、そうしたものに国民の多くがシンパシーを感じて、というか多数の人が社会を肯定して、自信をもって行動していくことが最大のキーになると思うのだ、な。そんな条件の下で政府の政策が有効に機能する。

反対に、国民心理が法制的枠組みの前提になっている価値観にシンパシーを感ぜず、疑問ばかりを感じてしまうと、政府が法の枠組みの下でいくら政策を実行しても、それが善い政策とは国民が感じない。不満をもつばかりになる。これでは政策の効果が出て来ないばかりか、不祥事やトラブルも続出してしまう。

英国のサッチャー元首相が「サッチャー改革」を開始する前後に言ったという

... they are casting their problems on society and who is society? There is no such thing! There are individual men and women and there are families  ... (出所はここ

これは結構好きで、本ブログでも何度も引用しているのだが、「自由主義」や「民主主義」を徹底的に突き詰めていくと、個人よりも先に社会という存在を前提しようとする精神的態度はどうも相応しくない。こう考えざるを得ないと思っている。 だから、主権をもっている国民と政府との関係は、

オーナーである国民と事務局である政府

つまり、ゴルフクラブの正会員と事務局の関係に近いものであるべきだというのが小生の立場である。ということは、何かコースが荒れて困っているとして、『事務局が何とかしてヨ」という姿勢はありえない。コース整備費の不足を補填する臨時会費のとりまとめを事務局が担当する。そんな仕事が政府の役割である。

そもそも政府は必要最小限の小さいサイズでいい。大体、弱くて小さい政府は巨額の国債など発行できない。強い政府だからこそ国債の大量発行が出来るのだ。日本もそうである。毎日ナンダ、カンダと悪口を言ってはいるが、それは好きだから言っているのであって、日本人は(心の底では)日本政府を信用している、身近の仲間、市民、同業者よりは政府を信用している・・・としか見えないのだ、な。だから巨額の借金をしてもそれを許している。しかし、強い政府を求める国民心理はなるべく早く治した方がいい。小生は本当にそう思っています。

マ、そういうことであります。


春夏の甲子園大会で、ベンチ入り可能な選手数を18名ではなく、30名に増やせば(やはり)喜ぶ選手は多いはずだ。しかし、実際に試合の中で起用されるのは30名全員ではない(はずだ)。ベンチに入るとしても実質的には外れている部員は多いだろう。そこで、もしも文科省が『学校教育の部活動ではなるべく多くの生徒にチャンスを与えるべきである』と、そんなコメントを出せば、現場の監督は実力に関係なく30名の中から順に打席やマウンドに送る部員を選ばなければならなくなる。確かに<公平>といえば公平、<良い教育>といえば良い教育だが、<日本の野球>を考えたときに失うものは大きいだろう。全ての目的を同時達成できる方法というのは、求めても得られないものである。

同じ論理構造は、色々な問題に当てはまる。

※ 初稿後加筆:2022‐10‐30、31


2022年10月26日水曜日

断想: これ、社会的スケールの「知的能力」衰退の原因の一つ?

 『とにかく新聞を読め』という台詞は小生が若い時分に年長世代から何度となく強く奨められたことである。今でもテレ東のWBSのCMでは、商談を終えた後のビジネスマンを演じる俳優・長谷川某が『日経を読んでいたから助かったあ』などと話しているから、昔とナ~ンモ変わってないネエと、笑いたくもなる。

言う側はそう信じて言っていたのだろうが、言われる側は「自分がやってきて良かったと思うから、だから、お前もやれ!」と言っているとしか聞こえず、かつまた新聞社のマーケティングがここにあり、という感じもして、あまりいい気がせず、へそ曲がりの小生は馬耳東風で聞き流していたものだ・・・が、しかし、最近になって考え直すようになった。

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知識を身につけるには《耳学問》が最も効率的である。

特に、数理的なことは本を読むのがしんどいし、新しくて、しかも基礎的な概念を理解するのには時間がかかる。時には何年もかかったりする。一言で言えば、文字情報で新しい知識を習得するのは、非常に難しい。分かっている人から先ず話を聴くのが最も良い入門法だ。

但し、話を聴いてから、次に良いテキストを最低限1冊は始めから最後まで読み通す。必ず文字情報で読む。これが不可欠である。

話しを聴くだけでは実力にならない。耳学問が有効なのは入門段階、あとは何か壁にぶつかったタイミングだろうか。この辺の事情は知識、学問、芸術、スポーツ、すべて同じだと思う。

話しは単なる情報なのである。たかが情報、されど情報ではあるが、情報は知識と同じではない。耳で聴いた話を考えて、できれば早めに文字情報で補って、頭を使い理解し定着させて、知識として身につけることが出来るかどうかが決定的に大事だ。身につけて初めて問題解決にも使えるし、意見も言える、提案もできる。

この《知識形成のルーティン》がスキップされているのじゃあないか、新聞の衰退が関係しているのじゃあないか、というのが本日投稿のポイント。後は付け足しかもしれない。

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近年、新聞の発行部数が急減する一方で、YoutubeやPodcastなど配信メディアが情報源として急成長している。その理由は

その方が楽である。時間が節約できる。

この一点が理由のほぼ全体を占める(はずだ)。要するに

私、忙しいんですケド・・・

こんな社会背景が本質的であるわけだ。情報収集にばかり時間をかけられないという社会事情がある(はずだ)。

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祖父母や両親の世代は、確かにラジオはあったし、戦後にはテレビも放送を開始したのだが、やはり<新聞世代>であった。新聞と音声メディアとの違いは熟知していたし、音声メディアがラジオで何かを解説しても頭にはよく入らなかったに違いなく、自ずから限界があった。

亡くなった父は「朝日新聞」と「日本経済新聞」を購読していて、毎日、記事全体を精読していたものである ― ということは、毎日通勤する生活の中で、新聞を精読する時間を持てていたわけでもある。

祖父母の宅を訪れると、テーブルの上には「朝日新聞」と「愛媛新聞」が置かれていた。

少し以前の家庭ではありふれた風景である(はずだ)。


拙宅も今は新聞購読はバカバカしいので止めてしまったが、愚息が大きくなるまでは「日本経済新聞」と「北海道新聞」、それに加えて「朝日新聞」か「読売新聞」が入ることもあったが、複数の新聞が毎朝届けられていた。

両親の世代とは違って、小生はすべての新聞の全紙面を丁寧に読むようなことはなかった。

とはいうものの、新聞を読むという行為は、話を聴くという行為に比べると、遥かに主体的であって、例えば小生が尊敬する大先輩は<3行広告>や<求人広告>、<尋ね人>欄を丁寧にチェックするのが大好きだった。そこには時代時代の経済活動や世相が映し出されているというのだ。

世間の井戸端会議で盛り上がっている大事件について「あらまし」を知っておくにも、目の前にある複数の新聞の書きぶりを読んでおくのは、自分の認識を形作るうえで非常に効果的であるし、大事な事でもある。新聞社によって同じ問題を報じるにも予想以上に大きな違いがあったものだ。何をトップ記事にするかにも、編集側の観点が反映されるが、その違いは紙面の違いから誰でも簡単に見てとれるのが「新聞」という媒体だ。


Youtubeであれば、多くの人が同じ問題について、関係者の思惑や価値判断に影響されることなく、(おそらく)自由に話しているので、何人かの専門家(?マークがつくのではあるが)の話しを再生して聴けば、かなり有益であると思う。そして、これに要する時間は複数の新聞を読むのに比べると、ずっと短くてすむ。

新聞は、文字になるので、アカラサマな虚言は書けない。それでも書き手の主観は入る。しかし、その主観の違いは、複数紙を読み比べることで、誰でも簡単に読みとれるのである。その昔、産経は右翼、朝日は左翼と、誰でも簡単に見てとれた違いを、いま各TV局の各報道番組から、簡単に聴きとれるだろうか?最近もワイドショーのコメンテーターの虚言やMCの暴言をめぐって、電波に乗った発言で世間で騒ぎになることがあったが、発言の間違いと書かれた文章の間違いでは、明瞭性が違う。責任もまったく違う。この違いが情報としての確度、価値へどうつながっていくかは結構大きな問題だと思う。

人は、読むときには頭を使って読むものだが、話を聴くときは相手の話をそのまま聴くものだ ― 相手が一方的に話すのを考えながら聴くという動作は難しいものだ。

新しい知識を身につけるには、先ず分かっている人から話を聴くのが最も簡単だと、上に述べたが、それは一方的に聴くのではなく、疑問や不審な箇所を質問しながら、対話するのだ。

聴くという動作と、対話するという動作では、頭をつかう度合いが違う

極めて残念ながら、今の電波メディアで放送している情報番組では、ほぼシナリオ通りなのだろう、最初から予定された(かに見える)会話があるだけである。そこには対話性がなく、一方的で、従って「井戸端会議」ですらないわけだ。 

これなら最初から虚構だと知れているドラマの方に客観性がある。外観と中味が乖離していないからだ。実にひどいパラドックスではないか。

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ミステリーの古典『シャーロック・ホームズ』を読むと、19世紀から20世紀初頭のロンドンという舞台で、新聞が果たしていた役割がよく伝わってくる。依頼される事件の捜査の前に、新聞各紙ではどんな情報が公表されているかを全新聞を(隅から隅まで)チェックして把握しておく。それから現場に足を運ぶ。こんな情景が繰り返し出てくる。

戦後日本の新聞全盛期において、大手新聞の発行部数は概ね600万~800万部といったオーダーであったろう。朝・毎・読・産経・日経を合計すると3千万部というところか。更に各地方紙がそれぞれの地方で読まれていたので、その頃はほぼ全ての日本人が、毎日、(何種類かの)新聞なる情報源に接していただろうという推測になる。

文字情報を読むというのは「頭を使う」動作の第1歩である。

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Youtubeなどの動画情報の拡大と文字情報の減少は、「読む」から「聴く」へのシフトになる。

これがご時世といえばご時世だが、そもそも書くよりは話すほうが遥かに簡単だ。中身のある事をしっかりと書こうとすれば、書くことをしっかり理解しておかないと文章にならない。それでも話しは適当に出来るものである。書かれた原稿なしの<語り>は低コストで出来る。誰でも知っていることだ。だから、人の話しを聴いて情報を集めるのは、話すほうも低コスト、聴く方も低コスト、時間的にも低コスト。ノリが軽くてすみ楽チンである。何だか現代という時代を象徴しているところがある。

例えば大学でどんな学科科目を履修するにしても、講義だけを耳で聴いて、その学科科目の内容を理解し、知識として身につけて、自ら使うレベルにまで定着させるのは、(多分)不可能だ。解説を耳で聴くだけでは、情報が耳に入っただけで、知識は形成されていない。知識になっていないから、認識も形成されていない。認識がないから考察できない。だから、(間違いであれ、正論であれ)自分の意見が形成されることもない。

つまり情報がその人の実力として定着していない。この辺の事は誰でも分かる側面だと思う。学問に限らず、芸術でも、スポーツでも同じことだろう。

何であれ出来ないことの理由は知識が身についていない所にある

というのは古代ギリシア哲学以来の基本命題だ。情報と知識を混同するのは、高校以降の教育が機能していない証拠である。

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(全盛期には広く読まれていた)新聞は、ともかくも「読ませる」媒体だった。頭を使うという動作を読者に強いた。この一点だけは、メディアとして改めて評価するべきだと思うようになった。

新聞が流行らなくなって、<効率的>な情報アクセスが<評価>されるようになる中、むしろ、個々人のマイクロなレベルで、社会的問題の認識レベルが劣化し、意見が幼稚化するとすれば、因果関係としてはこれもまた当たり前じゃあないか、と。そう思うようになったのだ、な。

そんな社会プロセスがいま進行しつつある。そう思っているのだ。

エッ、学校があるじゃないかって?

学校ですか。マ、先生たちは国が決める「学習指導要領」にそって賢明にやってくれているんでしょうけど、どうなんでしょうネエ・・・

ナニナニ、ビジネススクールがある?リスキリングが大事だ?

小生もビジネススクールでデータ解析の授業を担当していたが、半期2単位の授業量で効果ありますか?90分×15回で22.5時間。午前3時間、午後3時間の速習コースに置き換えると、22.5時間÷6時間になり「3日間&ワークショップ」と同じ分量だ。3日ちょっとで1分野1科目。新人研修と同程度かも。むしろ既に持っているスキルの錆をとる、だからつまり《リスキリング》なのだと思って聞いている。

「時代の流れ」というのは、学校でどうする、親のしつけでどうする、という問題を超えていると考えるのだが、いかに?


これでは、ニュービジネスと言っても、イノベーションと言っても、限られた少数の人材にしか期待できないナア・・・と。「生産性向上」が求められると指摘しても、それが出来る人的資源は育ってきていない。育てるシステムが整っていない。インフラの未整備を自覚できるほんの一部の人たちだけが、《知価社会》に適応し、豊かになれる理屈か。不平等が進むわけだ。何だか怖くもなる今日この頃でございます。



2022年10月24日月曜日

ホンノ一言: 景気後退が見えてきたのは政策的には明るい兆しかも

アメリカ経済は2023年の年明け後から実態面では景気後退入りするとの予想が広まっている。とにかくも、1970年代末期のインフレ心理蔓延を完全に抑え込むのにいかに苦労をしたか、そのための犠牲がいかに大きいものであったか、その記憶がまだ消えていないと見える。

現在時点の《インフレ心理》を「期待インフレ率」と見るなら、その代理指標であるブレークイーブン・インフレ率(=長期固定名目金利-物価連動国債利回り)は既に2パーセント近辺にまで低下している。



これまでの金利引き上げの効果発現まではまだ時間がかかる。一時引き上げを休止しても、上のグラフはやがて2パーセントラインを割り込むだろう。

ところがロイターは以下の報道をしている。

[21日 ロイター] - 米連邦準備理事会(FRB)は11月1━2日に開く連邦公開市場委員会(FOMC)で0.75%ポイントの追加利上げを実施し、12月会合で利上げペースを緩める可能性性を巡りどのようにシグナルを発するべきかを討議する公算が大きいと、米紙ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)が21日報じた。

 

Source:REUTERS、2022年10月22日2:03 午前

ヤッパリ、米国金利はもっと上がるのかネエ・・・

株価は半年程度の先行性をもつ。景気上昇のピークが見えず、金利が上がり始めれば株価は現実に下がり始める。逆に、景気後退が予見され、金利低下局面が見えて来れば株価は上がり始める。

景気後退が予見されてからアメリカ株価の腰が強まってきているのは(世間の常識とは逆だが)そんな側面もある。

長短金利スプレッドを10年物利回りと3カ月物短期金利との差で見れば、これも既にマイナスになるかどうかという辺りまで下がっている。



Source:上図と同じ

どちらにしても、来年になってまだ金利を上げるようなら「バカじゃないか」という声が増えそうである。





2022年10月19日水曜日

断想: いまの経済状況・・・詰んでいるのだろうか?

国会審議が続いているが、日銀の黒田総裁に《円安》の責任を求め、「お辞めになったらいかがか」と言う風な攻撃的な批判を繰り返す野党には一言で言えばガッカリ、を通り越して、唖然とする。国際常識からも外れていて、だからこそバカにされるのだろう。岸田首相(も安倍元首相も同じだが)の経済オンチも明らかであるが、野党議員は総じて経済には無学であることが歴然としている。

ただ円安がインフレを招いているのは確かなので、「物価の番人」たる日本銀行も為替レートは所管外であると突っぱねるには無理がある。

さて・・・というわけで議論が進めばいいが、少なくとも「国会審議」には全く期待できまい。

下手な考え休むに似たり

というところか。エコノミストを国会に招待して公聴会を開くか、あるいはディスカッションをさせるなどすれば、社会の理解も進むだろう。


現在の円安を止めるには、日本も欧米に着いて行って攻撃的な金利引き上げを展開しなければならない。しかし、安倍政権8年間で定着してきた超低金利政策を転換して、金利引き上げを開始すれば、低金利で延命してきた中小企業は経営が行き詰るのは必至である。それを支えるのは政府の責任だと野党は主張するだろうが、経営不安を救済するには財源がいる。そこで金利引き上げプロセス下で国債を増発するなら金利負担が財政を圧迫する。その分は財政支出を削減しなければ計算が合わない。

大体、こんな財政運営は日本国民は望んでいないだろう?簡単にいえば、《現状維持》を望んでいるのではないか。だとすれば、低金利を続けざるを得ない理屈だ。とすれば、黒田日銀総裁の政策路線を変更するわけにはいかない・・・

このような経済状況を俗に《袋小路》という。つまり、

日本経済は(ある意味で)詰んでしまっている。

これが一つだ。

ただ本当の《詰み》ではなく打開策はある。但し、《荒療治》しか残っていない。

本ブログでも幾つか投稿してきたので《日本病》で検索すれば多数かかってくる。

これらをまとめると、むしろ野党の主張に沿って、本当にいま金利を上げて行ってインフレ抑え込みに乗り出すほうが、寧ろ日本経済は覚醒するのではないか、と。こんな風にも思ったりする。

思い切ってやったらどうだろうナア・・・

但し、本当にそうするなら、大規模な投資減税、法人税制見直しなど税制のアップデート、更には人材開発・教育投資減税、営業規制・開業規制の緩和、各種資格の柔軟化など、成長機会を顕在化させられるにもかかわらず自民党が避けてきた新規政策が不可欠だろう。

マ、昭和初年の《金解禁》も、当時の日本人がこぞって熱望したそうだから、日本の大衆社会には底知れない怖さがある。

ホント、いまの世相が過去のいつの時代に似ているかといって、昭和初年にソックリなところがある。

そう言えば、昭和初年の当時、日本は「国際連盟」の常任理事国で「世界の5大国」でございますと夜郎自大的に浮かれていた所まで今とソックリだ。

第一次世界大戦中のブームが去り、関東大震災という大打撃まで加わって、長期不況がずっと続く1920年代、政府はヌルマ湯的な金融緩和(=低金利政策)で企業を支援し続け、そのために国内はいいが国際金融システム再構築の流れには乗り遅れてしまった。マネー増発から円安となり、そのため輸入物価が上がり、緩やかなデフレ基調を続けながらも物価全体としては高止まりを続けた。金融緩和にもかかわらず企業経営は脆弱で不況を解決できなかった。そこでついに「これではイカン」と日本経済再生を目指す金解禁が「ライオン宰相」浜口雄幸内閣によって断行された。明治以来の金本位制で定められた旧平価の物価水準に戻すために強烈な金融引き締めが行われた。ハードランディング政策である。案の上、金利は急上昇し、物価は急落、延命措置されていた中小企業はバタバタと倒産し、「昭和恐慌」という未曽有の苦難がもたらされた。昭和経済史・戦前期のメイン・イベントである。

確かにこれは荒療治で、政策は失敗だと非難する人が多い。時の浜口首相は狙撃され、井上蔵相は後で暗殺されたが、しかしこれによってゾンビ企業が淘汰され、産業全体が効率化し、1930年代の高成長につながっていったと観れば、失敗とも断言できない。

つくづく、歴史に学ぶことはあるのにネエと思う今日この頃でございます・・・

ただ、いくら金利を上げていくとは言え、アメリカFRBのアグレッシブな姿勢は、いかにもやり方が荒っぽい。そう感じるのは小生だけだろうか。まるで副反応が激しく出るモデルナ製コロナワクチンの1st versionである。

ここに来て、エコノミストの半数はどうやら景気後退を予測し始めているという。

ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)が実施した最新のエコノミスト調査によると、今後12カ月以内に米国が景気後退入りする確率は平均63%と、7月調査の49%から上昇した。50%を上回るのは、短期ながらも大幅な景気後退に陥った後の2020年7月以来となった。 

 エコノミストらは、米連邦準備制度理事会(FRB)が持続的なインフレを抑えようとする中、景気が縮小し、企業の人員削減が進むとの見方を示した。 

 米国内総生産(GDP)については、2023年上半期に縮小すると予想。前回調査では小幅な成長を見込んでいたが、今回は1-3月期に年率0.2%、4-6月期に同0.1%のマイナス成長を記録するとみている。 

URL: https://jp.wsj.com/articles/economists-now-expect-a-recession-job-losses-by-next-year-11665958105

Source: Wall Street Journal, 2022 年 10 月 17 日 07:09 JST

景気の先行きをみる先行指標としては長期金利から短期金利を引いた<長短金利スプレッド>が有用だが、これをみると、既にアメリカ経済の現況は景気後退の入り口にある。


Source: FRED, St. Louis Fed

最近、仮に昨年2021年末時点に立っていた時に、年明け後の8カ月をどのように予測していただろうかについて、予測計算をしてみた。

年明け後は波乱に満ちた展開になり、一気に景気後退色を強めてきたわけだが、それらはコロナ・パンデミック後の一次産品価格の急騰、ロシアによるウクライナ侵攻、予想を超えた労働市場の引き締まりなどの要因が重なったもので、確かにこれらは想定外の要因ではあった。

しかし・・・

日本国内の景気全体を観る指標としては、今は実質GDPより景気動向指数の方が有益である。そもそも実質GDPは推計方法上の理由から四半期系列が不自然な動きを示しがちで、そのため季節調整がうまくかからず、加えて低成長期のいま、四半期別の実質GDP前期比は生の値で0.3とか0.4パーセント、年率で1パーセントか2パーセント。要するにゼロ近辺の僅かな動きを続けているだけである。この程度の動きは統計の誤差の範囲であるとすら言えるようになっている。そう考えているので、最近はGDP速報を見ることはほとんどなくなったのだ、な。

その景気動向指数の中の先行系列を昨年末の時点からARIMAモデルで8か月間予測してみたのが下のグラフだ。


赤い線が1月から8月までの事後的な実績である。上の図を見ると、昨年末の時点で予想されていたラインを大きく下回っていることが一目で分かるが、それでも濃い青で示されている80パーセント予測区間の中には(辛うじて)収まっている。

この程度の下振れは考慮の中に入れておくべきだった

とも言える。その位、現実の変動は不規則で予測不能なファクターで動いている。過去の動きに学ぶ限りは慎重に将来予測をしておくべきだ、と。こんな結論になるか。

浮足立ってヒステリーになるのは、外国の目もあることだから、恥ずかしい。




2022年10月15日土曜日

断想: 究極の選択というのはこれか?

夢をみた。何かあることで一人の人と論争していた。若い人であったかもしれないが、小生よりかなり年上の高齢者であったかもしれない。夢の登場人物はそもそも年齢不詳である。

小生: その価値観はあなた一人のものでしょう。

相手: これは守るという価値観を一つ決めなければ社会の体を為さんだろう。守るべき大事なものは守るんだよ!

小生: 相手の価値観はまた違うんだから仕方がないでしょう。戦争を止めることが大事ではないんですか?

相手: 妥協を目指す姿勢を敗北主義というのを知らないかい?

小生: 止めないともっとたくさんの人が死にますぜ。

相手: 崇高な目的の犠牲者だなあ・・・

小生: じゃあ、あなた、その大事な価値観のために率先して死んだらいかがです?率先垂範って言葉もあるじゃないですか。

ここで目が覚めた。

覚めてからもストーリーを覚えている夢は珍しい。

だけどなあ・・・と更に思った。

相手が『要するに、お前が最も大事に思っているのは人の命だというわけだな?』と駄目を詰めるように迫られたら、きっと返答に窮したろう。

人の命を最も大事にするなら、敵軍が上陸した時点で、いやいや、相手が日本に向けてミサイルを発射しようという姿勢を明らかにした時点で、直ちに降伏を宣言し、無血占領を容認して、犠牲者をゼロにするのが最も理に適うからだ。

しかし、そんな国民を世界の誰も尊敬はしないだろう。ただただ命を惜しむ人間ほど信用してはならない人はいない。信じては駄目だ。当たり前である。基本的人権などという美辞麗句は世界の現実の中では言葉だけの慰めであるに違いない―実際、現時点のリアリティはそれを伝えている。

死にたくない家畜と人も根っこは同じだと、そう割り切って軽蔑の眼差しの中で生きながらえるか、名誉を守るために命を賭けるかというのは、 古典古代の時代から何も変わっていない究極の選択肢である。


19世紀の幕末の日本人が「独立」を志した道と、21世紀の現代日本人が選ぶ道は、ひょっとすると違う道になるのかもしれない。

人間が人間であることの核心は

いやしくも「価値」と言うならそれは命を超えて大事である。そう認識できる点に人間が人間たる根源がある。

(何だかんだ議論するとしても)これが論理的な帰結になるだろう。ただひたすら「自分の命が何より一番大事です」と全員が考えるなら、人間は他の動物と同じになる。

だからこそ「究極の選択」というものに時に直面するわけだ。


2022年10月13日木曜日

メモ: アメリカの攻撃的金利引き上げ政策について

米国・FRBが金融引き締めに転じたのは今年の春3月からだった。日本のコールレートに相当するFederal Funds Rateの推移をみると、特に5月以降は果敢な利上げに舵を切ったことが見てとれる。

Source:https://tradingeconomics.com/united-states/interest-rate

この理由は、ただ一つ、インフレ心理の抑え込みにある。

1970年代の二度に渡るオイルショックに対して、アメリカのインフレ抑え込みが生ぬるかったことから、70年代末のインフレ率(消費者物価上昇率)は15%にせまる程にまで高まった。

Source:FRED、The St. Louis Fed

これほどのインフレが継続すると、市場価格を通した資源配分効率化メカニズムが毀損されるのは明らかで、インフレ抑圧が最優先の政策課題になったのは仕方がない。実際、70年代末にFRB議長に就任したポール・ボルカーは<インフレ・ファイター>として歴史に名を残し、その当時の20%に迫るFFレートには小生も吃驚したものである。

Source:上と同じ

ただ、現時点のアメリカのインフレが1970年代末のような惨憺たる状況に達しているわけではない。それでも現在のFRB議長が<インフレ・ファイター>の役回りを再演しようとしているのは、このインフレは多分数年は続くに違いないという《インフレ心理》がアメリカ国内に蔓延するのを(完全に?)くい止めるためである(に違いない)。


ただ、どうなのだろうナア・・・とは思う。

家計や企業が困る経済問題は、置かれている立場によって微妙に違うものだ。

例えば、企業は仕入れ価格が上昇しても、販売価格にそのまま同率だけ転嫁して相対価格を維持すれば、同じ数量の取引をしていても金額ベースでは利益が増える計算だ。インフレは確かに消費者にとっては負担であるが、企業利益が増えれば賃金引上げが(最終的には)出来る。インフレを抑え込むための金利引き上げによって景気が悪化し、それが1年半程度は回復しないリセッションとなり、労働市場まで悪化すれば、現役世代の大半の家計は困ることになる。

概して言えば、富裕な金利生活者は高金利を喜ぶものだ。反対に、事業のために負債でカネを調達する事業者や住宅着工家庭は金利負担が増えるのを嫌がるものだ。また、現金や分配金、金利収入が安定している債券や投資信託を多く保有している富裕階層、それに賃貸料が長期固定的な地主、家主層にとってはインフレは損失だ。が、借金で資金を調達した債務者にとっては実質負担が減るのでインフレは寧ろウェルカムだ ― 日本政府もそう。

こう考えると、現に経済活動に従事している企業経営者や経営状況に暮らし向きが左右される雇用者にとってはインフレはそれほど困った問題ではなく、むしろ高金利を早く止めてほしい。そう考えるのが普通の理屈である。逆に、資産運用収入で生活している人たちは高金利が有難く、かつ資産収入の実質価値がインフレで下がらないように物価対策をしっかりとやってほしい。そう考えるのが自然である・・・正にこれと同じようなことを、戦前期の大恐慌時代、マクロ経済学の創始者であるケインズは語っていたわけだ。

そしていま、インフレ加速を未然に防止するために高金利政策をとっているのがアメリカのFRBとヨーロッパのECB、そしてイギリスのBOEである ― 日本銀行はまだ金利引き上げには転じていない。

これまでと同じ流れで発想すれば、中流以下のマス層の経済的利害を重視する傾向にあるリベラル派エコノミストはインフレには寛大、高金利には厳しい。そうなる理屈だ。逆に、富裕な資産階層(≒エリート?)の利害に目を向けがちな保守派エコノミストは高金利による物価安定には好意的である傾向をもつ。こう観るのが自然である。


こう考えると、ここに来て、リベラル派と目されるPaul KrugmanやJoseph Stiglitzが急激な金利引き上げに警告を発しているのは、極めて分かりやすい。

例えばクルーグマンはNYT紙に寄せた"Tracking the Coming Economic Storm"の中でこう書いている:
I’d argue that these indicators tell us that the Fed has already done enough to ensure a big decline in inflation — but also, all too possibly, a recession.

Am I completely sure about this? No, of course not. But policy always involves a trade-off between risks. And the risk that the Fed is doing too little seems to be rapidly receding, while the risk that it’s doing too much is rising.

URL: https://www.nytimes.com/2022/10/06/opinion/fed-inflation-interest-rates.html

Source:The New York Times, Oct. 6, 2022

要するに、FRBは<やり足りない>というリスクから、<やり過ぎ>というリスクに目を向けるべきだと言っている ― 小生もまったく同感だ。高金利による抑圧効果は、今後1年程度の時間をかけて、次第に表面化するものと見られる。そうすればインフレ率は自動的に低下するのはほぼ確実だ。

スティグリッツも(自然な事だが)同じ主旨のことを書いている。

The US Federal Reserve Board will meet again on 20-21 September, and while most analysts expect another big interest-rate rise, there is a strong argument for the Fed to take a break from its aggressive monetary-policy tightening. While its rate increases so far have slowed the economy – most obviously the housing sector – their impact on inflation is far less certain.

Monetary policy typically affects economic performance with long and variable lags, especially in times of upheaval. Given the depth of geopolitical, financial and economic uncertainty – not least about the future course of inflation – the Fed would be wise to pause its rate rises until a more reliable assessment of the situation is possible.

URL:https://www.theguardian.com/business/2022/sep/12/the-fed-interest-rate-rises-us-inflation-unemployment-recession

Source:The Guardian, Mon 12 Sep 2022 11.55 BST

Author:Joseph Stiglitz and Dean Baker

FRBの(攻撃的)高金利政策は既に住宅投資需要を抑え始めているが、インフレに対する効果はそれほどハッキリしたものではない、と。足元の地政学的、金融、経済両面の不確実性は、今後のインフレ率の足取りがどうなるかということより、もっと深刻であるという点を考慮するなら、もっと確かな状況判断が出来るまでは(ここで一度)金利引き上げを休むのは賢明であると言うべきだろう、と。この意見にも小生は賛成だ。何をおいても、西側陣営は(日本を含めて)実質的には《準・戦争状態》にあるわけで、そんなとき、物価が上がるのが心配だから、金利を上げて(とにかく)総需要を下げるのだという発想でいいのか。議論の余地はあると思う。本当に「戦争」をするなら「戦争経済計画」によるわけでマクロの総需要管理政策でOKという平時の考え方では不十分だ。

実は、今回のFRBの《攻撃的金利引き上げ》開始の前後、先々代の議長であるバーナンキ氏が金融政策の展開を批判していたことがある。

 - Former Fed Chair Ben Bernanke said the central bank erred in waiting to address inflation.

- “One of the reasons was that they wanted not to shock the market,” he told CNBC’s Andrew Ross Sorkin.

URL: https://www.cnbc.com/2022/05/16/bernanke-says-the-feds-slow-response-to-inflation-was-a-mistake.html

Source:CNBC、MAY 16 2022

昨年秋から今年春先までのインフレはコロナ・パンデミックから回復するまでの「一時的(transitionary)」な現象である、と。そう観ていたことはほぼ確実で、この点は上に引用していたクルーグマンも同じ判断をしていた。

案に相違して労働市場の引き締まりから一部価格の上昇が賃金上昇を誘発しつつある。それが次第に分かって来たのが初夏にかけての頃だったのだろう。市場を驚かせないように緩やかに金利を上げるつもりだったのが、これはイカン、とばかりに駆け足調になってしまった。

そういう意味では

読み違いをしてしまいました

そう謝ってしまえば話が速いのだが、金融当局が一度謝れば、同じ失敗は二度も、三度も犯すだろうと。議長は退任しろと。そうなるのは必至で、もしそうなればそうなればで、大混乱になって社会的には大損失を招く。

この辺にアメリカ社会の最近流行りの《レジリエンス(resilience)》、一言で言えば「打たれ強さ」というか、「立ち直りの速さ」というかが垣間見えるような気がする。いまの日本社会にはそんな太々しい強さが欠けつつあるという点が、昔と今とで、一番変わったところではないかと感じる・・・というより、日本銀行がFRBのような激しい攻撃的金利引き上げを始めたいと考えても、(シルバー世代が世論を左右する日本では理屈に合わないことだが)世間がそれを許さないのではないか、と。そんな予感もするのだ、な。







2022年10月8日土曜日

一言メモ: コロナ感染者数もめっきり報道されなくなったが・・・

もう周知のことだが、国土交通省観光庁のホームページには以下の通知が記載されている:
令和4年10月11日から、外国人の新規入国制限の見直しに基づき、外国人観光客の入国について、受入責任者による入国者健康確認システム(ERFS)における申請を求めないこととし(受入責任者制度の廃止)、併せて、パッケージツアーに限定する措置を解除(個人旅行の解禁)することとしました。

併せて、国内旅行では「全国旅行支援」が始まり、いよいよ景気刺激策の柱である観光業支援が本格化してきた感じだ。

ただ、ここに来て、懸念もある。キーワードを<コロナ感染者数 (国名)>にしてGoogle検索をかけると、その国の最近のコロナ感染者数のデータがグラフとともに一発で出る。これをみると、アメリカ、アジア、オーストラリアなどは確かに感染者数が減っているか、少ないか、あるいは下降トレンドにあるが、ドイツ、フランス等々、ヨーロッパでは最近になって急激に増えている。

小国オーストリアでは医療担当閣僚が、室内でのマスク装着再義務化について発言し、批判されているそうだ。

 In der „ZiB 2“ am Mittwoch sagte Gesundheits- und Sozialminister Johannes Rauch (Grüne), er werde dann etwas unternehmen und beispielsweise eine FFP2-Maskenpflicht in Innenräumen anordnen, wenn die Situation in den Krankenhäusern „eskaliert, bedrohlich wird, ein Notstand eintritt“. Eine Aussage, die ihm viel Kritik einbrachte und die „wirklich unglücklich formuliert“ gewesen sei, sagt er im Interview mit der „Presse". „Denn natürlich ist es meine Aufgabe zu reagieren, bevor etwas eskaliert. Ich kann nicht warten, bis ein Fluss überläuft, und mich erst dann um den Hochwasserschutz kümmern.“

Source:  Die Presse,  07.10.2022 um 21:17

医療機関の状況が緊急性を増し、必要性が高まれば、例えば「マスク義務化」などの必要な措置をとる、と。上の最後で言っているように、洪水がやってくるまでは洪水対策をせずに待つ、などということは出来ない、と。そう明言している。

日本ではマスクをいつまでするんだと、世界をみろ、と。こんな論議があるようだが、外国では当たり前のことを当たり前のこととして担当閣僚がインタビューで応えている。この辺の社会的、というか政治のメリハリが日本では皆無で、これがマア「日本的」ということなのだろうか。日本人は政治家が指示をして行動変容をするのが嫌いなのだろう。どうも民主主義政治は日本には根付いていないようだ。まだなお「道遠し」である。

批判や非難にさらされようが、必要なことは責任あるものとして断固やる。そんな毅然さが羨ましいネエ。民主的手続きで選ばれた閣僚が、公共の利益のために時の世論に反して断固為すべき事を為すのは、なにも反民主主義的ではないのだ、と。そう感じるのは小生だけだろうか。

ま、ヨーロッパから日本を訪れる観光客はそうそう多くはないだろうし、今度の旅行支援は年内を予定しているようだ。ヨーロッパの感染者数増加はそれほどの脅威でもないだろう。


2022年10月7日金曜日

一言メモ: これはアメリカの安全保障観の表出か・・・

10月4日付けのWall Street Journalの論説『プーチン氏の「核の脅威」は本物』はかなり面白い。

ただ、全体としての観方は、要するに

アメリカは正しい。英米は正しい。西側は正義の側にいる。

ということを言いたいようだ。

ロシアのプーチン大統領がいま主張している世界観と同じような思想は、一言で言えば、アングロサクソン、分かりやすく言えば、英語を母国語とする国々に対する敵意に基づいており、

ナポレオンなら今回の演説内容の大部分を伝えることができたことだろう。ドイツ皇帝ウィルヘルム2世、アドルフ・ヒトラー、ヨシフ・スターリン、東条英機をはじめ大日本帝国の指導者たち、イランのアヤトラ・ルーホッラー・ホメイニ師、ウサマ・ビンラディンといった非常に多様な人物が、プーチン氏が展開した批判の多くを共有していた。

こんな具合に代表的な反英米的な人物を列挙している。これを見ると、戦前期・日本の指導者も含まれていて、ああ、日本の政治家も世界史的な役回りを演じたポジションの一角をナポレオンと並んで堂々と占めているんだネエと、日本人である我が身としては、うたた「誇らしい」気持ちにひたれるというものだ。ここに現代中国のトップである習近平やインドのトップであるモディ首相が含まれていないのはアメリカのメディアなりの「忖度」であるかもしれない。

これほど自信に満ちているにも関わらず、最後に

しかし、米国の死活的な国益に同氏がもたらす脅威を過小評価してはならない。ウクライナで核兵器を使用するという脅しは、真の脅威である。

こう結論付けているのは、なるほどネエ・・・と、この辺りにアメリカ社会の根底に流れる「不安」というか、安全保障観の心理的側面が表面化しているようで、

マア、オタクはオタクでそう考えていて、それが当たり前でござんすヨ。何て言っても、自分チが一番大事ですからネエ・・・いざとなったら人ンチが困っても、今は動けネエ、助けるから自分で何とかしろってネ。そうなるのは仕方がネエってものですヨ。

こんな落チになるだろうか。

国歌、いやもとい国家安全保障って奴も、この位の認識に基づいて、体制を構築するべきであろう。



2022年10月5日水曜日

断想: 島崎藤村『破戒』にみる政治家なる人間の変わらぬキャラクター

島崎藤村の『破戒』といえば、今でも中学、高校の必読図書に挙げられているのだろうか?小生は相当のへそ曲がりだものだから、推薦図書に挙げられている内は読もうともしなかった。実際に手に取って読もうとしたのは随分遅くなってからだが、その時も主人公・丑松の性格がどうにも好きになれず、そのまま打っちゃっておいたものだ。

ところがこの夏に映画『破戒」がまた新たに公開されて、今の日本でこの作品が受け入れられるような感性、というか作中を貫いている問題意識が共感されるのだろうかと、そんな疑問があったから今度は真面目に読んでみたのだ、な。

それで感じたのは、確かに学校教師を舞台にした青春小説ともいえるこの作品は、今でも推薦図書になるだろうだなあ、と。つくづくそう感心した次第。島崎藤村が日露戦争後の明治39年(1906年)に自費出版した旧い小説ではあるが、一言で言えば、今でも通じる《現代性》をもっている。そう感じたわけだ。

感想文をここで書いておくのは面倒だが、

日本の「政治家」と言うのは、ホント、変わらないネエ・・・

そう感じた部分を引用しておこう。文中、当時の古い表現を今の日本語で使われている漢字、名詞、仮名使いに変えている個所が幾つかある。それはご勘弁ということで。

ああ、非常な財産があって、道楽に政治でもやってみようかという人は格別、私のように政治熱に浮かされて、青年時代からその方へ飛び込んでしまったものは、今となってみると最早どうすることもできません。第一、今日の政治家で「政論」に衣食する者が幾人ありましょう。実際、私の内幕はお話にならない。まあ、こんなことを申し上げたら、ウソのようだと思し召すかもしれませんが、正直なお話しが、代議士にでもして頂くよりほかに、さしあたり私の食う道はないのです。ハハハハ、何と申したって、事実は事実だから情けない。

選挙に立候補中の「政治屋」である高柳利三郎が丑松に都合の悪い事実を話してくれるなと頼みに来た時の台詞である。

文中「政論に衣食する」というのは、「自分の政治的主張を人々に語ることで生きている」という主旨であって、そんな代議士はほとんどいないということを言っている。

まったくネエ・・・、明治時代の「日本の民主主義」と令和になった「現代日本の民主主義」とを比べてみて、どこがどれほど進歩したのだろうかと、慄然として失望する日本人はかなり多いのじゃあないかと思ったりする。

「事実は事実だから情けない」と登場人物に言わせているが、都合の悪い事実でも赤裸々に書いているという点で、この『破戒』は「自然主義文学」の代表例に挙げられてもいるわけだ ― ここの文学的傾向の違いも明治と令和を比べた時の作家の気質、作家の社会観という面の大きな違いの一つだろう。

確かに生産技術はこの100年間で飛躍的に進歩したし、家、親族、家族、親子など風化、崩壊した社会慣行は多々あれど、日本の政治家の気質や感覚のコアの部分は、実は何も変化してこなかったのかもしれない。その意味もこめて

確かに『破戒』は現代日本にも通じる作品だ。

 《差別》の具体的内容は変化してきたが、コアの部分は変わっていない。そんな感想を持った。


2022年10月1日土曜日

メモ: 最近になって「核兵器使用」が懸念されている点について

「 ロシア=ウクライナ戦争」でプーチン政権が核兵器使用に踏み切るのではないかというので、結構、日本のメディアも懸念を煽り始めている。

ただ、この事柄は本ブログでも春先から書いている位だから、関係当局の中では「こうなれば、こうなる」という議論は当然ながらずっと前からやっているはずだ。

5月の最初にはこんな風に書いていた:

===

本ブログで「核使用」をとりあげたのは3月10日だ。偶々だが、戦前期・日本であれば、この日は帝国陸軍がロシア陸軍を相手にして奉天会戦に勝利した故事を祝う陸軍記念日であった。そこでこんな風に書いている:

…核兵器を使うなら<戦時>に限定する方が自分の身のためではないかと思われる。

つまり

ウクライナとは<戦争>をしている

ロシアもそう認め、戦争を宣言する。ロシア国民にも告げるというステップが必要だと思うのだ、な。(常識的に、理屈としては)それが核使用の前提になるのではないだろうか。

この頃、ロシアはウクライナに対して「宣戦」をしていないにも拘わらず、核兵器使用がありうるとTVワイドショーで盛んに論じていたが、正直、「こりゃ余りに軽薄だネエ」と感じていたのを思い出す。

===

先日、プ大統領が「部分動員開始」を表明した。それがどうも「部分動員」ではなく「実質総動員」ではないかとロシア国外では云々されたりしている。しかし「総動員」ではないと大統領が発言しているのだから、「総動員」ではないと解釈するのが理には適っている。

とすれば、どこか多分Youtubeで誰かがコメントしていたと記憶しているのだが、今回の動員は現地兵力の強化が目的で、戦争状態を宣言したという主旨ではない、そういう解釈になるのだろうと思われる。

ただ、ついこの夏の8月15日の投稿でも書いたが、

===

ロシアは占領した東部と南部をロシア領土に編入し、同化政策を進め、更には国外に避難したウクライナ国民が一定の誓約をする場合にはロシア国籍を与えたうえで復帰を認めるという段階もそのうちにはやってくると想像している。

そうした上で、(一方的な)停戦宣言をした上で、

ロシア領土を攻撃する軍部隊に対しては侵略とみなして核による反撃もある。侵略を命令する中枢部への核攻撃も検討対象に含まれる。

そんな(一方的な)核使用宣言も大いにありうるように思う。

旧・西側諸国はどう対応するのだろう?

===

案の定、いまそうなりつつあるわけだから、西側の対応は当然もう決まっているよネ、と考えておいてもいい。しかし、ロシアが「戦争状態」と認定してはいないにも関わらず、(戦術)核兵器を本当に使用した場合に、実際に西側は、というよりアメリカはというべきだが、どう対応するかというのは、まだ決定されてはいないのかもしれない。

ある地点に落とすのか、上空で使用して電磁パルスを発生させる手法をとるのか、その使用のあり方によって対処も違うのだろうと思われる。

実際、太平洋戦争末期に米軍が敵国・日本を降伏させるために2発の原爆を投下して以降、戦争において核兵器が使われた例はない。その当時、核保有国はアメリカだけであった。現在に至って、もし使われるとすれば、世界は国際戦略論において歴史的に新しいステージに入ることは確実だ。

ロジックとして断言できることは

決して使用しないのであれば、そもそも核兵器を保有するはずはない

つまり保有しているという事実は必要であれば使用するという可能性を含意する。だからこそ<脅威>なのである。ロジカルな命題としてこの点は誰もが認めるはずである。

つまり、もしロシアが本当に核兵器を使用するなら、核兵器が現実に兵器として使用されたという事実を戦訓として、新たに<核戦争時代>における新たな《フォーカル・ポイント》をどの線に、どのようにして見出し、関係国の利害を分配していくかという交渉理論上の問題を解くことが最重要になる。これはもう<プレ核戦争>の現時点から確定している予定経路だ。議論の筋道はこうなると考えているところだ。

ロシアによる「核兵器使用」が含意することは、4月の投稿にも書いたように

===

プーチン大統領が示唆する「核兵器使用」に世界が不安を感じる理由と言うのは、シェリングも言及しているのであって、

技術の向上によって核兵器が多目的に使用される可能性が上昇しているが、このことは、核兵器を全く使用しないという特殊な限定性を除いては、核兵器の使用の限定をわかりやすく定義しようとすることをより困難にしている。

つまり、いったん核兵器を使用した後は、核兵器使用を分かりやすく限定するための境界線が見出しがたく、暗黙の交渉ができず、そのため戦争がエスカレートして、無際限に核戦争が拡大していってしまうのではないか。つまり

ある特定の制限を設けた核兵器の限定的使用を他の使用から「自然に」区別することは不可能に見える。

こういうロジックがあるからだ。つまり、この場合、もはや交渉解を見つけることができず、状況は発散するのではないか、と。これが現時点の懸念の核心だろう。

===

核兵器が使用されうるという軍事的可能性を前提するときの《交渉の目安》、《譲歩の目安》をどこに線引きするかという合理的議論が今はない。正にこの点に不安の根源があるということだ。

誰が状況をマネージするのか、しうるのか。この問題に解がないようにみえる。小粒な政治家と失敗した政治家しか世界には見当たらない。いまの不安の核心にはこの問題があると思っている。


いずれにしても、ロシアのプ大統領は、月並みに言えば

ルビコンを渡ってしまった。

ウ軍が侵入して、ロ軍が後退すれば「ロシア領土」が侵略されたという判断を自らに強制する立場に身を置いた。

これをゲーム論では《コミットメント》と言う。つまり「背水の陣」だ。

ここでウクライナが止まれば、この状態が停戦ラインになる。なおウ軍が進撃してロ軍が何もせず後退し続ければ、コミットメントは《空の脅し》であったことになる。そうなれば、東部4州は全てウ軍の手に落ちる可能性がある。しかし、(そもそもウクライナ領土ではあるが)親ロシア領域からロ軍が全て撃退されてしまう前に、どこかの段階でロシアは実際に核兵器を(どう使うかは色々な可能性があるが)使用するのではないかという可能性は確かにある。例え、「戦争」と認めてはいないにしても、「核実験」と称して、何かの行動を示す。それは十分ありうる、と ― 曖昧な「示威行動」は意図が伝わらず、相手の意思決定を左右するという効果が期待できないのみならず、逆に足元を見られてしまう負の可能性もあるので、ロシア側は行動プランを十分練りこむ必要があるが。

マア、ここから先は、政治家たる者、一流の軍略家にして歴史家、高尚な理想主義者にして老獪な政治屋、こんな矛盾した面を併せもつ複雑な人物でなければロクなケリなどつけられないに違いない。いま、そんな人物、いるのかナア・・・