2022年11月27日日曜日

読後感想: 小林秀雄~民主主義~目の前の生活について

いま日本にいる《知識人》の間でどんな問題意識に関心が集まっていて、人気のあるテーマになっているかと言えば、ヤッパリ「民主主義」と「経済政策」の二つだろうと思っている ― 実際に「知識人」と自覚して、同時に「知識人」と国民から認知されているような人がいるかどうかが分からないところだが。

小生も「民主主義」というテーマは書くのが大好きだ。その昔、職場で大きなショックを受けてから、何度も投稿してきたように、ずっと持ち続けてきた問題意識である。

いま読んでいる本の序盤のところにこんな下りがある(段落など多少変えた箇所がある):

日本に生まれたという事は、僕等の運命だ。誰だって運命に関する智慧は持っている。… 自分一身上の問題では無力なような社会道徳が意味がない様に、自国民の団結を顧みない様な国際正義は無意味である。

僕は、国家や民族を盲信するのではないが、歴史的必然病患者には間違ってもなりたくはないのだ。日本主義が神秘主義だとか非合理主義だとかいう議論は、暇人が永遠に繰り返していればいいだろう。いろんな主義を食い過ぎて腹を壊し、すっかり無気力になってしまったのでは未だ足らず、戦争が始まっても歴史の合理的解釈論で揚げ足の取りっこをする楽しみが捨てられず、時来れば喜んで銃をとるという言葉さえ、反動家と見られやしないかと恐れて、はっきり発音出来ないようなインテリゲンチャから、僕はもう何物も期待することは出来ないのである。

実は、この下りは小林秀雄の『戦争について』(中公文庫)の1節であるのだが、元の原稿は日中戦争が始まった昭和12年に書かれ、当時の雑誌『改造』に発表されている。読みながら三島由紀夫を連想してしまいました。それほど言おうとしている(内容ではなく)調子が(この部分だけを読むと)重なって見えるし、そもそも文章の流れが似ていると感じたのだ。親子ほどの年齢差がある二人だが、「同時代性」というのは、ヤッパリあるのだろうか?

そのあと

歴史的弁証法がどうの、現実の合理性がどうのと口ばかりが達者になって、たった今の生活にどう処するかについては全く無力である。

 こんな内容になると、三島由紀夫を通り越して、石原慎太郎の風貌を思い出したりしてしまう ―  村上春樹や東野圭吾を連想することはない。

どうやら兵役の義務が定められた社会で育ったらしく、作家といえども社会的関心は現代作家と比べるべくもなかった、と。そう言えるのかもしれない。

しかし、小林の言う

たった今の生活にどう処するか

という問題こそ、正に昭和初年から10年代にかけての時代に、日本の陸軍がその頃の支配階層であった(はずの)政党政治家よりも痛切に感じていた「政治的課題」であったはずで、確かに「今の生活」が世界の中で最重要な問題だとみなす立場もあるわけだ。

これこそ《民主主義》だと言えばその通りかもしれない。

が、これだけで終わりになると、「危険な民主主義」という結果が待っていそうだ。社会を不安定にして、多くの人たちの幸福を奪う民主主義には価値がない ― 実際、「幸福」以外の政治的大義はありうるのか?あると言う人からは、それは何かと聞いてみたいものだ。

一口に民主主義と言っても、アメリカの民主主義、イギリスの民主主義、インドの民主主義、中国の民主主義(?)―共産主義は民主主義の1類型だと見なされる―そして、日本の民主主義と、決して一色ではなく様々で、まさに国は色々、ヒトは色々といったところだ。

愚息と話すとき、小生は日本の民主主義を支えている3本の柱を話すときがある。その三つは

アメリカ、皇室、自民党

の三つで、この3要素が相互依存的に政治的支配力として働いているのが、即ち「日本の民主主義」だと思っている。つまり、それぞれが他の二つを必要としており、どの一つを欠いても、「戦後日本」の民主社会は危機を迎える。本質はこうだろうと観ているのだ、な。

アメリカは皇室(=天皇制)を日本のソリダリティ(≒社会的統一性)を支えるものとして必要としている。これはかつてイランのパーレビ王朝を支えたのと同じロジックである。日本の皇室は(露骨に言えば)アメリカ(及びイギリス)を必要としている。同時に、出来れば保守政党(≒自民党)を必要としている。アメリカ、皇室から必要とされていることこそ自民党と言う政党が存続しつづける存在理由(=レゾンデテール)になっている。

日本の民主主義を議論したり、批判することは自由だが、実際にこの基盤を変革しようとする勢力が登場すれば、誰でもなくアメリカ政府がその動きを潰そうと行動する。

であるが故に、戦後日本という「体制」は、部分的には朽ち果てつつあるように見えて、現実的には強固なのである。

強固、即ち「シッカリしている」。そう理解して、あとは個人、個人が自分の可能性を実現しようと、何を心配することもなく、努力を続ければよい。そう割り切れる幸福な時代をいま日本人は生きているというのが、小生の歴史観、というか個人的立場なのだが、残念ながら多くの人と共有できているわけではない。

それにしても、世間ではいま

民主主義国=先進国

非民主主義国=後進国

こんな風に、まるで国教と邪教、というより善と悪とでもあるかのように、こんな2分類がまかり通っているが、ただ一言「阿呆の象徴」だと思っているわけだ。大体、善と悪の判別など、50年もたてば世間の大勢が変わっているのが現実の歴史だ。

上に述べたように、民主主義といっても国は色々である。

民主主義という先進性、非民主主義という後進性

言いたいことはこうであるのだろう。そして先進性が後進性より勝っていれば、その国は民主主義国である、と。そんな思考法なのである。

しかし、歴史を振り返れば、古代から中世、中世から近世、そして現代と、民主性と絶対権威性の度合いは一つの方向に変わるわけではなく、行ったり来たり、上がったり下がったりしながら、国ごとに異なりながら、進展してきたのが現実だ。だから、過去は非民主的で、現代は民主的であると一概にいう事は出来ない。そこには進化などはなく、単なる変化があるのみだ。

先進的~後進的という尺度を適用可能な対象は、例えば科学技術水準である。確かに、《知識の蓄積》は単調増大的である。なので、知識の成果である《生産性》の高低には先進的~後進的という言葉を使用しても可という理屈はある。しかし、〇〇主義の先進性いかんについて論じても、異なった価値観から異なった結論が複数出てくるだけで意味はまったくない。

本当は、順序を逆転して

先進性とは民主主義のことをいう。後進性とは非民主主義のことをいう。

いわば「特定の政治体制」を採用しているグループが自陣営を善しとするための政治的主張として聞くべき発言だと思って聞いている。


こんな風に考えているものだから

日本は確かに民主主義的であるが、一体、これのどこが先進的であるのか?知っている人がいれば教えてほしい。

正直なところ、そう感じているのだ。



2022年11月23日水曜日

断想: スポーツと政治の関係は変わるのか?変わった方がイイのか?

サッカーW杯が始まり今日はいよいよ日本対ドイツ戦がある。これから暫くはW杯一色になるだろう。

それはともかく、今回のカタール大会では《人権問題》がクローズアップされていて、「旧・西側陣営」は始まる前から敵対的であるし、一方でイラン代表選手が国歌斉唱に応じず国内政治への抗議の意を表現するなど、色々と紛糾しそうな動きが見られている。こうした動きに対して、主催者であるFIFAは選手による政治的行動を禁止するという旧来の伝統を守ろうとしているようだ。

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スポーツと政治は切り離すべきなのだろうか?それとも、スポーツと政治は関係づけられるべきなのだろうか?

小生は(これまでの投稿から窺えるように)全ての《ベキ論》に耳を傾ける程の関心を持たないことにしている。そもそも価値観は各自が自由に独立して持っていればよいものと思うわけで、故に他者の価値観には関心がないのだ。世間には民主主義者もいれば、君主制が善いと考える御仁もいる。ごくごく自然なことではないか。とはいえ、この《ベキ論》の行方によっては魅力あるスポーツ大会が円滑に開催できるのかどうかさえもが左右されてしまう。そう思えば、やはり無関心ではいられなく、ごく最近の「政治主導」の論調をみると、ここでもまた政治主導なのかと、つくづくと世相の行く末が心配されるわけである。多くの人が楽しみにしているスポーツ大会が何だか得体のしれない「ベキ論」で楽しめなくなるとなれば、それは世界の損失であろう。そんな世の中にはなってほしくない。

日本のTV番組では(例によって)

社会を改善したいという願いは人であれば誰でも持てるわけですから、大会の場で代表選手たちがそんな思いを表現しようと思えば、それを禁止するのはあってはならないと思います。

まあ、具体的な言葉は違うが、こんな趣旨の発言をするコメンテーターが多い。

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確かに、「民主主義」や「基本的人権」を尊しとなし、「戦後日本体制」が「最良な社会」であるとの大前提を置いてから発言するなら、専制的指導者による政治体制に抗議する行動を支持するというロジックになるのは分かる。

しかし、小生はへそ曲がりなもので、果たしてどうなんだろうネエ・・・とも思う。これはロジックになっているのか?


例えば、日本の代表選手が海外記者に対して

日本の皇室ほど下らない存在はありませんヨ!それと、日本の国会議員、アイツら何だろ?金の亡者、権力亡者。もう消えていなくなってしまえばいいと思います。早く民主的な大統領制に移行してほしい・・・

例えば、こんな風な主旨の発言を(普段使っている外国語で)するとして、この発言が日本でも報道されたとする。それでも「政治的にどんな信条を持つかは自由であるし、それをスポーツ大会の場で表現しても、それはそれで当然持つべき権利ではないですか」と、日本社会は反応するだろうか?

要するに、足元でカタール大会に寄せられている声は

人権を尊重する我々の価値観は正しい。だから、我々の声を封じる姿勢は間違いだ。私たちの言うことを聞け!

と主張しているわけで、つまりは

私たちが正しい!

言いたいことはこの一点である。しかし、イスラム教にはイスラム教の教義があり、信仰を原理とすれば、容認できない思想もあるわけで、そうした立場から何か発言するとすれば

私たちが正しい!

こんな主張になるのは当たり前で、こんな簡単な理屈は小学生でも分かるだろう。

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だから、スポーツ大会と政治は関連しあっていて当然ですと主張するなら、

大会の場で選手たちが互いの政治的価値観や宗教的価値観をぶつけあっても、それは互いの権利です。

こんな結論にならざるを得ない。

主張をぶつけあうのは自由だが、科学とは異なり、決着がつくはずもなく、結論が出る可能性などないのである。

自分の価値観は主張してもよいが、対立する価値観を敵方が主張すれば、そんな主張は不適切であると言うのは、それこそ韓国でいう《ネロナンブル》

私がすればロマンス、他人がすれば不倫

清々しいほどの《ダブル・スタンダード》になる。

本当にこんな論争をしながら、ゲームが続行できるのだろうか?スポーツ大会ではなく、国際会議など論争を展開するのに適当な場が他にあるのではないか?

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そもそも価値観とは共有できないものである。全人類が一つの宗教に統一される日は(おそらく)来ることはないし、一つの価値観で統合される日も来ることはないだろう。

古代ギリシアで4年ごとに開催され続けた「古代オリンピック」では、現に戦争中である敵対国同士であっても大会期間中は休戦し、代表選手を送りあったものであるという。この一点だけは価値観を共有しあったわけである。根底にあったのは、同一民族から発祥したという「神話」、「伝説」、というか「記憶」であったに違いない ― マア、何年振りかの「法事」に集まる「親族」の感覚に似ているかもしれない。

この古代ギリシアのひそみに倣うと、スポーツ大会と政治を切り離す姿勢は、例えば《全人類はそもそも一つ》といった根底的理念の共有がなければ、貫徹すること自体が難しいだろう。

難しいが、それでも小生は《一つの世界》を信じて、祭りに人が集まるようにして、政治とスポーツを分離できていた時代を《古き良き時代》であったと信じる立場をとる。

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実際には、いま生きている現代世界で人類を統一する程の高邁な理念はない。思い起こす程の「記憶」も薄れてきた。人類の祖先は元々同じという感覚が共有されてはいない。今後も世界は決して一つにならないだろう。だからこそ、戦争も起これば、テロもある。そんな中、「民主的に選ばれた政治家」や「指導力のある政治家」がいつの間にか権威を高め、何にでも口を出してもよいと思い込むようになっている …。「政治」にそんな役割は元々許されてはいなかったはずなのに …。

どう贔屓目にみても、欲とカネに塗れた政治家の説教よりは、伝統的な信仰がよほど深く人の心を動かす、という人が残っていても決しておかしくはないだろう。

人間社会の発展に、政治家を自称する人物達による《政治》という行為がどれほど多くの遺産を残してきたかと問えば、多分、よく見積もってプラスマイナス・ゼロである。世界を発展させた政治的決断もあったろうが、忌まわしいほどの政治的失敗も犯してきた。いま私たちがおくっている豊かな社会は、優れた政治家がいたお陰で実現できたわけではない。現在の豊かな世界は《知識の増大》によって得られたものだ。そこに政治家なる人々は参画していない。これだけは明確に正しいと言える認識だ、と。そう考えているわけだ。政治家や政治的主張など、所詮はその程度のレベルだと言えば、どんな人たちが怒るのだろう?

なので

そもそも自ら信ずる「政治的価値」を主張するなど幼稚であるし、政治主導などというのは、政治家だけが(自らの都合から) 主張している、とんでもない妄言だ。

この点だけは、自信をもって確信しているのだ、な。

故に、スポーツ大会の運営に政治を持ち込むべきではないし、政治家は政治的発言を一切するべきではない。出場する選手たちも同様にするべきだ。この《分離原則》は対立している両側に公平に適用されるべきである。そう思っている。




2022年11月20日日曜日

断想: トランプ、石原慎太郎、サンデーモーニングについて思う

毎週日曜になるとサンモニを視る習慣がずっと続いている。具体的な点では、流石に感覚の古さに辟易して異論を感じる時が増えているのだが、全体としては(まだなお)大いに気に入っている。

今日は姜尚中氏がコメンテーターとして登場していた。

氏を視ていると、小生がずっと若い時分、昭和もまだ50年代から60年にかけての頃には数多く残っていた《進歩派知識人》を思い出してしまうのだ。現代日本人の間からはとっくに死滅(?)したと思われるその種の人達の佇まいが、韓国系の学者の発言や風貌には濃厚に残っているのを目にするのは、どこか淋しく、寂寥感が胸に迫るのを感じる。

漠然とした言い方だが、同僚などをみていて感じるのだが、韓国人は「変わらない」ところがある。というより、「変わるまい」という気骨が日本人よりは強い芯として通っている。悪く言えば「頑固」で「気難しい」のであるが、フワフワとしたところがない。日本人は、反対に(韓国人に比べると)「変われる」ところが長所かもしれない。変われるというのは、原理・原則がないからなのであるが、利益にならない原理などは空理空論だと割り切れるところが長所と言えば長所である。

韓国を相手にすると「ゴールポストが動く」などとボヤく向きがあるが、それは政府を相手にしているからで、政権交代に伴って政策が左右に激しく振れるのは韓国だけではない。むしろ、変われる日本人が変わろうとしても変われない政権を(意に反して?)保ち続けている方が異様だと小生は思っている。

それはともかく、姜氏が話していた中に

トランプが出てきたのがアメリカの問題なのではなく、アメリカに問題があるからトランプが出てきたのです。

という主旨の指摘があったが、感覚をロジックで包んで語るありようは、その昔の「進歩派知識人」の語り口そのままである。

よくアメリカ社会を分断する問題点として「妊娠中絶」を認めるか、認めないかがとりあげられる。日本人は条件反射的に

妊娠中絶は基本的人権の一つだ

こんな風な結論を条件反射的に出すのだがキリスト教では中絶を容認できる余地はない。普通の人が先祖伝来の宗教感情から完全に卒業するのは難しい。これは「変われない」ところの一例だ。つまり「妊娠中絶」は権利の問題と言うより宗教対立が本質だ。だからこそ「議論」が社会の安定のためには必要だ。「価値観を共有できるか出来ないか」の問題にしてはならない。

日本の「進歩派知識人」が退潮して、エゴを包むことなく露骨に出し始めたのは、やはり石原慎太郎が政界に進出して様々の意見を口にするようになってから以降のことだろうと思う。論敵と論争するのではなく、相手を罵倒したり、ヤジったり、黙らせる手口を敢えてとることで、議論のルールを変えていったところがある。

石原都知事が

尖閣諸島を東京都で買い取る

と正に行動をしかけようとしたタイミングで時の野田内閣は国有化を断行したのである。確かに、日本政府は稚拙な対応をしたものだと今になれば悔やむ人も多いのだろうが、

石原氏のような人物が日本で喝采を得たのが問題なのではなく、日本社会に問題があったから石原氏のような人物が力を持てたのです。

こう言えば、姜氏と同じく、その昔の《進歩派知識人》の語り口に近くなるだろう。

結論には価値観が関係するので姜氏の主張に賛成することは多くはないが、論争するとすれば多分面白い論争が出来そうだという人物類型が、ずっと以前の日本には確かに数多くいたような気がする。

ものいえば くちびる寒し 秋の風

最近の世相が良いと感じる日本人は少ないのではないか。世相を形成するのは、政治家もそうだが、マスコミも関係している。政治とメディアの関係性に問題が生じているという認識は(日本については)正しい(はずだ)。力量が劣化しているというのは簡単だが、これまた

政治とメディアに問題があるから日本社会に問題が生じているのではなく、日本社会に問題があるから、政治とメディアの関係性にも問題が出てきている。

社会現象は、社会のメカニズムとして理解するのが、科学的思考である。そのメカニズムを語れる人は(多分)いま日本の中にはいないのだろうネエ・・・

2022年11月17日木曜日

ホンノ一言: 今7~9月期GDP速報がマイナス成長となった点について

今7~9月期のGDP速報が先日公表され、意外にも(!?)対前期比でマイナス成長となったことが、多くのエコノミストの驚きを誘ったようだ。

実際、ロイターでは次のように報道している。

[東京 15日 ロイター] - 内閣府が15日発表した実質国内総生産(GDP)1次速報によると、2022年7―9月期の成長率は前期比0.3%減、年率換算で1.2%のマイナス成長となった。4四半期ぶりのマイナス。内需に底堅さがみられる一方、対外サービスの一時的な支払いで輸入が増加したことが影響した。

ロイターが民間調査機関18社を対象にまとめた予測中央値は前期比0.3%増、年率換算で1.1%のプラスが見込まれていたが、結果は予想外のマイナスとなった。

GDPの多くを占める個人消費は前期比0.3%増。衣服や外食などが増加した。4四半期連続でプラスとなったが、前期の1.2%に比べて伸び幅は縮小した。

個人消費とともに内需の柱となる企業の設備投資は同1.5%増と、2四半期連続プラス。内閣府によると、半導体製造装置などが増加した。コロナ禍で先送りしていた企業の設備投資はそれなりに多いとされる。

民間住宅投資は0.4%減で5四半期連続マイナス。公共投資は1.2%増で2四半期連続プラスとなた。

輸出は1.9%増、輸入は5.2%増。外需寄与度は0.7%のマイナスとなった。「専門・経営コンサルティングサービス」部門で海外企業に対する広告費用の大口の支払いが7─9月期にあった。輸入の増加は一時的とみられるという。

Source:ロイター、 2022年11月15日9:53

プラス成長を予想していたところがマイナスの前期比成長率になったのだから、それは驚くはず ― ただ、数字そのものを見ると、4乗した年率では▲1.2%だが、生の前期比ではゼロ前後の▲0.3%。ほとんど統計的誤差の範囲ではないかと言われればその通りでもある。

そもそも前にも書いたことがあるが、GDPという統計は先ず暦年値が確報段階でトータルとして確定し、それを補助系列を利用して四半期分割している。速報は確定した数値を補助系列(=支出側データ)で延長した数字だ。故に、季節調整をかけて基調を算定するにしても、四半期分割の不自然が影響するシステムになっている。7~9月期は、加えて、貿易取引上の特殊要因があったとも言われている。輸入は控除項目だから何かの理由で増加するとGDPの下振れ要因になる。

こんな時は(普通は)前年同期比を見るものだが、最近は前年比を参考情報としても言及しないようだ — マア、記者レクでは担当部局が語っているのだろうが、クラブ所属の記者たちが機械的に、分からないながらも「実質季調済前期比」を文章にして送っているのだろう(と憶測される)。

なので、小生は景気動向指数を最近は観るようにしている。こちらは多数の月次データを総合した指標であるから、無理な四半期分割の影響はなく、個々に生じる季節調整の問題も相互に相殺されるので、マアマア、体感にマッチした動きになることが多い。実質GDPと対応するのは景気動向指数の中の一致系列である。

この統計はマスコミはほとんど触れないし、役所が公表する資料は使いづらい。なので、自分でこれに特化した簡単なアプリを作って定期的に確認するようにしている。

Source: https://shigeru-nishiyama.shinyapps.io/getdrawci/

明らかに、7~9月期は4~6月期に比べて景況が改善されている。

マ、こんな調子なので、足元の経済動向を把握するには、昔の定番であったGDP速報(QE)より、今は景気動向指数(CI)の方が使いやすい。そう感じているところだ。


2022年11月16日水曜日

断想: 合理的な生き方は幸福を約束するものではない

先週末、久しぶりに船橋にある両親の墓にカミさんと一緒に墓参りし、そのついでに津田沼で暮らしている若夫婦とちゃんこ鍋を囲んだ。

両国界隈には詳しくないので一目で分かる『霧島』にしたのだが、3年前に昼食をとった時に比べると、今回は大味に流れ、別の店にした方がシッポリとしてよかったかと、やや悔いもある。

いずれにしても下の愚息と話すのも久しぶりだ。この春先から秋までタップリと働かされたようで疲れがたまっている様子でもあった:

小生:仕事は気に入っているのかい?

愚息:まあネ・・・

小生:前にさ、ヒトの人生を左右するかもしれない仕事を、楽しんでやるなんて、そんな姿勢はダメだろと言ったのは覚えているか?

愚息:うん、覚えてるよ。

小生:だけどネ、自分が生まれながらに持っている素質とか、適性とか、才能と仕事の内容がピッタリと合ってると、何と言われようと仕事が楽しいという思いが自然にわいて来るもんだ。これ正に「天職」って奴だな。そんな仕事は他にはないかもしれないよ。大事にするんだな・・・

小生は小役人から出発したが、役所在勤時代を通して、仕事が楽しいと思ったことは一度もなかった。やりがい、達成感、等々、色々とプラスの思いを持つことはできたが、出勤する平日よりは休める週末の方が遥かに楽しかったものだ。役人仕事は小生には向いてなかった証拠である。

亡くなった父は一生を現場のエンジニアとして生きたが、自らの職業人生に満足していたのだろうか、と 思う時がある。

父はあるニュービジネス起ち上げの現場責任者となって事業提携先に出向して、3、4年間は苦闘したのだろうか、もう何年も前に投稿したように、体調を崩して心身を病み、挙句の果てに癌を患って人生を終えることになった。だから、父はビジネス戦士の最前線で討ち死にしたのだと思ってきた。

ただ、最近になってから、父はそのこと自体を悔いるような心情ではなかったかもしれないと思うようになった。

前にも引用したことがあるが、

人生、意気に感ず

功名、誰かまた論ぜん

父は、この初唐の政治家・魏徴の詩「述懐」の最後の一句が大好きだった。また、父の座右の銘は

己信じて直ければ、敵百万人ありとても我ゆかん

という「日蓮」の名句だった。

そういえば、日本史の方向を変えた暴走劇「満州事変」を主導した参謀・石原莞爾は熱心な日蓮宗信徒であったそうだ。大正から昭和初期のある時期、日蓮宗の思想が日本国内で影響力を広めていたのだろう。

ただ、確かに父は「日蓮の・・・」と話していた記憶があるが、どうやら上の句は吉田松陰が発した言葉として広まったらしくもあり、更にその原典を問うと松陰による孟子解題とも言える『講孟箚記』がベースとする孟子であるわけだ。

孟子から日蓮にどうつながっていたかはもう分からない。

どちらにしても、父の、というより父の世代は《行動主義》を信じていた。父が好きだった『人生、意気に感ず』も言葉を変えれば

理屈はどうでもいい!

という意味で、議論よりも行動を賛美する言葉だ。そこには道理とか、理屈が入る余地はない。まさに《志》あるのみ。そもそも幕末に活動したのは「志士」であって、「演説家」ではなかったわけだ。

だからという訳ではないが、父は家庭を顧みない所が濃厚にあった。父の世代の多くの人はそんな価値観をもっていたように思う。第一、そんな父の考え方を肯定している母がそこにはいたのだから、男性が横暴で、女性が抑圧下にあった、という情況でもなかったのだ。

小生は父に比べると、行動ではなく、理に走った人生を歩いて来たように思う。

遺された母や、母も亡くなってから家族だけで過ごしてきた小生の家族や、「守りたいモノ」を意識すると、行動主義ではなく、理性主義をとってしまうのではないだろうか。不合理なことは避けながら、健康には留意しながら、無理は避けながら、安全に無難に仕事と家庭との両立を求めてきた。これが小生の人生の主動機であった。こう総括できる。

頻繁に引用しているように、最も合理的に生きようとすれば、命を大事に、死を怖れ、危ないことからは身を避ける、そんな人生を選ぶものである。

人生、意気に感ず

とは真逆の生き方である。

そして、いま下の愚息に向かいあう時、自分が歩いたような人生をそのまま単純反復はしてほしくない、そんな気持ちを感じている自分がいる。

前にも投稿したように

要するに、死ぬか生きるかになれば、ほとんどの人は生きたいと願う以上、生き延びる方策のほうが正しく、死に急ぐほうは間違いだということになる。だから生き延びたほうが正しかったという理論がつくられ、事後的に死んだ方は間違っていたということになってしまうのだ。それは仕方がないことだが、真の意味でいずれが正しいかということは別にある。

こう考えると、担当した仕事が結果的にうまく行かず、それが一つの原因になって寿命を縮めたからと言って、父は必ずしもそのことで後悔していたわけではない。遺された母も、だから父を恨んでいた、というわけでもない。そう思うようになった。むしろ、「理に適ったこと」ばかりをしようとする小生に言いようのない不満を感じていた。こちらが真相であったのかもしれない。 




2022年11月11日金曜日

ホンノ一言: 法務大臣の突然の失言禍・・・何かの前兆か??

葉梨法相が自民党内のパーティーで「許せない失言」をしたというので大炎上している。

小生個人としては、自民党内の集まりで乱暴な言葉使いをしたからと言って、それを野党議員が問題視するのは、政治家たち自身にとっても自分たちの首を絞めるような行為であろうと、反対に野党議員たちの今後の身の上を心配するという気持ちに近いのだが、マア、言葉だけを聞けば、なるほど法務大臣には向かない人だネエ、と。そんな三流政治家であるのは分かる気がする。

それより懸念される点もある。前に、捜査中の《東京五輪汚職事件》に関連して、こんな投稿をしたことがある。

多分、元皇族である竹田さんだけは絶対に守る、と。高橋氏の首でフランスには納得してもらおうか。

森・元首相にとっての<Dデー>があるのかどうか、巷では色々な噂が飛び交った時期があったが、最近はめっきり聞かなくなった。やはり、安倍派議員を真っ向から敵に回すような政治家逮捕劇は法務・検察当局にも実行困難だと推測される。

それに比較して、竹田・JOC前委員長は旧皇族とはいえ、現在は皇族ではない。民間人である。大した権力は持っていない。マア、<丸腰>である。こちらを逮捕するか、という前兆のようにも感じられる。

ライオンを狙うつもりが余りにも強い。ここは綺麗な大物であるキリンを標的にするか、目的を変更したのか、と ・・・。ただ、皇位継承の危機を脱する切り札として、いま旧・宮家の皇籍復帰が議論されている(最中だと聞く)。それが本決まりになる前に・・・ということかもしれない。色々と思いめぐらすわけである。

となると、心配されるのは法務大臣の《指揮権発動》である。 現法相の舌禍事件を突然のタイミングで社会問題化することで、法務大臣の手足を縛ったか、政治からの干渉に先手を打ったか・・・と。そんな一抹の疑念を感じるのだ、な。

マア、天下の法務・検察官僚がそんな姑息な陰謀をめぐらすはずはあるまい。余りに露骨でミエミエで低級な策略だ。典型的な策略を実行するのは逆に困難なのである。なので、逆説的な理由から、こんな筋書きはないな、と思うわけである。

が、翻って考えると、こんな風に陰謀の可能性を憶測されるところが、アメリカのFBIとは異なって、どうも明朗でも剛直でもない、そんな組織的な弱みが日本の法務・検察当局にはある、ということかもしれない。


2022年11月8日火曜日

ホンノ一言: 「J‐アラート」をめぐる世間の(メディアの?)空騒ぎについて

先日、J‐アラートが(事後的に)誤報を出し、後で修正したというのが、メディアでは結構な素材になると意識されているらしく、予想外に盛り上がっているように見える。

「警報がなったからといって、私たちには何が出来るのでしょうか?」とか、「日本人には危機感がないと思います」とか、マアとにかく、色々な人たちが色々と思いつくことを発言している。

ただ、少しだけでも考えてみたらいいと思う。北朝鮮かもしれないが、あるいはその他の敵国から日本に向けて本当に弾頭付きのミサイル(弾頭を搭載していればもはやロケットではなくミサイルだ)が発射されたと仮定する。

当然、J‐アラートが出るだろう。

迎撃に成功すれば日本領土内には着弾しない。失敗すれば、どこかに着弾して犠牲が出る可能性が高い。

一つ言えることがある。

迎撃成功にせよ、失敗にせよ、ミサイルがこの1発のみであるなら、ほぼ確実にこの事態は何らかのアクシデントであると小生は思う。故に、不慮の、かつ不幸なアクシデントについて、発射国との間でどんな外交を進めるのかが問題になる。防衛省ではなく外務省の仕事になるはずだが、何かシミュレーションはしているのだろうか。これが問われるべき問題だ。そんな時、J‐アラートは機能したのかどうかという問題が、何をさておいても最重要な問題になるだろうか?

次に、アクシデントではなく、文字通りの戦争行為として日本にミサイルを発射したのだとしよう。その場合は、ミサイルは1発だけではないはずだ。数多くのミサイルが複数の国内都市を目標として発射されるはずだ。数10発のミサイルが短く考えても1週間ないし2週間の間は高い頻度で発射され続けるはずだ。平和な状況で設計した「J‐アラート」が本当の戦争状態の中で機能するのだろうか?本当にこんな戦争事態になれば、役に立たないと思うのだが、どうだろう?こんなケースで話すべき事は、日本は反撃するのか?どう反撃するのか?日本の交戦権についてどう認識するのか?現行憲法を停止するのか?こんな問いかけになるに違いない。

要するに、メディアが面白がって(?)話している「J‐アラート」という話題は、何だか極めて恥ずかしいレベルに感じてしまうのだ、な。

呑気も度を超せば不真面目になる。国防上の事柄を公共の電波を使って不真面目に語るべきではないだろう。

そもそもこの半年余りの間、戦争状態の中の一般住民のありようは、ウクライナ報道を通してほぼ全ての日本人に向けて、《視覚化》されて来ている。戦争の現実を丸ごとではないにしろ、平和な日本人に堪えられる範囲内で、映像は何度も放送されているし、ネットで動画を見ることもできる。ミサイルが着弾した大きな穴も、建築物に命中した際の破壊の度合い、壊された外観も見た人は多いはずだ。

そうした中でも、ロシア軍のミサイル攻撃が毎日続いている中で、ウクライナの首都・キエフや大都市・ハリコフの住民は、買い物に出かけたり、近隣を自転車で走行したりしている。外国人特派員によるインタビューに応えていると、近くにミサイルが轟音と共に着弾して、首をすくめたりしている。もちろん恐怖はあるのだろうが、生きていくには食事も必要だ。そんな「戦時の市民生活」の風景が淡々と流されていたのを多くの人はまだ覚えているはずだ。他国との戦争が始まってミサイル攻撃を受ければ受ければで、あれが日常となるのである。そんな日常化した毎日の中で役に立つJ‐アラートこそ(あるとしたら)あるべき「警戒警報」というものだろう。

確かに不幸である。しかし、ヒトは環境に順応する。ウクライナの人が順応したように、万が一、日本国内で戦争状態が現実になったとしても、日本人は順応するだろう。

ほろび行く 国の日永や 藤の花

戦いに 国おとろえて 牡丹かな

終戦後の昭和21年5月、永井荷風が詠じた俳句である。平和を守ることが鉄則である。しかし、戦時には戦時に日本人は順応する。敗戦の中でも人は俳句を作るのだ。J‐アラートのあるべき姿がどれほど大事な問題か。正直なところ、

今はあんまり関心ねえなあ

こんなところだ。敗戦直後の日本には強烈な敗北感、喪失感が蔓延していたであろう。しかし、小生の両親は20代前半をそんな「戦犯国」で過ごしながら、その当時のことを思い出したくもない過去の時代として記憶していた様子でもなかった。思い出話しを聴いた限りでは、役にも立たない「空襲警報」に振り回され続けた毎日がこれで終わったという安堵感のほうが、より強く心に残ったのかもしれない。

上の荷風の句は、詩的心象の表現というより、

それでも人生は続いた

こんな当たり前である事実をそのまま写生したものとして読む方がよい。

そんな、こんなで(地震速報と類似の政府サービスの意図なのだろうが)「J‐アラート」を話題にしても、「お疲れさん」という程度のことで、どうもサッパリ入っていけない自分がいたりするわけだ。


北朝鮮がミサイルを発射しようが何だろうが、

日本は平和である

平和を大前提とする。故に、飛んで来たミサイルは平和な日本への闖入者である、こう認識する。戦争手段であるミサイル攻撃にどう対応すればよいのかではなく、アラートをどう流せばよいかを考える。こんな問いに頭を使う。アラートの次のことは考えない。実に呑気で、矛盾に満ちているではないか。これまた《平和ボケ》の典型だと思う。


結局のところ、<戦争状態=交戦状態>を前提することが理屈として出来ないところが現行憲法の本質的欠陥であると思うのだが、この問題はもう国会で解決済みなのだろうか?どう解決しているのだろう?日本は他国と交戦できる、自衛戦争なら普通に戦争が出来るという解釈で決着しているのだろうか?そうは思っていない日本人は多いと思うのだが。

J‐アラートを話すなら、こちらの問題の方が遥かに大事だと思うのだが、いかに?


【加筆】2022‐11‐10

2022年11月7日月曜日

断想:「国内派」、「国際派」は昔から対立するものだが・・・

夢の内容を書き留めるのはバカバカしい。が、昨晩の大河ドラマでは源実朝が夢日記のことを語っていたし、というか、古来、世紀の難問を解決した証明や大発見など、夢がヒントになった例は数えきれない。湯川秀樹が昭和24年にノーベル物理学賞を受賞したが、その時に評価された中間子理論も夢がきっかけであったと伝えられている。研究業績などさして誇れるものを持っていない小生であるが、それでも夢の中で証明を思いついたり、新しいプランを着想したりした経験は多く、いい夢をみると、忘れないうちにメモしておいたものである。

今朝、起きる前に見ていた夢も、大した内容ではないが、面白いやりとりであった。誰かと雑談をしていた(ように思う):

友人:「戦略」という言葉は嫌いだな。なんだか右往左往しているイメージしか伝わってこないからネ。

小生:最近10年かその位かなあ、戦略、戦略と言い出したのは。

友人:普通に「政策」と言えばいいんだヨ。ロクな「政策」を決められないから、「戦略」などと言って、政策以上のことをしようとしている印象を作りたいんだろう・・・「戦略」、即ちアリバイ造りだな。素直に「こうしたい」って、簡単直截に、言えばいいのにね。戦略よりは目的が本質だろ?

小生:戦略的な政策形成ってことなら、先ずは《国際外交戦略》ってことになるのが、今の世間の常識だろう?

友人:浅はかだよナア・・・全く!憂慮に堪えんとはこのことさ。

小生:何だか老人のボヤキだな(笑)。じゃあ、何が最重要なんだ?

友人:自分が暮らしている社会を「国」として意識するなら、先ず《人口政策》がある。人口政策を前提にして《経済政策》がある、その上に《社会政策》その他の《国内政策》があって、これらの国内政策を実現していくための《外交政策》が決まる。これ以外の理屈があるかい?この理屈は、日本だけじゃあなくて、ドイツやフランス、韓国やベトナム、アメリカや中国といった超大国にも言えると思うけどな。

小生:なるほど・・・、つまり、人口を増やしていくのか、減らしていくのか、平均寿命をどう予測するか、出生率・死亡率をどう見込むか、先ずこれからスタートするわけだな?で、見通された人口が、食っていくためには、何をすればいいか?食料をどう供給するか?労働生産性をどの位に見込むか?食料を輸入するなら、どの位、輸入するのか?外貨は調達できるのか?どんな産業にどのように国内資源を充てていくか?そんな経済政策が必要だ。経済政策が前提になって、教育、科学振興、文化が来る。それで日本の未来社会が展望されてくるから、最後にその理想をどう実現するかを考える。そのための外交をどう進めるのかを考える・・・そう言いたいわけだな?

友人:マ、そういうことサ。こんな原理原則は『三国史』の時代から変わらないヨ。ところが、いまはどうなんだ?まず「外交」が来ているじゃないか。阿呆らしい。対アメリカ外交をどうするか、対中外交をどうするかで、残りの政策を決めているみたいだ。決まった外交を続けるために日本国内で何をするかを決める。そんな順序になっているとしか見えないネエ。アタフタ感、オロオロ感、漂流観があるのはそのためサ。《逆転の発想》は大事だけれど、そんな洒落たものじゃあない。とにかく「外交ありき」だ。じゃあ日本の外交の目的とは何だ?問題を起さない。アメリカにとってプラスの事をする。「価値観の共有」とは言いえて妙だよ。俺にはそうとしか見えないがネエ・・・

ここで、どう言えばいいのかを考えている内に、目が覚めた。ただ、夢の中の正体不明の友人が最後に言った次の台詞

友人:だから、今のロシア=ウクライナ戦争でドイツが苦難に陥ってるけど、ドイツのこれまでの外交方針は間違ってはいなかった。ドイツが今度の紛争にどう対応しようと考えていたか。それも誤りではなかった。そう思ってるヨ。ドイツをここまで追い詰めたのは、ドイツに対するイギリスの「永年の嫉妬」っていう奴さ・・・。ジョンソン首相も辞任したから、これから流れは変わると思うけどネ。

夢とは言え自分が考えているわけだから、なんだか気になっていて前にも一度投稿したことが、何カ月もたったあとで胸の奥からまた表面に浮かび上がってきたということかもしれない。


確かに家族が幸福に暮らすなら、家族のことを真っ先に考えなければならない。隣人との良好な関係は家族が幸福に暮らすためのツールで、隣人と良い関係を続けること自体が目的ではない。隣人関係を守るために家族が大事な事で我慢をするのは本末転倒である。

マ、それはそうなのだが、それにしても何を考えて、こんな夢を見るに至ったか、その理由がよく分からない。


2022年11月3日木曜日

断想: 「無法な民主主義」、「無能な民主主義」、「呑気な民主主義」、他にも色々とありそうで・・・

北朝鮮が多数発の「ミサイル発射実験」を繰り返している ― 弾頭のないミサイルはミサイルではなくロケットだという人もいて、「ミサイル実験」ではなく、「ロケット実験」というのが正しい、と。確かにそれが正論ではあるが、ミサイルという言葉をここでも使うことにしよう。

今朝も東北地方の一部では<J‐アラート>が鳴ったという報道だ。

ただ鳴るには鳴ったが、ミサイルは日本列島越えで太平洋には達せず、日本海上空でどうやら消失したということだ。多分、発射失敗で爆発したのではないか等々と自衛隊OBがTV画面の中で説明していた。

一度は日本列島越しに太平洋に達すると軌道予測しながら、消失したと修正した点が、ワイドショーのMCには気になるらしく、なぜ修正するに至ったかという点を細かく追及していたのは、

話しは細かく、中身は薄く

の典型であった。文字として出来栄えがずっと残る新聞とは異なり、時間内に尺を埋めればよい電波メディアには、こんな作り方でお茶を濁すことも出来るのだろう。

(多分)発射失敗ではないかと思われます。

との自衛隊OBの憶測に対して

まさか

なぜ失敗したのでしょうか?

なんて、ワイドショーのMC、聞かないヨナと、ちょっと心配になりました。

打ち上げているのは北朝鮮で日本ではありませんから、詳しいことは北朝鮮政府に聞いてください。

と、まあそんな回答になるしかないが、実際にこんなやりとりを聴いてみたくもあったネエ・・・。


ある人は、

日本領土に損害が及ぶ可能性があるときは迎撃、破壊するのでしょうが、それでも着弾してしまった場合の行動マニュアルはあるのでしょうか?

と質問していた ― 憲法上、そんなマニュアルの作成は「交戦権」を認めることにもなりかねず、作成不可能が理屈だと思われるが。もし破壊した時に、国内に飛散するミサイル破片が民家の屋根を壊してしまった際には、政府は損害賠償するのだろうか。そんな「皆さんからの質問」もテレビ画面の中でいかにも出てきそうである。

あるいは

飽和攻撃を受けた場合にはどうするのでしょう?

と疑問を提出している人もいるようだが、それを言うなら、北海道利尻島にロシアの上陸部隊が奇襲してきた場合はどう反撃するのかと聞いてほしいところだ。5千人弱の島民を人質に取った露軍を駆逐するために、人命の犠牲は一定程度覚悟して、自衛隊が空爆をするか、強攻上陸するかして反撃するのだろうか?するなら早ければ早いほど効果的だが出来るのだろうか?イヤ、質問してほしかったネエ・・・


どうも全体として俯瞰すると、北朝鮮がミサイルを発射した時の日本国内の反応振りは、いかにも一昔もふた昔も前に団地の奥さん達で盛り上がっていた「井戸端会議」を思い出させるものであった。

民主主義といえば民主主義ではあるが、あまり役に立つ民主主義ではない、実益はほとんどないおしゃべりに堕している印象だが、番組編成側はどんな考え方でシナリオを作っているのだろう。


いずれにしても、アメリカでバイデン政権となり、韓国で尹政権に代わってからは、北朝鮮の姿勢は一変したかに観える。

小生: ト大統領ならこんな風な状態にはならなかったんじゃないかネエ・・・

カミさん: そうかなあ・・・

小生: マ、「無法」なところはあるけど、「結果」は出せる所があったからネ。

カミさん: いまのバイデンさんはどうなの?

小生: う~ん、結果は出せてないんじゃない?観方によるけどね。印象は悪いナア。コロナ対策はしっかりやったって言う人が多いようだけど、アフガニスタン撤退と、ロシア=ウクライナ紛争への対応振りはどうかネエ?世界経済はもうメチャクチャだからなあ、トランプさんなら戦争は食い止めたって言う人は多いみたいだよ。落としどころを探すには性格が向いているかもしれないね。

カミさん: それにしてもウクライナの人、頑張るね。

小生: 頑張っている間は絶対応援するって、バイデンさん、言ってるからね。イイ人なんだろうな。ま、<無法>と<無能>の違いってことかネエ・・・

今朝もカミさんとこんな話をした。そのバイデン政権も中間選挙の結果によっては手足を縛られそうだ。ト大統領は<ロシア疑惑>で足元が揺らいだが、今後はバ大統領が<ウクライナ疑惑>で追求される可能性も高まって来そうな塩梅だ。

今年の3月時点で「ウクライナ戦争」に思う所を書いておいたが、いま改めて読み返すと、ますます最初の感覚が当たっている、そう思う今である。

要するに、政治の失敗の責任をとるべきところが、開き直って「正義の戦い」を外に拡大している

こういう事でしょう、と小生には思われる。つまりは、プーチン大統領、バイデン大統領、お二人とも次の選挙のことが心配なのである。

これが物事の本質だろう。

この三流政治家が、お前たちが考えていることは全部マルっとお見通しだ!

と、言いたいところだネエ。

2022年11月1日火曜日

ホンノ一言: 主要国のビジネス心理と消費者心理について

 《国民心理》というのは、政治家やエコノミストにとっては切実だが、非常にとらえどころのないモノである。

メディア、例えば新聞報道やTVのワイドショーの話しぶりに国民心理は表れるものだと言う向きもあるが、だからと言って真面目に聞いていると、細かい話をしている割にはデータの裏付けもなく、的外れでバカバカしい説明があったりする。

この数日間めっきり目立つ「国民心理」に

とにかく物価を下げてほしい。インフレを何とかしてほしい。

というのがある。気持ちはとてもよく分かる。が、ここで

やっぱりデフレの方が価格が下がるからイイでしょう?

と聞くと、多分、

デフレだと賃金が上がりませんよね。それは困るって言ってるでしょ!

と、逆に叱られたりするンだろうなあ、と。そう思ったりするわけだ。

まったく理屈の通らない不満、というかフラストレーションを抱えているのが現状だと思う。一口にいえば

どうすればいいんダヨ。泣きたい毎日だよ。

と、ある意味、足元の国民心理を表現すると、こんなところではないだろうか。

しかし、経済の現実から言えば、二桁インフレ率が進行中のイギリスなどの方が、よほど厳しい生活を余儀なくされているし、今冬は何とか過ごせそうだが次の冬を予想すると、これまでの経済モデルが完全に破綻したドイツは文字通り<お先真っ暗>である。何しろBBCの報道にあるとおり

イギリスのエネルギー規制当局は26日、家庭の電気・ガス料金の上限について、80%の引き上げを発表した。国内の専門家や慈善団体は、人命が危険にさらされる恐れもあると警告している。

Source:  BBC、 2022年8月29日

これは8月末時点だが

  イギリスでも値上がりが続き、10月から電気・ガス料金が80%値上げされた。在住日本人女性は「すべての物が高騰したので節約のしようがない」と話す。1カ月の電気料金は192ポンド(3万1000円ほど)で、東電のモデル価格の3倍という。セントラルヒーティングを切り、家の中でコートを着て、1階にあった仕事場を日当たりのよい2階にうつした。

URL: https://www.j-cast.com/tv/2022/10/13447937.html?p=all

Source:  JCASTテレビウォッチ、 2022年10月13日11時54分

これは10月13日時点。 

ヨーロッパでは人命の危険すら云々されている経済危機が進行中なのである。それに比べると・・・という目線は絶対に必要な意識だと思う。

確かに円安で日本国丸ごとのバーゲンセール状態になっているのは苛立たしい。インフレの原因の一つでもある。円安を放置している日銀には怒りを感じるだろう。

とはいえ、国内の生産活動を拡大し、海外に安売りすれば利益は出る。日本人には馴染みの深い《輸出立国》である。競合品は入って来づらくなるので、安い輸入品による値下げ圧力は弱まる。長い目で見れば決して悪い話ではない

 ― マア、昭和の昔に逆戻りするようで「日本人のプライド」は傷つくだろうが、翻って考えると、いわゆる「経済大国日本」を造り上げたのは、終戦後に大学を卒業した「戦後第1世代」、今では80台後半から90代の年齢層に差し掛かっている人たちで、彼らこそ真の意味での「経済戦士」、「往年の勇者」、「敬うべき老兵たち」なのである。

その後に続いた世代は、(小生も含めて)何の発展も成し遂げられなかった「不肖の世代」である。結局、今になってみると「外国の後追い」から脱することが出来ず、かつ革新を起せず、新しいモノを産み出せず、(要するに)遅れてしまった。いま、世界第一の公的債務を積み上げ、ロクな政治をしていないにも関わらず、日本に余裕が残っているのは昔のツワモノ達が形成した莫大な資産が残っているからだ。小生が属する世代は、親が建てた旧くて雨漏りがし始めた屋敷に住み、親が築いた会社で名ばかりの取締役をしながら、会社の将来には何の貢献もできないまま、それでも不平を呟きながら、苛々と毎日を過ごしている馬鹿な子供達のようなものである。だから、そもそもプライドなどは持てる資格がない、というのが小生の感覚である。

プライドを持てる根拠は実績のみ。先祖の実績ではない。自分自身の実績である。

これは時代を問わず、国を問わず、当てはまる鉄則ではないだろうか。

OECDはBusiness Confidence Index(BCI:日本語でいえば「企業マインド指数」に語感が近いだろうか)とConsumer Confidence Index(CCI≒消費者マインド指数)を毎月公表している。

そこで主要国の最近の両者の動きをみると、BCIの方は



このように特にイギリスの急激な悪化が目立っている。が、全体として観ると、主要国のビジネス心理は概ねシンクロしながら変化してきていることが分かる。レベル差をみた場合、日本企業よりは苦難に陥っているドイツ企業のほうが寧ろ高めに出ている点は大いに疑問なのではあるが、これも日本企業の《慢性悲観症》の表れだと解釈すれば、情けないながらも『そうかもしれないネエ』ということかもしれない・・・。

上図は企業マインドである。下図は消費者マインドの動きだ。


これまた英国民の極端な悪化が目立っている ― マ、当たり前だと言える。足元の消費者心理は、極端に悪い英国民とその他の国民、という風に二極化しているのが現状だ。ただ、全体としてみると、マクロ経済の動きに従って主要国の間で概ねシンクロしながら変化している企業マインドに比較すると、消費者マインドの方は各国マチマチの変動パターンを示している。この事実は、国民心理なるものは客観的な経済指標に沿って変動しているというよりは、国ごとの国情や政治的安定性など数字以外の国ごとの違いが国民心理に強く影響している。そう考えることができそうだ。

面白いのは、日本の消費者マインドが足元で悪化しているのは各国と共通だが、悪化の度合いが小さくて済んでいる。もともと日本の消費者心理は外国に比べると「低調」だったのだが、更に大きく悪化しているわけではない。これは、今のところ「ウクライナ戦争」や「世界的インフレ」の影響から日本は相当程度免れて海外よりは平穏な毎日を送れているという事の表れだろう。テレビなどではイギリスが大変だと叫んでいるが、逆に日本社会の「相対的安定性」を確認して一先ず安心している、そんな国民像が浮かんでくる・・・。


それでも日本人はフラストレーションを抱えている(ように見える)。それはもう足元の経済動向を超える根底的な背景があるからだ。たとえば<日本病>でブログ内検索をかければ幾つもかかってくるように、日本の経済、社会が「日本病」に罹っているという意識も持たされず、率直にその事実を(日本語で)指摘してくれる経済専門家にも恵まれず、ただ何とか頑張ってほしいとのみ言われ続け、先行き望みがないという不安をのみ感じさせられている。こんな日本人の不幸はどこか前にもあったようで、デジャブ感を催させるものではないか。