2022年12月31日土曜日

感想: 最悪の一年の大晦日を迎えて

今年は本当に「最悪の一年」だった。「コロナ禍、いまだ終わらず」に加えて、ロシアがしないでもすんだはずの戦争を友邦であるはずのウクライナを相手に始めたかと思えば、アメリカ(といわゆる西側陣営)もしないですんだはずの経済制裁に踏み切って、世界はインフレになった。金利は急上昇し、年明け後は景気後退が本格化、生活水準は低下するだろう。阿呆な我慢比べをして、多くの人命を犠牲にし続けている。これに中国のコロナ規制撤廃による感染大爆発が新たに加われば世界は大混乱である。

What silly guys! You stupid!!

為政者になるべきではない三流の人物が為政者として権限をふるっている。

これを「悲劇」と言わずして何と呼ぶか。いやあまりにテンポの速い悲劇は喜劇に変ずるというから、後の歴史家は<戦争喜劇>とでも呼ぶかもしれない。そんな状況でもなお、西側陣営はロシアを「戦争犯罪国」などと呼んでいる。おのれは無罪と言いたいのだろうが、今から「アリバイ」を気にしてどういうつもりかと呆れ果てる。

"Black! Black!! The Blackest Year!!! Get out, you, get out!!!!". まあ大部分の人にとってはこんな感想ではないだろうか ― 話題に困らなかったマスコミ業界はホクホクだったかもしれないが・・・、イヤイヤ、これは嫌味が過ぎた。申し訳ござらぬ。

先日の投稿にも書いたが、

株価は今年の春以降ずいぶん下がった。今年は寅年で「千里をかける」はずだったのだが、どうやら下り坂を疾風のように駆け下ったのが「虎は千里を走る」の意味であったようだ。

大体、《戦争とインフレ》は、古来、典型的な経済問題のワンペアである。これに財政破綻が加わると《悪魔のトライアングル 》になる。案外、日本辺りはまったく意識せずして、こんな状況に近づきつつあるのかも・・・イヤイヤ、日本は憲法9条で戦争行為は禁止しているので、そうなる理屈はない(はずだ)。


とはいえ、ともかくも

真っ白に 降りつもりたる 雪をかく

     ひとの声して としは過ぎゆく

尺雪や むかし思うて 朝寝坊

神棚と 仏ゆかしき 小つごもり 

この街に住んでもう永い年月が過ぎた。北海道に移住してきた時から歳も大分とった。来た当座は、昼まで家族連れで近くのスキー場で一滑りしてから、昼食を自宅でとり、午後の講義に合わせて登校し、授業後はまたPCを叩いて研究に没頭した。まるで<馬車馬>のようであった。いまは「やれ」と言われてもお断りだ。


下らないおのれの主義や主張を強弁する三流政治家を早く"Kick Out"して、和平と経済再生を成し遂げられる人物に登壇してほしいものだ。中国の習さん、世界中の期待を集めていたが、どうやら馬脚が見えちまったようだネエ・・・そして、誰もいなくなったか。情けない大晦日にござります。


2022年12月30日金曜日

断想: 「運命論」と「責任論」

 技術進歩や経済成長の加速・減速についても「人為的コントロールは不可能であり、なるべくしてなるもの」と考える「運命論」の観方があるくらいだ。歴史全体がどのように進んでいくかなど、一介の政治家や国民が望みどおりに決められるものではないという観方があって当然だろう。歴史はHow-Toで割り切れるものではない。「運命論」がなくならないのは正に当たり前である。

もし世界を運命論的に解釈するなら、人間社会のあらゆる結果は歴史の必然によるもの、個々人の立場に立てば「業(ごう)」が然らしめたもの、という観方になるので、当事者個々人に結果の責任を負わせるという思考にはなるはずがないわけだ。全ては「神のはからい」となり、人間に大事な行為は「責めること」ではなく、「許すこと」になる。日本の鎌倉仏教を開いた一人である親鸞が『善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや』と言ったのは、悪行を重ねる業(ごう)を負った悪人こそ憐れむべきであり、救済されるべきであるという主旨であり、この意味で「他力本願」の思想は「運命論」に分類される。

ずっと昔から《戦争》は戦われるべくして起きる避けがたい悲劇である、そう観られていたものだ。というより、すべて《悲劇》というのはそんなものである。誰でも悲劇の主人公にはなりたくはない。それでも悲劇が起きてしまうのは、それが避けがたいからであろう。戦争が人類にとって悲劇であるとすれば、やはり当事者には避けがたいからであるに違いない。実に、人間社会の行く末は神のみぞ知る。人智を超えた超越的存在を信じる立場に身を置けば、どうしてもこんな世界観になるはずだ。

もう何年も前になるが東京に住む一人の叔父が

〇〇君、本当に何事も思う通りにはいかないものだネエ・・・

と電話の向こうで話していたが、これが人の生きるこの世界の本質ではないだろうか?


正反対の世界観もある。例えば、中国の儒学は『怪力乱神を語らず』を鉄則にしている。理屈で説明できない現象、人間の普通の頭で理解できない存在は相手にしない。そんな世界観である。人間の感覚でとらえられない存在を否定するのは、自然科学が発展する中でにわかに18世紀・西欧で影響力をました《啓蒙主義》とも似通っていて、どちらも人間中心のヒューマニズムにつながる見方である。

啓蒙的な世界観に立てば、人間世界のことは人間本位で決めるべき事になる。真理や善悪の判別、何が美しいか醜いかといった「守るべき価値」も神が定めた規範というより人間が生み出すもの、人間が決めるものというロジックになる。

その果てに科学的社会主義が誕生し、毎日の生活や富の分配も自然に任せるのではなく、人間が最良の形で計画すれば理想的な社会を築くことが出来る、と。そんな思考にまで発展していくのは、啓蒙主義的に世界を考えているからである。

この啓蒙主義的世界観、これに加えて超越的存在に否定的な儒教的世界観もそうだが、その時に生きて活動している人間を中心に社会の出来事を観るが故に、戦争は必然的に発生したものではなく、誰かが主体的に選択した人間の行為であると解釈することになる。更に、全て社会的な現象は避けがたい結果ではなく、賢明な政策によって改善されうるものである、と。こんな風に思考することになる。そして、こんな世界観によれば、戦争には「戦犯」が必ず存在することになり、その戦犯が戦争を決意したと解釈するのであり、ロジックとしては戦争犯罪の認定から刑罰の確定、こんな手順に沿うべきである、と。マア、こういう《責任論》が盛んに論じられるという帰結になるわけだ。


少なくとも現代世界で支配的な世界観は、17世紀以降の西欧市民革命の精神をそのまま継承するような、科学と理性に信頼を置く啓蒙主義の潮流にあるのだろうと思っているのだが、実はこう考える立場は一方の極端を占めるもので、正反対の世界観から出発して物事を判断している人たちは、今でも現代世界において予想以上に多くいるのではないか。そう思うのだ、な。

多くの人たちがもっている思考や価値を下らないものとして軽視するのは傲慢というものだ。


《人類の知》は、(バートランド・ラッセルが整理したように)科学の反対側に宗教があり、両者を介在するポジションに哲学がある。西欧と北米では(あるいは日本も?)啓蒙的な思想が濃厚であるが、その基盤には科学がある。科学はなるほど人類に《豊かな社会》をもたらしてきた。厳しい肉体労働から人間を解放し、長寿社会をもたらした。しかし、長寿は必ずしも幸福を約束しないだろう。科学は必ずしも《幸福》をもたらすわけではない。

人類社会に最も重要な価値は《豊かさ》というより《幸福》であるのは自明だと思っている。

いま、ロシア=ウクライナ戦争をめぐって、ロシアの「戦争犯罪」を追及する欧米の姿勢がよく伝えられているが、これまた極端な観点に立った見方だと小生は考えているし、これが極端な見方であることを意識しないことはもっと恐ろしい、というのは最初から本ブログにも投稿している観点でもあるのでこれ以上書く必要はない。

2022年12月29日木曜日

メモ: 景気先行き警戒高まる? そんなことは前から分かっていたことだ

 日経にアンケート調査結果が載っていた:

アンケートは国内主要企業の社長(会長などを含む)を対象にほぼ3カ月に1回実施。今回は12月2~16日に行い、145社から回答を得た。

世界景気の現状認識は「悪化」「緩やかに悪化」の合計が36.5%と9月の前回調査(31.1%)から約5ポイント増えた。一方「拡大」「緩やかに拡大」の合計は11.7%で同約4ポイント減った。

Source:2022年12月28日 0:00 (2022年12月28日 5:46更新)

世界景気が「悪化するだろう」、あるいは「悪化している」というのは(多くの人が知っているはずの?)当たり前の事実で、この程度のことは経済データをフォローしていれば、ずっと前から明瞭になっていた。

例えば、OECDが毎月公表しているLeadding Economic Indicatorを各国別にみると下図のようになっている:

URL:https://shigeru-nishiyama.shinyapps.io/get_draw_oecd_lei/

図は、OECDが公表している先行指数から英米独仏日の5か国についてプロットしたものだ。

これをみると、昨年秋をピークにして先行指数は各国共通で下降している。データは先行性をもつから、半年ないし1年以内の景気悪化の可能性を告げている。本年2月に始まった「ウクライナ戦争」と経済制裁による混乱は経済状況悪化をより酷いものにしたにすぎない。

2022年の年末にさしかって「世界景気は現に悪化してきた」と経営者が判断しているのは、既に予見されていたことであり、驚くには当たらない。

ただ、図の中で日本だけは景気悪化の度合いが緩やかである。もちろんこれは本年春以降に急速に進んだ《円安》のプラス効果によるものだ。

米・FRBは《インフレとの戦い》を止めないと明言している。

いい加減にしないとドン・キホーテの対インフレ戦争版になりますゼ

と。そろそろこんなことを言われ始めているようだ。

経済政策にも確固たる戦略と、その戦略の最終目的は何かという理念が大切ということだ。

2022年12月25日日曜日

断想: ずっとある変わらない問題といま流行している問題と

ちょうど100年前になる1922年の日本を『現代日本経済史年表』で確かめてみると、2月6日にワシントン条約が調印されている。

第一次世界大戦後の国際外交関係を方向付けたいわゆる《ワシントン体制》は、ここから始まるのだが、主たる潮流は《軍縮》であった。特に海軍軍縮は各国の財政再建にもつながる最重要な国際的課題だった。国際連盟の常任理事国となった日本が「協調外交」を進めたのもこの「ワシントン体制」の枠組みを尊重したからだ。ただ、ワシントン条約の影響で日本国内の造船業は大打撃を蒙ることになり、上の『年表』にも「造船業界、海軍軍縮により大打撃を受ける。以後1932年まで不況』と説明が付記されている。また、英米に比べて相対的劣位を強いられるようになった帝国海軍に不満を残した点も後々の火種になった。その意味では、1922年という年は日本の針路を決める歴史的分岐点でもあったのだ。

その5日前の2月1日には明治初めから一貫して「帝国日本」のあり方を設計してきた山縣有朋が死去している。また前年、1921年11月4日には明治末期から大正にかけて日本の政治を主導した政友会の原敬首相が東京駅頭で暗殺されている ― 本年7月の安倍晋三元首相の暗殺事件といい、この辺り何だか非常に重要な歴史的分岐点にさしかかるタイミングで、悲劇的な暗殺事件によって中心的政治家を失うという日本の悲運を感じる。原といい、山縣といい、日本国の針路を決める船長を失い、その1ランク下の部下が指導者になって、難しい時代を漂流するように進む感覚がそのまま昭和時代にまで受け継がれていったのかもしれない。

1922年7月15日には「日本共産党」が結成され、それに対抗したのかもしれないが、8月1日には「日本経済連盟」が設立されている。「ブルジョア vs プロレタリアート」、つまり「財界と左翼」というべき、今に至る左右対立構造がちょうど100年前の日本で視覚化され、庶民の目にも明らかになったわけだ。いわゆる《大正デモクラシー》を象徴する出来事である。

そして、1922年の翌年、1923年は関東大震災が首都を襲った年である。明治維新で戦火を免れた東京の街は焼亡し、時代は明治・大正から昭和へと一気に変容する区切りとなった。

前の投稿で江藤淳『漱石とその時代』から一つ引用したのだが、パラパラとページをめくると興味を魅かれた箇所には傍線を引いていて、どことなく自分史を振り返るような思いがする。

そんな中で忘れていた一か所(―句読点、送り仮名など、適宜、書き換えている):

国運の進歩の財源にあるは申すまでもこれなく候へば、お申し越しの如く、財政整理と外国貿易とは目下の急務と存じ候(そうろう)。同時に、国運の進歩は、この財源をいかに使用するかに帰着致し候。

ただ己のみを考ふる数多の人間に万金を与へ候とも、ただ財産の不平均より国歩の艱難を生ずる虞(おそれ)あるのみと存じ候。

欧州今日文明の失敗は、明らかに貧富の懸隔甚だしきに基因致し候。この不平均は幾多有為の人材を年々餓死せしめ、凍死せしめ、もしくは無教育に終わらしめ、却って平凡なる金持ちをして愚なる主張を実行せしめる傾きなくやと存じ候。

明治35年3月15日付け、岳父・中根重一宛ての書簡でこう書いている。西暦なら1902年。日英同盟が締結された年にあたる。

この時代、大蔵省でも内務省勤務でもない一介の英文学専攻の研究者である夏目金之助(漱石)が、この専攻、この年齢で、財政整理(=財政健全化)と外国貿易(=おそらく外貨蓄積を指す)とが国家運営の勘所であることを理解し、限られた財源から毎年の歳出をどうするかが最重要だと認識できているのは驚きだ。やはり(同時代の人には周知のことだったろうが)漱石なる人物は単なる「小説作家」とは言えない。

「財産の不平均」は、所得・資産分配の不平等を指しており、この分配不平等が生活困窮、教育の遅れなどを通じて、高級な問題を担当するべき有能な人材の枯渇をもたらし、結果として富裕階層出身の平凡な子弟が大事な仕事を担当する。そういうシステムが社会に定着してしまう……こんなことまで指摘している ― 本当にこのような因果関係があったのかどうかはデータに基づいたキチンとした実証的検証が必要だが、その可能性を指摘できているのは単なる英文学者には出来ない話だ。それにしても

結局、日本社会の問題というのは、明治の昔から、というより江戸の昔から変わらないんだネエ

と改めて確かめられる次第。それと、夏目金之助は、小説作家・漱石というよりは、海外事情にも通じた有識者・夏目金之助であった、ということだ。

そんな夏目漱石であっても、「ジェンダーフリー」という言葉や「LGBTQ」などという言葉は、現実にあった人間の行為はともかく、こんな単語を目にすることはなかったに違いない。

その逆にあたるが、明治の人・漱石が現代日本人は聞いたことがないような明治という時代に特有の感覚で言葉を尽くすことは多かった。例えば、現代日本では消滅してしまった「家」の濃密さやその面倒臭さなどはその好例だろう。晩年の傑作『道草』などは全編そんな類の悩みで作品が成り立ってしまっている。

そういう時代の違いを意識させる点が多々あるものの、漱石の作品が現代日本人にも(比較的)分かりやすいのは、島崎藤村のように明治時代に特有の問題を作品で扱ったわけではなく、今でもあるような普遍的な問題をテーマとしているためだ。それでも、『それから』から『門』にかけての主人公夫婦が、<たかが不倫くらいで?>何故あれ程まで世間から隠れるように生きなければならないのか、現代日本人には(正直)ピンと来ない所がある、そう感じる人も多いのではないだろうか。漱石の倫理観と言えばそれまでだが、彼の生きた時代には妾(=愛人)を複数もつ大物も珍しくはなかったのである。明治という時代に特有の生活感情を自分にとってのリアリティだと理解しながら、なおかつ漱石の倫理観を共有するのは考える以上に難しいものだ。

つまり、問題意識とは時代とともに変わっていくものだ。何が大事な問題であるかは、そもそも世代によって異なる。

話しは戻るが、漱石が言ったのと同じ問題が現代日本にも観られるとすれば、それはずっと解決できていないからである。でなければ、敗戦と高度成長で一度はリセットされたものの再び同じような社会状況が現れてきたからだ。それは「そうなってもよい」と日本人が実は思っているからだ。そうでなければ、所得や資産に関係なく才能のある人材が公費に支えられて教育を受け、有能な人材となり、海外にも公費で派遣されて、経験を積み重ねてからは国会議員に選ばれたり、官公庁、民間企業、その他でも大きな仕事を担当しているはずである。そんな社会であるべきだと、与野党を問わず、実現のために努力をしているはずであるし、マスコミも取り上げ続けるはずである。

それが今になっても出来ていないとすれば、カネがないからでも、資源がないからでもない。日本人にその気がないからだ。そう考えざるを得ないではないか。

もう何度も指摘されたことながら、結局は「ヒトの問題」である。つまり「われわれ自身の問題」だというわけだ。

ジェンダーフリーという問題は漱石が生きた時代にはなかった問題意識である。ということは、少なくとも時代を超えた普遍的な問題ではなかったと言える。

古い問題は解決するのが難しい。人類がいくら考えても回答が得られないという点で解決困難なのだ。

こういう問題と上にあげた「ジェンダーフリー」や「LGBTQ」といった問題とは性質が違う。これらは新しく意識されてきた問題である。人の外見に基づいて判断する「ルッキズム」からの脱却などもそうだ。

どれも100年前の漱石が聞けば、問題の存在自体に驚くだろう。

100年後の世間じゃ、そんな話になっているんで……、やっぱりあれだネエ、100年もたてば世の中変わるってことですネエ。想像もできない。

とでも言うだろうか。

上のどれもが、人類始まって以来、初めて問題化されている。

ただ、どうなのだろう・・・と、(小生、へそ曲がりなもので)疑わしい気持ちにもなる。

男性と女性は人類発祥以来、というより多くの生物種の誕生以来、ずっと存在してきた個体差である。その中で、人間社会における両性の処遇が同じではないという、その《同じではない》ということ自体が、人間社会にとって極めて大きな問題なのだというのは考察の自由に属するが、本当にそれが人類にとっての問題であれば、人類史を通して既に性差に基づく役割の違いはあったのだから、とっくの昔から同じ問題について議論され続けてきたはずだ。しかし、文字が発明され、文芸が始まってから残されてきた人文的資料に基づく限り、ジェンダーフリーという問題意識は具体的な形をとって残されていないと、小生は理解している。これが実証的観点というものだろう。

つまり純粋に新しい問題提起だと思うのだ、な。純粋に新しいということに着目すると「問題」というより、現代という時代を彩る服装や料理、味付けといった「流行」、固く言うと「風俗」により近いのではないかと観ているのだ。


統計分析の世界では、<ビッグデータ>を分析することによって<新しい知>が獲得できると、よく言われるのだが、膨大なデータを観察して初めて確認できるような細かな違いが、実は極めて重要であるということはあるのだろうか?

確かに<ビッグデータ>は流行の真っ盛りだが、こんな問題意識はそもそもの最初からある。

それほど大きな意味がある、重要な発見であるなら、今になって初めて気がつくってことがあるんでしょうか?検証はともかく、予想なり、仮説なりの形で人間は気が付いていたはずではないか。これまでの人間は、まったくのお馬鹿さんだったわけですか?

そういうことであって、最近になって登場した新しい問題提起もこれと似た面がある。


ごく最近になってから初めて気が付いた問題点は、そもそも大した問題ではないのではないか、と。

もちろん科学技術知識は単調に増大するので、自然界については真の意味で《発見》というものがある。しかし、人間社会はずっと昔からあるわけで(マア、ずっとあるのは自然界もおなじであるが)、社会があるなら愛憎や財産相続、強者と弱者の違い、更には政治や経済、宗教や迷信、伝説もあったはずだ。人間社会に<発見>などという「いま初めて分かる事」など残っているのだろうか?何しろ、自分たちに関する事だ。自分たちの傾向など、とっくに気が付いているはずではないか ― 世間に疎い専門家は別として(?)。

やはりどうせ考えるなら、解明は難しくとも、古くからずっと人間が考え続けてきた問題に取り組みたいものだ。

【加筆】2022-12-27、12-28






2022年12月21日水曜日

一言メモ: アメリカFRBの金利引き上げは続くのだろうか?

アメリカの金融当局であるFRBが《インフレと戦う騎士》よろしく、今春以降果敢に進めてきた《攻撃的金利引上げ政策》、12月には引き上げ幅を縮小するものの、より高い金利ピーク値に向けて今後も「上げスタンス」は(断固として)継続する姿勢を鮮明化してきている。


この点に関連して、少し前にこんな投稿をしている。タイトルは『ホンノ一言: 景気後退が見えてきたのは政策的には明るい兆しかも』。

株価は半年程度の先行性をもつ。景気上昇のピークが見えず、金利が上がり始めれば株価は現実に下がり始める。逆に、景気後退が予見され、金利低下局面が見えて来れば株価は上がり始める。

株価は今年の春以降ずいぶん下がった。今年は寅年で「千里をかける」はずだったのだが、どうやら下り坂を疾風のように駆け下ったのが「虎は千里を走る」の意味であったようだ。

ところがまだ株価は上がり始めない。金利ピーク感が中々見えてこないからだ。

先日のWall Street Journalにはこんな記事があった:

 米連邦準備制度理事会(FRB)が信頼性の問題を抱えている。FRBは「利上げの継続」、「5%超までの利上げ」、「少なくとも来年末まではその水準で維持」という三つのことを市場に信じさせようとしているが、投資家は三つ目を完全に拒絶している。

URL: https://jp.wsj.com/articles/the-markets-dont-believe-the-fed-11671177198

Source: WSJ, 2022 年 12 月 16 日 16:54 JST

具体的には、FRB当局とNY市場に集まる投資家の見通しに乖離している:

インフレ抑制を目指すFRBにとってはさらに悪いことに、投資家が利下げについて、開始時期は政策当局の見解よりも早く、スピードはそれよりもずっと速くなると考えている。市場が正しければ、政策金利は2023年夏のピークから24年末までに約2ポイント低下することになる。

 FRBは14日、政策金利のピーク水準の見通しを引き上げ、ピーク後の引き下げ幅をより緩やかにすることを示唆した。これを受けて株価は下落し、米国債利回りは一時的に上昇した。それでもまだ市場が政策当局に同意しているとは言い難い。

URL: 同上


FRBが親共和党のスタンスをとれば傾向としてWall Streetと親和的になる。反対に、親民主党のスタンスをとればFRBは投資家の期待よりは一般勤労者世帯の経済に配慮する傾向が出てくる。一般勤労者世帯の経済とは「暮らし向き」のことである。従って、親民主党的な金融政策は、基本目標として雇用重視、賃金重視になる理屈である。故に、親民主党的なスタンスをとれば「景気後退」は最も忌むべきリスクとなる。これが基本的なロジックだった。


いま現在のFRBは投資家の思惑と溝を深めつつある。しかし、民主党に近いと目される経済学者達とも何だか見解を異にしつつあるようだ。

たとえば、クルーグマンはThe New York Timesにこんな見方を伝えている:

 So where are we on the inflation fight? Until recently it was clear that overall spending was rising too fast to be consistent with low inflation, and my superdupercore measure suggests that this may still be true. I certainly understand why the Fed isn’t ready to declare victory yet.

But given the absence of evidence that inflation is getting entrenched, victory may be a lot closer than many people imagine.

FRBはインフレとの戦いに勝利することを最優先の目標に掲げている ― インフレが庶民の暮らしを直撃する点は間違いない。このこと自体に反対してはいないが、しかし、予想よりも早いタイミングで現在のインフレ・ファイター姿勢から方針転換するのではないかと期待している。そんなモヤモヤした心情が伝わってくる書きぶりではないか。

KrugmanはBlanchardと同様、<インフレ2%目標>にも疑念を明らかにしており、むしろ物価上昇率が4%まで低下すれば、その状態が望ましいとも(別のNYTコラム記事で)述べている。

スティグリッツはもっと過激で、金融引き締め(=金利引き上げ)に軸足を置いた経済政策自体を批判している。

Let us return to the big policy question at hand. Will higher interest rates increase the supply of chips for cars, or the supply of oil (somehow persuading MBS to supply more)? Will they lower the price of food, other than by reducing global incomes so much that people pare their diets? Of course not. On the contrary, higher interest rates make it even more difficult to mobilise investments that could alleviate supply shortages. And as the Roosevelt report and my earlier Brookings Institution report with Anton Korinek show, there are many other ways that higher interest rates may exacerbate inflationary pressures.

Well-directed fiscal policies and other, more finely tuned measures have a better chance of taming today’s inflation than do blunt, potentially counterproductive monetary policies. The appropriate response to high food prices, for example, is to reverse a decades-old agricultural price-support policy that pays farmers not to produce, when they should be encouraged to produce more.

URL:  https://www.theguardian.com/business/2022/dec/09/raising-interest-rates-inflation-central-banks-recession

Source:  The Gurardian, Project Syndicate

Date:  Fri 9 Dec 2022 14.02 GMT

このように、足元のインフレーションの発生原因がサプライ側にある点を考えると、金利引き上げによってインフレ抑制を図るのは愚策であり、コロナ禍に対応した大盤振る舞いの後の収拾段階として財政を引き締める方策が最良であった、と。金融政策ではなく財政政策が現在のインフレ抑制には効果的である、と。<攻撃的金利引き上げ>は即刻止めるのが正解だ、と。こんな風に論じている ― 「正論」という点ではこちらが正論であると、小生も同感だ。

最初に引用した投稿の最後に

どちらにしても、来年になってまだ金利を上げるようなら「バカじゃないか」という声が増えそうである。

こう書き足しているのだが、どうも現状をみると、果たしてこんな風に展開しそうになって来た。


財政政策はバイデン政権の判断を待つしかない。大盤振る舞いが好きなのは民主党政権の傾向でもある。その民主党に親和的なスティグリッツが財政引き締めを提案しているのは、非常に興味深いところだ。

・・・となると、現在のFRB当局は基本的にどんなスタンスをとっているということなのか?

親共和党的ではない。かといって、親民主党的とも言えないようだ。アカデミック・サイドの経済学者の見方ともずれて来ているようだ。誰の影響を一番受けているのだろう?FRB部内で共有されている《経験知》、誰の見解とも言えない《集合知》が働いている、ということなのだろうか?




2022年12月15日木曜日

一言メモ: 防衛費倍増論議と日露戦争前の夏目漱石宅の家計について

国際公約、というより対米公約にも近いような「防衛費倍増方針」。案の定、年末にさしかかり大揺れに揺れている。

小生は何度も書いているが、相当のへそ曲がりなので、「防衛費」という呼称そのものに臭気紛々たる「偽善者臭」を覚え、ずっと前から嫌悪感を感じている。

防衛費で調達する中身は、つまりは「軍事費」である。防衛費ではなく「軍事費」でしょ、と。「正直にそう呼んだらイイのに」と昔からずっと感じている。

マ、そう呼べない理由は分かっている。憲法上、日本には「軍」がいないからだ。軍がないので「軍事費」も言葉の定義上、計上できない。まったく理屈をこねるのもホドホドにしたほうがイイ。「プーチンの戦争」がロシアでは「特別軍事作戦」と呼ばれているのとドチコチである。

『わかるこの理屈?』と誰かに聞いたみたいのだが、余りに露骨で場を白けさせてしまいそうで一度も話題にしたことがない。が、小中学生に話しても訳が分からんだろうナアと思っている。「軍事費」と「防衛費」は違うんだよ、これ大事なんだよ、と言ってもネエ・・・ということだ。

「戦争」を「戦争」と率直に呼ぶのは良心の第一歩であろう。「軍事費」を「軍事費」だと認識し、そう呼ぶのも良心の第一歩だ。交通事故を起こせば「事故」であって「運転ミス」だと胡麻化してはいけない。


軍事費が倍増されるとする。他の歳出を削減して予算総額では概ね同規模であれば、それはそれで既にビルトインされた歳出があるので調整は困難を極めるだろうが、それが出来るとと仮定すればマクロのバランスはとれる。ここでは、調整ができず軍事費増加分だけ予算が増える結果になると前提して、その経済的波及をどのように見込むかをメモしておこう:

  1. 総供給と総需要のマクロ・バランスを考えると、総需要は軍事費が増加する分、増加する。故に、総供給が同額だけ増えなければならない。総供給は国内生産(=GDP)と海外生産物の輸入の二つから構成される。
  2. ところで、現在の日本経済は一部で人出不足が顕著ではあるが、名目GDP比で0.5%ないし2.5%程度のGDPギャップがある。金額にすると、4兆円から15兆円といったオーダーである ― 数字の差は政府と日銀と推計主体の違いによる。
  3. GDPギャップ内であれば国内供給を増やして軍事費増額に対応できる。が、これを超える分は需要超過になる。その超過分は輸入増加で調達するか、インフレで吸収されるかだ。というより、そもそも日本の防衛産業は弱体なので防衛関連品目の多くを(主にアメリカから)輸入している ― 高額なミサイル、航空機などはその典型である。
  4. 軍事費増額で完全雇用の壁に突き当たり、国内需要を圧迫すると、インフレを招くのに加えて、国内金利を上昇させ、民間設備投資を抑え、結果として経済成長を阻害する。他方、輸入が増加すれば、供給は確保されるが、貿易収支・経常収支を悪化させる。経常収支悪化は円安要因であるが、国内金利上昇は円高要因であるので、最終結果として円安に振れるか、円高になるかは不確定だ。
  5. いずれにせよ、軍事費増加は日本全体の貯蓄投資差額を投資超過の方向へ悪化させる。これ自体は貯蓄超過体質の日本にとっては悪くはない。が、経常収支は悪化する。今の日本の防衛産業の現状をみれば、ほぼ確実に国際収支を悪化させるはずだ。
  6. 最近、国際商品市況の高騰などから経常収支の赤字月が時折発生している。更にそれが悪化すると、日本の経常収支は概ね均衡圏内に止まるようになるのではないかと予想する。<経常黒字日本>は過去の話になる可能性が高い。
  7. 他方、日本では今後にかけて多額のIT投資、DX投資など生産性向上へ向けて民間投資を増やさなければならない。足元の民間投資増加はその兆しであるかもしれない。とすると、経常収支赤字が定着する可能性がある。高齢化の進行と家計貯蓄の減少も経常収支赤字拡大の要因だ。それでなくとも軍備拡大と国際収支赤字は経済危機に至る王道なのである。
  8. 国際収支赤字に悩んでいた頃の記憶は日本人から薄れている。それが現実に再び赤字傾向になると、英米と同じ道とはいえ、日本社会はアタフタするに違いない。『いつまでも あると思うな 親とカネ』。念頭に置いておくべきだ。
  9. 経常赤字下でマクロ・バランスをとるためには、対外資産を取り崩すか、海外の対日投資を増やすかの二つの道があるだけだ。しかし、対外資産には残高の限界がある。なので、経常赤字体質を可能にするのは資本収支黒字を定着させる道が唯一の選択肢だ。
  10. 経常赤字・資本黒字を長期的に続けるのは一つの戦略ではある。日本も目指すべきだと(個人的に)考えているが、国際通貨ドルを持っているアメリカなら可能だが、今日のイギリスが同じことをしようとして酷い失敗を演じた事も忘れてはならない。何も変えたくない国民心理が原因になっている「日本病」を本気で治療する切所に直面するであろう。戦時でもなく、平時において、財政危機、為替危機、国際収支危機に陥れば『無能な日本政府』という評価、というより事実「無能」であるわけなのだが、そんな評価が世界に定着するに違いない。いわゆる<日本のギリシア化>である。
  11. 故に、軍事費倍増の負担に日本経済が耐えられるかどうかについては、あまり甘く考えない方がよい。最悪の場合、生産性が向上しない中で、経常収支赤字が定着し、円暴落、国債相場暴落、株価暴落という悪夢がひき起こされる可能性もゼロではない。
  12. その悪夢を避けるには、軍事費倍増の一方で増税を断行し、財政規律の維持に目を配る姿勢を見せるのは、手堅い定石であるとも言える。増税によって消費が抑制されるが対外赤字を抑えるには仕方がない。と言って、その姿勢を過剰に示すと、マクロ経済バランスは保たれるものの、民間投資までをも圧迫してしまい、経済成長が停滞、民間部門の生産性向上が停滞する。そうなると、ソ連末期のように過大な軍備費の重みに耐えかねて国民経済が潰れてしまうことになる。
  13. 以上を考えると、民間部門をなるべく圧迫しない方策を併せて実施しながら、増税を進め健全財政にも配慮するという政策が最も穏当なところだ。企業部門の内部留保が巨額に膨らんでいることに目を向け、対家計増税を最小限にとどめる一方で、企業負担を高めるのと同時に投資減税も並行して進めることが必要だ。
  14. 軍備拡大と国内産業の成長戦略とが両立するように、日本版軍産複合体を育成する政策も不可欠だ。最も下手な政策は、増税で消費を抑えつつ、調達はほとんどアメリカからの輸入となり、結果として経済成長どころか国際収支は悪化、かつマイナス成長になるというケースだ。これでは『日本国の政治家としては失格』と言われても仕方がないというものだ。こうならないことを祈るばかりだ。
まあ、こんな大筋で物事が進んでいくのではないかと予測している。

軍事費増額の経済的帰結は経済学を勉強した者にとってはそれほど難しい設問ではない。みな似たような見通しをしているに違いない。


それにしても、こんな報道を聞いていると、江藤淳『漱石とその時代』のある下りを思い出してしまう。第2部。旧制・五高の教頭心得に昇進していた夏目漱石が文部省から英国留学を命じられ留守を守る家族のやりくりが述べられている第3章の中の一部である:
年額300円の留守宅手当は月割りにすると25円にしかならず、さらにそこから1割の建艦費2円50銭を差っ引かれると手取りは22円50銭にとどまった。これに加えて、年額3円の所得税があるので、実際の月収は22円25銭にすぎぬことになる。

わざわざ年収を月割りで計算しているが、年収300円に対して、所得税が3円、 建艦費が所得税の10倍である30円というわけである。現代日本の常識からみると、かなりの驚きではないだろうか?

所得税3円、建艦費30円!

夏目漱石まで軍艦建造に協力していたのだ。

上で「建艦費」というのは「製艦費」のことである。ネットで調べてみると、

製艦費は軍備保持のために明治天皇が内延費と官僚らの俸給の一部を軍艦製造費に充てるという勅命に使われた言葉です。

というもので、具体的には

〇『議会制度百年史 資料編』 衆議院 参議院/編集 大蔵省印刷局 1990年

  p.578 「第4回帝国議会(通常会)」の項あり
  明治二十六年(一八九三)2・10
  「天皇、軍備の充実を国家の急務とし、六年間内廷費を節約し、文武官僚の俸給の十分の一を納付させ、製艦費に充てる旨の詔勅を賜う」との記載あり。

という解説がある。

URL:https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000305313

Source:  レファレンス協同データベース

日清戦争から日露戦争にかけて日本が達成するべき政策課題は《海軍力増強》であった。そのために、明治天皇は皇室から資金を提供すると同時に、官僚に支給する俸給から10%を軍艦建造協力金として天引きするよう指示したのである。

もちろん、いざ日露戦争が勃発した後の《戦費》を外債によったことは、高橋是清やユダヤ系金融資本家ジェイコブ・シフの名とともに有名な歴史の一コマになっている。

明治政府は権威的で、現代の日本人の目には非民主主義的ではあったろうが、選択した政策は雄々しく、立派で、王道を行っていたと、改めて思う。


それにしても所得税支払額の10倍の金額を軍艦建造協力金として差し出すとは…といっても、所得税は明治20年になって導入されたばかりの新税であり、漱石が英国に留学した明治33年(1900年)当時、課税対象は年収300円以上の所得がある世帯のみであり、漱石は辛うじて最低限に引っかかり税率1%が適用されたわけだった。ちなみにその当時の所得税も累進税率とはいえ、最高税率3%が適用されるのは年収3万円以上世帯であり、納税世帯は全世帯の内の1.5%であるから、所得税を納めていること自体が「エリートの証明」でもあった。今流の言葉で言えば

夏目漱石は「上級国民」であった

と言われる社会的地位にいたのかもしれない ― 境遇はとてもそう思うものではなかったが。それにつけてもこう書いてみると、やはり「品がなくて、下らないナ」と思ってしまう語法である。

所得税云々はメモ代わりに付け加えておいたのだが、江藤淳の記述を読む限り、地方税もなく、年金・医療の社会保険料もない。社会保険料がないのは制度自体がないので当然だが、地方税は納めなくともよかったのか?まあ、中央集権で地方自治ではなかったので地方税はなくともよいのだということかもしれないが、財政史が専門ではないので、詳細は調べてみないと不明である。

それにつけても思うのは、

日本の上層部は、ホント、憲法の条文を守ろうという姿勢が希薄なんだネエ

改めてそんな印象をもちます。与党も野党も《護憲》なんてスピリットはない。

このことは今月初めに投稿したことがある:

気分としては自分もまったく同じですけど、今の憲法でそれが出来るんですか?やるならやるで、先に憲法を書き直しておかないと、全体がウソになりますゼ・・・

それがいつの間にか『反撃する権利?そんなのあるに決まってるでしょ!』と言わんばかりの論調になってきた。メディアは何も言わない。「集団的自衛権」ではあれほどまで大揉めにもめて大層な論議になったのである。2014年のことである。まだ8年しか経っていない。その時の「集団的自衛権」こそ小生は当たり前のことだと思っていた。それが今は「敵基地を先制攻撃しても憲法上認められるのだ」と、それは「反撃」なのだと、反撃は「自衛」なのだと。小生には「自衛」ではあるが、普通の意味で「戦争」であるように思われる。『そうなんですか!日本国憲法は普通に戦争をすることを禁じていたわけではなかったのか。いやあ法学部を出たわけではないので知りませんでした』、と。それで、マスコミも野党も憲法学者も静まり返っているのか、と。

日本社会は異様である。そう感じる。

まあ、アメリカはウェルカムだろう。アメリカの国益には適うからだ。

アメリカが認める日本の軍事行動は、戦争ではなく、日本国憲法とは矛盾しないのだ。

そんな戦後日本体制の本質中の本質がかいまみえるような気がするネエ ― まあ、現行憲法はアメリカが作ったようなものであるから、自然なあり方でもあるわけだ。日本の最高裁でも国会でもなく、アメリカが「合憲」だと言えば「合憲だ」ということか・・・これも仕方がないナア。これが《戦後日本体制》と言われればそうなのかもしれない。『かもしれない、じゃあない、そうなんだ』と言われそうだが。

しかし

そうしたいってのは分かるけどネ、やっぱり理屈が通らないと思うけどナア

と、首をかしげる小生は根っからの《KY》であるのだろう。

が、いまの世間をみていると逆に『こんな時代になっても何も言わないのが賢いってことなら、イヤイヤ、まだKYの方がスッキリすらあ・・・』と斜交いに構えたくなります。

いよいよ偏屈になって来たのかもしれない。これまた《ジェネレーション・ギャップ》というべきか。

【加筆】2022-12-16、12‐17




2022年12月14日水曜日

雑感二つ: 同性婚とWEBスキルについて

 1 同性婚

アメリカでは同性婚を選ぶ人の権利保護が制度化された。

【ワシントン=芦塚智子】バイデン米大統領は13日、同性婚の権利を保障する法案に署名し、同法が成立した。バイデン氏はホワイトハウス南庭で開いた署名式で「愛は愛、権利は権利、正義は正義、というのが米国の基本的な理念だ」と強調した。

バイデン氏は「結婚できても、同性愛者であることを理由にレストランを追い出されれば、それは間違っている」と指摘し、職場や公共の場、学校などでのLGBTQ(性的少数者)への差別を禁止する「平等法案」の可決を議会に訴えた。

Source:日本経済新聞、 2022年12月14日 7:37 

リベラルな民主党政権の面目躍如だ。確かに、すべてがダメなわけじゃあない。

日本においても、選ぶ人生がどんな人生であっても、他の人の迷惑にならないのであれば、権利を保護する、差別を禁じる、そんな社会であってほしいと願う。少数者が少数であるが故に、肩身の狭い思いをしながら生きるよう圧力をかけられる。どうみても、こんな社会は改善されなくちゃダメでしょう、と。そう全面的に賛成する。

あとは言葉の定義だと思っている。「婚姻」を人生の伴侶の選択と解釈すれば、どんな人と一緒に生きていくかは、個人個人の自由意志に任せるべきであって、男女一人が「夫婦」となって家庭を設け、生きていかなければならないと、人の生き方を「政府」や「法律」が決める筋合いはない。

一方、「婚姻」を生殖・出産・育児という生物学的な世代交代を促す「社会的安定化システム」と解釈するなら、同性婚を「婚姻」と呼ぶのは正しい言葉づかいではない。

同性婚の権利保護という背後には、一夫一婦という従来型の人生モデルが変容しつつある流れがあるのだと思っている。『人間、そもそもどう生きるかは、当人たちの自由でしょ』という感覚がこのレベルにまで浸透すると、社会の在り方は相当変わっていくと予想される。

将来にかけて、このことがどう社会を変えていくかは、コントロールできまい。戦争と平和もそうだ。望む通りにはコントロールできない。同様に、家庭のあり方、文化のあり方、宗教のあり方は、人、政府、社会の意志を超えて変化していくものである ― 「変化」というより「進化」と呼ぶべきだというのが本来のリベラル的世界観であろう。

そうそう・・・思いついたので将来予測、というより危惧される可能性を一つ:

生物学的世代交代から切り離して婚姻を認めるなら、なにも同性2人に限定する必要はないのではないか。同性3人が婚姻をして家族になることも可能ではないか。一夫多妻制を認める国が現在もある中で、同性3人の婚姻は不可能だという「先験的根拠」はあるのだろうか?あるいは、3人の場合は一人が「夫」、一人が「妻」、3人目は「長子」という風にあくまでも従来型の「核家族」を模したポジションを決めさせて「婚姻」と「子」を同時申請させるのだろうか?…いや、いや、21世紀というのは中々面白い時代になってきたものである。


2 IT技術

カミさんが大手小売り企業のWEBアプリをスマホにインストールし、アカウントを開こうとしたところ、パスワードを設定する段階で1文字打つと

このパスワードは使えません

こんなメッセージが出て、小生に「ちょっと見て」と。

みると、パスワードは半角英数字で、大文字、小文字、数字のすべてを混ぜることと、普通の注意が書かれてある。そこで半角モードにして大文字の"Y"を打つと、果たして

このパスワードは使えません

と出る。

こんなメッセージはあまり見ないネエ。普通は、パスワードは全て半角にしてくださいとか、全角文字は使えませんとか、具体的にユーザーのミスを指摘するんだよね・・・こう言いながら、何度か反復しても、やはり駄目である。パスワードの1文字も受け付けないのは、珍しい。理由も不明だ。

駄目だな、このサイトは。これ以上、つきあう必要はないな。これまでもナシでやって来たんだから、無理に始める必要もないんじゃない?

これで終わりとなった。

この大手企業ばかりではなく、デパート業界、製造業の通販サイトなども含めて、日本国内のWEBサイトは、一般的にセンスが悪くて、作り込みが低レベル、かつ視覚的にも映えないサイトが多い ― この点は多くの人が同感してくれると思う。

どこもかしこもAmazon.comや楽天市場のように使いやすく、かゆい所まで配慮の行き届いたサイトを設計してほしいとは思わない。が、アカウントを開く段階で『駄目だな、このサイトは』と言われてしまうようでは、お先真っ暗と言うべきかもしれない。

理由はただ一つ。ITエンジニアの不足。人材不足にある。ビジネスにおいて目指す成果が得られない場合、その失敗の原因は《四つのM》にある、というのは品質管理の鉄則だ。それはMan(ヒト)、Machine(設備)、Material(資機材)、Method(方法)である。IT化の潮流がグローバル化して既に20年余。ヒト以外に失敗の原因があるならリカバーできる時間が与えられている。今でもダメなのは、ひとえにMan、つまりヒトに原因があるとしか言えない。

話しは変わるが、インドの太陽光発電スタートアップ(より少し成長した後?)に投資してみた。従業員は500人位である。グロース株に投資する時は少額、将来の成長に期待するのが定石だ。高利回り配当株とは採るべき戦略が違う。それでも、やはり投資先の企業は調べた方がよい。それでその企業のWEBページを見てみた。そうすると、結構感性がイイ。まとまっている。

数百人規模の企業でこの出来か

そう感じました。日本企業の現状とは比較にならないのではないか — 名誉のために補足しておくと、日本国内のインフラ投資法人などはどの社も相当いい感性でWEBページを設計していて、垢抜けしている。駄目なのは、日本の従来型の企業である。デパートも低水準、電力会社、ガス会社などは最低だ。鉄道もパッとしない。銀行も総じてパッとしない……。情けないネエ。

ネットというチャネルには期待してこなかったンだねえ・・・20年以上もたってるのに。

「これじゃあ、ダメだ」、そう思います。そんな「タカをくくる」、というか「日本(世界に?)に冠たる」といった傲慢さが災いして、今日の日本経済の迷走を招いたか・・・改めてそう思った次第。

何だか日露戦争でロシア(倒壊寸前のロシア帝国ではあったが)を倒したことに慢心して、その後は劣化につぐ劣化。ついに1940年代には世界の3流に落ちてしまっていた旧・帝国陸軍を連想してしまいます。こりゃ、負けるはずだワ、1990年代末期『第二の敗戦』という言葉には反発を覚えたものだが、その正しかったことをいま気付かされている。


2022年12月12日月曜日

一言メモ: 「五輪汚職」って、日本人まで一斉に非難しているのがよく分かりません

自分から書くのはとても恥ずかしいのだが、幼いころから<期待>されていたのだと思う。父は長男、母は長女で、祖父母にとっては小生が初孫であった。偶々、本を読むのが好きで、成績も良かったものだから、期待されていたのだと、自分も両親や祖父母の年齢になってみるとよく分かる。役所や大学に勤務してからは、上司や組織、大学から(多分)期待されていたのだろうナアと思い出すことが増えた。だから、期待を裏切り続けてきたのが小生の人生であった、と。何だか「申し訳ない」と言いたい気持ちになる。自分自身と家族を最優先し過ぎました、というより、単に実力も根気も足りませんでした、と。「私の不徳の至りです」と謝りたい心理が年を追って高まってきている。これも加齢効果の一つかもしれない。

でもネ……と言いたい気持ちもある。

「期待する」とはどういうことであるのだろう?

期待するというのは、つまるところ《我々一同にとってプラスになるはずだ》、そう思うから誰かに期待するのではないか?

成長した後は大仕事をしてみんなを援けてほしい、組織の発展のため大いに活躍してほしい等々、期待するその人の幸福とは別の願望が周囲に先にあって、期待できる誰かが成果を達成して、自分たちもまた幸福になる。それが「期待」というものの本質ではないか?

もちろんそれが悪いはずはなく、人間社会には普通のことである。しかし、一つ言えるのは、誰かに期待するとしても、その人の幸福を希望するというより、期待している自分を含めた我々すべてのプラスになるので、だから期待して、応援するのだ、と。こういうことだと思われるのだ。

つまり、期待するというのは、動機において甚だ《利己的》である。

最近、「期待」という心理についてこんな事を考えていたので、マスコミ報道に不思議さを感じることも時に出てくる。

日曜朝は、何回か前にも投稿したようにサンモニをみる習慣なのだが、最近はいま開催中のW杯でもちきりである。試合の寸評、優勝の見通しなどを語ったあとは、今回大会の特徴だと思うが、「スポーツと政治との関係」に話しが移る。

競技場建設工事などでみられた外国人労働者の人権侵害など、ワールド・カップの負の側面がとりあげられ、ネガティブな意見がかわされる。そこでは、もっぱら政治的に不適切だと言える事実が指摘される。

そう言えば、オリンピックもそうである。2021年に1年遅れで開催された東京五輪は、そこで行われた競技そのものとは別の多くの問題が非難されている。例えば、招致活動の裏側、競技場等建設工事の裏側で密かに展開されていた様々な《不祥事》が検察の捜査対象になっている。そして日本社会も五輪開催の裏側に隠されていた事柄には、ただただネガティブな反応をしている。

五輪に期待していたこととは正反対の事実が確認されるのは悲しい、というわけだ。ひたすら哀しい、恥ずかしいという世相であると。マスメディアはそう言いたいようだ。

小生はへそ曲がりだ。だから「五輪汚職」に関して思ってしまうのだが、

自国で開催されたオリンピックの「贈収賄と談合」。当の自国民たる日本社会が何故これほどまで強く憤慨するのだろう?メディアは非難するのだろう?

こんな疑問である。

自国で開催されるオリンピックに期待していた日本人は数多くいたはずだ。他国で開催されるワールドカップに期待する動機は寧ろ単純だ。では、日本で開催されるオリンピックに日本人は何を期待していたのだろう?

【ここから最終セクションにジャンプしても可】

★ 

オリンピックは確かに「平和の祭典」で国際的な行事であるのだが、その本質は「民間ビジネス」である。

IOCはそもそも政治とは縁のない領域で発足した(はずの)国際団体である ― この点は、サッカーのW杯を主宰しているFIFAもまた同じである。政治から独立している、というのはどの国の政府からも影響されない、つまり資金的にも政府から独立している。《民間主導》は五輪が五輪であるための必要条件であろう。メディアが中継放送をしたりするなら、格好のプロモーション・チャネルにもなるので巨額の資金が動く。そして、このこと自体は、運営主体であるIOCが各国政府から独立するには、必要不可欠の努力である。

確かに、最近年の五輪にはナショナリズムがつきまとう。招致には公費が投入される。特に、五輪開催地決定を契機に競技場を新設したりすると経費は当初予算を大きく超えたりもする。五輪招致の前提に、公共の競技場を新規建設すれば、五輪開催自体がどこか「公共事業」めいて見えるが、それはそうしなければ招致に成功しないという見込みがあるからだ。招致を争う競合国がそうしているから自国もするというメカニズムが働いている。

そこまでして、五輪開催に何を期待するのかを考える時、ハイレベルの競技を自分の国で観たいという消費者の期待もあるが、国内で開催されるが故にもたらされる企業側の利益もやはり日本人の利益の一部には違いない。

要するに、自国で開催される五輪に日本人が期待するものは、五輪開催で引き起こされる活動全体を含む。つまり《五輪効果》の全体が日本にとってプラスになる。社会が充実する。豊かになる。故に期待する。これが五輪招致の基本的ロジックであろう。

ところが、コロナ禍の襲来により、《東京五輪2020》に多くの日本人が寄せていた「期待」は裏切られてしまった。

この厳しい事実とジンワリと広がる失望が全ての出発点である。そう思われるのだ、な。

いま日本社会では東京オリンピックは果たして《公正》に行われたのか、と。もっぱらそんな話題で世論が終始しているが、

そもそも何のために五輪を日本に招致したのですか?

と、動機を聞き直したいくらいである。一体、何を期待して五輪を招致したのだろう?


五輪については、ずっと以前にも投稿したことがある。その後の進展をみていると、どうやら「黒い噂?」が立ち昇った森・元首相や竹田・JOC前会長に司直の手が伸びることはなくなったようで、その代わりというわけではないのだろうが、電通、博報堂など五輪開催の裏側で経済的支援にあたっていた広告代理企業が数々の《談合》を主導したという疑惑で摘発されている。

日本経済の業(ゴウ)とか、宿痾(シュクア)などという表現は好きではない。が、そうかと言って経済学のテキスト通りの完全競争メカニズムを信頼して日本の政策を遂行するべきだと言われれば決して賛成はできない。経済政策は経済政策でやはり《国益》を求めるものであるべきだ。いま現在の人々にとって最適であっても、日本国の《成長》や《安全》という点では望ましくない経済状況はありうる。


国益とは消費者としての日本人と生産者としての日本人全体の利益の合計であると言っても大きな間違いではない。

いくら「公正」を求めるからと言っても、

五輪関係ビジネスは公共性をもつので発注はすべて透明な「国際公開入札」にする

という基本方針にすれば、大半の工事受注は欧米、中国、その他の海外企業に落札される可能性もある。

そうすれば、日本政府や東京都が支払う公費も安くてすむかもしれない。が、日本人はそんな五輪を<期待>するだろうか?むしろ日本人の期待を裏切る結果になったのではないか?だとすると、五輪に寄せる期待は<公正>そのものではないということになる。

もちろん国民の期待を裏切ってでも《フェア》であること、《正義に適う》こと、《世界に向けて恥ずかしくない》ということを最優先する立場もある。

しかし、そんなことを世界にアピールするために日本は五輪開催に立候補するだろうか?

五輪開催の自国民として日本人は全体としてオリンピックに色々な期待をもつのである。期待するからこそ、立候補する。五輪に寄せる「期待」に応えたいという「意図」はそもそもハナからあるはずで、綺麗ごとだけを発言するのは不誠実というものだろう。

自国には自国の立場がある

正直になるところから、真っ当な考察が出来るというものだ。

であるにも関わらず、(外国メディアなら理解できるが)日本国内の民間ビジネスの利害に寄り添うはずの民間TV局までが、五輪開催の談合や贈収賄に非常に厳しい姿勢をとっているのは何故か?・・・これが不思議でならないのであります。


海外メディアが批判するなら容易に理解できる。理由は明確だ。しかし日本国内のメディア各社の動機、思考回路がいま一つピンと来ない。

どうも解せないネエ……、日本が日本で開催された五輪に関して、不公正があったと強く非難するとして、どんな意味合いでそれを非難しているのでござんしょう?

そういうことであります。

”昔、誰かが言ってましたが”

資本主義経済というのは、泥の中にあって咲く睡蓮の花のようなものです。

実に本質をついた名言だと思う。この伝でいうと、公正を求める世界観は

何の混じりけもなく生命を育むこともない清らかな湖のようなものです。

こうなるか。

日本の製造業メガ企業が部品を調達するのに最も低価格で高品質な業者に納入させるのは当たり前のことである。ところが、メガ企業の購買担当重役が納入業者と結託して、資材を高値で調達、自社に支払わせ、その一部をリベートとして自分の息がかかっているペーパー・カンパニーに入金させる……、これは明らかな背任行為である。取締役であるにも関わらず、自社に損害を与えており刑事告発されるのが当然だ。

しかし、ペーパー・カンパニーに入金させた資金を、社内で合意のとれないニュービジネス研究に密かに流用していればどうか?「私欲」ではない。「自社利益」を考えてやむなく行ったことである、と。もちろん法令に違反しているのは事実だ。が、同情するべき情状はあるであろう。

もし調達先が自社が支援している関係企業であればどうか。調達価格は高めである。しかし、経験曲線に沿った将来の低価格、経費節減が見込める。このような動機であれば、自社の長期的利益に資するかもしれず、社内を説得できる余地が出てくるだろう。

つまり核心的論点は、

  1. どの規則にどう違反していたかという手続き上の問題
  2. 違反していたとして、不公正な資金がどのような使途に充てられていたかという実質的問題。

この二つがあるわけだ。

外部の人間なら外形的な規則違反に関心が集まるのは仕方がない。が、社内に勤務している内部の人間なら、規則に違反していたという形式的事実と同時に、どのような動機で、どのような行為が行われていたかという実質的内容に強い関心を持つに違いなく、その実質的内容に基づいて行為の悪質性を判断するに違いない。

東京五輪に寄せた期待がコロナ禍で裏切られ何のプラスにもならなかった人々が確かに多数いる。実に分かりやすい事実だ。東京オリンピックが期待に反して何のプラスにもならなかった日本人が多数いるというこの事実が、その後の展開を決定づけた。もしコロナ禍なかりせば、日本の談合や贈収賄によって本当に損をしたのは誰か、日本人はどんな損害を受けたのか。これらの問題を日本人はより熱心に議論していたはずである。

今回の五輪スキャンダルは、コロナ禍による敗戦処理の中で俄かに舞台化された「コロナとオリンピック・第2幕」と言うべきものだろう。


話を最初に戻そう……

そもそも日本のマスコミは、なぜ《価値》なるものについて頻繁に熱心に語るのだろう。日本文化の根底になっている価値とは何だろうか?しいて言えば《和》ではないかと小生は勝手に結論を出している。欧米が強調する"Justice"という価値は外来文化である。"Democracy"もそう、"Liberty"もそうだ。

「東京オリンピック」に日本人が期待していたのは「価値の向上」でも「価値の実現」でもなかったのではないか。もっと生活の中でプラスになる実質ある中身であったはずだ。消費者としても、生産者としても……だ。

報道もニュース解説も、牧師の説法、僧侶の法話ではない。アメリカが外交政略上、価値の共有を強調するのは、分かる。これも旧・西側陣営をまとめる一つの戦略だ。だからと言って、日本の民間メディア企業が提灯持ちのように「価値」を主張するのは可笑しいではないか。

普通の日本人は、検察官でも裁判官でもないし、警察官でもない。法令に違反しているという事実があると言われれば、関心は確かにあろうが、どんな動機で、どんな悪質な行為をして、国民全体にどんな損害を与えたのかについて、より強い関心を抱くのではないか。

外国人の対外的観点に日本のメディアも寄り添って、まるで外国人であるかのように、日本国内の談合をあげつらう姿勢は、滑稽としか言えない。


【加筆】2022‐12‐13

2022年12月9日金曜日

ホンノ一言: この辺が「リベラル派経済政策」の最もいかがわしい所か

 こんな記事がある。

【ヒューストン=花房良祐】米石油大手エクソンモービルは8日、2024年までの3年間で500億ドル(約6兆8000億円)の自社株買いを実施すると発表した。脱炭素の潮流で化石燃料への風当たりが強まるなか、好業績を背景に株主還元を一段と拡充する。増産を急がず株主還元を続ける石油業界に対する米バイデン政権の圧力が高まる可能性もある。

(中略)

空前の好業績を受けて株主還元を強化する動きは石油業界で広がっており、バイデン米政権は「自社株買いや配当よりも増産投資をすべきだ」と批判を繰り返している。こうした意向に沿わないエクソンへの風当たりが強まる可能性もある。

 一方、エクソンは23年に、設備投資に230億~250億ドルを投じる計画で、22年の220億ドルからの増加幅は限られる。27年までは毎年200億~250億ドルを計画している。上流部門への投資の約7割は①南部テキサス州などのシェール開発②南米の深海油田③世界各地の液化天然ガス(LNG)プロジェクト――にあてる。収益性の高い事業に集中し、純利益を27年までに19年の2倍にする計画だ。

低炭素事業への投資も進める。27年までに従来計画比15%増の170億ドルを投資し、水素や二酸化炭素の回収・貯留(CCS)などを事業の柱に育てる。

従業員の待遇も改善する見込み。ブルームバーグ通信は7日、エクソンが従業員の給与を平均9%引き上げると報じた。足元の物価上昇率を上回る増加率で従業員に報いる。

URL: https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN08EH90Y2A201C2000000/

Source:日本経済新聞、2022年12月9日 6:44 (2022年12月9日 9:19更新)

石油企業の増産投資が不十分だと憤慨するのは米・民主党政権の脱炭素方針に矛盾している。なぜ矛盾していることを今は言っているかといえば、足元のエネルギー不安が政権基盤を揺るがしているからだ。だから増産投資をもっとしてほしい、というわけだが、全体が矛盾した話しだ。

そもそもアメリカは《自由・民主主義・法に基づく支配》という価値を共有しているかどうかで世界を2分類するという外交を進めている。自由であれば、経済システムは市場メカニズムを信頼するという原則を選ぶはずだ。とすれば、企業の設備投資、消費者の購入選択も各主体が自由に意思決定するというのが原則になる理屈だ。

それが《一民間企業の資本計画・投資計画》にまで口を出すとはネエ……、この辺が、自由社会を志向しているのか、政府主導の計画経済を志向しているのか、いわゆるリベラル派経済政策の基本姿勢がよく分からないところで、何だか独善的でいかがわしい、と。

若い頃は、知的誠実さに共感を感じていたものだが、年齢を重ねるに従って化粧の魅力が剥がれ落ちるように失望してきた、というのが「リベラル」という言葉をどう思うかという点に関する自分史である。


2022年12月7日水曜日

断想: バタイユ流の御恩奉公は現代日本で実効性をもつだろうか?

日本は概ね全ての分野において学問は輸入学問で、それでも数物系、生化系など自然科学では独自の実績を日本も残してきたが、社会科学系の学問では、実務の平均水準は決して恥ずかしくはないし、なるほど森嶋通夫氏や宇沢弘文氏などが日本にはいた、宇野弘蔵のマルクス経済学の影響力は大したものだとか、色々と云々されたりもしていたのだが、独自の世界的影響力という尺度ではほとんど何もと言ってよいほどの貧困たる実績しか世界に提供できていない・・・、小生自身が経済学から入ったから自虐的に視ているのかもしれないが、事実においてこんな自己認識はあまり間違ってはいないと思う。

そんな環境もあって、学生時代から小生の周囲で注目の的になっていたのは、一人の例外もなく海外のビッグネームであった。Samuelson、Solow、Arrow、あるいはイギリスのHarrodやRobinson、Kaldorなどその対抗勢力が、はたまた実証畑ではLeontiefやKuznetzあるいはKleinなどのスーパースターたちが、学生ギャラリーを大いに賑わしていたものだ。この辺の熱気は、どうも憶測するに、今は大分冷めてしまったのじゃないかと感じているが……。

そんな中で、大陸系というか、フランスの文芸はその当時から一部で人気が高く、中でもデリダの脱構造主義とか、ブローデル達のアナール学派とか、数学ではその一時代も昔のブルバキがそれに当たるのだろうが、進んだ意識系の若手研究者には大層な人気を集めていたものである。バタイユなどはその流れの中にいる。

最近もまたバタイユが注目を集めているようで、例えばこんな意見もある:

バタイユは、古典派経済学のような生産と交換にもとづく限定エコノミーの概念に対して、浪費と贈与にもとづく一般エコノミーを提唱した。前者は、たかだかこの300年ぐらいの西欧圏にしか通じない経済学だが、後者は石器時代からの人類の経済行動を説明するものだ。

限定エコノミーで人々が求めるのは有用性(utilité)だが、一般エコノミーでは栄光(gloire)である。共同体の首長が村中の人を集めて宴会を開き、全財産を浪費するとき、彼は栄光を得て、人々に貸しをつくる。宗教的な儀礼にも有用性はないが、それに協力する人々は共同体のメンバーであることを確認する。

それは進化ゲーム理論でいうと、コミュニケーションで味方と協力し、敵とは戦う秘密の合言葉(secret handshake)と呼ばれる戦略である。この戦略は強力で、囚人のジレンマやチキンゲームを一般化した共通利益ゲームでは、つねに贈与で最適解が実現できる。贈り物は、この合言葉である。贈られた人は返礼の義務を負い、返さないと村から追放される。

URL: https://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/52072461.html

この《一般エコノミー》は日本人なら馴染みの《御恩奉公》という武家の倫理を思い起こさせるもので、バタイユを通読したことはないが、おそらく原理的にはこの憶測に大した間違いはないと思っている。


ただ、どうなのだろうネエ……と。

鎌倉以来の武家政治700年間にあった間なら、例えば鎌倉幕府が滅亡するその瀬戸際で、金沢貞将が北条高時から最後まで従ったその忠節を賞され『両探題(=執権・連署両職を指すか)任命』を約束する書付を手渡されたのに対して、

棄我百年命報公一日恩」(我が百年の命を棄てて公が一日の恩に報ず)

渡された紙の裏にこう書き、それを胸に抱いて敵の新田軍に突進して討ち死を遂げた。確かに多くの日本人はこのような忠義に激しく感動したはずだ。

しかし、武士ならいざ知らず、現代日本人は様々の外来哲学に染まってしまった。これを忘れるべきではない。

金沢貞将のように「有難くも御恩を忝くする」という認識の反対側には「そもそも当然受けるべき報酬をいま受け取ったのだ」と、そんな共産主義イデオロギーからバタイユ流の大盤振る舞いをみる人もいるはずである。

そんな左翼的価値観を支持する人からみれば、

大盤振る舞い=御恩

ではなく

大盤振る舞い=当然受けるべき権利 

になる訳であり、何も感謝する言われはない。むしろ「御恩」などと言いつくろう殿様こそ現場で働いて来た私たち国人衆から搾取し余剰を奪ってきたわけであり、その一部をいま私に給わるなどと恩を着せるなど偽善の極みである。「恩」ではなく「返還」である。不平等そのものである。よって打倒するべきだ、と。こんな主張をする筋道になる。

もし金沢貞将がこんな風に考えていれば「一日の恩」を感じることはない。過ぎた縁に束縛されることもなく、もっと「合理的に」行動していたに違いない ― もちろん裏切った足利高氏がより合理的であったという主旨ではない。が、ともかく、左翼風に、というかリベラルにこう考える日本人は、現代日本社会では案外なほどに多くの人数を占めるのではないだろうか?

そして、有用性に着目する「限定エコノミー」とコミュニケーションに着目する「一般エコノミー」との区分は、核家族を基盤とする個人主義の社会的メンタリティと親族・ムラ社会を基盤とする共同体主義のメンタリティとの区分とパラレルであるのかもしれない。日本社会の古層にはどちらの家族構造がより強く残存しているのだろうか?こうなると、エマニュエル・トッドの問題意識とも重なってくる……、ま、色々と問題意識をかきたてられるわけだ。


モノの価値は投入した労働量に比例して決まるものである、という労働価値説が正しい。この見方を徹底すると、マルクスのように利潤は労働者から搾取することでもたらされる剰余価値に当たることになる。であれば、生産過程に参加した人間すべてに平等に分配することが絶対的に正しい。最初から分配平等を前提できるなら、誰かが他の全員に大盤振る舞いをするなど、「もてなす余裕」もなければ、される側も「もてなされる理由」がないというものだろう。

こうした左翼イデオロギーが無視できないほどの支持を得てしまっている現代日本社会においては、せっかくのバタイユ理論も実効性はもたないのではないだろうか?もし小生がまだ学生であったら、こんな意見を発言して、周囲を困惑させるに違いない。ずっと昔から、小生は典型的な<KY>である。というよりKYの補集合に属するようでは新しい仕事は出来ないと確信していたので、KY化は最適化選択の結果でもあったのだ。

2022年12月4日日曜日

断想: 社会と個人、トラブルと信仰、法律と自由の関係について

経済学の成長理論においてさえ生産性が上昇したり低迷したりする時代が発生する現象の説明に「そういう時代だった。人がどうこう出来るものではない」という意味で運命論を使うことがあるくらいだ。

まして、その人、その家庭がどんな人生を歩むかには運命という要素が深く関係してくるだろうという観方はそれなりの説得力がある。

困っている人がいるからと言って、親切な人の善意に期待するのではなく、社会がその人を救済する責務があるという思想は、よ~~く考えるべきだと思っている。「社会の責務」は必ず「公的権限の強化」につながり「個人の自由の制限」に帰着するからだ。

***

前回の投稿で書いた下り:

家族には理解されていない信仰に没頭するとき、だからと言って、他の家族は信仰に熱心な家族の一員の判断能力が不十分であると医師や公的機関の決定を求めてもよいだろうか?

まあ、求めることは出来るのだろうが、信仰に熱心だから正常な判断能力を持たないと医学的判断が下される可能性はとても低いと小生は思う。またそんな判断を第3者が行うべきでもない。

つまるところ、家族の理解が得られないままに巨額の寄付行為が為されてしまうのは、その家族自体に何らかの問題があるのではないかと思われてしまうのだ、な。

『これって自己責任論ですよね』と指摘されれば、そうなのだろうナア、と我ながら思ってしまう。

ただ、一つ言えると思うのだが、一人残らず順風満帆で、かつ幸せに満ち満ちた家族の中で、一体、誰が自分一人信仰に没頭し、大枚の喜捨(≒寄付)を行い、 家族から非難されても、それでもなお教会に出かけて礼拝し続けるだろうか?それこそ『その人の性格もあるのかもネ』というコメントしか出せないのではないか。こうなると運命論に近づく。

何か悩みや苦しみがあるが故に、人は神を信じ、祈り、慰藉を感じるものである。これはもう時代や国を超えて、人類共通に言えることだと思うのだ、な。

つまり、一言で言えば、お目出たいノー天気の人が、信仰ある毎日を送りたいと願うはずはない、と。そう思われるわけで、実際にこの命題は誰もが思いつくようでもあり、だからこそマルクス主義者であれば

あらゆる宗教は(心の苦しみを和らげる)心のアヘンである

こんな見解を持つようにもなってくる。 

肉体の苦痛を和らげるのがモルヒネ(アヘン)、同じような働きを心に及ぼす施療として宗教がある・・・実態はそう思われるわけで、故に弱者の救済は宗教ではなく、(社会科学をも含めた)科学だけが実現できる。そこが空想的社会主義から科学的社会主義への前進である・・・とマア、一時代昔にはこんな思想がまだまだ世間で影響力を持っていたものである。

このような科学的観点からみれば、巨額の寄付行為を行う一員によって生計が破壊された家族は、いわば「心のアヘン」の蔓延がもたらした《宗教の犠牲者》という理解の仕方になり、故にその原因となった宗教団体には「アヘンの提供者」としての社会的責任を負わせるべきである、と。こんな図式に沿った主張になるのは、よく分かる。とらえ方が科学的であり、唯物論的であり、極めて社会主義的である。

しかし、それなら全ての国民は科学知識に精通した専門家の指示に従って毎日を送ればよいのだ、という体制に喜んで移っていくかと言えば、

人間には自由という基本的人権があるのだ

と言って、個々人の自由な意思決定が何よりも重要だと考えるわけである。科学的社会主義は、ロジックとして自由な市場メカニズムを信頼せず、専門家による計画経済を選ぶものだが、その帰結は共産主義圏の崩壊、冷戦の終結という形で、30年以上も前に既に決着がついていることである。

***

とはいうものの、以前にこんな投稿をした事がある:

しかし、いかなるものからも完全に独立した人間は存在しない。何らかの神、何らかの思想、誰かに受けた影響等々があって、人は成長し、人格を形成し、生きているものである。全ての人は社会の産物である。人が犯した罪の責任にはその人間を育てた社会が負うべき一面がある。100パーセントの自由意志など実は現実には存在しているはずがないことは誰もが知っている。にも拘わらず、法は自由意志を措定したうえで被告人を裁いている。裁かれる人が社会を裁くことはない。社会は決して裁かれない。ここに<非条理>を感じる人は多いであろう。

一人一人の人間が自由に意思決定して、自由に職業を選び、暮らす場所を決めれば、その人なりの幸福な人生を実現できないはずがない、というのが「旧・西側陣営」の理念で、日本もこんな社会観に立って政治を行っている。

それでもなお、いま生きている一人一人の個人は、その人が生きている社会の産物である。人は社会生活をおくる動物である以上、個々人の自由意志で自らの人生を100%決めるなどと言うのは不可能である。これもまた普遍的な真理である。


そして、犯罪や離散、紛争等々は社会の中で発生するものだ。個々人が自由に行動をしていれば、猶更のこと、トラブルは生じる。人間社会は決して完全な組織ではないのだ。

そのトラブル処理に際して、どこまでが個人間の和解に期待し、どこから社会的な管理に任せるかは、国ごとに、時代ごとに違う。

いま発生している旧・統一教会に関連した「被害者救済」は宗教活動に起因して家族生活が崩壊したとされる人たちを社会の責任としてどんな対応をするかという問題だ。

宗教活動に関連して発生するトラブルは、暴行、障害、窃盗、更には詐欺とも異なる。各方面の当事者それぞれに「悪意」という要素は(理屈として)ないはずである。

全ての宗教に言えることだが、その宗教を信仰していない部外者の立場からみれば、どの宗教も詐欺に見えるのではないだろうか?しかし、信仰とは科学的研究と本質的に異なる活動だ。そこには科学的真理とは別の直観的真理が関係する。なので、宗教に関連して発生するトラブルを解決するには、理解や覚醒、更生などと言った発想をとるべきではない。

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上に引用した投稿にはこうも書いている:

話しは変わるが、福沢諭吉が『文明論の概略』の中で統計的な社会法則に着目した記述をしている。その時代の日本の知性の遥か上を行っているところだ。

要するに、詐欺も窃盗も殺人も毎月、毎年、ほぼ一定の頻度で発生する ― 一定でなければ非定常の状態であって、それには何らかの社会的原因がある。その国の治安状況を反映して、犯罪ごとの平均的な水準には国ごとの違いがあるが、発生率としては非常に安定している。統計的な社会法則の安定性に着目して、例えば社会科学としての「経済学」の有用性にも目を向けている。福沢が非常に先進的であったところだ。

その国ごとのリアルな社会状況を反映して犯罪の発生確率がパラメーターとして決まっている。その確率が実際の犯罪発生頻度となって現れてくるのは統計的な「大数の法則」そのものである。ま、こんなロジックである。

つまり犯罪もまた、社会現象。個人個人の自由意志による行動というよりも、その社会の属性として犯罪をみる観点である。

宗教と信仰の自由を保障する社会であっても、一定頻度で宗教上のトラブルが生じ、中には生計が崩壊してしまう家庭が発生するのは、当然予想される事象である。

もちろん窃盗がないにこしたことはないが、社会は完全ではない。盗みやスリという犯罪は一定数、ほぼ必然的に毎年発生するものである。交通事故も同じである。ゼロにこしたことはないが、ゼロに抑える政策を真面目に実行すれば、むしろ住みにくい社会になるだけで、幸福を求める国民には本末転倒になる。

犯罪抑止は、正義論ではなく、マネジメント論に属する課題なのだというのは、前にも書いた記憶がある。

宗教活動は犯罪とはまったく違う、善意の活動なのであるが、それでも宗教団体は玉石混交で、色々な団体がある。トラブルも毎年発生するのは当たり前のことだと認識するべきだ。

***

いま審議されている「被害者救済新法」では宗教団体の行為をモニターしながら、必要が生じれば勧告や指導ができ、教団が従わない場合には処罰も可能になると報道されている。

野党は「マインドコントロール」されている信者による一定金額以上の寄付を無効にする考えすらもっているようだ。

どちらにしても、宗教活動の具体的中身に入る行政活動であって、もし法案が可決されても、その実行段階で「次なる紛争」が生じ、おそらく「政府の規制は違憲」とする最高裁判決が何年かあとには出てきそうである。

教団、信者、家族など当事者のそれぞれに悪意がなく、それでも発生する経済的トラブルには、《事後的な損害賠償責任》を明確にすれば、それで十分のはずだ。

家計が破綻した信者以外の家族は、蒙った経済的損害を非常識な寄付を行った家族に賠償請求すればよい。すべての財産を寄付して賠償能力がないなら、寄付を受け取った教団を相手にして賠償請求をすればよい。

もちろん、そこには<時効>という法概念も関係してくるだろう。例えは悪いが、交際中にプレゼントした数多くの宝飾品を、哀しくも別れた後になってから「返してくれ」と元フィアンセに迫ったところで、返す義務はあるのかないのか?そんな問題にも通じる話である。

いずれにせよ、その賠償請求が裁判所に認められる状況になれば、宗教団体の布教活動においても、訴訟リスクが考慮されるだろう。

要するに、

どの人も、どの団体も普段は自由な意思決定によって自分の活動にベストを尽くす。発生するべきトラブルについては、事前の行動規制ではなく、事後的なルールをあらかじめ明確にしておく

というのが、その国が「先進国」であるかどうかの分岐点である。

「お上の指導」ではなく客観的な「法」がないという批判は、明治の初め、「憲法もない」、「民法もない」、「商法もない」、「中でも、訴訟法がない」と、だから日本は後進国であると、西洋列強から指摘されて焦りまくった明治新政府が置かれていた環境と似ているように見えてしまうのだが、いかに。


無能な行政府に新規の武器を与えて、この武器を使って、「得体のしれない教団」、「怖い教団」を抑え込んでくれとお目出たい期待を抱くような国民は、そのうち、国民自体がその武器によって自由を制限されてしまうだろう。

宗教にも政治にも興味をもたず、上司に指示されるとおり黙々と元気で働いて、税金をキチンと納めてくれさえすれば、政府にとっては理想的な国民なのである。民主主義のミの字もないのはこのことだ。

実に愚かだと感じる。

教会に奪われた家族の一員を昔に戻して取り戻すのは少なくとも行政の責任ではなく、家族が取り組むべき課題だ。

人間社会は、実に複雑で、入り組んでいる。だからこそ、自由が大切なのだと思っている。


【加筆】

2022/12/05、2022/12/06

 

2022年12月3日土曜日

覚え書: 一度リセットした方がいいと感じる世論は……

「敵基地先制攻撃」とか「反撃能力」とか、そんな勇ましい言葉が頻繁にメディアに登場するようになった。やはり「北朝鮮」と「ウクライナ戦争」が大いに関係していると見える。

そんな中、

「反撃能力」を持った方がよいという点については国民の間でも理解が深まっていると思うのです。

そんな「指摘」が(いつの間にか)増えてきた。『ロシアから軍事攻撃されても徹底抗戦しているからこそアメリカが支援してくれるんだよね』とか、『半月か、一カ月か、反撃できる位の弾薬備蓄は要るよね』とか、極めて自然な気持ちの変化であるとは思う。これ自体は、当たり前の理屈であって、非現実的な批判を乗り越えてドンドン進めてほしいと思う。

しかしネエ・・・

何だか(いつの間にか)日本は普通に戦争が出来る国だと・・・、国民は(いつの間にか)このこと自体は理解しているのだと・・・、こんな風に言いたげな紙面づくり、番組作りが目立つようになったのには、大いに「問題あり」だと感じる。


小生はへそ曲がりだから、

気分としては自分もまったく同じですけど、今の憲法でそれが出来るんですか?やるならやるで、先に憲法を書き直しておかないと、全体がウソになりますゼ・・・

こんな風に思ってしまうのだ、な。たかが条文、されど条文。憲法というのは国の基本でしょ、という理屈は絶対に軽んじるべきではない。

誰もが知っている憲法9条だが

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

武力による威嚇、武力の行使は、「国際紛争を解決する手段としては」…放棄する、と。こうハッキリ書いている。「交戦権」を認めないとも書いている。なるほど「交戦権」という言葉を狭く解釈すれば「海上封鎖」や「臨検」を行う権利を指すそうだが、より広く解釈して「戦争を行う権利」と解釈する見解もあると聞く。もし「反撃」すれば、「先制攻撃」すれば猶更のこと、攻撃をしかけた国は「対日戦争」と認識する。これはもう立派な(?)「戦争」だ。それともロシア政府と同じで「戦争」ではなく「軍事的反撃」であると説明するおつもりで?しかし、交戦権を広く解釈するなら日本政府は一切の戦争行為ができないという理屈だ。公式見解があろうとなかろうと、こんな曖昧さが残っているのは問題だ。

いくら「専守防衛」の範囲内だからと言って、反撃したり、敵基地を先制攻撃するというのは、こうすることが必要な危険な情勢が先に目の前にあるわけだから、日本による「反撃」は「国際紛争を解決するために武力を行使する」実例になる。こんなことは、小学生でも分かる。

なので

やりたいことがあれば、先に憲法を修正しておく。

この程度の努力は独裁者のはずの習近平やプーチンでもやっている。普通に憲法を読めば出来ないが、実は出来るのだという「専門的議論」は、全て《屁理屈》で大嘘だと思われるだけである。

ところが、こんな(小生には当たり前に感じる)意見を表明する専門家が一人もいない、メディアにも登場しない、という現在の日本社会は異様である。

国会という狭い場所で話が進み、マスコミは考えることなく話を伝えている。

そもそも足が地についていない。

そんな風に感じますネエ。口先だけで空回りしている。そこが姑息である。

明らかに現代日本の政党政治は問題解決力をなくしつつある。


修正するべき修正をせず、やりたいことだけを先に決めて、最後に憲法の条文をみて

こう書いてあるのだが、こう解釈すれば、いま決めた事は出来る

最後にこう言う。こんな思考回路は、いかにも憲法を尊重する護憲主義に見えて、実は憲法などは神棚に祭り上げて機能させない《反・法治主義》だと小生には観える。

実際、日本(の上層部?)は《憲法》や《法》を必ずしも守らないところがある。戦前期、天皇が統治するという君主制をとりながら、天皇自身の意志が通ることは稀であった。明治時代早々に《軍人勅諭》が公布され、軍人が政治に関与することを禁止していながら、結局は軍が政党を超えるほどの政治的影響力を持つに至った。

ま、戦前は戦前、戦後は戦後だが、よくもまあ《自由・民主主義・法に基づく支配》という価値観を共有するなどと平気で言えるナア、と。お気楽なものだよネエ、と。そう思うことがママある。

危ないネエ・・・

マインドコントロールされている状態で行った寄付は無効にするという法的扱い。これもいま旧・統一教会に関連して、国会で議論されている、というか野党が主張してやまないと報道されている。

上と同じで、これまた気分はとても分かる。

というか、左翼勢力は保守基盤である宗教団体(の一つ)を解体して自党の利益としたいのだろうが、こんな党利党略はさしあたってどうでもよい話しだ。

しかし・・・寄付行為を規制するという考え方自体が、ヤッパリ危ないなあ、と思う。


大体、認知能力に問題があるわけでもなく、成年後見人がいるわけでもなく、普通に自分名義の財産処分として寄付行為を選択したとき、

「その方」はマインドコントロールされている故、先月の寄付行為を無効としたいという申し出がその方の親族〇〇から出されておる。

当裁判所で審議した結果、申し出は正当であると認められたが故、その方の寄付行為を無効とする。 

返還の手続きはカクカク、シカジカ、本通知の主旨に沿い速やかに進めるように。

相続争いが盛んだった鎌倉時代ならいざ知らず、この現代日本の世でこんな通知がやってきたりしたら、たまりませんぜ。


明治以来、というか旧幕時代を含めて、財産権の神聖は(天皇神聖を上回るほどに)日本では最も尊重されてきた法概念である。

家族、親族、被扶養者などの生計を崩壊させるほどの非常識な寄付が行われた時は確かに経済的な問題が発生する。家族、親族の信頼関係も崩れるだろう。しかし、これらは家族の問題である。親族同士で解決するべき筋合いだ。家族にとっては損失だが、寄付を受けた別の主体にとっては利益である。テロや破壊活動とは違う。その寄付行為が社会的損失だとハナから決まっているというロジックはない。寄付行為が社会の問題であるというには、(数で言うのは適切ではないが)数万件という事例が現に発生して、日本経済を毀損しつつあるという事実認識が先になければならないと思うのだ、な。どれほど目立とうが、点として発生している家族問題を、社会問題に拡大して、新規立法をして、国民全体を束縛する新たな規制を設けるというのは、おかしいと最初から感じている。筋悪だ。住みにくい日本社会がますます住みにくくなるではないか。


話しは別になるが、両親が経営する零細企業が資金繰りに苦しみ、サラ金から高利のカネを借りて、結果的に両親は離婚、家族は離散して、子は施設に預けられる。そんな事態が多数発生したからと言って、借主の経済的苦境を知りながら高い金利で融資する行為は不道徳であり、よって無効とする、と。そんな政策を仮に実行すれば、アメリカのジャンク債市場は全ておかしいという理屈になる。金融にはリスクという要素があり、リスクが高ければ資金コストも高くなるというのは、経済的ロジックなのである。

巨額な寄付行為が原因になって家族が崩壊する瀬戸際に置かれた時、その寄付行為を無効にするという理屈と、経営の苦しさを知りながら高い金利で融資して苦境にある企業の破綻を招くような行為を無効にするという理屈と、本質的にどこが違うのだろうか?寄付ではなく、競馬や競輪にはまってカネを使い、そのために会社を潰してしまったからと言って、家族は競馬や競輪の主催者からカネを返してもらうことが条理にかなうとは思わない。


その人の認知能力に問題がなければ寄付行為は自由であり成立する。認知能力に問題があるのであれば後見人を立てなければならない。その場合、当人に契約能力はなくなる。

家族には理解されていない信仰に没頭するとき、だからと言って、他の家族は信仰に熱心な家族の一員の判断能力が不十分であると医師や公的機関の決定を求めてもよいだろうか?

まあ、求めることは出来るのだろうが、信仰に熱心だから正常な判断能力を持たないと医学的判断が下される可能性はとても低いと小生は思う。またそんな判断を第3者が行うべきでもない。

つまるところ、家族の理解が得られないままに巨額の寄付行為が為されてしまうのは、その家族自体に何らかの問題があるのではないかと思われてしまうのだ、な。

ただ、不安に感じた家族が、一定割合以上の資産を「生計のため共有されるべき資産」としてあらかじめ保護を申請するという法制度はあってよいかもしれない。これならまだ分かる ― 実際に具体的にどう書き起こすかは関連法との整合性もあって面倒だろうが。しかし、マインドコントロールが契約無効の理由になるという思考回路は極めて危険だと思いますネエ。