昨年12月であったが、河野太郎デジタル相が『運転免許証の更新手続きをオンラインで自宅から出来るようにする』との方針をABEMAであったか、某ネット番組で話したところ、否定的な意見が結構出ているとの報道がある。正直、ビックリだ。
その反対意見には
- 視力検査どうするのか?
- 交通事故の悲惨さを思うとき、こういう発想はいかがなものか?
など唖然とさせられるものがあるかと思うと、これを報道した記事の最後に
視力検査や高齢者をどうするのかなど、問題もありそうだ
といった結論めいたことを述べているので、ほとんど絶句の極みに立ち至った。
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実は、小生のカミさんは年金をもらい始める時期なのだが、つい先日、北海道では免許更新のための優良講習がオンラインで配信されているので受講したところだ。
オンライン受講時には受講者のマイナンバーカードでログインし、免許証番号も入力する。マイナンバーカードの顔写真と免許証の顔写真が合致しているかどうかを顔認証するのであろう。ついでPCを操作している受講者が本人であるかどうか、PCのWEBカメラで自分を撮影し、その写真をサーバーにアップロードする。受講者が本人であるかどうかもチェックされるわけだ。
あとは、オンライン講義の区切りごとに簡単なクイズが出されるので回答していくという仕組みだ。運転免許試験場でも講習を受けたことが当然あるが、ただ聴いているだけだ。それに比べると、クイズに答えるだけでもキチンとしている。そのクイズは講義を聴いていないと答えづらい内容になっている。クイズの内容を日ごとにランダムに変更するのであれば、きちんと講習を聞いていなければ正解できず、次のステップに進めないだろう。オンラインの方が寧ろ良いと感じる。なお、クイズへ回答する際にも顔写真をアップロードする必要があるので、別の人が傍にいるにしても付き添っていなければならない。とはいえ、運転免許試験場における聴きっぱなしの講習風景を考えれば何ら問題ではないであろう。
更に、オンライン講習を受講すれば、その免許証番号の人物がオンライン受講済みである記録がサーバーに残る。免許証を交付してもらうためには警察署に一度は赴く必要があるが、受講済みであることは即座に確認される。後は、免許証用の写真を警察署で撮影する―背景が無地である必要があるので、自宅で撮るのは却って面倒なのだ。そうしてから、カミさんの場合は1カ月後以降に出来上がるという新免許証を待っている所である。
カミさんは、ほぼほぼ高齢者である。小生も高齢者であると自信を持って言える。その二人が、オンライン講習の方が便利だと痛感したのだから、上に引用した記事の結論部分にある「高齢者」は、さしあたって必要がない。
カミさんがオンラインでやったことは講習のみであり、書類記入は警察署にまで行って記入した。だから完全オンラインではない。それでも便利になったと感じる。これが、書類記入もオンラインで申請可能となり、写真はPCのカメラで撮影し、マイナンバーカードの顔写真と顔認証をかけてOKなら、アップロードした画像から顔の部分だけをクリップして背景が無地の写真をサーバー側で自動作成すれば、自宅にいながら完全オンラインで免許を更新できるわけで、技術的には今現在でも容易なはずだ。
残るのは視力検査であるが、これも事前に近くの眼科で視力検査をしてもらい、そのデータを眼科から登録するか、データを書き込んだファイルを本人がアップロードするかのシステムを作るのは何も難しくはない。視力検査だけならメガネ屋でも可能だろう。
つまり、高齢者も、写真撮影も、視力検査も何ら問題ではない。事務手続き合理化と「交通事故」がどう関係してくるのか理解不能である。問題でもないのに問題だと騒いでいるのは内容を知らずただ騒いでいるのであろう。問題がないのに問題があると騒ぐ人たちがいるということが即ち日本社会の問題である。
但し、という但し書きはやはり必要だ。
まず高齢者の場合、加齢を原因として認知能力の低下が高い確率で予想される。身体能力の衰え、反射能力の衰えも運転適性を大いに左右する。であるが故に、加齢とともにいつかの時点で認知能力等を検査する必要性はあり、その検査はオンラインでは(不可能ではないが代理者が傍にいることもありうるので)難しいのである。なので、認知症発症率が高くなる年齢、例えば後期高齢者以上の免許証更新者についてはオンライン手続きを認めないといった措置は必要であろう。
ただ、これは認知能力の検査の必要性があるという理由からであって、年齢を原因とするものではない。ということは、認知能力減退あるいは精神疾患で通院中の人物については、やはり運転適性の判断に対面検証が望ましいわけである。しかし、「通院中」、「治療中」であるという事実は(本来は)病院側のデジタルデータを活用すれば直ちに確認できることなのだ。仮に、(理想的には)自動車運転不適と判断される患者については、医師がそのデータを医師の判断に基づいて入力し、それが警察側のサーバーに自動転送される仕組みを設けておけば、免許証更新通知の段階でオンライン手続きで可であるか否であるかどうかまでも付記できることになる。極めて便利、かつ社会的安全も担保されるだろう。とはいえ、このレベルにまで立ち入って私たちの生活を便利にすることが望ましいのかどうか、それは日本社会が判断するべき事である。
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火事があるときに「火事だ」と騒ぐのは社会的には有益である。しかし、火事がないのに「火事だ」と騒げば、リソースがムダに使用される一方、必要なところにリソースが投入できないという二重の無駄が生じる。
問題解決だけではなく、問題認識のステージにおいて、既に社会の発展を妨げる行為はありうるということだ。
今の日本社会の真のデジタル・ディバイド問題は、若年層・壮年層・高齢層という年齢を原因とする格差ではなく、PC、スマホ、色々な周辺機器といったIT機器を難なく操作できるか、使いこなせるかといったITスキルを原因とする格差が拡大している所にある。
スマホは使えてもキーボードを打てず、パワーポイントやエクセルはおろか、ワードで文書作成すらできない高校生が大学に入学してきている。そんな若者がデータベースから自分の問題意識に応じた情報を検索し、抽出し、デジタル化して解析するなどという作業が出来るはずがない。だから、ネット情報をコピペするというお手軽な方法に頼ったりする。お手軽な方法だからアウトプットは低く、価値につながらず、優位性がない。つまり、勉強や研究、開発で用いられているスタンダードなメソッドを修得しているかどうかで若年層にもデジタル・ディバイドが拡大していることに目を向けなければならない。
そこが日本社会の最大の弱点なのだということに余りにも無頓着な人が現役として立派に(?)仕事をしている。そして「高齢者は…」などと月並みで単純な言い回しで結論を書いている。
嗚呼、何て単純で空っぽな頭しか持ってないんだ
と、涙が出るほどの不甲斐なさを感じる。そこに大きな弱みがあるのだということだ。
こうした事態をもらたす教育環境上の格差、営業業態上の格差、生活環境上の格差、これらの色々な格差を<丁寧に>観察し、報道することが非常に重要である。
日本社会のDX化を妨げる主たる要因は、必ずしも年齢や世代ではなく、寧ろ上に述べた色々な要因による《格差》、なかでも《経済格差》、及びこれらの格差から派生する《意識の差》ではないかと思っている。
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幕末から明治の文明開化の時代、日本人が《写真機》なるものに示した恐怖は相当のものがあったという。今では、滑稽そのものなのであるが、
写真をとると魂を抜き取られる
と触れ回る人が、実際に経験した人の前で面子を失い、恥をかく場面は、確かに少なかったのだ。
そして、写真を拒絶するような人間は必ずしも年齢とは関係がなかった。年齢とは関係なく新しもの好きで、好奇心の強い人は一定割合いるものである。逆に、新しいモノに反感を持つ人の割合も年齢とはあまり関係しないものだ。確かに、新しい物事に反対論を述べる高齢者はいるが、実は(小生の身の回りをみても)それほどの多数勢力ではないように感じる。功成り名を遂げて概ね引退した世代は、世の中の変化に対して声高に騒ぐ動機はない。更にいえば、今後長い期間に渡って反対論を述べ続けることもないのである。むしろ青壮年層であるにも関わらず、新しい物事の導入に強い反感を示すグループが、将来の日本にとっては大きな問題なのである。
この事情は幕末から明治にかけての騒乱においても同じであった。攘夷と開国、尊皇と佐幕、文明開化への共感と拒絶などなど、激しい対立は必ずしも年齢や世代で線引きされてはいなかったのである。その辺りの事情は(例えば)島崎藤村の歴史小説『夜明け前』を読めば当時の世間のイメージが伝わってくるものだ。そこでも描写されているが、高齢者というのは時代の変化に困惑するがそれだけである人が大半である。激しい対立は壮年、青年の現役世代の間の「考え方の違い」から発する。衝撃的な「大久保利通暗殺事件」以前の日本で続発した内戦、内乱、要人暗殺などはその現れだ。推して知るべし。「変化の時代」とは昔と今の違いこそあれ、互いに似ているものだ。明治維新と文明開化に反対したのは、その時代の「高齢者」であったなどと言えば、唖然失笑、バカの証明になっちまいますゼ……。
いまマイナンバーカードをめぐって、『口座番号を紐づけするなんて、オオ嫌だ!』とか、『マイナンバーカードなんて絶対作らないヨ!』などと言っている人たちは、その昔、文明開化の時代になっても『写真なんて、おいらあ金輪際御免だネ!』と啖呵をきって抵抗した江戸っ子を連想させる雰囲気をもっている。
【加筆】2023-02-16
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