2024年8月2日金曜日

ホンノ一言: 朝ドラの「総力戦研究所」に思う

今朝のNHK朝ドラでは、ヒロインの夫君になるであろう男性判事が、対米戦争開戦前に内閣直属の「総力戦研究所」で仕事をしていたことが明かされた ― モデルとされる人物が実際にそうであったかというのは別で、多分違っているのだろうと思う。

(注)・・・と思ったら、モデルとされる三淵乾太郎を総力戦研究所研究生に任命する任免裁可書が国立公文書館に保存されているようで、ドラマは事実を踏まえていると分かった。これはよく調べたものだナアと感心した。

「総力戦研究所」は本ブログでも話題にしたことがある。実際、<総力戦研究所>でブログ内検索をかければ複数の投稿がかかってくる。

総力戦研究所だけではない。公式の官庁である「企画院」でも物資動員計画策定や統制経済システムへの移行が着々と推進されていた。そこでも、対米戦争の見通しは(普通の前提に立てば)悲観的なものでしかなかった。

企画院総裁であった鈴木貞一は、Wikipediaによれば、戦後のインタビューで以下のように語っているそうだ:

戦後の鈴木へのインタビューによれば、企画院総裁就任の当初、船舶の損耗率の問題で対米戦争は困難という分析結果を発表していたが、東條内閣の成立と同時に、海軍が責任を持って損耗率を抑えるから大丈夫だと主張したため、「心配はない。この際は戦争した方が良い」という見解に変わった、と述べている。

陸軍と比べて善玉とされる海軍だが、戦前日本政治史の要所要所に登場する海軍の行動をフォローすると、海軍の戦争責任は極めて大きいというのは、否定しがたい事実だ。

『なぜ戦争を止められなかったのか』と懺悔する人たちは昭和20年代の日本には数多いたに違いない。

それはともかく、対米戦争の(普通の前提に立てば)悲観的な見通しは指導層の間で広く「参考情報」としては共有されていたというのは、概ね事実なのだろう(と想像している)。

実際、昭和天皇の内意をうけてギリギリまで戦争回避に努めた東条英機首相自身が『清水の舞台から飛び降りる』つもりで開戦に踏み切ったのは、記録されている発言からも分かる事で、これ自体が実に不思議で、非合理が支配する日本的政治状況そのものであるとしか言えない。

なぜ上層部は合理的政治判断が出来なかったか?この問いが今でもとても重要だ。

人によっては「当時の日本政府の決定に合理性をもたせた確率的条件」について考察している。つまり人間は常に自分は理に適ったことをしていると考えるものだという、こういう人間認識が根底にある。が、問題認識としては「当時の日本政府はなぜ理に適わない決定をせざるを得なかったか?」、「非合理な決定は(政治的に)選択可能であったが、合理的な決定は(政治的に)選択困難であったのか?」。個人的にはこちらのほうが知的関心をそそられるのだ。

「春秋の筆法」というのがある。直接的原因に加えて、間接的原因、いわゆる「遠因」に注目する歴史観を指す。

そのひそみに習えば、日本を対米戦争に導いた遠因は、1925年に加藤高明内閣の下で導入された「普通選挙」である。

全ての成人男性に参政権が与えられたことがスキャンダルに脆弱な政党政治を自壊させた。それがめぐりめぐって対米戦争へとつながっていった……、これが小生の歴史観である。

つまり、戦前期・日本社会の民主化が非合理な太平洋戦争開戦の遠因である。

日本人の好戦性、妥協を嫌う潔癖性、文治より武断を志向する感性は、仏教文化が朝廷に浸透した以降の貴族層とは正反対のエートス(=気風)で、これは日本史を通して何度もうかがえる傾向だ。

いま、Amazon Audibleで Ezra F. Vogelの”China and Japan: Facing History”を聴いているが、1932年1月の「上海事変」について(それとも1928年の済南事件について、だったか?)

日本人居留民保護が目的なら、派兵するよりは、一時避難を支援する方が遥かに低コストで、かつ中国の反発もかわず、国際的にも評価されていたはずだ

石橋湛山がこんな主張をしていた、と語っている。そもそも石橋湛山は、《小日本主義》を旨としており、植民地の独立を認め、軍は撤退して、貿易の利益を追求した方がよいというのが持論であった。戦後日本の「牙を抜かれた」日本人にとっては、自然な発想だが、戦前期においてはこうした合理的戦略に耳をかす日本人は極めて少数であったのだ。


社会の民主化が進めば、より多くの国民が有権者となり、その国の政治に直接的な影響を与え始める。

「民主化」は、欧米に発する現代的な価値観では「進歩」と認識されているが、しかしながら、世論の大半は「凡論」と「愚論」で占められているものだ ― この辺については何度も投稿している。見事な考察、素晴らしい提案、満点のレポートが少ないのと同じ理屈で、名論・卓説は社会の中で常に少数である。

石橋湛山が唱えた正論が「正論」であると理解できる日本人は少なく、その声は当時の多数の世論にかき消されてしまっていたのである ― ガード下で中身のある議論など出来るものではない。

もし昭和天皇とその側近が、独裁的に政治を方向付けることが可能であったならば、太平洋戦争は起きていなかったであろう。参政権のない日本人は、天皇が任命する宰相を受け入れざるを得ず、妥協的な平和外交に不満はあっても従わざるを得なかったに違いない。明治天皇が独裁者であったなら日露戦争も起きなかったはずである。


上のヴォーゲルの著書では、明治天皇が崩御してから何年もたたないうちに、第一次大戦が起こり、世界構造が激しく変動する中で、日本は明治以来の古い政治システムのままであり、これを支えてきた桂太郎や原敬、山縣有朋といった中心人物を次々に失ったことが、実に日本にとっては不運だったと言っている。

天皇を君主として武士、士族が支配する国から、国民自らが支配する国へと自らを変革(=憲法改正)する試みに日本は失敗した。

ユンカー(≒貴族)出身の名宰相・ビスマルクと同じく貴族出身の名参謀総長・モルトケを失った後の19世紀末ドイツ帝国がどうなったかをみれば十分だろう。 

昭和初年に「昭和維新」という言葉が流行したそうだ。2.26事件が起きた年に禁止されるまで広く歌われたという「昭和維新の歌」がある。今では何だか「血なまぐさい」印象を免れないが、明治以来の政治システムには欠陥があるという認識は広く共有されていたのだろうと想像する。


要するに、戦前は戦前で<憲法改正>に正面から取り組むべきであったのだ、と。こういうことではないかと思う。 

それが出来なかったのは、確かに<政治の失敗>であった。その失敗は、大正以降の日本の<政党政治>の弱さに由来するものかもしれない。その弱さが戦後日本にまで継承されていないならば幸いだ。

戦争は政治の延長であるというのはクラウゼヴィッツの言葉だが、とすれば政治が既に失敗していれば、戦争までも失敗するのは、実にシンプルな理屈ではないか。

「政治の失敗」とは、言い換えれば「統治の失敗」になる。これが当時の戦前期・日本の迷走状態をよく言い表していると思う。「それは何故か?」という問いかけが、戦後のいま、望ましい憲法改正を一度として出来てこなかった戦後日本においても、やはり重要ではないだろうか?

民主主義は民主主義で、ただ国民が有権者として存在していれば、それで機能するわけではない。君主制は君主制で、ただ君主がそこにいれば、それで機能するわけではない。マ、当然の理屈だ。


【加筆修正:2024-08-03、08-04、08-05】


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