2024年8月9日金曜日

川口・福井『優しい日本人が気づかない残酷な世界の本音』の覚え書き

AmazonのKindle Unlimitedで川口マーン恵美・福井義高『優しい日本人が気づかない残酷な世界の本音 ー 移民・難民で苦しむ欧州から、宇露戦争、ハマス奇襲まで - 』を読んでみたところ、結構内容があったので、特に記憶に残った箇所を(例によって)リストアップして、覚え書きとしておきたい。

まず

川口: ただ、喫緊の問題としては、他党がAfDとの連立を拒絶している限り、今、国政でも州政でも、残りの党と連立を組まざるをえず、それがろくなことにならないのです。

(中略)

AfDを追い落とそうと躍起になっている間に、緑の党をキングメーカーにしてしまったのです。

福井: 国民の声を公平に反映するとして比例代表制を支持する知識人は多い。しかし、現在のドイツ政治を見ると、比例代表制の深刻な欠点が露呈しています。…かつてはCDU・CSUと社民党という二大政党プラス自民党だったドイツでも多党化が進み、最近では第一党でもせいぜい三割程度の得票数です。したがって、必ず連立政権となるうえ、その組み合わせも選挙前にはわからず、選挙後の合従連衡は政党間の取引で決まるので、国民は蚊帳の外です。…比較第一党が過半数を得る可能性が高い小選挙区制のほうが、まだ民意を反映しているといえます。

少し以前に小選挙区制については、一度投稿したことがある。 ドイツは比例代表制を採用している代表的な国だが、理屈と現実とは往々にして食い違うことが分かる。

次に、選ばれたエリートによる統治については

福井:欧米のエリートはまさにグローバルなエリートどうしの連帯感はあっても自国の庶民との国民としての一体感はないも同然です(Goodhart, The road to somewhere)。EUの場合も、国単位ではなくヨーロッパ、さらには世界単位で聡明なエリートが連携し、政策を進めていくという構図です。

川口:グローバリストということですよね。

本ブログでも何度か投稿しているように、小生には"Vox Populi, Vox Dei"(=天声人語)とはとても思えず、また(個人的な)経験則にも合致しないので 、むしろ"Vox Populi, Vox Diaboli"(人々の声は悪魔の声)ではないかと感じることが多い―これも一度投稿したことがある。

上に引用した下りは、国民一般と乖離した統治は国民のための政策にはつながって来ない。こういう当たり前の理屈を述べているわけだ。

ただ、その国の国民の声をきくことが、全体最適ではなく、局所最適にしかならないというのは、やはり言えることではないのかとまだ思っている。

全体最適を犠牲にしても、その国にとっての局所最適を追求すればよいのだと言えば、それはその通りで「ご随意に」としか言えないが、これこそトランプ前大統領が唱えている"America First!"の政治観そのものであるのも核心的論点の一つだろう。

それから、

川口: …主要メディアは西側が支配していて、旧東ドイツの人々はいまだに民主主義が未発達などとバカにしていますが、これはまったく正しくない。旧東ドイツの人たちは、四〇年近い共産党支配の経験により、メディアや政府の言っていることをおいそれとは信じない。最近の政府は、自由を抑圧する方向に動いていて、メディアが政府を監督する役目を忘れて、あたかも太鼓持ちのようになっています……

福井: 同感です。共産主義体制下ポーランドの反体制知識人、哲学者にして現欧州議会議員のリシャルト・レグトコは、「自由な社会における全体主義の誘惑」という副題をもつ『デモクラシーにおける悪魔』(原文ポーランド語、英・独訳あり)で、川口さんと同じようなことを書いています。  レグトコの主張を一言で表現すれば、自ら経験した共産主義と今日の欧米「リベラル・デモクラシー」の類似性、共通性です。

「メディアが政府を監督する役目を忘れて、あたかも太鼓持ちのようになっています」とメディアを批判していているのは「どこの国も同じなんですネエ」と何だか安心してしまう。確かに現代日本の大手マスメディアも上の指摘にもれず、そのサラリーマン化(?)、退廃振り(?)は酷いと小生も感じるが、しかし大上段にメディアを批判をするのもどうだろう、マスメディアってそれほど大きな存在なんですか、と。何だか期待過剰。力もないのに贔屓の引き倒しのようで、憐れなようにも思う。

大体、「筆一本」で書きたいことを書いて、また「舌先三寸」で話したいことを話して、それ以外には社会に影響を与える権限はまったく持っていない民間メディア企業が、仮に本気を出すとしても、ホントに社会を変えられるのか?言葉だけで、どれほどのことが出来るだろう?そんな疑問がある。

メディアが世の中を変えるとすれば、それは国民一般の潜在心理に最初からある問題をとりあげて、かつ「これなら出来るはずだ」と希望を与えられる方向を示す時だけである。1931年に突然発生した「満州事変」の後、陸軍の出先の「暴走」を厳罰に処すことが出来なかったのは、10年を超す停滞と沈滞を吹き飛ばすような「快挙」だと、日本人一般が感じたからである。マスメディアが力を発揮できるのは、こんな時である。

もし日本国内のマスメディアがいま信頼を失っているとすれば(現に失っていると思うが)、「自社の方針」を堂々と語る経営者がいなくなったことが主な理由だろう。メディアを信じるというのは、会社を信じるのではない。創業者を信じる、代表者を信じる、主筆を信じる、要するに伝える人を信じるから、その人がいる会社の意見もまた信じるわけである。要するに、日本のメディア企業もついに「匿名の普通の民間企業」になったのだ。メディア企業の幹部は、もはやジャーナリストではなく、会社経営者である、組織管理者である。編集デスクは会社が雇用している中間管理職である。中でも、大手メディアは(たとえ斜陽産業だろうと)勝ち組である。エリートである。だから、信用されないのだ。「お前もグローバリストなんだろう?」と。

日本経済新聞のように最初からグローバリスト向けに紙面を編集しているなら信用してもよい。しかし、庶民の味方だと名乗りながら、実際には世界標準の価値観から模範答案を書いて、価値観の共有やら、コンプライアンスを求めては「決めたルールには従え」と、ただ阿呆のように反復するだけだ。日本で暮らしている普通の人の潜在心理に寄り添おうとはしないメディアは、もう無くなってもよい。

要するに、知性の輝きがない。マア、こういうロジックではないかと理解しております。

こういうロジックがあるなら、もう仕方がない。国民一般から信用されなくともよいから、あくまでも世界の全体最適を求めるエリート・グローバリストの立場を貫かせてもらう。これが選択肢の第一だ。もう一つは、世界などはどうでもよい(とまでは言わないが)、大事なのは我が国だ。我が国の国益を追求するロジックで一貫させてもらいます、と。このナショナリスト的立場が選択肢の第二だ。戦後ジャーナリズム伝統のヒューマニズムでは、宇露戦争もイスラエル=ハマス戦争も追いきれない。もう破綻しているのである。

故に、選択肢は二つだ。各メディア企業がいずれの路線を選ぶかはその会社の自由である。ただ、そこに知性がなければ、よくて「太鼓持ち」、悪ければ「便所の扉」(どちらにでも押した方向に開く)と、昔の某陸軍大臣が揶揄されたと同じあだ名で呼ばれるに違いない。


日本について言えば、上の「メディア」が云々という箇所を「野党」が云々と置き換えれば十分だろう。(不祥事の責任をとって政権から降りるべき)与党と(与党に代わって政権を担うべき)野党が、水面下で密談をして、何かの取引をして、それが日本の政治なンだと開き直って、国民には「コンプライアンス」を要求する、こういう「国対政治」の慣行が(実質としてはそんなことはないと小生は思っているが)世論を無視した抑圧的な統治スタイルだと国民一般には感じさせる。そんな気分を社会に拡散している。こう思われるのだ、な。

日本については、メディアではなく、まず野党でしょう、批判されるべきは。そんなところであります。

それは何故か?

何故かという問いかけが、研究でも、ジャーナリズムでも、あるいは受験勉強を含めたあらゆる勉強には絶対不可欠な問いかけなのだが、ここから先に入ると投稿が長くなり過ぎる。おいおい詰めて行こうか、ということで。

この辺が最近の個人的な日本メディア観(と政治観?)でございます。

最後に、

福井:結局、多民族国家というのは、スイスのように徹底的に分権化しない限り、強権的な支配の下でしか存続できないわけです。深刻な対立を伴わず多数決で決めることができるのは、極論すればどうでもいいことだけです。多民族国家だったオーストリア=ハンガリー帝国出身の経済学者ヨーゼフ・シュンペーター(『資本主義・社会主義・民主主義』)や法学者ハンス・ケルゼン(『民主主義の本質と価値』)が指摘しているように、本当のリベラル・デモクラシーは、根幹において考え方が一致している集団、つまり国民国家でしか機能しないのです。

本文ではこの後、移民受け入れがもたらす問題に入って行くのだが、日本については慎重な移民・難民受け入れ政策が功を奏して、最近年の欧州の政策転換を結果的に先取りした塩梅になっているのは、実に幸いな(?)ことである。

とはいえ、日本の労働市場をみれば積極的な移民受け入れを拒絶し続けるのは不可能で、おそらく2050年になるより前に国内居住者の1割程度は移民系日本人になるだろう、と勝手に予測している ― 引用はしないが公式の予測値もあったはずだ。

そうなったときに、例えば浅草の三社祭はどうなるのだろう、明治神宮の初詣はどんな感じになるのだろう、伊勢神宮や熊野大社は守られていくだろうか等々、気になる点はあるが、それは後世代に待つしかないことだ。


それにしても、タダ(というワケでもないのだが)で新刊の本書を最後まで読ませてくれるのは、Amazonはホントに太っ腹だネエと感謝の念を禁じ得ない。


【加筆修正:2024-08-11】









 



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