パリ五輪のボクシング競技は性別騒動の渦中にある。
昨年の世界選手権では性染色体検査で不合格となった選手が今回の五輪には出場できているのが問題の発端だ。
LGBTの出場資格が問題になっているのではない。性分化疾患によって女性であると認識されてきた生物学上の男性(?)が女子競技に出場する資格はあるのかないのかという問題である。
一口で言えば、男性なのか女性なのかという制限的二択問題に対して、ニッチ(?)な人もいるということである ― 最近流行の「多様性」を認識するという意味では意義のある問題提起だ。
実際、「多様性」と「フェアネス(=公平性)」とをいかにして具体化していくかという問題は、極めて21世紀的な社会問題になりつつある。
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今日は、視野をグンと限定した一言メモである。
本来は「男子〇〇」、「女子〇〇」と男女別に競技種目を設けず、性別に関係なく出場できる単一種目だけがあれば、五輪としては十分だろうという見方がありうる。
五輪の標語は
より速く、より高く、より強く
なのだから、敢えて同じ競技を男女別に行う必要はないというのが、最も原理的な方式になろう。
女子種目が設けられているのは、多くの競技において、女子選手にも表彰の機会を平等に設けることが唯一の目的だろうと、小生は勝手に理解している。であれば、女子種目への出場資格は厳格に定義しておくことが理に適う。
遺伝的に通常の(?)女子選手より優位な身体特性を有するのであれば「女子種目」への出場資格はない
これが理屈だろう(と勝手に思っている)。
こんなことを言うと、男女の性別以外にも、体格、体力の違いをもたらす要因は他にも存在する。最初から機会が与えられない人々にもチャンスを与えるべきだという異論が出てくるだろう。パラリンピックは一つの(部分的)解だと思うが、障害の有無の他にも(例えば)年齢も合理的区分としてありうる(かもしれない)。例えば「シルバーエイジ」という種目を設け、60歳以上のみに出場資格を与えるという選択肢もある(かもしれない)。(例えば)ゴルフ、射撃、弓術、馬術、水泳などといった競技は、年齢別種目を設けると多くの人にとって興味がいやます可能性がある(かもしれない)。
いずれにしても、普通の体格、体力、運動神経しか持っていない「普通の人々」が、「世界最高の技」を争うというロジックは、これ自体が矛盾している。普通の人々が五輪(によらずスポーツの祭典)に出場したいならば、普通に代表選考会に参加すればよいことである。
繰り返すが、女性であるが故に記録的には劣位であっても、スポーツの祭典で表彰の機会を平等に与えるべきである、と。こう考えるのが「今日的フェアネス」には適っている。女子種目を設けているのは、それが「善い」という(多分、欧米発祥の?)価値観をハナから採っているからだ(と勝手に考えている)。また「善い」と併せて「面白い」という理由もあるのだと思う ― ビジネスになるという点は、女子プロスポーツの現状を参照するに、あまり強調するべきでないと思われるが。
要点は、何が《フェアネス(=公平性)》に適うかという点である。
ただ、こうした価値判断とは別に、原理的に考えれば、競技ごとに完全オープンな種目のみを開催するのが、五輪の精神には沿っていると(勝手に)思っている。五輪の精神は、公平性の追求というより、人間の限界への挑戦にある。五輪の標語を読む限りは、そう考えざるを得ないからだ。
ジェンダーフリーという現代的哲学を貫くとすれば、性の認識と現実世界とは独立になる理屈だ。男女の性とは自由な自意識なのだから。とすれば、敢えて色々な層別化因子の中から「性」に着目して、男子記録、女子記録を別々に扱う姿勢は矛盾している、そんな社会心理が普通になるであろう。人間の限界への挑戦というときの「人間」は、男性と女性を同一視する人類全体を概念すると考えるのがロジカルである。
要約すると、あらゆるスポーツ競技は、出場制限を設けず《オープン》で開催し、必要に応じて《女子種目》(及び他の何かの別種目)を設ける。そうすれば、性分化疾患による「生物学的には男性、外見と自認は女性」というケースをどうするかで思い悩む必要はなくなる。
これは全くの無駄話だが、前時代の日本で行われていた仇討は、女性であっても実行可能であった。仇を討つべき敵が男性であっても女性ゆえのハンディ(?)を与えるという措置はなかった。また、剣の技量を争う御前試合に女流剣士が参加することもありえた。が、そこで男子部門と女子部門を分けるという風には明治以前の日本人は考えなかった(と言っても間違いはないはずだ)。
小生は大相撲が大好きだが、その一つの理由は体格、体重の違いを含めて、まったく無差別である点だ ― 女性力士は土俵に上がれないという伝統的性差別はあるが実質的な制限にはなっていない(と思われる)。これをアンフェアであるとみるか、フェアであるとみるかは、文化的伝統によるだろう。
こんなことを勝手に思ったりしているところだ。
【加筆修正:2024-08-07】
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