2024年9月16日月曜日

覚え書き: これも日米株価の相互依存性?先行きは?

東京の日経平均株価とニューヨークのダウジョーンズ平均が、相互に依存して変動しているというのは、よく指摘されている「事実?」である。

確かに大規模投資機関はグローバルレベルで資産管理をしているので、東京市場とNY市場との相互依存性というのはあって当然だ。統計的な<因果関係?>という観点もありうる。

ただ、東京の円ベース株価とNYのドルベース株価をそのまま比べても、相互依存関係はいま一つ明瞭でない。



上図は、2019年9月13日以降2024年直近時点までの日米株価を比較したものだ。赤線が日経平均、青線がダウジョーンズ平均である。比較に便利なように開始日株価を100とした指数にしている。だから、最終日に高い方の株価がデータ期間を通して良好なパフォーマンスを示したという結論になる。つまり、この時期、日本の株価の方が良かった形になっている。

素の株価系列を比べると、「8月5日の大暴落」までは日本の株価の高進ぶりが目立つ。が、日米株価の相関という側面をみると、「両方、上がって来たネ」という以上には、それほど明瞭な相互依存性が日米両国の株価にあるわけではない。そんな印象もある。

しかし、日経平均株価をドルベースに換算してから比べると




上図のように、確かに日米株価には相互依存関係がありそうだという、そんな図柄になる。

それと、コロナ・ショックからの急回復とピークアウトでは日経平均に明らかな先行性が見てとれる。

この先行性は、どうやらその後も認められるようであって、ロシア=ウクライナ戦争勃発と経済制裁、インフレ抑止のための金利引き上げなどから日米とも株価は低落したのだが、その後の回復へのタイミングをみても、東京市場はニューヨーク市場より1年程度は先行しているように窺える ― 2022年から23年までのアメリカ株価をどう見るかで「見ようによっては」だが、この辺り変動率に定常化してからレジームスイッチングVARモデルを適用すると面白いかもしれない。面倒なので自分ではやるつもりはないが。

だとすれば、いま足元で東京市場は停滞しており、8月5日には大暴落が発生した。ニューヨーク市場はまだ順風のようだが、これまでの東京市場との相互関連を思うと、必ずしもアメリカ株価は楽観できない、と。そんな見方もあるかもしれない。


備考:

データはセントルイス連銀のFREDからダウンロードしてから、Rでそれぞれのcsvファイルを読み込み、描画した。が、方法としては個別にtsibble型に変換してから日米株価、為替レートの3系列を日付でleft_joinし、データをpivot_longer、そのままautoplotという、グラフ作成としてはいま流行のやり方で描画した。図は正しいはずだが、以前のマニュアル式とは違って、逐一チェックしているわけではない。

以上、メモしておきたい。

2024年9月13日金曜日

メモ: 世の中、運しだいという物事が多いようでして……

 一流の人物は極めて少ない。二流の人物が多く、三流以下の人物はもっと多い。こんな能力分布があらゆる分野、領域に当てはまっている、というのが小生の(個人的な)経験則だ。これは何度も投稿している(たとえばこれ)。

政治の世界でも、経済・経営の世界でも、同じだと思っている。

なので、一流の政治家は少なく、凡庸な政治家が大半である。

もっと悲しいことは

一般有権者にも、上の能力分布が当てはまるので、その政治家が一流であるか、二流・三流であるかを見分ける能力をもつ人は稀である。

ということだ。

ちょうど

歴史に残る一流シェフが調理した料理を正しく賞味できる人はほとんどいない。目隠しをされて一流のワインとテーブルワインをテイスティングだけで正確に識別できる人が少ないのと同じである。

故に、有権者が選挙で選ぶというのは単なる形式であって、実際に一流の政治家が責任ある地位に就けるかどうかは、世論によるのではなく、運による。

ただ

世襲の君主制において名君の子が一流であるかどうかも運による。

要するに、同じである。

つまり、アメリカの次期大統領が一流であるか、凡庸であるかは、運しだい。これが今の世界を支配するロジックだ。そんな風に思いめぐらす今日この頃です。

一流の政治家が一流であることを国民が知るのは、一流でなければ解決できないような乱世が到来し、実際に平和を取り戻した時だけである。

その「乱世」で、民主主義を制限した方が良いのか、あくまでも民意で指導者を選びなおす方が良い結果につながるのか、歴史上の永遠の問題だと小生は思います。

凡庸な為政者で世の中が治まっているのは平和であるからで、これ自体は好いことだ。

以上、たまたま思いついたのでメモする次第。

2024年9月12日木曜日

読後感: 宗教と愛と理性と何が確かなのか?

英国の数学者にして哲学者であったバートランド・ラッセル( Bertrand Russell)は、本ブログでも何度か話題にしているが、少し前の時代(今でもそうかもしれないが)の英語の入試問題では、再頻出の文筆家であった。いま読んでも「知性」を象徴するような人であったことは明らかだが、先日、古い本をとりだしていたところ、湯川秀樹の『本の中の世界』があった。もうずっと前に読んだ記憶があって、湯川博士といえば「荘子」を連想する程度の記憶しか残っていなかったのだが、やはりというべきか、『ラッセル放談録』がとりあげられていた。

但し、Amazonで<ラッセル放談録>を検索しても、かかっては来ず、これは"Bertrand Russell Speaks His Mind"という本にその場限りの和名を付したものであったことを筆者が断っている。いま読むなら、「バートランド・ラッセルのポータルサイト」の湯川秀樹コーナーが便利である。

その中にこんな下りがある。インタビューアーとの対話形式になっている:

ワイヤット「ラッセル卿、哲学とは何でしょうか」

ラッセル「そうですね、それはひじょうに異論の多い問題です。あなたに同じ答えを与える哲学者は2人といないだろう、と私は思います。私自身の見解は「哲学とは、正確な知識がまだ得られない事柄についての、思弁から成るものである、」というのです。それは私だけの答えであって、他の誰の答えでもないでしょう。」

ワイヤット「哲学と 科学との違いはなんですか。」

ラッセル「そうですね、大ざっぱにいって、科学とは私たちが知っているところのものであり、哲学とは私たちが知らないところのものである、といってよいでしょう。それは簡単な定義であり、また、そういう理由によって、知識が進むにつれて、いろいろな問題がつぎつぎと哲学から科学へ移されてゆきます。」

ワイヤット「それなら、何事かが確立されたり、発見されたりすると、それはもはや哲学ではなくなり、科学になるのですか。」

ラッセル「そうです。そして、哲学というレッテルがはられてきた、いろいろの種類の問題に対して、今日はもはや、そういうレッテルははられなくなっています。」

ワイヤット「哲学にはどういう効用がありますか。」

ラッセル「哲学には、実際、2つの効用があると私は思います。1つはまだ科学知識にまでなり得ない事柄についての、生き生きとした思弁をつづけることです。結局のところ、科学知識は人類が興味をもち、また、持つべき事柄のごく小さな部分しかカバーしていません。とにかく現在のところ、科学はそれについて、ほとんど知っていないが、しかし、ひじょうに興味のあることが、ひじょうにたくさんあります。そして、私は、人々の想像力が、現在知り得ることだけに限定されるのを望みません。世界についての想像的見解を、仮説的領域にまで拡大させるのが、哲学の効用の一つだと私は思います。しかし、これと同じくらい重要な、もう一つの効用があると思います。それは、私たちが知っていると思っていて、実は知らない事柄があるということを示すという効用です。一方では、哲学とは将来、私たちが知ることになるかもしれない事柄について、私たちに考えつづけさせることであり、他方では、知識らしく見えるもののどんなに多くが、本当は知識ではないということを私たちに気づかせることです。」

ラッセルの言う哲学と科学の境界

 大ざっぱにいって、科学とは私たちが知っているところのものであり、哲学とは私たちが知らないところのものである、といってよいでしょう。それは簡単な定義であり、また、そういう理由によって、知識が進むにつれて、いろいろな問題がつぎつぎと哲学から科学へ移されてゆきます。

この箇所だが、同じラッセルが著した『西洋哲学史』の冒頭の説明

本書でわたしのいう哲学とは、神学と科学との中間に立つあるものである。

 この表現とは少しニュアンスが違うような気がする。ただ、神学と哲学を分けるものは、哲学が科学と同じように、人間の理性に訴えるところである、と。ここは上の湯川秀樹の記述と重なっている。ラッセルは、あくまでも「理性の人」であったことが分かる。

宗教について、最近、感心したのは遠藤周作の短編『夫婦の一日』だ。この中の下り:

「俺の体が心配だったからと言って、そんな占師の言う迷信などを信じるのか」 「だって、次々と悪いことが続くでしょう。だからAさんがよくあたる占師のところで見てもらおうって……」 「曲りなりにも俺たちは基督教信者だろ。恥ずかしくないかね。そんな男にだまされて」

・・・

妻も、今日、同じような顔をしながら占師の家で自分の順番を待っていたのだな、と思った。その顔は我々の持つ最も愚かな面と最も低級な意識のあらわれのような気がした。そして妻がその愚かな、低級な部分をむき出しにしたと考えると、言いようのない疲労感が胸に拡がった。

・・・

 妻は私と結婚したあと、カナダ人の神父さんから洗礼を受けた。もっともそれは、私への義理と妻としての義務感から行ったものだったかもしれない。

・・・

「あなたみたいにカトリック以外の宗教を無視する育ちかたはしていないんです。実家の父も母も観音さまの信者だったから、私も観音さまを今でも拝む気持は捨てられません。方たがえだって迷信だ、迷信だと思えないんです」

何かを信じるというのは、人間社会にとって大切である ― いまは「天皇」ではなく、「民主主義」が最も大事だと(ほぼ全ての?)日本人は信じている(はずだ)。

ただ、何かを信じるということは、それを信じている人の信念に背くことは原理的に否定する、そんな態度につながる。そういう生き方が愛する人に対して時にむごく振る舞う理由ともなる。大切なものを信じるのはいいが、結局、不幸をもたらすだけになっていないか。そういうことが書かれてある。

日本の社会はその辺をうまく処理してきたので、宗教戦争や聖戦、民族浄化などと言う愚行とは(ほぼ?)無縁であった。誇るべき歴史であると、この点は司馬遼太郎も何度も指摘している。

いい加減であるのも、時には英知の反映だということだろう。

2024年9月7日土曜日

断想:民主主義も「かのように」の思想に基づくのか?

さるTVドラマの主人公ではないが、常々不思議に感じていることがある。

それは、新聞でもTVでも

「日本としては」とか、「日本の」とか、《日本》という言葉を主語にして何かを述べることが、何故これほど多いのだろう?

こういう疑問である。

それほどメディア企業というのは、「常住坐臥」、この日本国の事を意識し、大切に思い、その現状と行く末を心から心配しているのだろうか?

日本のために出来ることは何でもしようと社で合意しているのだろうか?

そんなことはないのは明らかだろう。

実際、新聞社は常に自社の購読数維持で頭が一杯である(ように見える)。民間TV局は(NHKも?)視聴率を上げるのに必死である(ように見える)。つまりは、「日本」を叫びつつ、実際にやっていることは自社利益の追求であり、《公》ではなく《私》として活動している。

メディアだけではない。「日本」の事を語りたがる人は多い。ネットには愛国的なコメントが(全てではないが)あふれている。そんな人は日本のために出来ることは何でもしようと決めているのだろうか?

不思議というか、不審というか、そんな気持ちがずっと前からあるわけである。

そもそも「日本」の行く末を心にかけながら暮らす日本人は多いのだろうか?もしそうなら、日本国が少子化でこれほど悩む状況にならないはずではないか。

小生が司馬遼太郎の作品を読むことが、最近になってまた増えている理由は、氏が自分の社会観や歴史観、人生観などを、色々な作品の中で手を変え品を変えながら、繰り返し述べているからである。

たった一度キリ、自分の意見を文章に書いたからと言って、その人の考え方が伝わるものではない。何度も言い換えながら、書き換えながら、主旨としては同じことを書き留めるから、その人はホンネの自分自身を伝える事が出来る。ま、一口に言えば、司馬はジャーナリストなのだろう。

案外、それをした文筆家は少ないのだ。まして氏は、第二次大戦末期に陸軍将校として従軍した戦争体験があるので、作品に一定のリアリティがある。そこが小生には好ましいのだ。

『この国のかたち』は小説でも紀行文でもなく完全なエッセーである。その第1巻の15章に以下のような下りがある。要所をコピペしながらメモしておこう。

中国人はとくに個人がいい。

「ほんとうは、ボクは日本人より中国人のほうが好きなんだ」と、こっそり私の家内の耳もとでささやいた老アメリカ人がいる。かれは若いころ日本語を学び、その後四十年以上、ジャーナリストとして日本と関係をもってきた。かれの理由は単純明快だった。「中国人はリラックスしているからね。──」私は横できいていて、ひさしぶりで大笑いした。

たしかに日本人はつねに緊張している。ときに暗鬱でさえある。理由は、いつもさまざまの公意識を背負っているため、と断定していい。

(中略)

「日本人はいつも臨戦態勢でいる」

(中略)

若衆という武力もふくめた集落の結束体のことを、日本の中世では「惣」とよんだ。・・・この惣こそ日本人の「公」(共同体)の原形といってよく、いまなお意識の底に沈んでいる。

小生が若い時分、日本人の「集団主義」がよく言われていた。集団では強いが、個人になると弱いという点も、多少の卑下、というか自省を込めて云々されていた記憶がある。

今でもそうなのだろうか?

そういえば、最近の若い世代は集団主義であると聞くことはない。ただ、パリ五輪の体操や卓球でも、「団体」のほうが「個人」より遥かにやりがいがあり、勝った時の嬉しさも大きい、ということは多くの選手が語っていた。

テレビドラマでも「仲間」という普通名詞が相変わらずキラーワードとして使われたりしている。

どうも時代は変われど、世代ギャップが露わになっているにも拘らず、日本人の集団主義、つまりは団体志向、チームプレー重視の国民性には、あまり変化は起きていないのではないか?

そんな風にも感じる。であれば、日本人にとって「日本」は(昔のように尊ぶべき?)「公」なのか?

中国の儒教文化について司馬はこうも書いている。

儒教は地域を公としない。孝の思想を中心に、血族を神聖化する。

司馬はこんな認識も述べている ― この指摘が完全に正確かどうかはさておく。が、この指摘に納得する自分がいる。ここから、どの国に移住しても、同族が協力する華僑たちのたくましさに思いが至るのも自然な連想であろう。移住した先の土地で血族が助け合いながら、そこに根をおろし、定着し、幸福を追求していく。時には「圧力団体」として活動する。臆面もなく《私》の主張をする。その方が幸せだろうと小生は思うし、たくましいとも思う。第一、こういう生き方からは生命力の自然な発露を感じてしまう。

「公」を意識すれば、その人は自然と「臨戦態勢」をとり、好戦的になる。これはロジカルな認識だと思う。旧い表現を使えば「大義名分」というヤツだ。

「私」より「公」の方が格上だというドグマがここにある。

日本のメディア企業が、やっている事とは裏腹に、何かと言えば「日本」を語るのも、「公」の感覚のなせる言動なのだろう。が、「偽善」と言えば確かに「偽善」である。


しかし、よく考えてみると、民主主義社会というのは、普段は自分の事しか考えない利己主義者であるにもかかわらず、選挙が近づくと俄かに「公」を意識し、「日本」を語る、そんな一般普通の人たちが権力の源である理屈なのだから、これ自体が「一億総偽善社会」だと言えないこともない。

それでもなお民主主義を"Vox Populi, Vox Dei"(=人々の声は神の声)と仮想するのは、正に森鴎外のいう『かのように』の思想が基盤にあるわけで、

これは神聖な結論である、かのように考えておくことにしましょう

ここに民主主義が機能する本質がある。そう思われるのだ、な。

こう考える方が実に気が楽になるではないか。


だとすれば、

普段は、「公」を意識することなく、ひたすら「私」を主張し、自己利益を追求する。自分もそうだし、みんなそうする。だから、勝手なことをする他人を目にしても、非難したり、誹謗する理由はない ― もちろん法の整備と運用は必要だ。紛争は解決しなければいけない。これは三権が行う。ここが国内と国際とが違う所だ。

三権がない以上、「世界」はいまだ「公」とは言えない。が、これはまた別の話題だ。

いずれにせよ、「公」のことは公的機関の仕事だ。しかし、自分は「私人」だ。

あっしニャア、関わりはござんせん。

ただネ、選挙には行きますゼ。 

そんな社会の方が、案外、みな幸せになれるのかもしれない。


これって、選挙には行きたがらない、それでいて「公」を尊ぶ。そんな生き方とは真逆かもしれません。

しかしネ、体裁などに構わず、自分に正直に生きる方が気が楽ですヨ、と。これが「真理」(の一つ)だと思うのだが、いかに?

【加筆修正:2024-09-08、09-09】


2024年9月5日木曜日

読後感: 経済学者ゾンバルトの現代性?

この夏の間、内池は酷暑に見舞われたが、北海道は昨夏程ではなく、この2,3日は夜になると20度を下回るくらいになった。それでも拙宅の付近を一回り、概ね30分ほどを歩いて帰ると、風は涼しいのだが、坂を上り、坂を下りで汗ビッショリになる。

もう今年の半分以上は過ぎた。思い返すと

家居して 窓をあければ 青嵐

遠海に ひと思ひ出す 憂き身かな

そんな初夏を過ごしていたのが、つい先日には

昼顔は あと幾日の 暑さかな

二、三日 蝦夷を夢みる 蝉のこへ

夏が過ぎつつあるのを感じた。

そして昨日また歩いていると

白樺の 梢にちかき 葉の色は

    黄に染まりつつ 秋は来にけり

川のべの  虎杖 いたどり しろし  の弱り

あとひと月、10月初旬を過ぎれば東京の初冬を思わせる風景となろう。そしてまたひと月がたてば初雪が舞うのを待つ頃になる。 

永井荷風の『濹東綺譚』を読む習慣は、例年と同じく、今年も続けたが、いまの季節には『雨蕭々』が好いかと机上に置いてあるのだが、まだ読むに至らない。

前稿では、ヴェブレンのことを覚え書きしたので、同じ本のゾンバルトの章から記憶に残りそうな箇所を引用しておこう:

現代は資本主義時代と呼ばれてもいいが、そこでは経済と経済的利害とが他の一切の文化価値に対して優位を求めるという点で、むしろ「経済時代」と呼ぶ方が適切である。

(中略)

そこでは自由の名において、人間の中に横たわる卑しい本能が跳梁し、しかもそれによって物質的な生産力が著しく増大したが、これに伴って人間社会の紐帯が切断され、私たちの生活はあらゆる方面において、悲惨な、退廃的なものとなった。

 ゾンバルトの主著は第一次世界大戦前の『近代資本主義』だが、上に引用した論考は1940年執筆と章末に記されている。これを読むと、その当時に生きた人々にとっての「現代資本主義」は、いまを生きる私たちが見ている「現代資本主義」と概ね同じだったのではないか、と。こんな想像が可能になる。

さらに、

このような退廃の中にあって、私たちは一体何に希望を託し得るだろうか。マルクス主義だろうか。否、私たちはもはやマルクスのように、資本主義が必然的な過程を経て未来の完全な社会――物質的福祉が満たされた社会――に到達すると考えることは出来ない。

マルクスが期待したような資本主義から社会主義への「自然な進化?」は考えられない。ゾンバルトの自国であるドイツやヨーロッパ世界を観察しながらこう考えている。

となれば、ロシア人のレーニンがその道を選択したように、暴力をもってロシア帝国を打倒するしか、社会主義国家を建設することは出来ないという理屈になるのだが、こう考えると、ゾンバルトの時代認識はその後の世界の成り行きを予測する一面もあったというわけだ。

資本主義から社会主義への自然な進展はないと考えたゾンバルトは、(ドイツ民族という)民族の特性に合致した社会主義へと主体的に努力することが何より大事だと強調するわけで、この辺りマルクスの唯物史観からはかなりの隔たりが出来ている。

つまり、

マルクスと異なり、弁証法的な必然の法則によって歴史が進化するとは考えられていないこと。ゾンバルトにとって、資本主義は未来の完全な社会主義社会を生み出すべき母体では決してない。社会主義社会を実現するためには、現代からの「全面的転向」が必要であり、しかもその転回は我々の自発的意志によって行なわれる以外にない。

こういう認識だ。

その根底には

資本主義的生産方式の普及につれて、旧来の社会的紐帯(村の生活、家庭生活、習俗など)が根本的に破壊されて、大多数の人口が都市に集中したが、その都市において彼らを待っていたのは不健康な生活環境と、明日の糧をいつ失うとも知れない生活の不安だった。

資本主義と都市化、豊かな消費社会をおくれるが不安定で流動的な労働市場。これらを問題視する視線がゾンバルトにはある。こんな不健全な社会から健康な社会主義社会が誕生するはずがない、というわけだ。

とはいえ、最初に資本主義を是認し、都市に生まれ、都市で育ち、都市で暮らし、消費生活を楽しんでいる人たちは、それが問題の根源だと批判されても、ただ不快の気持ちを覚えるだけであろう。何が問題であるかが分からないのだ。

そもそも「生産現場」で働く人たちの感覚と価値観。大都市で「消費生活」を楽しむ人々の感覚と価値観。この両者は、趣味もライフスタイルも水と油であるのは、現代でも変わらない。

戦前期、20世紀前半という時代の下で、資本主義社会を問題視する視線ということでは、ドイツと日本とで共有可能な感覚があったのだろう。

どれだけ頑張ってもドイツはイギリスのようにはなれない。アメリカのようにもなれない。言葉が違う。価値観や理念がそもそも違う。文化が違う。そんな違和感があったとすれば自然なことである。ドイツにとって自然であれば、日本にとってはもっと自然な感情であったろう。20世紀前半という時代はこう要約できるのかもしれない。

と同時に、この種の距離感は21世紀という現時点においても日本と欧米先進国との間にまだ残っている。こういう意識が両者の側にある。そう感じるときがあるのだ、な。

だから、(今は最も親しい関係を維持している)英米で当たり前のように実行されている経済政策、その他の政策を日本でも実行しようとすると、強烈な拒絶感に直面する。それで日本人は埋めがたい距離を感じる。それもあってか、同じドイツでも旧東ドイツに住む人たちの世論がネットを通して伝えられたりすると、何か親近感を覚えたりする。

どうもゾンバルトが生きた時代から何世代もたっている割には、その当時、世界を分断していた精神的な活断層の痕跡が残っているようなのだ、な。

経済がグローバル化すれば、中国やロシアが物質的にも精神的にも西欧、アメリカと融合すると予想されていたが、決してそうではなかったし、これからも融合はしないであろう。インドもそうだ。日本と中国はいくら経済的相互依存関係が深化しても融け合うことはない、・・・。こうしたタイプの事情は、現代世界にいくらでも残っている。

こんなことを考えたりしている。

文字通りの《ポスト・グローバル化時代》かもしれない。

第一次世界大戦後の1920年代に《ノーマルな世界経済》と言えば「金本位制」のことだった。故に、金本位制への復帰が世界共通の目標だった。しかし、金本位制というレジームは第一次世界大戦によって瓦解していたのだ。

第二次世界大戦後の国際平和維持のレジームはウクライナに対するロシアの軍事行動によって既に瓦解している。瓦解の事実を認識する時期がいずれ来ると思う。元には戻れないというべきだろう。


2024年9月3日火曜日

読後感: ヴェブレンへの関心が高まっている時に

Amazon Unlimitedで提供している本は本当に多様で「こんな本まで!」と吃驚するようなものまである。

いま橋本勝彦・梶山力・柚木重三・福田徳三ほかの論文集とでもいえる『「資本主義」を探究した人々―ヴェブレン、ゾンバルト、マルクス』を読み終わった所なのだが、意外なことに非常に面白かった ― ただし福田徳三が登場する位だから非常に古い本である。

そもそもヴェブレン、ゾンバルト、マルクスという組み合わせが、いま現代の時点に立つと、非常に知的関心を刺激される。

ヴェブレンは、「奇人」、「変人」と「天才」をこき混ぜたような経済学者で、小生が若い時分には東大の宇沢弘文先生が非常に高く評価していたというので、小生も興味をもったことがあった。ところが、岩波文庫の『有閑階級の理論』を紐解いてみると、とても読み続けるに値しないと感じられたので、そのまま放擲してしまった — 当時の小生は計量経済学が専攻分野であったから、「食えたものではない」と感じたのも、「若気の至り」とばかりは言えまい。

ところが、今になって「ヴェブレンの経済学、侮るべからず」と思うようになったから、やっぱり社会認識の器の大きさがここにも表れていると感じている。

上の本の中には、「ここを押さえておくべきだったか」と唸るような下りもあり、つくづく本を読むというのは難しいものだと痛感する。一本の短い論文でさえも、それを何回も読み直さないと、理解しきれないと思うことが多い ― というか、その方が多い。小生の頭脳レベルがその程度だという事だ。

本は、勉強をするのに欠かせない素材だが、それをどう読むかというのは、一本の日本刀をどう使うかという剣術の極意が極めて高度であるのと同じ意味合いで、本を上手に読んで自分の生きた知識にするのは、(凡人には)そうそう簡単に出来るものではない。


たとえば

さらに、正統派経済学の根底に暗に据えられていると考えられる快楽主義については、ヴェブレンはかなり明確かつ直截にこれを批判しています。すなわち、このような心理学は、習慣や慣例のようなものの力を無視して、人間の行為を完全な合理的行為として扱っているだけである、と言うのです。 

次いで彼は、現実の人間が能動的・推進的であるという事実にもかかわらず、快楽主義心理学は、人間を外界からの刺激に機械的に反応するだけの受動的動物と見なしていると言います。すでに近代の心理学や人類学において、快楽説は、人間活動の説明理論として権威ある地位を失っているにもかかわらず、経済学においては未だにその地位を保持しているのです。 

このような快楽主義心理学を基礎とする理論は、単なる均衡状態の説明以上のものではなく、従って経済学の進歩は阻害される、とされます。

実験経済学が浸透しつつあるいま、上で述べている点は、そのまま事実にはならないと思われる。

 ただ、「同調の圧力」や「忖度」という言葉が幅をきかせている現代日本社会において、一人一人の個々人が自ら合理的選択を行いながら、余暇と労働の選択を行ったり、就職や転職をしたり、結婚を決めたり、家族生活をしたりしていると観るのは、やはり非現実的、とまでは言えないにしても、十分正確ではないであろう。

ヴェブレンによれば、近代科学には進化論的な観点が絶対に不可欠となります。現象の分類学的な分析や説明は前ダーウィン的な段階のものであり、これはダーウィン以後の、すなわち真の科学の要求を満足させるものではありません。近代科学は、事物をその原因、結果において説明しなければならず、その因果的関係は始まりも終わりもない無限の連鎖なのです。従来の経済学は単なる均衡分析のみに終始し、継続的変化・発展を取り扱わないので、単なる静態的理論に止まり、動態的研究とはならないと言うのです。

正直なところ、この下りはヴェブレンというより、何だかシュンペーターを連想させるような叙述だ。

ただ、進化というプロセスをどう説明するかという問題と、技術革新がどう発生して、それを活用した民間企業が競争しながらどう成長して、マクロ経済が動いていくかという問題とは、ごく近しい関係にあるのは間違いない。

政府による経済安定化政策とか、福祉国家の理念とか、人間が思いつく理想やイデオロギーを超越して、人間社会の経済生活が進化のロジックに服するというのは、科学的真理であるには違いない。

とすれば、経済的進化を確かなものとする社会の環境がポイントになる。制度学派への志向はここから生まれる。

これらの習慣や慣例は、その意味において制度的と言えます。しかもこれらは多くの場合、成文法となり、とりわけ本能的目的の達成や保護のために必要とされる場合は、ほとんど成文法となります。その場合は、外的条件が変化して後、初めてその改変が要求されるのです。従って、ある一定時における人間行動のパターンに、最も大きな影響を及ぼすのは、法律、あるいは一般的、社会的な様々の慣習であり、すなわち制度であるということになります。

(中略)

 従って経済生活を説明する根拠としては、人間の必要や希望のようなものより、制度の性質の研究の方が適当だということになります。

確かにヴェブレンの経済学は「制度の進化論」だと、ずっと以前に話していた記憶はある。この点はその通りだ、と思う。政治的には、いわゆる"Progressive"というポジションになる理屈だ。

ただ、

こういう社会観、つまり「人間行動のパターンは、法や慣習、制度によって決まる」という見方は、やはりダイナミズムを欠いた認識だろうと思う。この点では、小生は(何度も投稿しているように)マルクス流の唯物史観に賛成する立場にいるわけで、社会の法律や制度、慣習は、その時の人々の暮らし方とそれを支える生産組織にとって、最も都合の良いように変更されたり、改正されたり、骨抜きにされたりするものだ、と。制度を支える価値観やイデオロギーもまた移り行く季節に応じて衣替えをするように着替えるものである、と。これが小生の社会観である。

つまり

進化とは、人間が意図して進めるものではなく、自然のプロセスとして意図することなく、むしろ科学技術や生産活動の変容に強制される形で、進化せざるをえないのだ。故に、進化せざるを得ない人間社会の中で、残すべき伝統をいかにして残すのか。政治に出来ることは、進化の容認と賢明な、というか多くの人が納得できる保守である。

こんなポジションに小生はシンパシーを感ずる。 

いずれにしても、

ヴェブレンによれば、機械的方法や機械的活動と日常的に接触することによって、現代人の思想は唯物論的となり、その論理は大筋において機械論的なものとなっています。

このような社会観は極めてヴェブレン的である。そして

このような産業組織における各部分の連接は価格によって行なわれています。ヴェブレンによれば価格の問題は事業家の関心事であって、技術家の関与するものではありません。従って産業組織が正確に働くために絶対に必要な諸部門の均衡は事業家に依存しているのです。

現代経済学者の主流とヴェブレンとが相いれないとすれば、市場価格に信用を置くかどうかである。市場価格というより「市場価格の変動」という方が適切かもしれない。

例えば、今年の夏の終わりになって米価が上昇して、小売店の店頭からコメがなくなったとき、「政府の備蓄米を放出して、供給を増やし、米価を下げなければならない」と主張する政治家が日本では多く現れた。政府がコメという主要商品の価格をコントロールせよという要求だ。これより前に、日本政府は既に電気料金の上昇をなだらかにしようと介入しているし、ガソリン価格も政府がコントロールしている。

ヴェブレンも価格メカニズムに信を置いていない点は、日本政府の市場不信と共通する所がある。

とはいえ、「進化のプロセス」を重視するヴェブレンと、「頑迷固陋な保守」を基調とする自民党政治とは、向いている方向が反対で天と地の違いがある。

【2024-09-04】