2024年9月27日金曜日

断想: 世界と人生をみるモームの目線はイイねえ……

自民党新総裁に石破茂氏が選出された。

第1回目の投票をみると極右の高市早苗氏が「日本最初の女性首相」になりそうな勢いで、日経平均株価も急騰したが、日本経済はこの先どうなるのであろうかと真面目に心配したものだ。が、決選投票では、2位以下の候補者支持層が連合したようで、マアマア、穏健というか、今回はこれしかないだろうという結果に落ち着いたのは幸いであった。

いずれにしても「政治」が相手とするのは「現実」で、理念や言葉はプロ野球の監督やコーチが選手とやりとりする時の理念や言葉とさして違わない。理念や言葉だけでシーズンを勝ち抜ける理屈はないわけだ。その人の行動が真の言葉で、口から出る言葉には必ず嘘が混じる。伝聞ならウソの成分が増え、メディアを通すと、半分以上はウソであろう。

先日もサマセット・モームをとりあげたが、昔読んだ"Of Human Bondage"(=『人間の絆』)で傍線を引いた箇所を見つけると、こんな下りがあった。第81節の末尾である。

But on the whole the impression was neither of tragedy nor of comedy. There was no describing it. 

It was manifold and various; there were tears and laughter, happiness and woe; it was tedious and interesting and indifferent; it was as you saw it: it was tumultuous and passionate; it was grave; it was sad and comic; it was trivial; it was simple and complex; joy was there and despair; the love of mothers for their children, and of men for women; lust trailed itself through the rooms with leaden feet, punishing the guilty and the innocent, helpless wives and wretched children; drink seized men and women and cost its inevitable price; death sighed in these rooms; and the beginning of life, filling some poor girl with terror and shame, was diagnosed there. 

There was neither good nor bad there. There were just facts. It was life.

主人公フィリップが勤める病院外来診察室の風景である。上の引用箇所の最初と最後をつないでも意味はハッキリ伝わる。日本語でまとめよう:

だが、(外来付き助手の毎日は)全体としていえば、悲劇でもなく、喜劇でもなかった。それは表現しようのないものだった。……

ここには善もなく、悪もない。ただ事実がある。それは人生というものだった。

ウクライナやガザに関する報道では、どちらが正義であるかが毎回力説されている。しかし、毎日の現実として戦争を経験しつつある当事者にとっては、善もなく、悪もなく、ただ「事実」だけがあるのではないだろうか?


戦争こそ、全ての理屈をはぎとった根源的な人間の生を露わにするのかもしれない。

してみると、「善」や「悪」、「倫理」や「価値観」を語る人は、つまるところその場に生きる当事者ではなく、生活の本拠を安全な外国におく「他人」であるからこそ、事実を観察して理念の話しをしているわけである。

「善」や「悪」は確かに大事な話題だ。しかし、現実にあるのは善や悪のどちらでもない。そもそも「人生」はそういうものだろうという認識には、小生、共感しているのだ。

善や悪は、社会を意識する時に、輝き始める。しかし、社会から議論を始める人を小生は好まない。「君も社会から生かされているだろう」と平気で口にする人物はもっと嫌いである。この種の人物が平気で人権を侵害するのである。


「真相」とか「真理」というものは何なのかと問われれば、モームのこの認識に一票を投じたい。

オーディエンスの水準に応じて、プレイヤーのパフォーマンスの出来不出来が決まるのは、一国の政治もそうだろうし、プロスポーツや音楽のコンサートも同じであるに違いない。医者が患者の命を救うためには、病人が嫌がる手術もするし、飲みたがらない薬の服用を迫りもするのである。 内視鏡検査を受けるように強く奨めることもあえてする。社会へのサービスが職務なのだから政治家も同じだろう。喜ばせることが政治家の職務ではない。それが人間の社会というモノだろう。

【加筆修正:2024-09-29】




2024年9月24日火曜日

ホンノ一言: リベラル勢力による政権奪取の切り札はあるのか?

立憲民主党の新代表に野田佳彦氏が選出された。野田氏は千葉・船橋を地盤とする政治家であるせいか、極めて個人的な理由で小生は以前から勝手に野田シンパを自認している。

ただ、以前から何度か投稿してきたように、自民党が二つに分裂することが日本政治にとってはベストであると今も思っているのと同様、立憲民主党も二つに分裂した方が良いと観ているのだ。

自民党が保守だとすれば、旧・民主党はリベラルであるとする枠組みを、最優先で構築するべきであった。しかるに、2009年の政権奪取以降、当時の民主党は伝統的な自民党支持基盤、例えば経団連や日本医師会などを奪取しようとする動きを明確にした。要するに、自民党にとって変わりたいだけ。それが民主党の志であったのか、と。ずいぶん失望したものであった。

それをどう反省したのか、期待したいところだ。

ただ、あれだネエ・・・リベラル勢力形成という点でも日本は周回遅れである。これは比較的最近になって投稿したのだが、病根は「日本共産党」という政党の存在である。

こんな下りを以前に書いたことがある。

立憲民主党の路線闘争、というより迷走は結構長引くのではないかと予想する。

……

立憲民主党内の紛糾と共産党との共闘路線再検討の流れは、日本共産党という政党にとっては《最後のチャンス》になるだろう。

もし日本共産党が党創設以来の《綱領》を見直し、21世紀の現代的状況に即応した「社会民主主義政党」として党自身を再構築するという方針を明らかにし、党名もまた新たな理念にふさわしい新しい名称に改名すると公表すれば、その強固な組織力が強みとなり、日本のリベラル勢力が結集するための核になるのは間違いないところだ。

フランス政治は中道のマクロン大統領の下で左翼勢力が議会の多数を占めたにも関わらず、大統領は保守勢力から首相を任命した。これがどう転ぶか分からないが、議会で勢力を築いている以上、フランスの中道左派は強い影響力を行使できる理屈だ。

別の投稿ではこんなことも書いている。もう10年以上も前になった。

 ま、昔とは違ってプロレタリアートが国際的に団結するような経済環境はもはや存在しない。ミラノヴィッチ「不平等について」で強調されているように、不平等は階級によるものではなく、生まれた国によるものがずっと大きい。日本国内の「人民」は、世界においては恵まれたグループに該当する。だから、共産党といっても、日本一国限りの人民の解放を目指すしかないことは、自明である。話しは、所詮「日本ではどうなるのか」という、狭い限られたものなのだ。

日本共産党の歴史的意義は客観的な意味においては既に消え去った、と。そう考えざるを得ないではないか。

大体、ソ連がロシアになって社会主義国家はもうない。ソ連を見習ったはずの中国共産党政権も、今では不動産価格の暴落から若者の失業率が(公式統計では未満だが実際には)20パーセントを上回るような経済運営を行っている。バブルの崩壊とか、失業率20%超とか、社会主義経済、共産主義国家では絶対あるはずがありません。つまり中国も社会主義、共産主義はとっくに放棄している。

ロマンチックに共産主義の未来を信奉しているのは世界で日本共産党くらいでしょう。

日本政治において政権交代があり、リベラル政権がある程度の期間にわたって安定的に政権運営できるとすれば、その契機は日本共産党の自発的かつ創造的なリニューアルであろう。

現状のままでは、本来ならリベラル勢力に投じられる票が実効のない共産党に流れ、いたずらに死票を増やし、旧態依然とした自民党政治の延命をもたらすだけである。

だけではなく、小生が望む中道右派勢力に極右勢力が糊のように固着して与党を形成し、大声を発する勢力となり、、そのために中道左派が小規模野党に流れ、ますます自民党が右傾化する、延命は延命でも最悪のパターンを招いている。

将棋の終盤では、飛車を切って相手の玉を詰めるという決断を迫られることもある。

自民党の分裂と同じ程度にこれを熱望しているのだ。 

2024年9月23日月曜日

断想: 現代日本でも「口伝えの継承」、"Oral Tradition"は残っているのだろうか?

令和という現代日本社会が迷っていることの一つに「昭和」という時代とどう向き合うかがある(ように観える)。

一方には「昭和レトロ」に魅かれる感覚が底流にある。しかしもう一方では「時代遅れの昭和スタイル」への拒否感情がある。この先どちらのモメントが優勢になるのだろう?小生には予想し難い。どちらに転ぶかで時代はまったく違うものになるだろう。

ひとつ現代日本社会で衰退しつつある機能があるとすれば、英語でいう"Oral Tradition"、簡単に言えば「口伝えの継承」だろう。

この背景(の一つ)はなにも「世代対立」という大げさなものではない。それよりは「家族の現状」があるのだと思う。

居住という面で親族が離散して暮らすという変容はずっと進行中だが、最近年では核家族化の動きを超えて、核家族でさえも社会の中で埋没し、弱体化し、粒状化しつつある。そんな社会状況があって、これまでは当たり前のように続いて来た日本人の生活習慣がなくなりつつある。誰もが奴隷制社会の奴隷のように仕事と時間に追われている。益々そう感じるのだ、な。

「仕事」、「社会的貢献」……、どれも現代日本で俄かに倫理的価値を帯び始めた単語だ。その光に目がくらんでいる日本人が多すぎる気がする。

「昭和」という文化に関心があるなら昭和を生きた人の話を聴くのが最良だ。その時代のリアリティを体験した人だけが、その時代をありのままに語れるのである。そうでなければ「伝聞」で、文字経由の知識にしかならない。

とはいえ、いま生き残っている昭和世代は、もう昭和戦前期のことは朧げにしか知らない昭和戦後派である。明治から昭和20年夏までの日本を支配した価値観や生活感情、年中行事、暮らしのあり方を知っている人たちは世を去りつつある。それでも「戦後」という時代がいかに良い時代であったか、また何が悪くなったかを率直に語れるのは戦前を知るこの世代だろう。

小生の亡父が生きていれば98歳、母がいれば95歳である。その母も終戦時には16歳でしかなかった。いま思い出す戦時の記憶と言えば勤労奉仕と空襲警報くらいのものだったかもしれない。

歴史家は聞くべき人々からもう聞き終わったのだろうか?

何も"Oral Tradition"とか"Oral History"などと洒落て言う必要はない。

少し前までは、孫が祖父母の家に遊びに行くのは、当たり前のことで、それも年に2回か3回ではなく、週末になると日常的に訪れたものであった。

祖父母は両親より優しいのが普通だ。親に買ってもらえないモノを買ってもらったり、親に叱られたことの愚痴を聞いてもらったことも小生だけではないはずだ。食事のときには、前の時代の習慣や暮らし方、食生活の話しを、昔風の言葉づかいでしてもらったり、大事件の思い出話を聴く。これが親の家では体験できない面白い時間なのだった。そんな耳学問の機会が、ここ近年の日本社会から極端に減ってしまったのではないだろうか。

減っていても必ずしもそれは若い人たちが忌避しているからではあるまい。

小生の昔のゼミ生の一人は、結構、旧いモノが好きで、40、50歳になれば和服で過ごし、炭を火鉢で燃やして暖をとりたいと話していたものだ。いくらなんでも、この北海道で「火鉢」なる暖房で大丈夫なのか、その時は「寒いぞ」と応えておく位にしたが、いまはどうしているだろうと、様子を聞いてみたくなる。

前にも投稿したが、日本人は食事でまだ箸を使う習慣を捨てないし、夏に浴衣や甚兵衛、作務衣を着ることを恥ずかしいとは思わない。運動会や修学旅行もまだ続けている。

日本文学で残念な点は、「青春の文学」が多い反面、「老年の文学」が少ない、というより極端に少ないことである。

何かを伝えたり、主張したりするのが、その人の青春であるなら、老年はして来たことを思い出しては、改めて意味づける年齢だ。主張は時に挫折感を産むが、回顧は折につけ後悔と懺悔につながるのである。辛いとすれば若い時分も年老いた後も同じである。

「老年の文学」を書くためには ― ずっと前にも一度投稿した記憶があるが、ブログ内検索をかけても見つからない ― そもそも書き手自身が長命でなければならない。

ところが、日本で長寿を全うし、かつ年老いてからも作品を書き続けた人は少ない。たまに書くと思えば、谷崎潤一郎の『瘋癲老人日記』であったりする。これは作家自身が75歳になった1961年の作品で、谷崎は1965年には他界するのである。また、有吉佐和子の『恍惚の人』も老人小説として世に衝撃を与えたものだ。が、こちらは有吉が41歳になる年に書かれたものだから、中年世代が老人を視る時の目線である。小生があってほしいと思う文学ではない。

例えば英国の(大衆?)小説家・モームの味わいを出している作家は日本にはいない(のではないか)―『徒然草』の卜部(吉田)兼好、『方丈記』の鴨長明などの随筆家はいる。しかし、彼らの隠遁志向に共感する若者がいるだろうか?

モームの『サミングアップ』は、齢をとってから書いた自叙伝だが、小生はかなり以前に読んでから、いつの間にか暇があるとパラパラとめくるような存在になった。

例えば、次の下りに書かれているような話は、大まかな所、少し前の年寄りなら小生たち若い世代に語ることが出来ていたような感じがする。

以下、原文を日本語の話し言葉に変えて、適当に翻訳している点、ご容赦頂きたい。岩波文庫版で335頁の一部だ:

バカな老人の老後は、そりゃあネ、バカなもんでさあ。でも、そいつぁ若い頃から、バカだったってこってすヨ。 

若い人が年寄りにコワゴワ遠慮するのは、老人ってのは、齢をとってから若い奴らを奮い立たせようというかサ、色々と求めるからでしょうネエ。そんな厳しいことオ言われるのも片腹痛いしネ、敬して遠ざけるのにこしたことはねえ。そういうこっちゃねえかと、想像してるンですがネ。違いますか? 

だけど、そりゃあ違うンですよ。大体、老人ってのはアルプスにゃあ登れない。可愛い女をベッドに押し倒すのももう無理だ。 

だけど、そうなりますとネ、若い人の身の毒になる嫉妬とか、欲望とか、そんな悪い感情からは解放されるのが、齢をとるってことですヨ。まあイイもんだよ。若い人にああしろとか、こうしろとか言っても、中身がある訳じゃあねえ。五月の空の吹き流し。どうでもイイ。ただ気がつくから言うだけのこってすヨ。若いときのように深刻じゃあねえんです。所詮、達観してまさあネ。 

それに、年寄りには実はネ、「時間」があるンですよ。古代ローマに大カトーって偉い文化人がいたンですけど、その人は80歳になってからギリシア語の勉強を始めたって何かで読んだことがありますがネエ……、あっしはこの齢になってから分かるんだが、驚かないヨ。 

若い人たちは、何かっていうと忙しいから、時間がないって言うでしょ?だから時間がかかり過ぎることは割と避けるンじゃないですかい?「タイパ」っていうヤツでさ。でも年寄りになるとネ、意外と時間がかかるようなことも喜んで引き受けるもンですよ。意外でしょ?なってみなくちゃ分からないことは多いンですよ。 

だから、年寄りになると、趣味がよくなって、絵や文学もネ、偏見なしにじっくり楽しめるようになれるんですヨ。偏見ってえのは、若い人の判断を歪めたりしますからね。それがなくなると、色々、イイことがあるンです。

だからネ、老人には老人の「充足」ってェのがあるンです。エゴイズムの束縛から解放されてみなせえ、幸福なイイ毎日です。

ま、これもなってみなくちゃ、分かりっこねえ。話だけなら、いくらでも出来ますがネ。 

どうです?自慢話じゃあないが、聴いてみたくもなるンじゃないですか?若い人。エッ!ならない。そいつぁ、困ったネエ・・・ま、好きにするがいいさ。そのうち分かりますから……


今でも人気があるのだろうか、岡本綺堂が書いた日本最初の捕り物帳『半七捕物帳』は、明治になってから、若い人が幕末に岡っ引きとして活躍した半七老人から思い出話を聴いて、それを記録した形になっている。少し前までは、そんな口伝えの歴史が日本の色々な町の色々な家の中の一室で長々と話されていたに違いない。これらは、その時限りの思い出話で、わざわざネットに書き残す必要のない、それでも他では聞けない確かにあった事の記憶ではあった。

そんな社会状況を前提できる社会なら、旧いモノを変えて、新しいモノを取り入れ、社会を進化させていくとしても、大事なポイントを見落としてしまう心配はないはずだ。 

【加筆修正:2024-09-24】



2024年9月19日木曜日

断想: 利己主義を非難されてもナア、という話し

先日、遠藤周作の『短編名作選』から引用をしたが、本来の遠藤的世界は往時の狐狸庵先生とは異なって、とても重苦しい所がある。たとえば同じ『短編名作選』の中の「イヤな奴」の一節に次の下りがある:

ズボンをそっとまくし上げるとさっき布で縛った膝の傷は熱を帯びて腫れはじめていた。 (こんな傷があるからと言って断ろうかしらん)と江木は考えた。しかし一方彼は大園や信者の学生たちから利己主義者だといわれるのもイヤだったのである。(行くとしても出来るだけ患者に近づかんこった)  そう心の中で呟いた時、流石に江木は自分がうす穢い人間だと思わざるをえなかった。病院まで見舞いにいき、そこの患者を嫌悪感から避けようとする──そんな行為がどんなに卑劣なものかは江木も重々知っていたが、彼にはまず伝染をおそれる気持や肉体的な恐怖の方がどうしても先にたつのである。

この

 利己主義者だといわれるのもイヤだった

という箇所。

小生も幼児の頃、厳しかった亡父から何かと言えば

そんな利己主義なことをしたらいかん!

と叱られたことを記憶している。小生には、その「利己主義」がいけないというのが、どうしても腹に落ちなかったので、父は何を言おうとしているのかモヤモヤと感じたものである。

ただ現在では、愚息を含めて「利己主義」であることを非難する気持ちは小生にはない。というより、確かに小生は、父が言った通り、徹底して利己主義に沿って人生を送って来たと思うのだ。そのことを隠すつもりはないし、別の言葉で言いつくろう気持ちもない。もう一度、同じ状況に立てば、同じ選択をするだろうと思っている。と同時に、両親を含めて、また妹弟を含めて、自分勝手な行為で悲しくて辛い気持ちにさせてしまったことを詫びたい気持ちが今はある。

ただ弁明をここに書くとすれば、

彼我の立場を逆にして、小生がそんな仕打ちを受けていたとすれば、やはり小生は「仕方がない」と今は考えていただろう。

これも確かな事である。小生を取り巻く人たちも、親戚を含めて、かなりの利己主義者であった。時に孤独を感じ、無情を感じたものだが、それを恨みに思ったことはない。お互い様なのだ。


利己主義を非難する人は、必然的に利他主義者なのであろう。

しかし、小生は人間理解が浅い所があるためか、真の利他主義者と偽善者を区別することが苦手である。

「偽善」とは、他人を憐れむという利他的パフォーマンスを短期的なコストと認識し、長期的には自己の名声を形成することで利益を最大化しようという行為である。「社会的貢献」や「SDGs」がもてはやされる現代世界において、その期待収益率は時に無視できない程に高い。共同利益とか公益とか、一応の理屈はあるが、結局は自己利益の追求には変わらないわけで、利己主義に基づく「結託」に当たる。

だから、特にキリスト教関係団体が力を入れる慈善事業や協力への呼びかけには、何だか胡散臭い感情を抑えることが出来ない。

善い行いをしたから天国へ行ける、悪い行為をしたから地獄に落ちるという「神の審判」を求める価値観は、多分、キリストを処刑しようとピラト総督に要求した当時のユダヤ人もまた信じていた価値観と同じであるに違いない。

「信仰」と言いつつ、実際には極めて現世的な論理であると思う。超俗的でない。

芥川龍之介の『蜘蛛の糸』は、仏教的な舞台設定だが、実はキリスト教的な感覚に近く、他力を信じる浄土信仰とは真逆の理屈である。そう思うのだ、な。

日本人が求める「仏の慈悲」とは、善悪を問わず自分に正直に生きて、その結果をも自ら負う覚悟をもつ人に向けられるものであって、自分を偽って生きる人はその偽計の結果をも自らが人間の責任として負うべきである。そう思っているのだが、いかに?

ちなみに現代経済学では、全員が利己主義的であると前提している。

【加筆修正:2024-09ー21】

2024年9月16日月曜日

覚え書き: これも日米株価の相互依存性?先行きは?

東京の日経平均株価とニューヨークのダウジョーンズ平均が、相互に依存して変動しているというのは、よく指摘されている「事実?」である。

確かに大規模投資機関はグローバルレベルで資産管理をしているので、東京市場とNY市場との相互依存性というのはあって当然だ。統計的な<因果関係?>という観点もありうる。

ただ、東京の円ベース株価とNYのドルベース株価をそのまま比べても、相互依存関係はいま一つ明瞭でない。



上図は、2019年9月13日以降2024年直近時点までの日米株価を比較したものだ。赤線が日経平均、青線がダウジョーンズ平均である。比較に便利なように開始日株価を100とした指数にしている。だから、最終日に高い方の株価がデータ期間を通して良好なパフォーマンスを示したという結論になる。つまり、この時期、日本の株価の方が良かった形になっている。

素の株価系列を比べると、「8月5日の大暴落」までは日本の株価の高進ぶりが目立つ。が、日米株価の相関という側面をみると、「両方、上がって来たネ」という以上には、それほど明瞭な相互依存性が日米両国の株価にあるわけではない。そんな印象もある。

しかし、日経平均株価をドルベースに換算してから比べると




上図のように、確かに日米株価には相互依存関係がありそうだという、そんな図柄になる。

それと、コロナ・ショックからの急回復とピークアウトでは日経平均に明らかな先行性が見てとれる。

この先行性は、どうやらその後も認められるようであって、ロシア=ウクライナ戦争勃発と経済制裁、インフレ抑止のための金利引き上げなどから日米とも株価は低落したのだが、その後の回復へのタイミングをみても、東京市場はニューヨーク市場より1年程度は先行しているように窺える ― 2022年から23年までのアメリカ株価をどう見るかで「見ようによっては」だが、この辺り変動率に定常化してからレジームスイッチングVARモデルを適用すると面白いかもしれない。面倒なので自分ではやるつもりはないが。

だとすれば、いま足元で東京市場は停滞しており、8月5日には大暴落が発生した。ニューヨーク市場はまだ順風のようだが、これまでの東京市場との相互関連を思うと、必ずしもアメリカ株価は楽観できない、と。そんな見方もあるかもしれない。


備考:

データはセントルイス連銀のFREDからダウンロードしてから、Rでそれぞれのcsvファイルを読み込み、描画した。が、方法としては個別にtsibble型に変換してから日米株価、為替レートの3系列を日付でleft_joinし、データをpivot_longer、そのままautoplotという、グラフ作成としてはいま流行のやり方で描画した。図は正しいはずだが、以前のマニュアル式とは違って、逐一チェックしているわけではない。

以上、メモしておきたい。

2024年9月13日金曜日

メモ: 世の中、運しだいという物事が多いようでして……

 一流の人物は極めて少ない。二流の人物が多く、三流以下の人物はもっと多い。こんな能力分布があらゆる分野、領域に当てはまっている、というのが小生の(個人的な)経験則だ。これは何度も投稿している(たとえばこれ)。

政治の世界でも、経済・経営の世界でも、同じだと思っている。

なので、一流の政治家は少なく、凡庸な政治家が大半である。

もっと悲しいことは

一般有権者にも、上の能力分布が当てはまるので、その政治家が一流であるか、二流・三流であるかを見分ける能力をもつ人は稀である。

ということだ。

ちょうど

歴史に残る一流シェフが調理した料理を正しく賞味できる人はほとんどいない。目隠しをされて一流のワインとテーブルワインをテイスティングだけで正確に識別できる人が少ないのと同じである。

故に、有権者が選挙で選ぶというのは単なる形式であって、実際に一流の政治家が責任ある地位に就けるかどうかは、世論によるのではなく、運による。

ただ

世襲の君主制において名君の子が一流であるかどうかも運による。

要するに、同じである。

つまり、アメリカの次期大統領が一流であるか、凡庸であるかは、運しだい。これが今の世界を支配するロジックだ。そんな風に思いめぐらす今日この頃です。

一流の政治家が一流であることを国民が知るのは、一流でなければ解決できないような乱世が到来し、実際に平和を取り戻した時だけである。

その「乱世」で、民主主義を制限した方が良いのか、あくまでも民意で指導者を選びなおす方が良い結果につながるのか、歴史上の永遠の問題だと小生は思います。

凡庸な為政者で世の中が治まっているのは平和であるからで、これ自体は好いことだ。

以上、たまたま思いついたのでメモする次第。

2024年9月12日木曜日

読後感: 宗教と愛と理性と何が確かなのか?

英国の数学者にして哲学者であったバートランド・ラッセル( Bertrand Russell)は、本ブログでも何度か話題にしているが、少し前の時代(今でもそうかもしれないが)の英語の入試問題では、再頻出の文筆家であった。いま読んでも「知性」を象徴するような人であったことは明らかだが、先日、古い本をとりだしていたところ、湯川秀樹の『本の中の世界』があった。もうずっと前に読んだ記憶があって、湯川博士といえば「荘子」を連想する程度の記憶しか残っていなかったのだが、やはりというべきか、『ラッセル放談録』がとりあげられていた。

但し、Amazonで<ラッセル放談録>を検索しても、かかっては来ず、これは"Bertrand Russell Speaks His Mind"という本にその場限りの和名を付したものであったことを筆者が断っている。いま読むなら、「バートランド・ラッセルのポータルサイト」の湯川秀樹コーナーが便利である。

その中にこんな下りがある。インタビューアーとの対話形式になっている:

ワイヤット「ラッセル卿、哲学とは何でしょうか」

ラッセル「そうですね、それはひじょうに異論の多い問題です。あなたに同じ答えを与える哲学者は2人といないだろう、と私は思います。私自身の見解は「哲学とは、正確な知識がまだ得られない事柄についての、思弁から成るものである、」というのです。それは私だけの答えであって、他の誰の答えでもないでしょう。」

ワイヤット「哲学と 科学との違いはなんですか。」

ラッセル「そうですね、大ざっぱにいって、科学とは私たちが知っているところのものであり、哲学とは私たちが知らないところのものである、といってよいでしょう。それは簡単な定義であり、また、そういう理由によって、知識が進むにつれて、いろいろな問題がつぎつぎと哲学から科学へ移されてゆきます。」

ワイヤット「それなら、何事かが確立されたり、発見されたりすると、それはもはや哲学ではなくなり、科学になるのですか。」

ラッセル「そうです。そして、哲学というレッテルがはられてきた、いろいろの種類の問題に対して、今日はもはや、そういうレッテルははられなくなっています。」

ワイヤット「哲学にはどういう効用がありますか。」

ラッセル「哲学には、実際、2つの効用があると私は思います。1つはまだ科学知識にまでなり得ない事柄についての、生き生きとした思弁をつづけることです。結局のところ、科学知識は人類が興味をもち、また、持つべき事柄のごく小さな部分しかカバーしていません。とにかく現在のところ、科学はそれについて、ほとんど知っていないが、しかし、ひじょうに興味のあることが、ひじょうにたくさんあります。そして、私は、人々の想像力が、現在知り得ることだけに限定されるのを望みません。世界についての想像的見解を、仮説的領域にまで拡大させるのが、哲学の効用の一つだと私は思います。しかし、これと同じくらい重要な、もう一つの効用があると思います。それは、私たちが知っていると思っていて、実は知らない事柄があるということを示すという効用です。一方では、哲学とは将来、私たちが知ることになるかもしれない事柄について、私たちに考えつづけさせることであり、他方では、知識らしく見えるもののどんなに多くが、本当は知識ではないということを私たちに気づかせることです。」

ラッセルの言う哲学と科学の境界

 大ざっぱにいって、科学とは私たちが知っているところのものであり、哲学とは私たちが知らないところのものである、といってよいでしょう。それは簡単な定義であり、また、そういう理由によって、知識が進むにつれて、いろいろな問題がつぎつぎと哲学から科学へ移されてゆきます。

この箇所だが、同じラッセルが著した『西洋哲学史』の冒頭の説明

本書でわたしのいう哲学とは、神学と科学との中間に立つあるものである。

 この表現とは少しニュアンスが違うような気がする。ただ、神学と哲学を分けるものは、哲学が科学と同じように、人間の理性に訴えるところである、と。ここは上の湯川秀樹の記述と重なっている。ラッセルは、あくまでも「理性の人」であったことが分かる。

宗教について、最近、感心したのは遠藤周作の短編『夫婦の一日』だ。この中の下り:

「俺の体が心配だったからと言って、そんな占師の言う迷信などを信じるのか」 「だって、次々と悪いことが続くでしょう。だからAさんがよくあたる占師のところで見てもらおうって……」 「曲りなりにも俺たちは基督教信者だろ。恥ずかしくないかね。そんな男にだまされて」

・・・

妻も、今日、同じような顔をしながら占師の家で自分の順番を待っていたのだな、と思った。その顔は我々の持つ最も愚かな面と最も低級な意識のあらわれのような気がした。そして妻がその愚かな、低級な部分をむき出しにしたと考えると、言いようのない疲労感が胸に拡がった。

・・・

 妻は私と結婚したあと、カナダ人の神父さんから洗礼を受けた。もっともそれは、私への義理と妻としての義務感から行ったものだったかもしれない。

・・・

「あなたみたいにカトリック以外の宗教を無視する育ちかたはしていないんです。実家の父も母も観音さまの信者だったから、私も観音さまを今でも拝む気持は捨てられません。方たがえだって迷信だ、迷信だと思えないんです」

何かを信じるというのは、人間社会にとって大切である ― いまは「天皇」ではなく、「民主主義」が最も大事だと(ほぼ全ての?)日本人は信じている(はずだ)。

ただ、何かを信じるということは、それを信じている人の信念に背くことは原理的に否定する、そんな態度につながる。そういう生き方が愛する人に対して時にむごく振る舞う理由ともなる。大切なものを信じるのはいいが、結局、不幸をもたらすだけになっていないか。そういうことが書かれてある。

日本の社会はその辺をうまく処理してきたので、宗教戦争や聖戦、民族浄化などと言う愚行とは(ほぼ?)無縁であった。誇るべき歴史であると、この点は司馬遼太郎も何度も指摘している。

いい加減であるのも、時には英知の反映だということだろう。

2024年9月7日土曜日

断想:民主主義も「かのように」の思想に基づくのか?

さるTVドラマの主人公ではないが、常々不思議に感じていることがある。

それは、新聞でもTVでも

「日本としては」とか、「日本の」とか、《日本》という言葉を主語にして何かを述べることが、何故これほど多いのだろう?

こういう疑問である。

それほどメディア企業というのは、「常住坐臥」、この日本国の事を意識し、大切に思い、その現状と行く末を心から心配しているのだろうか?

日本のために出来ることは何でもしようと社で合意しているのだろうか?

そんなことはないのは明らかだろう。

実際、新聞社は常に自社の購読数維持で頭が一杯である(ように見える)。民間TV局は(NHKも?)視聴率を上げるのに必死である(ように見える)。つまりは、「日本」を叫びつつ、実際にやっていることは自社利益の追求であり、《公》ではなく《私》として活動している。

メディアだけではない。「日本」の事を語りたがる人は多い。ネットには愛国的なコメントが(全てではないが)あふれている。そんな人は日本のために出来ることは何でもしようと決めているのだろうか?

不思議というか、不審というか、そんな気持ちがずっと前からあるわけである。

そもそも「日本」の行く末を心にかけながら暮らす日本人は多いのだろうか?もしそうなら、日本国が少子化でこれほど悩む状況にならないはずではないか。

小生が司馬遼太郎の作品を読むことが、最近になってまた増えている理由は、氏が自分の社会観や歴史観、人生観などを、色々な作品の中で手を変え品を変えながら、繰り返し述べているからである。

たった一度キリ、自分の意見を文章に書いたからと言って、その人の考え方が伝わるものではない。何度も言い換えながら、書き換えながら、主旨としては同じことを書き留めるから、その人はホンネの自分自身を伝える事が出来る。ま、一口に言えば、司馬はジャーナリストなのだろう。

案外、それをした文筆家は少ないのだ。まして氏は、第二次大戦末期に陸軍将校として従軍した戦争体験があるので、作品に一定のリアリティがある。そこが小生には好ましいのだ。

『この国のかたち』は小説でも紀行文でもなく完全なエッセーである。その第1巻の15章に以下のような下りがある。要所をコピペしながらメモしておこう。

中国人はとくに個人がいい。

「ほんとうは、ボクは日本人より中国人のほうが好きなんだ」と、こっそり私の家内の耳もとでささやいた老アメリカ人がいる。かれは若いころ日本語を学び、その後四十年以上、ジャーナリストとして日本と関係をもってきた。かれの理由は単純明快だった。「中国人はリラックスしているからね。──」私は横できいていて、ひさしぶりで大笑いした。

たしかに日本人はつねに緊張している。ときに暗鬱でさえある。理由は、いつもさまざまの公意識を背負っているため、と断定していい。

(中略)

「日本人はいつも臨戦態勢でいる」

(中略)

若衆という武力もふくめた集落の結束体のことを、日本の中世では「惣」とよんだ。・・・この惣こそ日本人の「公」(共同体)の原形といってよく、いまなお意識の底に沈んでいる。

小生が若い時分、日本人の「集団主義」がよく言われていた。集団では強いが、個人になると弱いという点も、多少の卑下、というか自省を込めて云々されていた記憶がある。

今でもそうなのだろうか?

そういえば、最近の若い世代は集団主義であると聞くことはない。ただ、パリ五輪の体操や卓球でも、「団体」のほうが「個人」より遥かにやりがいがあり、勝った時の嬉しさも大きい、ということは多くの選手が語っていた。

テレビドラマでも「仲間」という普通名詞が相変わらずキラーワードとして使われたりしている。

どうも時代は変われど、世代ギャップが露わになっているにも拘らず、日本人の集団主義、つまりは団体志向、チームプレー重視の国民性には、あまり変化は起きていないのではないか?

そんな風にも感じる。であれば、日本人にとって「日本」は(昔のように尊ぶべき?)「公」なのか?

中国の儒教文化について司馬はこうも書いている。

儒教は地域を公としない。孝の思想を中心に、血族を神聖化する。

司馬はこんな認識も述べている ― この指摘が完全に正確かどうかはさておく。が、この指摘に納得する自分がいる。ここから、どの国に移住しても、同族が協力する華僑たちのたくましさに思いが至るのも自然な連想であろう。移住した先の土地で血族が助け合いながら、そこに根をおろし、定着し、幸福を追求していく。時には「圧力団体」として活動する。臆面もなく《私》の主張をする。その方が幸せだろうと小生は思うし、たくましいとも思う。第一、こういう生き方からは生命力の自然な発露を感じてしまう。

「公」を意識すれば、その人は自然と「臨戦態勢」をとり、好戦的になる。これはロジカルな認識だと思う。旧い表現を使えば「大義名分」というヤツだ。

「私」より「公」の方が格上だというドグマがここにある。

日本のメディア企業が、やっている事とは裏腹に、何かと言えば「日本」を語るのも、「公」の感覚のなせる言動なのだろう。が、「偽善」と言えば確かに「偽善」である。


しかし、よく考えてみると、民主主義社会というのは、普段は自分の事しか考えない利己主義者であるにもかかわらず、選挙が近づくと俄かに「公」を意識し、「日本」を語る、そんな一般普通の人たちが権力の源である理屈なのだから、これ自体が「一億総偽善社会」だと言えないこともない。

それでもなお民主主義を"Vox Populi, Vox Dei"(=人々の声は神の声)と仮想するのは、正に森鴎外のいう『かのように』の思想が基盤にあるわけで、

これは神聖な結論である、かのように考えておくことにしましょう

ここに民主主義が機能する本質がある。そう思われるのだ、な。

こう考える方が実に気が楽になるではないか。


だとすれば、

普段は、「公」を意識することなく、ひたすら「私」を主張し、自己利益を追求する。自分もそうだし、みんなそうする。だから、勝手なことをする他人を目にしても、非難したり、誹謗する理由はない ― もちろん法の整備と運用は必要だ。紛争は解決しなければいけない。これは三権が行う。ここが国内と国際とが違う所だ。

三権がない以上、「世界」はいまだ「公」とは言えない。が、これはまた別の話題だ。

いずれにせよ、「公」のことは公的機関の仕事だ。しかし、自分は「私人」だ。

あっしニャア、関わりはござんせん。

ただネ、選挙には行きますゼ。 

そんな社会の方が、案外、みな幸せになれるのかもしれない。


これって、選挙には行きたがらない、それでいて「公」を尊ぶ。そんな生き方とは真逆かもしれません。

しかしネ、体裁などに構わず、自分に正直に生きる方が気が楽ですヨ、と。これが「真理」(の一つ)だと思うのだが、いかに?

【加筆修正:2024-09-08、09-09】


2024年9月5日木曜日

読後感: 経済学者ゾンバルトの現代性?

この夏の間、内池は酷暑に見舞われたが、北海道は昨夏程ではなく、この2,3日は夜になると20度を下回るくらいになった。それでも拙宅の付近を一回り、概ね30分ほどを歩いて帰ると、風は涼しいのだが、坂を上り、坂を下りで汗ビッショリになる。

もう今年の半分以上は過ぎた。思い返すと

家居して 窓をあければ 青嵐

遠海に ひと思ひ出す 憂き身かな

そんな初夏を過ごしていたのが、つい先日には

昼顔は あと幾日の 暑さかな

二、三日 蝦夷を夢みる 蝉のこへ

夏が過ぎつつあるのを感じた。

そして昨日また歩いていると

白樺の 梢にちかき 葉の色は

    黄に染まりつつ 秋は来にけり

川のべの  虎杖 いたどり しろし  の弱り

あとひと月、10月初旬を過ぎれば東京の初冬を思わせる風景となろう。そしてまたひと月がたてば初雪が舞うのを待つ頃になる。 

永井荷風の『濹東綺譚』を読む習慣は、例年と同じく、今年も続けたが、いまの季節には『雨蕭々』が好いかと机上に置いてあるのだが、まだ読むに至らない。

前稿では、ヴェブレンのことを覚え書きしたので、同じ本のゾンバルトの章から記憶に残りそうな箇所を引用しておこう:

現代は資本主義時代と呼ばれてもいいが、そこでは経済と経済的利害とが他の一切の文化価値に対して優位を求めるという点で、むしろ「経済時代」と呼ぶ方が適切である。

(中略)

そこでは自由の名において、人間の中に横たわる卑しい本能が跳梁し、しかもそれによって物質的な生産力が著しく増大したが、これに伴って人間社会の紐帯が切断され、私たちの生活はあらゆる方面において、悲惨な、退廃的なものとなった。

 ゾンバルトの主著は第一次世界大戦前の『近代資本主義』だが、上に引用した論考は1940年執筆と章末に記されている。これを読むと、その当時に生きた人々にとっての「現代資本主義」は、いまを生きる私たちが見ている「現代資本主義」と概ね同じだったのではないか、と。こんな想像が可能になる。

さらに、

このような退廃の中にあって、私たちは一体何に希望を託し得るだろうか。マルクス主義だろうか。否、私たちはもはやマルクスのように、資本主義が必然的な過程を経て未来の完全な社会――物質的福祉が満たされた社会――に到達すると考えることは出来ない。

マルクスが期待したような資本主義から社会主義への「自然な進化?」は考えられない。ゾンバルトの自国であるドイツやヨーロッパ世界を観察しながらこう考えている。

となれば、ロシア人のレーニンがその道を選択したように、暴力をもってロシア帝国を打倒するしか、社会主義国家を建設することは出来ないという理屈になるのだが、こう考えると、ゾンバルトの時代認識はその後の世界の成り行きを予測する一面もあったというわけだ。

資本主義から社会主義への自然な進展はないと考えたゾンバルトは、(ドイツ民族という)民族の特性に合致した社会主義へと主体的に努力することが何より大事だと強調するわけで、この辺りマルクスの唯物史観からはかなりの隔たりが出来ている。

つまり、

マルクスと異なり、弁証法的な必然の法則によって歴史が進化するとは考えられていないこと。ゾンバルトにとって、資本主義は未来の完全な社会主義社会を生み出すべき母体では決してない。社会主義社会を実現するためには、現代からの「全面的転向」が必要であり、しかもその転回は我々の自発的意志によって行なわれる以外にない。

こういう認識だ。

その根底には

資本主義的生産方式の普及につれて、旧来の社会的紐帯(村の生活、家庭生活、習俗など)が根本的に破壊されて、大多数の人口が都市に集中したが、その都市において彼らを待っていたのは不健康な生活環境と、明日の糧をいつ失うとも知れない生活の不安だった。

資本主義と都市化、豊かな消費社会をおくれるが不安定で流動的な労働市場。これらを問題視する視線がゾンバルトにはある。こんな不健全な社会から健康な社会主義社会が誕生するはずがない、というわけだ。

とはいえ、最初に資本主義を是認し、都市に生まれ、都市で育ち、都市で暮らし、消費生活を楽しんでいる人たちは、それが問題の根源だと批判されても、ただ不快の気持ちを覚えるだけであろう。何が問題であるかが分からないのだ。

そもそも「生産現場」で働く人たちの感覚と価値観。大都市で「消費生活」を楽しむ人々の感覚と価値観。この両者は、趣味もライフスタイルも水と油であるのは、現代でも変わらない。

戦前期、20世紀前半という時代の下で、資本主義社会を問題視する視線ということでは、ドイツと日本とで共有可能な感覚があったのだろう。

どれだけ頑張ってもドイツはイギリスのようにはなれない。アメリカのようにもなれない。言葉が違う。価値観や理念がそもそも違う。文化が違う。そんな違和感があったとすれば自然なことである。ドイツにとって自然であれば、日本にとってはもっと自然な感情であったろう。20世紀前半という時代はこう要約できるのかもしれない。

と同時に、この種の距離感は21世紀という現時点においても日本と欧米先進国との間にまだ残っている。こういう意識が両者の側にある。そう感じるときがあるのだ、な。

だから、(今は最も親しい関係を維持している)英米で当たり前のように実行されている経済政策、その他の政策を日本でも実行しようとすると、強烈な拒絶感に直面する。それで日本人は埋めがたい距離を感じる。それもあってか、同じドイツでも旧東ドイツに住む人たちの世論がネットを通して伝えられたりすると、何か親近感を覚えたりする。

どうもゾンバルトが生きた時代から何世代もたっている割には、その当時、世界を分断していた精神的な活断層の痕跡が残っているようなのだ、な。

経済がグローバル化すれば、中国やロシアが物質的にも精神的にも西欧、アメリカと融合すると予想されていたが、決してそうではなかったし、これからも融合はしないであろう。インドもそうだ。日本と中国はいくら経済的相互依存関係が深化しても融け合うことはない、・・・。こうしたタイプの事情は、現代世界にいくらでも残っている。

こんなことを考えたりしている。

文字通りの《ポスト・グローバル化時代》かもしれない。

第一次世界大戦後の1920年代に《ノーマルな世界経済》と言えば「金本位制」のことだった。故に、金本位制への復帰が世界共通の目標だった。しかし、金本位制というレジームは第一次世界大戦によって瓦解していたのだ。

第二次世界大戦後の国際平和維持のレジームはウクライナに対するロシアの軍事行動によって既に瓦解している。瓦解の事実を認識する時期がいずれ来ると思う。元には戻れないというべきだろう。


2024年9月3日火曜日

読後感: ヴェブレンへの関心が高まっている時に

Amazon Unlimitedで提供している本は本当に多様で「こんな本まで!」と吃驚するようなものまである。

いま橋本勝彦・梶山力・柚木重三・福田徳三ほかの論文集とでもいえる『「資本主義」を探究した人々―ヴェブレン、ゾンバルト、マルクス』を読み終わった所なのだが、意外なことに非常に面白かった ― ただし福田徳三が登場する位だから非常に古い本である。

そもそもヴェブレン、ゾンバルト、マルクスという組み合わせが、いま現代の時点に立つと、非常に知的関心を刺激される。

ヴェブレンは、「奇人」、「変人」と「天才」をこき混ぜたような経済学者で、小生が若い時分には東大の宇沢弘文先生が非常に高く評価していたというので、小生も興味をもったことがあった。ところが、岩波文庫の『有閑階級の理論』を紐解いてみると、とても読み続けるに値しないと感じられたので、そのまま放擲してしまった — 当時の小生は計量経済学が専攻分野であったから、「食えたものではない」と感じたのも、「若気の至り」とばかりは言えまい。

ところが、今になって「ヴェブレンの経済学、侮るべからず」と思うようになったから、やっぱり社会認識の器の大きさがここにも表れていると感じている。

上の本の中には、「ここを押さえておくべきだったか」と唸るような下りもあり、つくづく本を読むというのは難しいものだと痛感する。一本の短い論文でさえも、それを何回も読み直さないと、理解しきれないと思うことが多い ― というか、その方が多い。小生の頭脳レベルがその程度だという事だ。

本は、勉強をするのに欠かせない素材だが、それをどう読むかというのは、一本の日本刀をどう使うかという剣術の極意が極めて高度であるのと同じ意味合いで、本を上手に読んで自分の生きた知識にするのは、(凡人には)そうそう簡単に出来るものではない。


たとえば

さらに、正統派経済学の根底に暗に据えられていると考えられる快楽主義については、ヴェブレンはかなり明確かつ直截にこれを批判しています。すなわち、このような心理学は、習慣や慣例のようなものの力を無視して、人間の行為を完全な合理的行為として扱っているだけである、と言うのです。 

次いで彼は、現実の人間が能動的・推進的であるという事実にもかかわらず、快楽主義心理学は、人間を外界からの刺激に機械的に反応するだけの受動的動物と見なしていると言います。すでに近代の心理学や人類学において、快楽説は、人間活動の説明理論として権威ある地位を失っているにもかかわらず、経済学においては未だにその地位を保持しているのです。 

このような快楽主義心理学を基礎とする理論は、単なる均衡状態の説明以上のものではなく、従って経済学の進歩は阻害される、とされます。

実験経済学が浸透しつつあるいま、上で述べている点は、そのまま事実にはならないと思われる。

 ただ、「同調の圧力」や「忖度」という言葉が幅をきかせている現代日本社会において、一人一人の個々人が自ら合理的選択を行いながら、余暇と労働の選択を行ったり、就職や転職をしたり、結婚を決めたり、家族生活をしたりしていると観るのは、やはり非現実的、とまでは言えないにしても、十分正確ではないであろう。

ヴェブレンによれば、近代科学には進化論的な観点が絶対に不可欠となります。現象の分類学的な分析や説明は前ダーウィン的な段階のものであり、これはダーウィン以後の、すなわち真の科学の要求を満足させるものではありません。近代科学は、事物をその原因、結果において説明しなければならず、その因果的関係は始まりも終わりもない無限の連鎖なのです。従来の経済学は単なる均衡分析のみに終始し、継続的変化・発展を取り扱わないので、単なる静態的理論に止まり、動態的研究とはならないと言うのです。

正直なところ、この下りはヴェブレンというより、何だかシュンペーターを連想させるような叙述だ。

ただ、進化というプロセスをどう説明するかという問題と、技術革新がどう発生して、それを活用した民間企業が競争しながらどう成長して、マクロ経済が動いていくかという問題とは、ごく近しい関係にあるのは間違いない。

政府による経済安定化政策とか、福祉国家の理念とか、人間が思いつく理想やイデオロギーを超越して、人間社会の経済生活が進化のロジックに服するというのは、科学的真理であるには違いない。

とすれば、経済的進化を確かなものとする社会の環境がポイントになる。制度学派への志向はここから生まれる。

これらの習慣や慣例は、その意味において制度的と言えます。しかもこれらは多くの場合、成文法となり、とりわけ本能的目的の達成や保護のために必要とされる場合は、ほとんど成文法となります。その場合は、外的条件が変化して後、初めてその改変が要求されるのです。従って、ある一定時における人間行動のパターンに、最も大きな影響を及ぼすのは、法律、あるいは一般的、社会的な様々の慣習であり、すなわち制度であるということになります。

(中略)

 従って経済生活を説明する根拠としては、人間の必要や希望のようなものより、制度の性質の研究の方が適当だということになります。

確かにヴェブレンの経済学は「制度の進化論」だと、ずっと以前に話していた記憶はある。この点はその通りだ、と思う。政治的には、いわゆる"Progressive"というポジションになる理屈だ。

ただ、

こういう社会観、つまり「人間行動のパターンは、法や慣習、制度によって決まる」という見方は、やはりダイナミズムを欠いた認識だろうと思う。この点では、小生は(何度も投稿しているように)マルクス流の唯物史観に賛成する立場にいるわけで、社会の法律や制度、慣習は、その時の人々の暮らし方とそれを支える生産組織にとって、最も都合の良いように変更されたり、改正されたり、骨抜きにされたりするものだ、と。制度を支える価値観やイデオロギーもまた移り行く季節に応じて衣替えをするように着替えるものである、と。これが小生の社会観である。

つまり

進化とは、人間が意図して進めるものではなく、自然のプロセスとして意図することなく、むしろ科学技術や生産活動の変容に強制される形で、進化せざるをえないのだ。故に、進化せざるを得ない人間社会の中で、残すべき伝統をいかにして残すのか。政治に出来ることは、進化の容認と賢明な、というか多くの人が納得できる保守である。

こんなポジションに小生はシンパシーを感ずる。 

いずれにしても、

ヴェブレンによれば、機械的方法や機械的活動と日常的に接触することによって、現代人の思想は唯物論的となり、その論理は大筋において機械論的なものとなっています。

このような社会観は極めてヴェブレン的である。そして

このような産業組織における各部分の連接は価格によって行なわれています。ヴェブレンによれば価格の問題は事業家の関心事であって、技術家の関与するものではありません。従って産業組織が正確に働くために絶対に必要な諸部門の均衡は事業家に依存しているのです。

現代経済学者の主流とヴェブレンとが相いれないとすれば、市場価格に信用を置くかどうかである。市場価格というより「市場価格の変動」という方が適切かもしれない。

例えば、今年の夏の終わりになって米価が上昇して、小売店の店頭からコメがなくなったとき、「政府の備蓄米を放出して、供給を増やし、米価を下げなければならない」と主張する政治家が日本では多く現れた。政府がコメという主要商品の価格をコントロールせよという要求だ。これより前に、日本政府は既に電気料金の上昇をなだらかにしようと介入しているし、ガソリン価格も政府がコントロールしている。

ヴェブレンも価格メカニズムに信を置いていない点は、日本政府の市場不信と共通する所がある。

とはいえ、「進化のプロセス」を重視するヴェブレンと、「頑迷固陋な保守」を基調とする自民党政治とは、向いている方向が反対で天と地の違いがある。

【2024-09-04】