2025年5月29日木曜日

断想: 結局は「一元論」と「二元論」のどの立場に立つかという問題だと思うが

変な夢をみた。友人二人が激論、それも高尚な話題で議論していて、小生はそれを横から見ているのだ。ところが、二人とも小生が視えないのか、振りむこうともしない。

A君: 古代インドではサ、地球が球体であるという認識がなくてさ、ヨコに広がった平面だと考えていたらしいな。

B君: そりゃあ、その手の話しは文明と関係なく、どの民族もそう考えていたんじゃない?

A君: まあ、そうなんだけど、流石にインドってところもある。そのうち、ヨコに広がった大地を支えるものがないと、落ちてしまうだろうって云う人間がいたんだろうな。するとサ、巨大な象が大地を支えているんだって・・・

B君: そりゃ変だ。象が大地を支えるなら、その象を支えるのは何なんだって話になる。

A君: だろ?それも象が支えてるンだ。そして象を支える象を支える3頭目の象もいるって話さ。

B君: 無限の象の列が上にあるものを支えてるってことか?一つの宇宙観だが、やっぱり古代の人類は無知だネエ・・・

A君: ロクな観測機器もないんだから、仕方ないよ。それよか現代も似たようなレベルだよ。何も進歩なんてしちゃあいねえよ。

B君: 現代の人間はすべて分かってるヨ。地球が球体であることや、太陽系に属していること、その太陽系も銀河系に属している事、すべて分かってるだろ。

A君: じゃあ、その銀河系はどこにあるんだ?

B君: 宇宙だよ。宇宙には他にも多数の銀河が存在している。

A君: その宇宙はどこに含まれてるんだ?

B君: だから「宇宙」だよ。空間全体を「宇宙」っていうんだ。

A君: だからサ、その宇宙の全体はどこに存在するのかって聞いてるのさ?宇宙は宇宙の中に存在しておりますって、アホな事、言わないよな?

B君: そりゃ、君、宇宙は超宇宙に存在してるんだ。

A君: 超宇宙はどこに存在しているんだ?

B君: 超宇宙はハイパー超宇宙に含まれる。

A君: 永遠の玉ねぎだな・・・古代インドの無限の象と比べて、どれだけ進化してるんだ。

ここで目が覚めた。変な気がした。

どんな宇宙観を持つにせよ、生命の支配下にある物質は生命を維持するという目的に従って動く。目的は意志によって行為につながるから、進化の度合いを無視すれば、全ての生物は意志によって動作し、物質もそれに合わせて動く。これに反して、無生命の物質は意志をもたない。意志がないから目的もない。なので物質宇宙は無目的で、ただただ因果律があるだけだ  ―  確率的現象もまた時空を超えた「因と縁」がひき起こす「縁起」で理解するとすればだが。


・・・ 結局、一元論と二元論しかないと思うようになった。

二元論では、「意志」なるものがあるとすれば、それは物質とは次元が異なる「精神」がもつのであり、精神は物質とは区別される形で実在する。とすれば、生物の生死は観察可能な物質的存在としての生死であるので、精神の生死とは別の現象である。ここからピタゴラスやプラトン、インド哲学のような輪廻という思想が生まれてくる。

一元論は、物質か精神か、どちらかが究極の存在だという思想だ。唯物論は、精神は物質に従属すると考える。究極的には、実在するものは全て物理的存在、つまり素粒子がとる形として理解される。なので、意志や目的、真理への憧れや美への感動、善の尊重という意識も、すべて物理化学的に説明されるべき現象だ、と。こういう筋道になる。

考えている主体は素粒子である。

一元論的な唯物論の立場にたてば、最終的にはこういうことになる。

他方、物質は精神に従属するという唯心論にたてば、物質的存在も精神の支配に従って運動したり、変化する。これが、単に人類文明の活動のありようだけではなく、宇宙の物質的現象はすべて「何らかの」精神の活動の結果であって、宇宙は一つの有機体として理解するべきだ、と。こうなると、やはり一つの宇宙観だ。さしづめヘーゲルの「世界精神」などは、こちらに分類されるだろうし、「神」の概念も宇宙の根源に「意志」と「目的」を置くので、一元論的唯心論に近い。

小生の立場は、最近の投稿でも書いているが、二元論的な宇宙観にちかい。

一元論的な唯物論は、

人間が考えるのも、つまりは物質が考えている。要するに、物質は考えることができるのだ。物質が意志を持つことは可能なのだ。

という「仮説?」を主張させられる理屈になるので、この違和感を克服できそうにない。

物質が意志を持ちうるとして

ある物理化学的現象があるとして、なぜそうした現象が生じているかという原因‐結果の枠組みで現象を理解するのではなく、モノ自体がこうなることを望んでいるからである

と、このように意志的運動として理解するのは、近代科学の理念と真っ向から衝突すると思う ― 社会科学は意志をもつ合理的存在としての人間を前提しているから本質的に違う。

同じ一元論的な宇宙観でも

宇宙全体は、何らかの「最高の精神的存在」、というか「究極的な意志」に従いながら運動している。物質がエネルギーに戻ったり、エネルギーが空間に作用して物質化したり、すべては目的をもった究極的な意志による・・・

こう考える方が、まだどちらかといえば、違和感を感じない。


自動運転で走行する自動車をそうさせているのはAI(=人工知能)であり、その人工知能を生み出したのは人間の知能である。

そして人間の知能を生み出したのは、究極的な知能であり、決して物理化学的法則が偶然に作用した結果ではない。

この辺が、現時点における小生の立ち位置である。



2025年5月25日日曜日

ホンノ一言: ChatGPTは「物知り博士」の友人としてはちょうどイイ

 昨日は上の愚息が拙宅に来て昼食にタコライスを食べて帰った。上の愚息は、東日本大震災が日本を襲ったのと同じ年の七月、大学を卒業しても非正規就業のまま宅に居続けたいと粘る様子を強引に"Kick Out"して、市内のアパートに転居させて独立生活を強制したのだが、三、四年前に奨学金を独力で完済してから自信がついたのか、だんだんと真っ当になってきた。それで拙宅にもよく来るようになった。下の愚息は偶々札幌勤務ではあるが、滅私奉公の模様で、滅多に声をきくことはない。それでも居所すら機密であった戦前・日本の帝国陸海軍に奉職するよりはヨッポドましである。

才ある息子は世に用いられること多きが故に遠く旅立つ。才なき息子は世に用いられること少なきが故に親元にとどまり孝をなす。

本ブログでも何度か書いた一句だが、何か出典はあったかどうか忘れてしまった。ちょうどChatGPTを使っていたので聞いてみた。そうすると、もっともらしい返事を返してきたが、要するに「分からない」ということだ。

どうも小生が勝手に創作した一句らしい・・・。


この「もっともらしい事をいい」というのが、「ものしり博士」の友人にそっくりで、親しみが持てる所だ。

「調子がいい奴め」と感じる時もあるが、

和歌「ちはやふる かみよはしらず たつたがわ からくれないの みずくぐるとは」の意味を解説してください。

と聞くと、ちゃんと在原業平の歌ですねと返してくるから、落語『ちはやふる』の大家さんよりは、よほどの物知りだ。

最近は、Wolfram社とも連携してMathematica Cloudを利用できるようになっているから、昔読んだ高木貞治『解析概論』を読み返す際にも、ちょうどイイ友達代わりになってくれている  ―  "o3"モデルを使えば更に素晴らしい(と感じる)が、図を描くのにpythonコードを走らせる必要があるのが手間だ(いい方法があるかもしれないがChatGPTには新参者なので知らない)。

AIは、確かに「人工知能」になっている。ホワイトカラーは要らないネエ・・・と感じるビジネスマンが多いのも無理はない。

ただ、人工知能が究極まで進化し、無人工場、無人店舗が当たり前になるとしても、人類は悲観する必要はない。この話題は以前にも投稿したことがある。

2025年5月24日土曜日

断想: 「学歴社会」はイイのか悪いのかについてすら社会的合意がないようで・・・

今日の標題。

明治の日本には確実に合意があった(と想像しています)。大正・昭和前期・戦後日本早々の時代を通しても確実に共通の合意があった記憶がある ― それほど昔のことは知らないが。しかし、今は「学歴社会」に否定的な人が増えているような兆候がある・・・(ように感じることが多い)


日経のサイトに何気なくアクセスすると

業務に困ったら…スキルは「買っちゃう」が最適解。

こんなタイトルで読ませるコラム記事(?)があった — 現在はアカウント外にしているので全文を読むことはできない。全文閲覧はできないが、何が書いてあるか、大体は想像できるというものだ。

現代日本社会は、決して《学歴社会》ではない。というか、学歴は最も優先される評価基準として使われていない、と。そう観ている。

何故か?

たとえば立法権、及び重要政策を決める権限をもつ国会議員、というより与党議員という方が適切だが、決して学歴優位組織にはなっていない。更に、ビジネスの成功においても、高学歴が創業のチャンスにつながり、経営者としての大成功をもたらしているとは(どうしても)思えない ― この辺は明治・日本とは全く様相が違う。学士、修士にせよ博士にせよ、学問上の達成はともかく、「学位」がその人に与える価値が、なぜか社会では有用性が認められていない。これでは言葉の定義上、「学歴社会」とは言えないだろう。

組織内統計的には、小中高大における高学歴である人材が組織内で出世する確率が高いとはいえる。が、最高意思決定権の帰属という面から丁寧に観ると、社会全体としては、学歴よりモノを言うのは《血統》であったり《地縁》、《人縁》であったりする日本的な事実が歴然としてくる、と感じるのは小生だけだろうか?

よく問題にされる《世襲議員》は「学歴社会」では当選できない理屈だ。

なので、日本は言葉が意味する「学歴社会」ではないと観ているのだ、な。概ねそうかもしれないが、非常に未成熟であると思う。

「学歴」は、その人が努力をしたことの指標である。「実績」と近いニュアンスがあるが、「資格」という言葉の感覚により近いかもしれない。一口にいえば

学歴 = スキルのレベル

こう言える学歴こそ、理想的な「学歴」ではないか?言い換えると

高学歴者の稀少価値=ハイスキルの稀少価値

考え方としては、これが本筋だろう。

医療、法曹、金融、テクノロジー、マーケティング戦略など、知識・スキルがなければ職務遂行能力がない(はずの)分野では、確かに日本社会は(だけではなく国を問わず)「学歴社会」になっているはずだ。

最初に引用した

業務に困ったら…スキルは「買っちゃう」が最適解。

という一文は、こんな事情を指しているのだろう。

言い換えると、人材は知的財産が体化されたリソースであって、故にカネで売買できる市場が形成され、その市場にプロフェッショナルとして参入するためには、教育を享けて知識を身につける必要がある。努力の結果が学歴という形式で実を結ぶ。これが《学歴社会》のベーシックな論理である。

こんな社会状況が《学歴社会》だというなら、小生は学歴社会に大賛成である。

一方で、なぜだか「学歴社会否定」のホンネもある。この意識の根を掘り下げて見ると、そもそも教育・自己啓発によって身につけるべき《知識》の力への疑念がある。つまり

知識を身につけても役に立たない

という疑念だ。結果として、

高学歴者は役に立たない。無駄である。学歴社会こそ社会を停滞させる。

こんな心理が広がっていく。

さしづめ物理学ならいいが、仏理学は「ごく潰し」だと言いたい向きも社会にはいる。なるほど喘息に悩んでいる人が整形外科の専門医に相談しても、その知識は問題を解決するに至らないだろう。

「知の専門化」という問題は確かにある。

それでなくとも日本の社会は現場重視で、かなり極端な経験主義がいまでも信奉されているところがある。しかし現場重視をよくみると、汎化されていない「閉鎖的現場の共有知識」を指している事が多い。これは極端にローカライズされた知識といえる。


それはともかく、「反・知識」というか、こんな潜在意識がもたらす結果として、自己啓発、ひいては「勉強全般」がどれほどプラスになるかという点に対する疑惑、不信が増殖する土壌が形成されることになる。

経営管理サイドのこの姿勢が

何も読書せず、勉強せず、トレーニングもしない現場のビジネスマン

といった情けないイメージが語られる背景になっている・・・

こういうイメージを裏書きしてくれる調査結果は、それこそ山のようにある(例えばこれ)。リンクをつけた調査結果では

日本は勤務先以外での自己研鑽「とくに何も行っていない」が5割超え

勤務先以外で自分の成長を目的に行っている学習・自己啓発の全体平均トップ5は、「読書」(34.5%)、「研修・セミナー、勉強会へ参加」(30.4%)、「資格取得のための学習」(22.0%)、「通信教育・eラーニング」(21.8%)、「語学学習」(20.9%)。

「フィリピン」、「インドネシア」、「マレーシア」、「ベトナム」、「インド」は、ほぼ全ての項目で全体平均を大きく上回り、勤務先以外での自己研鑽に意欲的。一方、「とくに何も行っていない」割合の全体平均は18.0%。最も高いのは「日本」(52.6%)。次いで「オーストラリア」(28.6%)、「スウェーデン」(28.1%)、「イギリス」(24.1%)、「フランス」(22.6%)と続く。

「日本」は「何も行っていない」割合が突出して高く、全ての項目で全体平均を下回り、1割未満も多いなど自己研鑽意欲の低さが際立つ。

こんな風に「日本のビジネスマン」のイメージが概括されている。何だか、上にまとめた印象と重なる部分が大きい・・・

自己研鑽意欲の鈍さは、勉強・知識がもたらす力に信を置かない潜在心理がもたらす主観である。こんな主観が支配する日本社会が(事実として)「学歴社会」になっているというのは理屈に合わない。矛盾した話しだ。

知識不信からもたらされる社会は、「学歴社会」ではなく、「社会の低学歴化」である。


しかしながら、逆の事実を伝える調査結果もある。たとえばOECDの国際成人調査はよく知られている。ここでは

OECDの国際成人調査 日本は読解力、数的思考力で2位 世界トップ水準を維持

という結果が紹介されている。

フ~~~ム、既に高い知識レベルにあるから、だからこそ、日本人は就職したらこれ以上の勉強の必要性を感じていないということか?

新たな疑問がわき起こります。

日本が学歴社会であるか否かといえば、

イイ大学に入学しようという意味では学歴社会である。つまり、努力を評価する社会にはなっている。しかし、学歴ではない、その他の価値が上層部になればなるほど評価されている。

小生はこう観ている。故に、日本は決して「学歴信仰社会」ではない。

概ね学歴社会になっているのは、日本社会の健全さを示す側面だと思う。「世評」には反するかもしれないが、そう思う。足りないとすれば、各種・各分野の知識・スキルを身につける教育システムが、日本では十分整っておらず、知識・スキルを修得したことを証明する各種の《学歴》が、広く活用されていない。

つまり《教育ビジネス》が、社会で必要とされている形では、展開できていない。

使えない学歴が多い → 学歴は本当にいるのか → 学歴社会が停滞の主因

という議論を見かけることが割とあるのは、こんな所からだろうと思う。


以上、本日の記述を読み返してみると、

使えない学歴が多いのは、使える学歴を創出する事業を規制している

裏からいえば「規制による硬直化の弊害」。理屈はこうなりそうで、結局は「日本の教育行政の批判」となって、終わるしかないようだ。

 



2025年5月20日火曜日

ホンノ一言: 「備蓄米は入札でなく安値で払い下げるべし」というお目出度い人には困ったものだ

 同じ米騒動でも大正・日本の「米騒動」と令和・日本の「米騒動」は、現象形態が全く違っている。

大正時代には民衆運動が爆発して大騒動となったが、現代日本社会では「識者」(?)がメディアやネットで発信したことを、普通の国民が聴いたり、読んだりしては、職場の雑談や井戸端会議(?)のネタにする。どうもそんな情景が支配的だネエと、達観しているところだ。

これでは確かに、民主主義とは言っても、有権者は議員になめられてしまうのじゃあないかと。そう思うのだが、日本社会はもう往年のエネルギーが枯れ果ててしまった様子だ。

この頃は、

農林水産省は本気になって米価を下げようとしていない

と、こんな憤慨の念を伝える声が色々な方面から上がっている。

タイミングもよく、というか悪く、農林水産相の舌禍事件も出来してしまった。支援者からコメのさしいれが売るほどあるから、自分はコメを買ったことがないと地元の寄合で支援者たちにしゃべってしまったようなのだ、な。こんな話が外に漏れて、TVがとりあげるなど、不可思議なのだが、ひょっとして、いや当然のこと(?)、野党シンパの間諜(≒スパイ)が会場に潜り込んでいたのかもしれません。


それはともかく、最近になって、多く耳にする意見は

備蓄米を入札にかけるなんて笑止千万。高値で売って政府が儲けているだけじゃないか。政府の方から安値を明示して引受業者を選ぶべきだ。

と、そんな意見が出てきている。

ヤレヤレ、・・・こんなことをすれば

売却予定数量を超える応募があるのは確実だから、入札というより、ずっと昔の日本住宅公団入居者募集のような抽選をしなければならない。安値払い下げとなると、業者間で相当高い競争率になるに違いない。

そうすると、業者選定の前に贈賄の動機が業者の側に生まれる。何と言っても「国有財産の安値払い下げ」は、明治以来の歴史を通して、官民癒着の構造汚職の巣窟であったのだ ― 備蓄米は「払い下げ」ではなく「買い戻し条件」が付けられているって?しかし、100で仕入れた物を1000で売り、1年後に500に下がったものを買い戻して決済するとしても、利益400が出る。条件付き安値売却と安値払い下げは、(多少のリスクが発生するが)実質は同じことである。

本当に業者選定は公正に行われたのか?応募資格の定義は適切だったのか?安く仕入れて高く売れば利益が出るのに決まっているから、これは一部の国民にだけ利益機会を与えるのと同じである、と。法の前の平等に違反するのではないか?等々

どんな批判、非難が政府に寄せられるか、まるで今から目に見える様である。

引受業者が市中に販売する時の販売価格まで政府が指定(できるとして)するとしても、今度は安値で仕入れた川下業者(さらには一部消費者までもが?)が高値で転売できる限り高値で売るであろう。これを禁止する方法は政府にはないはずだ ― まあ、戦争直後のような「経済警察」でも作るなら出来るでしょうが。

要するに、価格は市場が決めるのであって、政府が統制できるわけじゃあない。


商品というのは、高く売れている限り、高値で仕入れる流通業者がいるものなのだ。

これが経済の鉄則だ。この経済の鉄則を力で封じようとすれば《低価格=公定価格》となり超過需要が発生する中で、《闇米》が高値で売買されるという、まるで昭和20年代の日本のような情況に戻るだけである。

そうなったら、先進国(?)として、恥ずかしいですゼ。経済学のイロハを知らないのかとバカにされるでしょう。


農林水産相が説明しているように

すべて国有財産を売却する際には競争入札にかけなければならない。これを例外的に、市中相場より安い価格で売却することも可能とするには、法改正が必要だ。

そしてワイドショーの「いけいけコメンテーター」が主張するように、「押っ取り刀」で《国有財産の安値払い下げ》を認める法律を施行したとしよう。しかし、そうなれば今度は東京五輪スキャンダルに匹敵するような大掛かりな汚職が発生して、1年から2年程度は日本政治が機能マヒに陥るのは必定だ。

やりたいなら、それも一興。令和の政治をみたいという気持ちもある。「米価スキャンダル」が必ず出るとは限らない。(だんだん食べなくなってきたはずの)「コメを安く払い下げ」なら庶民は喝采でゲショ?不正がないかと御アトが怖いし、悪質転売ヤーの暗躍も心配だが、やるっきゃない!・・・ま、ご随意に。

という所です。でもネ、簡単に予想出来る事がなんで予想できないかナア・・・という気持ちで御座います。

市中の米価は、将軍・徳川吉宗でも四苦八苦した難物なのだと、まず問題の難しさを認識すること位はしたらどうでありんしょう。

特効薬については何日か前の投稿に記したので省略。

2025年5月18日日曜日

断想: 日本文化の本質は「単純化」にあり?

今日は日曜日なので毎朝の読経は休み、カミさんと一緒に合掌して十念のみですませる。朝食後に一枚起請文の写経をする・・・そんな習慣になってきた。

日常勤行では無量寿経にある「重誓偈」や観無量寿経の第九観にある「請益文」、それと天台系の摩訶止観に由来する(と言われる)「四弘誓」が中身の柱になるが、手元にある勤行式では一枚起請文のあと請益文を読み、そのあと念仏一会で念仏を多数回称え、最後に四弘誓、三身礼、送仏偈で終わる順序だ。

こう並べて見ると、仏典のそもそもは知識重視、学問重視、観念重視であったのが、一枚起請文に至って、

ただ一向に念仏すべし

と、ひたすら実践あるのみ、学問・知識・理屈は不要という風に、原理原則が変わっているのに気がつく。「ただ一向に」というのは、余計なことは考えず、これだけをせよという意味で、それは一枚起請文の本文の中でも

このほかに奥深き事を存ぜば二尊のあはれみにはづれ本願にもれ候べし

と、学問・知識は邪魔であるという断定が下されている。つくづくと、「これでイイのかなあ」と不思議だナアと思うことは多い ― このように疑いをもつこともいけないとされるのだが。

確かに、これは日本仏教史、というか思想史の上でも、革命的であったのだろう。だからこそ、浄土系信仰は平安以来の流行であったにもかかわらず、既存の教団からは「異端」として迫害され、弾圧されもしたわけだ。

先日、フランス人が仏教史を書くのは珍しいと思って、ジャン=ノエル・ロベールの『仏教の歴史 いかにして世界宗教となったか 』(講談社選書メチエ)を読んでみた。その中の第10章が「朝鮮から日本への伝播」だ。

日本仏教は飛鳥時代、奈良時代、平安時代を経て、鎌倉時代に至って浄土系宗派、その反動としての日蓮宗、それから禅宗が興隆することで国民的な広がりを達成できたというのは、よく知られている事実だが、著者のロベールはこれを

こうした潮流の全てに共通しているのは、膨大な大蔵経に説かれている極めて複雑な教義、実践、儀式の抜本的単純化である。実際のところ、大蔵経全体を読んだと自慢できるのはほんの一握りの僧だけである。民衆、貴族、武士に自らが実際に、そして有効的に仏教を実践しているという気持ちを抱かせたことが、こうした単純化された教えが、さまざまな階級に受け入れられ、普及した理由である。

このように《抜本的単純化》が本質だったと見事に指摘している ― ただ者ではないわけだ 。

細かな理屈は捨てても問題なしと割り切り、ただただ一つの事の実践あるのみと心を決めて、それだけに打ち込む。

実に《日本的》である。

日本文化の本質は引き算の美学である

誰だったかナア・・・忘れた。調べておこう。

シンプルを愛する日本人の感性が、やはり外来宗教である仏教でも生きていると思うわけで、世界宗教、普遍宗教である仏教もまた日本に来れば《日本仏教》になる。なるほどネエと、インド仏教が中国に渡れば中国仏教になっていたようにも思うが、ともかく奇妙に納得する自分がいる。

哲学も、法律も、制度も、民主主義も、世界普遍の設計図とは(多分)ずれていて、いま日本人が信じているのは極めて日本的な「法」であり「民主主義」である。そうも思われるのだ、な。

「日本特殊論」はカビの生えた古い発想だと言われるだろうが、つくづくそう感じるのだから、仕方がない。


ただ

大事なことはこの一点なんだよね

ということで終わりと思ったのが

真理はこれ一つだけではないよね。他にもあるんじゃない?

ということで、再びグチャグチャになる「主観主義的」な進展、というか混乱(?)が日本では割と多い。これもまた、シンプリファイ(単純化)する中で、捨て去った諸々の細部を、別の流派が再認識して別案として提示して対抗するという当然の進展であるわけだ。

この意味では

日本では《選択による単純化》が成功する例が多い。がその反面、矛盾や対立を嫌がらず、精緻な議論と細部の詰めを諦めず、これらを貫く最も抽象的な基礎概念を掘り当てて、今度は逆向きに全体を理路一貫した統一体系に見事に組み上げるという、気の遠くなりそうな《総合化と体系化》の作業には苦手意識がある。

こうも言えるかもしれない。日本人はずっと昔から《一筋の道》を好むのである。《道路網》には興味が向かない。先手にせよ、後手の先であるにせよ、急所をついた一太刀にかける。言葉のいらない無の境地。こんな行き方が清らかだと感じて好きなのだ。主観が客観に優越しがちなのは日本文化の本質を映していると思っている。

システムをつくることが下手であるという弱点もここにあるような気がする。他力信仰としては「専修念仏」という革命的提案をした法然の見解は主著である『選択本願念仏集』にまとめられているが、その主旨は多数ある仏道の中で、これを選択する、これが最も有効である、という点にあったことを思うと、外来文化受容の日本的パターンは、実はずっと同じであったかもしれない。

こんなことを思いながら、いつの間にか今年も夏至が迫って来た。

冬の間は

雪晴れや 気は清浄に ゴミ出しぬ

法然を 書き写しけり 雪の窓

といった風であったが、

つい先日は

桜より こぶしが先と 思い出し

そのすぐ後で

桜より こぶしが先と 思いしが

     はや満開の 桜なるかな

今日などは

写経する 朝のひかりは このごろは

     起くるまへより さし入りにけり

そういえば、少し前にはまだ暑寒別の山に雪が残っていた。



もうこれが夏山の風景になって来た。


2025年5月15日木曜日

ホンノ一言: 「高校無償化」・・・これも社会主義的失敗の一例になるのでは?

 こんな記事がネットにある:

――どのような学校が淘汰されていくのでしょうか。

もちろん、底辺からです。先述の髙田教授は、超進学校が高倍率を維持する一方、中学校までの学習内容の学び直しに重点を置く高校や、外国籍で日本語の指導を要する子たちの受け皿となるはずの高校など、「セーフティーネットの役割を担う高校」と位置付けられた学校の存続が危ぶまれていると指摘し、子どもたちの「進路保障の危機」であると言います。

Source:YAHOO JAPAN ニュース

Original:集英社オンライン

Date:5/15(木) 7:02配信

大阪府が先鞭をつけた《高校無償化》が主因となって、多くの府立高校が廃校となっている現状はイイのかという疑問はもう世間に広まっている。

にも拘わらず、高校無償化が(それ自体として)悪いことだと判定するのは(知識不足もあって)難しいせいか、善いことだと考える流れが、現代日本社会では広まりつつある。


小生が「ン??」というか、疑問を覚えたのは下線を引いた箇所である。

高校間の競争激化によって淘汰されていくのは、「底辺から」だと。その底辺とは、学び直しの機会を提供する学校とか、外国籍で日本語指導を必要とする人たちの受け皿とか、つまりは基礎的なセーフティネットとなる役割を果たしている学校だと。そして、残るのは超進学校である、と。

感覚的に「これは理屈が通らン。この人は目が節穴なのか」と感じました。

で、ちょっと考えてしまった・・・

そもそも若年層合計が激減している中で、超進学校に進学するべき人も絶対数として激減している。激減しているのは、能力分布の各階層で共通なのだが、平均未満のグループに属する人は(能力分布の形状は非対称性をもち低い値に並み値があることが多いので)数において相対的に多数のはずだ。

急速に減少するはずの優等生をターゲットにしている超進学校の競争率が、なお高いままであることが、不可思議である。

不可思議であるが、超進学校に入れるなら入りたいという人は、すぐ下の階層から吸い上げることができているのかもしれない。

となると、平均を含めて平均未満の階層を受け入れてきた学校は、若年層人口の減少に加えて、従来なら志願してきたはずの中上階層を奪われることで、市場が過当競争になりつつある。そんなことかもしれない。

しかしながら、こんな状況がよいはずはないわけだ。

超進学校が蓄積した教育技術とマス未満に対する教育技術は、同じ教育でも質的に異なる所がある。前者が生き残り、後者が淘汰されることの結末が、社会にとって善いはずはないと思われるが、いかに?

そもそもどの位の教育コストをかけてどんな教育を子女に与えるかという保護者の意思決定だが、コストとリターンとのバランスがとれていることによって、全体として合理的な教育資源の配分が担保されるものだ。

つまり良いものは高い。安いものは安いだけの理由がある。レストランも理美容院もテーマパークも全てサービスは同じ理屈が支配する。

その意味で、アメリカのハーバード大学など一流と評価されるアイビーリーグの学費が高く、マス層を相手にする州立大学など「普通の大学?」の学費が安いのは、理に適った状態である。

コストとリターンの合理的バランスが社会全体として自動的にとれるという点が、消費者の選択の自由と価格メカニズムがもたらす主なメリットだ。

言い換えると、国として達成可能なうちで「最適」(という意味は人によって異なるのだが)な教育のあり方は、自由な機会とサービス内容を反映した多様な価格付けによって実現される。経済学を少しでも勉強した人なら、この辺のロジックは当たり前だと感じるだろう。ただ、こうは発想しない向きがいるのも当然だ。が、経済合理的な「解」とは異なる方式をとった場合、人とモノの活用において非合理な結末が予想される。そして、日本人を含めて、人というのは「非合理な現実」が露骨に可視化されれば、それはそれで嫌がるものである。


日本社会に広まりつつある(?)《高校無償化》は《社会主義国家》ならやりそうな事だ。実際、教育無償化、医療無償化、食料・住宅・エネルギーなど基礎生活資材の安価提供など、どれも代表的な社会主義政策である。しかし、社会主義の実験は1世紀も経たないうちに失敗に終わった。ここ日本で社会主義的政策をまた実験するのは自由だが、その非合理性は、かつてのソ連と同じく、理不尽な結末となって、10年程度の期間のうちには顕在化するだろう。

特に「高校」をピックアップしてそこを無償化するのも変な行政だ。高校を問題とするなら、公立小学校なら授業料はゼロ、私立小学校なら高額な授業料という状態も、同じ問題があるというべきだ。中学校も同様だ。しかし、慶応幼稚舎や学習院初等科に進学するときの授業料をゼロにせよとは誰も言わない。もし大阪府内にあれば無償化の声があがっているのだろうか?

端的に、小生は「阿呆じゃないか」と思っています。


善意であるのは間違いないが、愚かな政治の一例を増やしているに過ぎない(と思っています)。



 

2025年5月13日火曜日

ホンノ一言: 減税と増税が対立するロジックは極めてシンプルだ

 小学生でもわかる当たり前の理屈:

  1. 「減税」を良しとするなら、(長期的には)小さい政府を目指すのが理屈。小さい政府なら、政府の役割をスリム化し、自由な経済を約束して、国民にチャンスを与えるべし。
  2. 「増税」を良しとするなら、大きな政府になる。大きな政府は、国民の福祉を充実するために予算を使うべし。軍事費拡大は愚かの極み。

減税を約束して国民の福祉拡大を約束するのは政治的詐欺。

増税をしながら国民の幸福度が下がるのは政治家・国会議員の無能の証明となる。

無能は諦めればイイかもしれないが、詐欺師には怒りを覚える。

国債を日銀が引き受ければ政府は幾らでも資金を調達できると言う政治家は、実質は詐欺師であるが、そのことに気づいていない。故に、詐欺師になれるほどの脳すらもっておらず無能に分類するべきだ。諦めと同時に怒りを覚える。

要約するなら、こんな風になるのではないか?

2025年5月12日月曜日

ホンノ一言: 経済学者がイイか? vs ChatGPTがイイか? そんな時代になったようで

 ここ近年の政治家がよく口にすること:

まったく経済学者とか、エコノミストとか、ああいった輩は、政治的に不可能な提案しかしないんだヨ・・・こっちの苦労も知らないで、ノー天気なもんだ

こんな情景は、おそらく、多分、永田町界隈で頻繁に交わされている会話でありましょう。


他方、アカデミックな経済専門家の世界では

いくら理に適った政策を立案しても、かみ砕いてルル説明してもサ、理解する脳がさっぱりないんですナ。とにかく低レベル!日本もいよいよ終わりだネエ・・・民主主義の限界ってヤツでしょうね

こんな会話をしたことがないエコノミストは、日本にはほとんどいないのではないだろうか?

どこの民放TV局のワイドショーでも

米はなぜ下がらないんでしょうか?

米価を話すときはこればかりだ。

消費税減税は参院選の争点になりそうです

と。確かに、これでは「一億総白痴化を象徴的に表す放送」として、後世まで語られ続けることでありましょう。専門家の大勢や、色々な意見を伝えることなく、勝手に「選挙の争点」という衣裳を着せようとしている。太平洋戦争開戦時もこんな風に無責任な報道姿勢に徹していたのだろう。


今朝もやっていた。カミさんと話したものだ:

カミさん: 農家の人は「米バブル」って言ってるンだね。

小生: そりゃ、コメが高くなれば、農家は必ず儲かるよ。いまコストが上がってるから、コメの高値は神様からの贈り物だろうね。ひょっとすると、神様じゃなくて、JA(農協)からの贈り物かもな・・・

カミさん: でも、この間のテレビを視てると、農業機械の値段も上がっちゃって、利益が出ないそうだよ・・・

小生: ああ、あれね、あんな小さい水田で、あんな大きな機械を入れても、利益はでないよ。あの10倍くらいの面積の農場で大規模にやらないと、機械化なんて非効率さ。最先端技術を導入して、かえって高コスト体質になるっていう、零細企業でよくやる失敗だな。いまの日本の水田なんてサ、ずっと昔に女の人が「早乙女」になってさ、一斉に田植えをしたころの農地を継承しているままじゃないかな。人手をかけて、丁寧に作る農業を前提しているんだよ。機械化するなら、それに合わせた規模にしないと利益なんて出ないに決まってるだろ。

カミさん: じゃあ、お米、安くならないの?

小生: なるよ。関税率を下げればいいんだ。輸入米が増えるけど、政府には関税が入る。関税収入は日本の農業効率化の補助金に使えばイイ。

こんな話しをしたものだ。

ところが、これが《政治的》かつ《外交的》に、中々難しい・・・相当な政治的力量が要る。

ChatGPTに聞いてみたのでコピーしておこう:


まずWTOの《譲許税率》を聞いてみた:

WTOの「譲許税率(じょうきょぜいりつ、Bound Tariff Rate)」とは、加盟国がWTOに対して「この税率を上限とします」と国際的に約束した関税率のことです。

✅ 譲許税率の基本ポイント

項目 内容

定義 WTO加盟国が国際的に「関税の上限」として約束した税率

目的 自国市場の保護と、貿易相手国に対する透明性・予見性の保証

拘束力 WTOルールにより、譲許税率を一方的に引き上げることはできない(下げることは可能)

適用範囲 品目ごとに個別設定(例:米、小麦、牛肉、鉄鋼など)

引下げ方法 二国間または多国間での交渉を通じてのみ可能(見返りの譲歩を求められる)


🏛 日本の米における譲許税率

日本の「一般の外国産米」に対して設定されている譲許税率は、**約778%**という非常に高い水準です。

• この関税率は、WTO設立時(1995年のウルグアイ・ラウンド交渉)で日本が自国農業を守るために確保した特別措置の一環です。

特記事項:

同時に、「ミニマム・アクセス米(最低輸入義務米)」として年間約77万トンの輸入枠を認め、その分は比較的低関税または無税で輸入されています。

• この枠外での米輸入には、先述の高関税が課されます。


🔄 譲許税率と実行税率(Applied Tariff Rate)の違い

種類 意味 日本の米の例

譲許税率(Bound) WTOに約束した「上限」関税率 約778%(高関税)

実行税率(Applied) 実際に適用している関税率(譲許税率以下) ミニマムアクセス米などは低関税


🚫 譲許税率の引き上げは困難

• 一方的に譲許税率を引き上げると、WTO協定違反となり、他国から報復措置を取られる可能性があります。

• 引き下げは可能で、自由貿易協定(FTA)などで段階的に譲許税率以下の実行税率を導入することがよくあります。


✅ まとめ:WTOの譲許税率とは?

• **「関税の上限を国際的に約束するもの」**です。

• 各国が市場を完全に自由化することなく、一定の保護を維持しながら貿易の予見性を高めるためのルールです。

• そのため、米など戦略的農産物においては、非常に高い税率が設定されていますが、これは正当なWTOルールの範囲内です。


もしご希望があれば、譲許税率と実行税率の具体的な一覧や、日本が農産物に設定している他の例(牛肉・乳製品など)も紹介できます。見てみますか?

次に、「米のミニマムアクセス米の枠を増やすことは可能ですか?」と聞いてみた:

はい、米のミニマム・アクセス(MA)枠を増やすことは理論的には可能ですが、現実には非常に難しいです。その理由は、WTOルール、農業保護政策、政治的な合意形成といった複雑な要因が関わるからです。


✅ ミニマム・アクセス(Minimum Access)とは?

• WTOウルグアイ・ラウンドで導入された制度。

• 完全な市場開放を避けつつ、一定量の輸入を認める妥協策。

• 日本は米について、**年間約77万トン(精米換算)**のMA輸入枠を設定しています。

• この枠内では、関税が低く(あるいはゼロ)に設定されており、実質的に例外的な「関税の引き下げ手段」となっています。


🔄 MA枠を「増やす」ことの可能性と制約

項目 説明

可能か? WTOルール上は「自主的な拡大は可能」です。

制約1:WTOルール WTOでは最低量の義務はあるが、上限はありません。ただし、一度増やすとその水準が新たな義務として認識されるリスクがあります。

制約2:国内農業保護 枠を拡大すれば安価な外国米が流入するため、国内のコメ農家への影響が非常に大きいです。政治的反発は必至です。

制約3:政府買取制度 MA米は多くが政府の国家貿易(STEs)で買い入れられています。消化困難な輸入が増えると、税金による処理費用(備蓄・加工処理)が拡大します。

制約4:既存の国際合意 MA枠はWTO農業協定に基づき設定されたものであり、見直しには**WTO全体の再交渉(農業交渉)**が必要になる可能性も。


🧭 現実的な「増枠」の道筋(例)

方法 内容 難易度

二国間協定での枠増加 日米貿易協定のようにFTAで数量・用途限定の枠を拡大 中~高

国内用途限定の輸入枠拡大 加工用・業務用など、一般用と区別して輸入を許可

WTO交渉による再設定 WTO農業交渉で新たな合意を形成して全体を見直す 非常に高い


🔚 結論

• 技術的には可能(禁止されてはいない)ですが、実際には国内農業政策・政治的合意・財政問題・国際交渉の複雑さから、実現は非常に難しいとされています。

• 特に日本では、MA枠の消化すら課題になっており(例:学校給食用や加工用などでの利用にとどまっている)、枠の「拡大」よりも「有効活用」が現実的な政策論点となっています。


もしご希望であれば、MA米の流通や消化の仕組み、過去の貿易交渉での扱い事例なども詳しく解説できます。さらに深掘りしてみますか?

ChatGPTだから、間違った「思い違い」や「間違い」が混じっている可能性はある。とはいえ、筋道の提案にはなっているから、あとはこれを見る人間が評価して、採用するなら間違いの有無を自分でチェックすれば簡単だ。

確かに、「低コスト」な知的作業だ。

霞ヶ関の官僚集団は、少なくともChatGPTを超える程度の専門能力を示すことが求められているはずだ。

その官僚集団よりも「経済学者」は高度の専門的知見を示すことが求められるだろう。

こう考えると、足元で何の論争も経済学界で繰り広げられていないという事実も、その背景が何となく伝わってくる。

何だか暗然とする昨今で御座います。

しかし、《論争》はやはりするべきだと思う。将棋や碁で、たとえ天才・名人が人工知能(AI)に負けても、それでもやはり棋界のタイトル戦は世間の注目の的となり、天才的棋士は天才にかわりはない。その天才をみてアマチュア棋士も努力を惜しまず棋譜を研究する。こんな状況が人間にとって悪いはずがないのである。

そもそも人間がまず知性を振り絞って、論争を展開しなければ、AIが学習する素材も提供されないという理屈だ。人間知性が劣化すれば、長期的にはAIも駄目になる。

今のところ、AIには「創発性」が決定的に欠けているのだ(と理解している)。




2025年5月10日土曜日

断想: 三島由紀夫『暁の寺』の中の一句について

最近は本職のデータ解析でガチャガチャやるよりは仏典や哲学の研究の方がよほど面白くなった。物質界を超越した事柄を問題にする形而上学は頭の体操にもとても好いのである。

普段使わない単語でイメージや論理を理解することに疲れたときは、気分転換に昔読んだ高木貞治の『解析概論』を奥の方から取り出して読み返している ― といっても、第1章からだとシンドイので、前半を飛ばして「第5章 解析関数、とくに初等関数」からだ。これまた頭脳のウェート・トレーニングだ。

但し、第5章の複素関数論など、これだけを勉強するなら山本直樹『複素関数論の基礎』辺りがヨッポド分かりやすく、説明も証明も上手だ。この「上手だ」という感想の背後に、高木貞治が現役であった頃の大学生に前提されていた知性レベルと現代の大学生が現実にもっている知性レベルとの隔絶した格差が隠れているのなら、むしろ慄然とした思いに沈むのは小生だけではないだろう。

それはともかく、

仏教関係への興味が高まって来たことから三島由紀夫の『豊饒の海』第3巻にあたる『暁の寺』を(これまた)再読している。

その最初の方にある

悪を行じながらも楽を見るは、悪の未だ熟せざるがためなり

という一句に目が留まったのは先日の事である。

これは覚えてなかったナア

と。完全に忘れている。やはり、本というのは読む人の知性のレベルに応じて読まれるものである。

同じ本は、何度も繰り返して読めば、読むたびに新しい事を発見することが可能なのは、

人は年齢を重ねるに伴って、経験も増えるが、頭脳も鍛えられる

この単純な事実を伝えているに過ぎないと思っている。

上の一句だが、出所は『成実論』の中の「三報業品」だと三島は記している。

フ~~ム、成実宗というのが南都六宗の中にあったナ。その根本経典カネ?

そんな疑問もあってGoogleで検索しても、中々、明解な説明に遭遇しない。そこでChatGPTと話してみようと、以下の様な対話をした:


要するに、

「悪を行じながらも楽を見るは、悪の未だ熟せざるがためなり」という主張に関係する**因果の時差(業と報いの関係)**が、まさにこの「三報業品」の中で論じられています。

ということが分かった — ChatGPTを信頼するとして。

そこで「因果の時差」について聞いてみた:



簡単に要約すると、

『成実論』の解釈に基づくと、以下のような理由で時差が生じると考えられます。

〇 業が「熟す」までに時間がかかるから
業(行為の力)は因としてはすぐに存在するが、果が現れるには縁(条件)が整う必要がある。
たとえば種(因)をまいても、水・日光・土壌(縁)がなければ芽は出ません。報い(果)も同じく、適切な時期・状況が必要です。

〇 善悪の性質と心の強さが影響する
強い動機や執着を伴う業は、より早く強く果報として現れる可能性があります。
逆に、弱い業は後の世に回ることがある。

要するに、永遠の輪廻転生を繰り返す中では、善には善が、悪には悪が帰結する。しかし、一人の人間の一生の中で善悪の因果が完結するとは限らない、と。そういうことであるらしい ―  ChatGPTを信頼するとして。

きちんとした典拠に基づく「知識」ではないが、友人の「ものしり博士」にきいてみた程度の受け取り方なら、十分に使えるように感じる。極めてマイナーなはずの疑問にも回答できるのだから、友人としていれば、何でも知っているとっても該博な人物に相当する、と言うべきだろう。

これを読んで、またまた、プラトンを連想した。というのは、

「悪を行じながら楽をみる」という生き方は、『ゴルギアス』のカリクレスが主張した思想で

法律習慣のうえでは、世の大多数の者たちよりも多く持とうと求めるのは不正であり醜いことだと言われていて、またこれをしも「不正行為」と名付けているのであるが、しかしわたしの思うに、自然そのものは、まさに同じそのことこそが正義なのだということを示しているのである。すなわち、すぐれた者は劣った者よりも、また有能な者は無能な者よりも、多くを持つことが正しいのだ、と。

・・・いっさいの自然に反する法律も、すべてこれを足下に踏みにじって立ち上がり、われわれの奴隷であった男は、突如、君主となってあらわれる。自然の正義が燦然と輝き出るのは、このときだ。

ニーチェも(一時?)心酔した《優秀者による凡人の支配》という原理が明快に述べられている。その一方で、

快い思いをすることは善い状態にあることではなく、また苦しむことは悪い状態にあることと同じではない ― 『ゴルギアス』から。

さて、クロノスの治世のころ、人間に関する法として、次のようなことが定められていたが、それはそのままひきつづき、今日に至るまで、神々の間でまもられているのである。すなわち、その法によると、人間たちのなかで正義を守り、神の意にしたがいつつ、その生をおくってきた者は、死んでからのちは幸福者たちの島に移り住み、そこで諸々の禍から解放されて、まったき幸福のうちに日をおくることになり、これに対して、不正にして神を蔑する一生をすごした者は、人呼んで「タルタロス」という償いと裁きのための牢獄へおもむかなければならないことが定められているのである ― 同上。

ソクラテスは(実にソクラテスらしく)こう語っている。プラトンは、古代ギリシアには珍しく輪廻思想を支持していた哲学者であるが、例えばキリスト教の「最後の審判」といったイメージも同じベクトルの思想だと言っていいかもしれない。

とにかく、善と悪という観念が人にはあって、善い意志には善い結果が、悪い意志には悪い結果がもたらされるというのは、人類社会最古の倫理的な「公理」であると呼んでいいかもしれない。

そして、その公理が無条件に真となるには、時間を超越した生の連続性(=輪廻)を認めておく必要があった。そういうロジックなのだと思うが、もちろんこれは、観察されたデータから実証するのが極端に難しい世界観であり、また仮説である(と言うことすらためらわれるが)のは間違いない。

とはいえ、簡単な方程式

$$ x^2 + 1 = 0 $$ の二つの根を観察可能な量として可視化するのが不可能であるにも関わらず、分析ツールとしては「純虚数」という想像上の数を使っているのと同じように、観察不能なイメージであっても理路一貫した議論をするのに欠かせない概念であれば、使っても構わないと小生は(最近になってから一層)強く思うようになった。

理論は、全体としてのロジックが完成されているかどうかが肝であって、一つ一つのパーツが観察可能で、現実的であるか、それとも非現実的であるかどうかを問うべきではない。

実際、観察不能なイメージが(いずれかの超越世界に)実在するものと前提したうえで、毎日の生活をしている人がこの地球上に多いのは事実である。

何らかの結果が、利得として、それによって得られているはずだ、と考えるのは極めてロジカルだと思うがいかに?


『暁の寺』の中で三島は輪廻転生についてこんな風に述べている:

地球の自転という事実が、決して五感ではそれと知られず、科学的理性を媒介として辛うじて認識されるように、輪廻転生も亦、日常の感覚や知性だけではつかまえられず、何かたしかな、きわめて正確で体系的でもあり直観的でもあるような、そういう超理性を以てして、はじめて認識されるのではなかろうか。

「輪廻転生」を「地球の自転」にたとえましたか・・・なるほどネエ。いい譬えだが、宇宙ステーションに長期滞在できるようになった今日となっては、もはや地球の自転も多くの人が目でみる《単なる事実》になってしまった。

地球の自転はいざしらず、三島自身が輪廻転生が真理だと確信していたかどうかは、あいにく知らない。が、馬鹿々々しい空想のたわ言だと思っていれば、そもそも『豊饒の海』という輪廻転生の小説など書く気にはならなかっただろう。三島は《省察》と呼んでいる。デカルトの哲学にだけ使われる言葉ではないようだ。

2025年5月7日水曜日

ホンノ一言: 理系女子が少ないから「改善」しないといけないという主張は旧すぎますゼ

大学の理系学部の女子比率が中々上がらないようでネットにも《このバイアス》を何とか改善しなければならないと述べられていたりする。

この種の話題は本ブログでも多数回投稿していて、実際、<男女 性差>でブログ内検索をかけると多くの既投稿文がかかってくる。

小生の立場は昔から一貫していて、個々人が完全に自由に選択したマクロ的結果が、仮に男女不均一、つまり職種間で非一様分布があるなら、その結果には合理性があるものと解釈して、うまく説明すればイイ。こんなところであります。

要するに、《社会的要請》か何かしらないが、外圧をかけるのは全て反対である。

そういえば、何日か前に見かけたかどうだったか忘れたが、

ロールモデルって、何だか押しつけられている感じがして、イヤだなあ・・・

こんな台詞だったかが、妙に耳に残っている。

賛成したい思いもするし、ちょっと待ってと一言コメントをしたいという気持ちもある。

高名な数学者にして「仏理学者」(物理学の打ち間違いではない)であった人に末綱恕一がいる。「あの」高木貞治に師事した整数論の大家であったからもう昔の人である。

その末綱氏の著書に『華厳経の世界』というのがある。

日本は(密教を無視すれば)法華経を基礎とする天台教学が支配的であったが、中国・韓国は華厳経学と天台教学が二大潮流であったという違いがある。

日本では天台宗の総本山・延暦寺が総合大学の役割を果たして、そこから浄土系仏教、日蓮宗、禅宗までが派生した一方で、華厳宗は奈良・東大寺を総本山として今では微々たる広がりしか持っていない。

末綱氏の『華厳経の世界』は、華厳経の要点を概観するのと併せて、華厳思想の特徴をまとめている。

第2篇『華厳思想』の第3章「西洋思想の客観性」の中でこんなことが書かれてある:

紀元前5世紀になると、多くの存在物中、人間存在が特別の関心をひくようになった。ギリシアでは真と善と共に美が尊重されたが、その美が特に人間において看取されるようになり、優れた悲劇や造形美術ができることになった。

丁度、この時期に、ソフィストというものが現われ、しばしば詭弁をろうして、主観的独断主義に陥った。自分自身を主として、認識する個々の主観が直ちに「万物の尺度」であると主張した。

ギリシア人の真の認識、即ちエピステーメー(=真の知識)に欠くことのできない客観性が否定されることになったわけである。

そこで周知のとおり、ソクラテスが出て、正義・勇気・節制等(=智慧)の徳の概念を明らかにし、このような徳は万人に共通な客観的なものであることを主張して、詭弁や俗論と闘ったのである。

「ロールモデルは押し付けだから嫌」という言い分が、抑圧的な慣行への反発であればその主張は絶対に正しいが、単に

自分は、これが正しいと思っているから、とやかく言わないで!

という単なる主観の主張に堕しているのなら、相手からみれば「押し付け」にすぎず

間違いは間違いであるという事実にかわりはない

こう結論付けるしか、結論のつけようがない。

人類社会は、真理を発見しながら進歩してきたのであって、個々人の単なる思い込みは社会には何の貢献もしてこなかった。これからも事情は同じだろう。

モデルや規範を《唯一の真理》として尊重する文化はいわゆる《古典主義》である。他方、個々人の自由な発想を求める文化は《ロマン主義》と呼ばれる。

日本社会は、江戸から明治にかけて、その時の民意を無視して、政府主導の西洋化を強引に推進して形成されたハイブリッドな社会である所が、同じ「先進国」でもヨーロッパ、アメリカとは、本質的に違っている。

その明治以来の社会的価値の上に構築された価値観や規範、ロールモデルが理不尽にまだ支配的であるなら、今度は《ロマン主義》の花を咲かせて行くほうが、バランスはとれるのじゃあないか、と。


そして、明治以来の価値観の根本は

個々の日本人よりも先に日本社会がある

誰もが意識しているはずのこの観念ではないかと、小生は認識している。

(日本)社会の役にたてる人間になりたい、なるべきだ

広く共有されているこの強迫観念も上の明治以来の古い(虚構の)価値観から派生していると思っている。

大体、日本文化だが、日本という「国」なり「社会」がつくったと思ってルンでしょうか?その時どき、その場所で生きていた一人ひとりの寿命ある「日本人」がこの世にいる間に造ったものではないとでも、思ってルンでしょうか?もしそうなら、おどろき、桃のき、さんしょの木ってモンです。

国とか社会は自然の中に「実在」するものジャアありません・・・こう考える立場に小生はいる。「ある」から「ある」と思っているだけです。


なので、理系女子が少ないのは社会的なバイアスだから、これを社会問題として社会として解決しなければならないという論調は、というよりそんな思想には、ヤッパリ反対だと言わざるを得ないのだ、な。

【加筆修正:2025-05-11】



2025年5月4日日曜日

覚え書き: 日本のコメ高値は意外に粘着的(Sticky)であるかもしれない

日本米の名品「コシヒカリ」にこだわる日本人は多いのだろうと思うが、世界の中でコシヒカリに執着する人がどれほどいるかと思うと、やはりそんな消費者は極めて少数だと思う。

寿司ネタはコシヒカリに限るという人は、日本人の中ですら、これまで小生お目にかかったことはないし、実際、寿司屋で使っているコメがコシヒカリかどうか、小生の味覚能力では感知できない。

食材にこだわるのは、その人の味覚の感度によるので、特定品種に執着するのは無意味である例は多い。

アメリカ・カリフォルニア州でもコシヒカリは生産されている。いま日本に輸入されて評判になっている「カルローズ」はコシヒカリではない。というか、日本人が好む短粒種でなく中粒種であることがWikipediaから分かる ― ちなみにWikipediaの信頼感はあらゆるメディアを上回っている(たとえばこれを参照)。

米国産中粒米の相場は前稿に書いた。

では日本人の好むコシヒカリの米国内価格はいくら位なのだろうか?

米国内の市場では米国産のコシヒカリと日本から輸入されたコシヒカリが混じって流通している。味は(一般消費者には)ほとんど同じであるそうだ。

米産コシヒカリとの競争圧力があるせいか、米国内でコシヒカリの販売価格は(いろいろとネットを調べて見ると)日本の3割安というところのようだ。

同じ日本のコシヒカリがアメリカでは安く、日本では高く売られているという指摘は、これを指すのだろう。この逆転現象(?)は、ひとえに市場競争がもたらしているわけだ。つまり、同じコシヒカリをアメリカは低コストで(=効率的に)生産できるということだ。だからコシヒカリ価格は安くなる。一方、日本国内の市場で高値がついているのは、ブランド価値、つまりは準レントであるし、これまで品種改良に投下してきた資本へのリターンであるとも言える ― 賃金コストがアメリカに比して高いからとは言えそうにないがどうだろう。

では、安いアメリカ産コシヒカリを日本に輸入すれば、日本でも安くコシヒカリを買えるようになるだろうか?コシヒカリ生産農家にとっては悪夢になるだろうか?

必ずしもそうはならない。

なぜなら日本のコシヒカリ価格はいま高いからであり、コシヒカリ輸入業者が寡占的であれば、輸入業者が自社利益を最大化するように供給をしぼるはずだからだ。つまり、輸入業者がコシヒカリ市場で安値攻勢をかけるとは考えられない。むしろ、日本の既存業者と競争はせずに融和的な戦略を選ぶはずである。

このロジックは短粒種だけではなく、日本人が受け入れやすい「カルローズ」など中粒米についても当てはまるに違いない。

米国内販売価格を上回る価格が、日本国内で形成されているならば、わざわざ安値攻勢をかけて米価を急落させるようなビジネスを輸入業者がするはずがない。

こう考えると、現在の米価が急落すると予測するのは難しい。

それでなくとも、自由に形成される商品価格は足元の価格に依存する自己回帰モデルが当てはまるものだ。

もしも投機的売買が相当割合あるのであれば、価格下落局面の方が上昇局面よりは急速に進むと言われるが、コメは株とは違う。企業は不況で倒産して株が紙くずになる可能性があるが、コメは保存可能な農産物である。暴落局面で売り急ぐ必要はあまりない。

こう考えると、日本の高い米価格は粘着的(=Sticky)であると見るべきかもしれない。


2025年5月1日木曜日

ホンノ一言: なぜ「消費税減税」ではなく「農産物関税引き下げ」で勝負しないのか?野党の思考回路が分かりません

米価高騰の無策を叩けばよいのに、消費税減税を打ち出して、その低脳ぶりが経済専門家に笑われている。一般国民にも(何事につけても?)その無知なる事実が伝わって来ている、こう思ったりする昨今であります。

多分、米価高騰を叩けば農家、農業関係者の反発を買い、今夏の参院選で票を失うと心配しているのであろう。実際には、そんなことはない。結局のところ、農家世帯を現実に保護してきたのは自民党であり、野党は都市部の大票田をとりにいくしかチャンスはないのであるから、農村地域の票が野党に流れることはない。

どちらにしても農家票は野党にながれるはずがない票田なのだから、野党は(ある意味)安心して大都市住民の利害を代表すればよいわけだ。ところが、この期に及んでも農産物関税率引き下げ、食品価格引き下げを打ち出してこない。野党の臆病なリスク回避姿勢も度を超していると感じます ― (そんなことはないと思うが)テロでも心配しているのかと邪推したくなります。

実際、産業革命が進行していた19世紀初めのイギリス。国内農家(≒地主階層)を保護する農産物高関税と、割高な食料品価格が高賃金を招いていると不満を募らせる企業経営者層の利害が対立した。もちろん労働者階層は食品価格が下がってほしい。この永年の対立をアウフヘーベンしたのが、1846年の穀物法廃止で、これ以後、イギリスは自由貿易を国是として大いに発展、Pax Britanicaと呼ばれる時代をつくっていけたわけである。経済学部の学生なら誰もが知っているはずだ。

つくづく日本の国会議員は、政治ではなく、選挙のプロなんだネエ・・・

情けなさには 涙こぼるる

であります。無知・無教養は仕方がないが、「何を待つのか、とにかく待とう」といった風の呑気さには呆れるばかりだ。

一体、何の専門家のつもりだか・・・?

ということであります。


ネットにこんな記事がある:

石破首相は、訪問していたフィリピンで記者団の取材に対し、食料品にかかる消費税の減税に慎重な姿勢を示しました。

石破首相:

高所得の方、あるいは高額消費も含めて、負担が軽減されることになりますので、低所得の方が物価高に一番苦しんでいるということから考えれば、どうなんだろうねと。

食料品の消費税をなくす立憲民主党の案について問われた石破首相は、1年間に限ることについても「事業者がごく短い間に2回のシステム変更することは可能か、事務負担という問題がある」と指摘しました。

正に《ものも言いよう》。苦労して引き上げた消費税率をいま自ら下げるはずがない。


大体、物価が上がったから減税するという政策、外国が聞いたら大笑いですぜ。恥ずかしいですワ、という人も多いだろう。インフレを抑えるには金利引き上げと財政緊縮が定石だ。

そもそも消費税を減税すれば、社会保険料が上がらないと、医療・年金を維持できない。軽減税率だけでも下がれば、シルバー世代は喜ぶが、現役世代は年金保険料・介護保険料まで上がって酷な結果となる。決してニュートラルではないのだ。


消費税を減税するより、食料品価格を下げれば、それが最もよい。こう発言する政治家がなぜ日本には現れないか?

そして政府は《ヤル気》になれば、米価は下げられる。

何故なら、コメの国際価格は安いからである。「米価高騰」は日本だけだ。



Source: 世界経済のネタ帳

URL: https://ecodb.net/commodity/rice_05.html

今年3月時点で63.40 円/kg、5キロにすると317円/5Kgになる計算だ。アメリカのコメ価格は日本の10分の1だと聞いたことがあるが、正にその通り。数字は語るというヤツだ ― 現時点では10分の1未満になっている。

上の図はバンコクの輸出価格だが、バンコク価格はタイ米ではないか、と?

アメリカの米価は下図のようになっている。



Source: i-DCR国際食料問題研究所

URL:http://worldfood.apionet.or.jp/pricechart/chart/No3-3.htm

上図をみるとカリフォルニア産の中粒種は今年2月時点で概ね700ドル/トンに下がっている。これを5キロ当たりの円貨に換算すると、1ドル145円のレートでは507.5円になる。やはり現在の日本国内の小売価格の10分の1というところだ。

多分、目隠しをされて日本産のコメと米国産のコメを食べ比べるとして、100パーセント正確に生産地を回答できる日本人はそれほど多くはないのではないか。

どちらにしても現地価格とは関係なく、ほぼ同質の品種のコメが海外から日本に来れば、日本市場のコメ相場を僅かに下回る価格で販売される。輸入業者間の競争圧力が弱ければ、米価上昇は抑えられるものの、火事を消すような米価急落にはつながらない。これが寡占的販売業者が選ぶ販売戦略だ。

しかし、利益があれば必ずコメ市場の供給は増える理屈だ。最終的には(関税ゼロにすれば)国際価格に収れんする ― この時、日本国内の農業は、というより「コメ農家」は全滅する(はずだ)と、騒ぐ人が多いわけである。


日本の野党はなぜこのような事実を国会審議の場で示さないのか、国民民主党の玉木さんが云っている《手取りの増加》より、余程アピールしますゼ。

食糧安全保障云々という理屈を超えて、

日本は何だか変なことをやっている

変なことでも理屈があれば好いのだが、余りに非合理であれば、やはり変な事をやって自ら苦しむことはないと思うが、いかに?

なぜ日本の野党は、どこもかしこも、この真っ当な議論を与党に吹っ掛けないのだろうか?

これが、小生にとっては、いまの七不思議であります。


・・・

以上の批評とは別にして、野党が本気で米価高騰を叩いて「関税率を引き下げて食品価格を下げる政策」を世に訴えるとしよう。

当然、自民党は(ホンネは農家票が欲しいからだが)食糧安全保障を唱えて野党を批判するはずだ。

さて、日本国民は(そうなった場合)どちらを支持するだろう?

食品価格が高くとも日本の安全保障を確保するべきだとする意見が多数を占めるかもしれない。小生は、実のところ、日本人の国民性を考えると、こんな展開もありうると予想している。

もしそうなれば、メディアが(今のように)米価高騰を非難するような報道を続けるのは難しい。何故なら、国の安全のためなら、輸入には頼らず、高い国産米を甘んじて食べ続けるという国民の意志と覚悟が、世論を通して明らかになるからだ。

真面目に議論することで、日本人が自らも気がついていない本音を知ることができる。それを通して政治の方向が与野党にも見えてくる。

これは善い事ではないだろうか?

故に、野党は常に与党に対しては(臆することなく)論争を仕掛けなければならないと思うのだ、な。

【加筆修正:2025年05月2日】