2011年5月31日火曜日

ドイツの「脱原発」決定に思う

今日の日経のトップ記事は、「レアメタル開発拡大 価格急騰、中国依存下げ」。同程度の扱いで「消費増税段階的に―社会保障会議提言へ、15年に税率10%念頭」、その下側に小さく「内閣不信任案―小沢元代表が同調示唆」という政局報道。

新聞と言うのは、デスクが各種雑多の情報を仕分けて、紙面に割り付ける。割り付け自体が、その社の判断、立場を表現している。どんな記事がどう扱われているかも、また新聞が伝える情報だ。(ただしこれは最近読んだ大前研一氏の受け売りです)

実は3面に「独、脱原発 見切り発車―22年までに全面停止」とある。小生の目を引いたのはこの記事だ。小生ならこれをトップに持ってきた。実際、独紙"Frankfurter Allgemeine"のWEB版をみても、エネルギー政策転換、原発撤退に対する財界の懸念を伝える記事が相次いでトップを占めている。

確かに「脱原発」を決めたのはドイツであり、日本にとってはヨソ様のことなのだが、その日本にとっても今回のドイツの決定は、決して小さな出来事とは言えないのではなかろうか?

どうやら日本経済新聞は、早急な原発撤退には反対の立場であると見える。ということは、基本的には脱原発による電力コスト上昇を心配する立場であり、それはつまり輸出産業の国際競争力を重要視する立場でもあることを示唆する。社としては、そんな判断を持っている。そういうことが紙面からも明瞭に窺われるわけです。

それならそうで堂々と社説を通じて、フランスやアメリカのように原子力発電重視路線の堅持をしっかりと主張するべきではあるまいか?今のままでは、例えは悪いが「忍ぶれど 色に出にけり わが想い・・・」という奴であり、「ホントはそう思っているんじゃないんですか?どうなんですか?」、「あっ分かっちゃった?いやあ、そうなんだよネ」、「なんだ、やっぱりそうなんですか。言ってくれたらいいのに」という感じであり、誠にしまらないこと夥しいのである。出ちゃった ・・・という編集スタイルですな。

さて、大事なのは記事の中身である。

昨日のブログでも記したように、オーストリアは既に脱原発を国民投票で決めている。新聞には、脱原発グループとして、ドイツ(原発17基保有)、スイス(5基)、オーストリア(0基)、イタリア(0基)を並べており、それに対して原発依存を変えないグループとしてはイギリス(原発19基)、ポーランド(0基)、フィンランド(4基)、フランス(58基)をあげている。ポーランドやフィンランドは保有プラントは少ないものの原発派に区分けされている。

ドイツの脱原発は、政府内に設けられた有識者による委員会が結論付けたものであり、まだ最終決定ではない。しかし独政府は6月6日の閣議で関係法案を決めたいとの報道である。独紙によると、ドイツ財界、特に製造業ではコスト負担上昇を懸念する声が強く、日経でもこのあたり<見切り発車>と指摘している。とはいえ、まずドイツの脱原発は確定と言ってもいいのではないか。

脱原発の切り札は、当然、自然エネルギーであるわけだが、ドイツではエネルギー効率を潜在的には60%向上させられる、と見ているようだ。現実には、ドイツはフランスから安い電気を輸入しており、その点、原発派フランスをフロントエンド・エネルギー源として確保しながら、自国は脱原発を進めるわけで、それをフランスから見ると、どうしても好意的には見れない。そんな報道もされているようだ。 いずれにしても、フランスは原発重視路線をいま転換できる客観的状況ではなく、故にフランスの路線をGivenとして、その他欧州諸国はエネルギー政策を自国にとって最適となるように決めるはずである。それこそエネルギー戦略だ。

折から、ロシアが電力輸出に力を入れ始めている。核燃料再処理ステップまでを含めた一貫サービス込みで原子力発電プラントを戦略輸出商品として売り込もうと企てている。日本も米仏のアレバ、GE、ウェスチングハウスとタッグを組みながら、世界市場に原発プラントを輸出しようと考えていたわけだが、日本は顧客の信頼も落ち、既に手負いの獅子である。とは言うものの、これはあくまでも日本のエネルギー関連企業の経営戦略である。大事な点は、まだ日本国の国家戦略、エネルギー戦略がないことだ。電力市場自由化ですら、電事連という民間企業団体に押しまくられてきた惨状である。政策推進力がないわけですから、当然、戦略などもありえないわけですね。

日本では新規原発はほぼ不可能だ。その中で、日立や東芝、三菱が高性能の原発プラントを海外に輸出しまくれば、原子力産業は潤うが、ますます内外のエネルギーコストの格差が拡大して、その他製造業には不利になると思うのだが、やはり日本としてはエネルギー産業をコアコンピタンスとして守っていきたいのか?あるいはこうも考えられる。フランスはイギリスにも電気を売っている。中国は日本に電気を輸出することに関心をもっている。安い電気を中国から輸入すると、日本の一部産業にとっては利益にかなう話しであろう。だとすれば、そういう路線を主張する政治勢力も出てくるべきだろう。これは日本のエネルギー産業の利益にもかなうだろう。中国にプラント輸出すればいいのだから。

これから新たなエネルギー基本計画が議論されると思うが、それは国家経済戦略の中の一つの分野であって、エネルギー計画自体が局地的なものであることを忘れないでほしいものだ。エネルギー計画の次には、産業構造の展望、そうして被災地東北を含めた国土利用計画の再検討も待っているのだから。

電力市場では自由化を進め、必要な分野では計画と展望を政府が示す。市場と計画。難しいのはそのミクスチャなのだが、戦後復興、高度経済成長を演出した日本は、その混合レシピを知っていたはずだ。そのレシピは、当然、21世紀に合わせてアップデートすることが必要だが、今はまず、政府主導やら、官僚主導やら、民間主導やら、<主導権争い>ばかりをしないで、本来の政策レシピ、政治のモノ作りという原点に戻ることが最優先。それができなきゃ、日本の政治家は政局のプロであり、政治のプロではないと言い切られても仕方なし。

政治の原点に戻れるか、戻れないか?これこそ今の日本が直面する<政治リスク>の本質だ。 政治が日本社会で価値を生み出しているのか?そう考えると、本日の日経がドイツの脱原発を3面に、小沢一郎を1面に持ってきた割り付けも、分からないでもない。

2011年5月30日月曜日

自然エネルギーは原子力の代わりになりうるか?

5月もあと2日である。北海道では最高のシーズンがやって来るのだが、内地は梅雨になる。大震災被災地や放射性物質飛散の心配がたえない地域にいる人達は、まだなお「非日常」の暮らしが続いている。今年の夏はどんな夏になるだろう。

節電計画も、老朽化した発電設備の再稼働計画も、それらは当面必要なことではあるけれど、何より大事なことは今後のエネルギー計画を新しく作ることだ。ところが、将来のことはほとんど音なしの構え。東電の責任やら、賠償負担やら、要するに誰の財布で賠償を支払うかの責任の押しつけ合いになっている。そう思わざるを得ない体たらくぶりが続いている。

いずれにせよカネの話はしないといけない。最初からカネの話にならなかったのは幸いだ。しかし、結局、カネの話になっている。東電もカネを出したくない。国も、責任は認めるものの、カネはご勘弁という姿勢だ。関係者がこれでは、被害者は浮かばれない。どうしても後ろ向きの目線になる。これではいけない。

× × ×

週刊エコノミストの5月24日特大号は、<脱原発>がメインテーマだ。自然エネルギーを生かす道筋が解説されている。しっかりした本はいま出版に向けて準備中のはずだ。まずは経済週刊誌であらましを勉強しておくのが一番便利である。

小生もエネルギー産業については人並みの知識しかない。目からウロコの新情報が満載だったので、ここで整理しておきたい。

【1】現行計画と当面の代替エネルギー

2030年までに14基以上の原発施設を新設して、総電力に占める原子力の比率を50%にする。現行計画のこのロードマップは頓挫した。菅首相は「従来のエネルギー基本計画はいったん白紙に戻す」と明言した。先日は小泉元首相も講演の中で「原発を新設するのはもう不可能だ」と言い切ったよし。

言われてきたほど、原発は安全でも経済的でもない。まずは既存原発施設を総点検し、止めるべき原発を早急に仕分けするべきだ。環境エネルギー政策研究所の専門家はそう指摘している。問題は浜岡原発だけではないということ。

当面は天然ガス、石油のような化石燃料に依存せざるを得ない。シェールオイル革命、シェールガス革命のおかげで、非在来型の石油、ガス埋蔵量が確認された。そのおかげで、今世紀中は資源枯渇を心配する必要はなくなった。まずは天然ガスが当面最有望なエネルギー源になる。しかし、二酸化炭素排出問題があるので、ずっと天然ガスというわけにはいかない。

【2】自然エネルギーは原発を代替できるのか?

2020年時点で電力エネルギーに占める自然エネルギーの割合を3割、2050年には100%にすることは十分可能。環境エネルギー政策研究所ではそんな試算をしている。2020年時点での個々の自然エネルギーの割合は、水力13%、風力5%、太陽光7%、地熱2%、バイオマス3%になっている。原発を自然エネルギーに置き換えながら、一方ではオフィスビルを省エネルギー設計にする。それにより、2040年時点では、原発は全く不要になる、そんなシミュレーションをやっている。

【3】エネルギーコストは?

自然エネルギーは高コストだと指摘される。特に原発の低コストと比較されてきた。実際に事故が発生した時の被害額を考えれば、従来の原子力発電コストの積算は明らかに誤りだ。とはいえ、化石燃料の低コストとの比較は残る。自然エネルギーによる電源コストをみると、天然ガス6.2円(キロワット時当たり)に対して、水力が11.9円、風力(小中規模)が24円、風力(大規模)が14円、太陽光が49円になっている。水力は利用可能な残存資源に制約がある。風力のコストは安く、実際にデンマークでは電力の20%を風力でまかなっている。

更に小生は思うのだが、現時点のコスト積算は現時点の価格体系に基づいている。太陽光パネルは、今は非常に高価格だが、パネル生産コストの低下、エネルギー効率の向上は、今後劇的なものになると期待される。たとえば半導体、リチウム電池、薄型テレビ、デジタルカメラ等々の商品に見られたのとほぼ同様の傾向をたどるだろうと期待する。そのためには民間企業が自由な研究開発(R&D)を進め、低コストの電力を自由に販売できる発送電市場にしておくことが不可欠である。

【4】発送電分離について; 電力市場自由化について

そもそも発送電分離を含む電力市場自由化が、日本で議論されるようになったのは、90年代後半だ。円高もあって日本の電力価格が外国より割高になっていた。電力市場を自由化することで競争メカニズムを導入し、電力価格を下げよう、という産業界の希望が背景にあった。

95年12月に発電市場への新規参入、特定地域への電力供給が認められた。その後も電気事業法が逐次改正され、2000年には大口需要家への小売り解禁、2004年には小売り自由化の範囲が拡大された。2005年には契約電力が50キロワット以上の需要家に対して小売りを解禁。更に、2007年4月までには家庭まで含めた全面的な小売り解禁について検討する予定になっていた。日本でも電力市場自由化の歩みは、ノロノロとではあったが、進んできたのですね。

海外では電力自由化を早々に実行した。サッチャー改革でイギリスの国営電力会社は発送電分離された。その結果、ロンドンの電力はフランスから供給されるようになった。各国には<電力取引所>が創設され、安い電気から順に使われる状況になってきた。

ところが、2001年にカリフォルニア州で、2003年に北米大停電が起こった。行き過ぎた電力自由化への心配が強まった。そこで注目され始めたのがスマートグリッド。IT技術を応用することで、送配電を自動制御する。送配電技術の技術革新で電力自由化がもたらすウィークポイントを乗り越えようとしている。

このスマートグリッドに対して日本国内の電力会社は消極的な姿勢をとり続けてきた。

【5】各国それぞれのエネルギー政策

ヨーロッパはチェルノブイリ原発事故以来、原発拒否・自然エネルギー志向への心理が広まった。

オーストリアは、国民投票で原子力発電を廃止した。そのオーストリアは、エネルギーの中核をバイオマスでまかなっている。バイオマスの中の木質系バイオマスであり、具体的にはマキやチップ、ペレットだ。日本でもペレット・ストーブが販売されているので、馴染み深い人もいるだろう。

オーストリアには、バイオマスを燃やしているプラントが1550か所ある。発電を行っているプラントもあれば、地域暖房・温水供給など熱供給事業のみを行っているプラントもある。これを可能にしているのは、オーストリアの林業である。残廃材や建築廃材などをリサイクルさせることによって、化石燃料とほぼ同等のコストでエネルギーを得ている。もちろん燃焼機器の性能向上の効果もある。

実は、日本の森林だが、林業の生産低迷によって森林が過密化し、良質の建築材がとれなくなってきている。温暖化防止のため政策的に間伐が進められているが、伐り倒されたまま山に放置されている間伐材が、日本国内の木材生産量に匹敵するという。また、木材利用率は、森林の毎年の成長量のわずか2割にしかならず、オーストリアと同じ木質バイオマスを活用する余地は日本でも非常に大きい。小生思うに、この点は先ほどの環境エネルギー政策研究所のシミュレーションには織り込まれていないだろう。

風力となると、イギリスはドイツやスペインに比べて積極的ではなかった。しかし2000年以降、風力発電の設置場所を陸上から洋上に方向転換をしたことで、イギリスは今では世界最大の洋上風力発電設備保有国になっている。商業ベースで進められている営利事業である。

このように、各国それぞれ国情に合ったエネルギー政策を採用している。そんな中で、日本とフランスは原子力発電をコア・エネルギー源と位置付けてきたのであった。それは低コストであり、二酸化炭素排出量が小さいという二点が主たる理由だった。その理由の一つが間違っていたことが明らかになった。

日本が原子力を重要視してきたもう一つの理由は、原子炉製造など原子力関連産業の生産誘発効果が大きいという点もあったかもしれない。日本には原子力産業で技術的優位性があり、世界市場における価格支配力を有していた。端的にいえば、国として儲かる事業であったわけだ。身もふたもない話ではあるが、何をやって食っていくかという側面も大事だ。

自然エネルギー源の活用は、日本の産業構造の中でどのような意味を持つのか?私たちの生活水準はそれによって上がるのか、下がるのか?生活への満足度はどうなるか?海外との貿易構造はどう変わるのか?エネルギー源を転換することで、日本は何を得て、何を外国に譲るのか、こんな議論をしなければいけない。かつて石炭から石油へ、二度のオイルショックを経て石油から原子力へ、日本はエネルギーの柱を転換してきたが、その転換は生産者の観点から、利益の観点から、メリット・デメリットが分析されていた。

今回は生きている私たちはどんなエネルギーを欲しているのか?国民の観点から議論することも非常に重要ではないか?

確かに東電の損賠賠償負担、国の責任には決着をつけなければならない。しかし、どう枠組みを作ったとしても、いずれにせよ今後、津波のような訴訟案件の発生が確実である。責任と賠償は、裁判を通して結論が定まってくる問題だ。また手続きとしてはそうした道筋をとるべきだ。

いま政府として早急に検討するべきことは、日本の新エネルギー基本計画をできるだけ早期にまとめることであると思うのだが、どうだろう?

2011年5月29日日曜日

日曜日の話し(5/29)

JRの特急がトンネルの中で緊急停止し、乗客には社内で待つように放送で指示をした。ところが火災となり、白煙がたちこめる中、一人の客がドアを開けて避難すると、他の客も続々と脱出した。そのおかげでほとんどが軽傷ですんだ。

<責任者>の指示誘導が間違っていると、時に大惨事を招くことがある。

人間のやることは、どんなに努力しても、その人がどんなに有能であっても(というか、有能なら寧ろそれだけ)、時々大変な失敗をするし、信じられない勘違いをする。だから、多くの人の意見が反映される仕組みを作っておき、何が正しいかは、自然の経過にまかせる。そうして全員が同じ落とし穴に落ちるリスクをさける。

確かに一理ありますよね。無為自然の理だ。一理はあるが、決め方としては美しくない。美的センスの発達した人は「もっと賢いやり方があるだろう」と唱えるだろう。

デカルトは、一人の人間が最初から最後まで設計した庭園が最も美しいと言っている。多くの人が、手を分担し、足を分担し、胴体を分担し、顔を分担して作る彫刻作品など、ダメに決まっている。そういう美学です。

しかし、学問の発達は昔とは変わった。専門学術誌に細切れで発表される無数の小論文が、いまは即ち、勉強を進めるテキストだ。それもネット社会で公開するペーパーが取って代わりつつある。アダム・スミス、カール・マルクス級の巨人が「何とか原理」を世に問う時代ではなくなった。

数学の難問の証明だって、得意分野で分担する時代だ。

美しくはない。何とか原理もない。しかし、これは大前研一流<集団知>そのものだ。集団知は現実のものになりつつあるのじゃないか?だとすると、現実からずれているのは、政治家が社会を指導して、物事を決めようとする政治家集団なのではないだろうか?彼らは単なる時代錯誤、30年前から蘇ったアナクロニストではないのか?そんな古臭い人間集団であっても、「とにかくもオカミだから」と奉る私たち日本人集団の国民性が、世界の現実と食い違ってきているのじゃないか?

ビストロブランシュ アクリル F4

やれやれ、日曜日の話しと言うのに、これでは気分転換にならないね。

ライラックがもうすぐ咲くというのに肌寒い。昨晩はストーブをつけたりした(さすがに暑くなったが)。



2011年5月28日土曜日

おすすめリンク集(5/28)

東電の株価はなぜゼロに近づいて行かないのか?東電の社内体制はどうなっているのか?こんな話はあとどの位続くのであろうか・・・そう思う、今日この頃であります。

世間の議論は東電一社を超えて発送電分離に至りつつある。ダイアモンド・オンラインの

電力草創期の自由競争体制から電力国家管理、戦争を経て民営化・地域独占の確立。歴史を遡って今回の発送電分離論を考えており、中々読ませる。

<市場>というのは、買って恩恵を受ける顧客と、売って生計を立てている生産関係者からできている。どちらに目線が偏っても、世の中運営できない。電力市場も同じことだ。電力企業の利益に偏っても、電力使用者の利益に偏っても(そりゃ安いほうがいいですから)、問題解決には失敗する理屈だ。

その解決策をさぐる議論だが、政府内にやたらと会議が設けられている。これは民主的なやり方なのだろうか?審議会の活用なら中央官庁だってお手の物だ。その議論はこれまたダイアモンド・オンラインがやっている。


国会も会期末を控え来週は政局ウィークになるという。識者(というのは専門家のことかと思ったりもするが)によれば、菅総理の退陣確率は40%だそうである。


この記事は5月17日時点の憶測だから、今日現在ではもっと現首相の先行きは危うくなっているのだろう。一体、復興構想基本会議やら、首相官邸内にできた数多の会議はどうなるのだろう。委員に引っ張り出された人たちも、このさき立ち枯れてしまえば、くたびれもうけではないか。それこそ保障してもらいたい心理ではあると推察する。審議会などと逃げを打たず、政府の責任として構想を作ったらいいと思う。

このように国内だけでドタバタ劇を繰り返していると、またまたガラパゴス化症候群が発症してしまい、そこでまた本質論を忘れた対処策が会議の話題になるのだろう。


話しを戻す。発送電分離論は、新エネルギー開発事業を日本で進めていくには大変適切、というか不可欠ではないか、と小生も考えている。大体、一般的に言って、地域独占企業がベンチャーやイノベーションに積極的に取り組むという可能性は小生はほぼゼロだと見ている。そんな動機はないですから。

それにつけても「やっぱり餅は餅屋だねえ」と感じたのは、ソフトバンクの孫社長。彼の人が設立した新エネルギー財団と自然エネルギー協議会での議論。事業スタート時点で、休耕田・耕作放棄地の2割に太陽光パネルを敷き詰めるだけで原発50基分の電力が生まれるというのは、プロモーションとしての訴求力抜群ですわな。小生は日本でソーラーバブルが起こる可能性すら連想した。もしもこの文脈でソーラーバブルが発生したら、必ず世界中で観察されている農地バブルが日本でも伴ってくるだろう。

おりから朝日新聞では

23日の参院行政監視委員会に、原発に批判的な専門家や自然エネルギー推進を唱える4氏が参考人として出席した。生中継した動画配信サイト「ユーストリーム」では4万2千人余りが視聴した。

東京電力福島第一原発事故への政府の対応や、これまでの日本のエネルギー行政について意見を聴くため委員会が出席を求めた。
 「自然エネルギー財団」の発足を先月表明したソフトバンクの孫正義社長は、休耕田や耕作放棄地に太陽光パネルを設置する「電田(でんでん)プロジェクト」を提案。
 地震による「原発震災」を1997年に警告した石橋克彦・神戸大名誉教授は、委員から「浜岡原発の次に止めた方がいいと思う原発は」と問われ、大地震の空白域にあたるとして「心配なのは若狭湾地域だ」と答えた。(出所:Asahi.com、2011年5月23日22時38分)

という報道もされており、浜岡原発に続いて若狭湾も<危ない視>されるようになっている。本当に、これでは原発でエネルギーを得るという路線は、ハードではなくソフト的な理由で不可能になってきた。何事によらず、事業の成否は、市場の選択、ターゲットの選択、投資戦略の実行時期の選択、そしてプロモーションが握る。だから日本のエネルギー市場は面白くなってきた。3月10日までとは様変わりだ。ただ孫社長の提案については経済学者から以下のような指摘もある。


経済学者にとっても、経営学者にとっても、また政治学者にとっても目が離せない展開になるのが2011年の日本だ。






2011年5月27日金曜日

福島原発、現場の独走に思う

福島第一原発の海水注入を誰が中断させたかで官邸、原子力安全委員会、東電本社で発言が錯綜し、誰もが「何かを隠している」と感じつつあった。ところが事態は一転、現場の吉田所長の独断で海水注入は継続されていた。中断という事実そのものがなかった。これには皆開いた口がふさがらなかった。文字通り「想定外」の結末となった。

この所長の独断は、結果オーライとはいえ、本社の業務命令違反に該当し、それ故に処分する必要がある、その処分内容については慎重に検討したいとの東電副社長の弁である。さもありなん。結果オーライであれば命令違反の責任は問わないというのであれば、会社組織はもたないだろう。いささかでもサラリーマンとして仕事をした経験のある方であれば、宮仕えの苦悩はお分かりだ。東電経営陣の悩みには共感できるだろう。

この報道で思い出したのは別宮暖朗「帝国陸軍の栄光と転落」(文春新書750)である。著者の別宮氏は、経済学を学び大手信託銀行でマクロ経済調査・企画を担当してきたが、ロンドンにある証券企画調査会社のパートナーを経て、現在は歴史評論家をしている人である。極めて博学であることは、何冊かの著書を一読すれば直ちに伝わってくる。氏が運営しているホームページ「第一次世界大戦」からは、個性的かつ確実な歴史解釈が随所に散りばめられ、玉石混交のネット社会の中では小生の一押しサイトの一つである。

さて話が回り道になった。氏の「帝国陸軍の栄光と転落」は、最初から最後まで文字通り面白いのだが、こんなことが書かれている。

帝国陸軍の兵士は、どこの国と比較しても長距離を行軍してよく耐えた。糧食が途絶えることがあっても、不平をいわず、持ち場を離れなかった。数倍の敵に攻撃されても、背を向けることはなかった。参謀の作った「唯一の」作戦計画が実際の戦闘とかけ離れた場合、日本の将軍は東京や司令部の命令に反しても、敢えて独断専行し、適切な軍配で全軍を勝利に導いた。プロイセンでは参謀本部や司令塔が、日本では現場が優秀だった(76ページ)。

日本の旧陸軍はプロイセン(ドイツ)に範をとって建設されたのだが、上の引用をみると、組織の実態はドイツとは相当違っていたことになる。一般にこのような指摘は、主観的独断が混じることがあり、不用意に肯定するのは禁物だ。とはいえ、外国のアネクドートに「世界最強の軍隊は、アメリカ人が総司令官となり、フランス人を参謀にして、ドイツ人が部隊長を務め、日本兵が戦う軍隊である」という一話があり、昔から大いにうけている。これと考え併せれば、帝国陸軍という外国直輸入の組織にあっても、日本で運用すれば、やっぱり上が無能で下が優秀になる。そうなってしまう。こんな経験則、あるのですな。とすれば、別宮氏の論評はあながちウソではないわけである。今回の東電本社と福島第一の騒動を聞いてまずこのことを思い出した。

更にこんな一節もある。

・・・参謀本部の長とは、戦時になれば戦場に行く存在であり、実戦に参加すべきものであった。昭和の軍人のように三宅坂の参謀本部にこもり、ペーパーワークを主とする存在ではなかった。・・・ドイツ参謀本部とは、平時には事前戦争計画をつくる部局であり、戦争となれば大本営と名前を変え、戦場に陣を構えるものであった。(35‐37ページ)

言い換えると、戦争という国家にとっての窮極的リスクに対応する組織は、当然、戦場という現場に置かれているはずであり、指揮権も現場にあるはずであり、だからこそ現場は首都に所在する内閣からある程度独立した意思決定権限が付与されなければならない。でなければ、変化する状況に敏速に対応できない。そういう当たり前の理屈をドイツでは実行していたわけだが、日本の大本営はずっと首都東京に置かれた。全ての実行部隊は東京にいる大本営の意のままに動く建前であった。それが原理原則であったわけだ(日清戦争では、一時明治天皇が自ら移動し、広島に置かれた)。それがうまくいったかどうかは別として。

話しは変わるが、プリウスのリコール問題で苦闘したトヨタ。これについても米調査委員会の指摘はもう出ている。トヨタの経営は過剰に中央集権的であり、各国の現実に即応した意思決定が敏速にとられ難い社内体制にあった、こんな指摘がなされている。共通しているでしょ?

聞けば海水注入中断の際、東電本社では「海水注入について総理の最終確認がとれていない」、そんな理由で中断を指示したそうである(その指示に現場が従わなかった)。菅首相は、中断の指示は出していないという。しかし日本では「上の意向を忖度(ソンタク)する」という心構えが非常に求められている。言葉で明確に、あるいは他の形でエクスプリシットに命令せずとも、下は上の意を十分に汲みながら業務を進めるべしという、本当に全くもって実に日本的な組織原理というのがある。東電は菅首相の意向を忖度したことに間違いないだろう。実際、統合本部を置き、政府との密な連絡をとりながら、行動していくという体制にあったのだ。

そんな体制で生じた現場の独断専行、それが今回のケースである。

権限、必ずしも指導になりえず

適切な指導を行うには、適切な情報がなければならない。現場にいないのであれば、それだけで指導者失格ってことだ。情報一元化も何もないわけですよ。そこにいなくちゃ!それが参謀本部という組織の根底にある思想だ。そもそも遠くからリモートコントロールしながら、大事故を解決できると考えた方が大間違いです。

もしも総理権限を代行する特命相が、第一原発を目視できる地点に本部を設置し、そこに関係省庁の局長、課長級の担当官を配置したうえで、現地対策本部に事態収束への実行権限を行使させれば、はるかに筋が通っていただろう。定期的に、中央とテレビ会議、携帯電話等で連絡をとりあいながら、首相官邸は大局を練り、必要なら海外との意思疎通を図っておけば、事態ははるかに改善されていただろうと思う。その意味では、何度もいうが、菅首相は組織というものをお分かりになってない、人の選び方、人の使い方をご存じない。そう言われても抗弁はできないはずだ。

しかしながら、上の意向を忖度する精神構造は、日本という国家、日本人集団の国民性に血肉となり、変改不可能なほどに織り込まれている。そんな気もするのだ。もしそうであれば、首相が菅直人でなくとも、誰が首相であっても、やはり原発事故が起これば、対応は中央統制となり、現場にいない政治家や官僚が全ての権限を掌握して、今回のように試行錯誤するしかなかったのではないか。そう思ったりもするのです。

東電は、一体、吉田所長をどう処分するのだろう。例は古いが、満州事変で見事な独断専行をした関東軍の石原莞爾参謀をどう処分するかで悩んだ陸軍省と同じ立場でもありますわな。

先ずは東電経営陣が謝ってしまうのがいいのじゃなかろうか?「情報錯綜の中、本社経営陣と官邸に意思疎通の齟齬が生じ、不適切な指示を福島第一原発に行ってしまいました。結果として現場指揮者のご判断により、その判断ミスが重大な結果を生む事態は避けられましたが、誤りの責任はやはり誠に重大だと考えます。経営陣を代表してお詫びするとともに、このようなことが起こらないように、社内組織、決定の在り方、分担の在り方を考え直したいと思います」、そう謝ってしまうのが一番だと思う。

所長は処分するしかありますまい。しないわけにいかぬ。厳重注意?減給?それとも次長降格?お咎めなしには先ずなりますまい。

今日は本当に無責任な長屋噺になってしまった。金曜日は、隣の百万都市に出張出稼ぎに行く曜日。投稿が遅くなったが、井戸端会議ということで、ご勘弁ください。

2011年5月26日木曜日

要は、「分かりません」、今年度の日本経済

一昨日(24日)、与謝野馨経済財政相2011年度の国内総生産(GDP)の実質成長率が0・6~0・7%まで落ちるだろう」との見通しを明らかにした。

それでも相当のプラスなんだなあと小生は思った。自動車業界のサプライチェーン再編は急ピッチで進んでいるようだから、不幸中の幸いではないかとも感じた。

ところが本日の報道によれば、OECDは今年度の日本の経済成長率はマイナス0.9%と予測した。4月末時点の予測ではプラス0.8%だったから、差し引き1.7%分の下方修正をしたことになる。昨年10月調査時点では本年度1.7%のプラスと見ていたので、3.11の東日本大震災により2.6%分の成長率低下が生じた。そうOECDは見ているわけだ。

成長率とは、今年度の増加÷昨年度の実績、だ。簡単のために2010年度の実績は大震災によらず一定とすると、実質GDPは大体540兆円というところだ。540兆円に対してプラス1.7%増加のところが、マイナス0.9%の減少になったということは、今年1年で約14兆円の所得機会が大震災で奪われたと見ているわけだ。

それにしても与謝野大臣の見通しはOECDの4月時点の数字に極めて近い。それとも部内の計算ではOECDよりも強気で見通せる情報をもっているのか。

そのOECDだが、日本の景気動向指数と概ね同じような景気先行指標"OECD Composite Leading Indicators"を公表している。直近の数字は5月9日に公表されている。そこでは3月までの統計データが織り込まれてOECD加盟各国の景気の状態がまとめられている。しかし、日本については"Because of the exceptional circumstances the country is facing, it is not possible to provide reliable estimates of the CLI for Japan at this stage"ということであり、必要なデータが揃わないので3月時点の経済状態は計算できないということを言っている。

3月時点の状態も分からないのに、今年度の見通しの下方修正がよくできました。そんなことも言える。もちろん、5月9日から2週間位の間に今後の1年間の予想を可能にする大事な情報が入った・・・そう考えてもいい。(ま、そんな重要な情報はなかったと思いますがな)

日本全体の経済状態、景気の変化、日経平均株価の行く末について議論できるのは、なお時期尚早だと言うべきだ。政府の第2次補正だってどうなるか分からぬ。政治も分からぬ。

このように「分からぬ」だらけであるというのが率直な事実だ。



2011年5月25日水曜日

なぜ日本人の幸福度は低いのか?

今日の日経朝刊のコラム記事にもなっているが「先進国クラブ」(?)と称される国際機関OECDから加盟各国の幸福度を評価した指標が公表された。

記事によると、日本の現状は
  1. 家計の可処分所得はOECD平均を超えている。
  2. 資産もOECD平均の約2倍の資産を家計は保有している。
  3. 15歳から64歳までの労働年齢人口で仕事についている人は70%でOECD平均を超えている。
  4. 失業率もOECD平均より低い。
  5. 年間労働時間は1714時間でOECD平均より短い。
  6. 日本人の学歴や読解力はOECDの上位にいる。
  7. 平均寿命は加盟国中で最も長い。
まとめると、個々の幸福指標を見る限り、日本はOECD平均を優に超えている。

ところが、生活に満足している日本人は40%程度にすぎず、OECD平均の59%を大きく下回っている!満ち足りているはずなのに幸せではない。

不思議といえば不思議だが、ままありますよね、と言われればこんな人は数えきれないほどいる。とはいうものの、国民全体でこんな心理に落ちてしまうなんて、やっぱりおかしい。満ち足りているのに幸福感を持てないからには、何か原因があるはずだ。

新聞には詳しく紹介されていないが、OECD原資料"Qualtity of Life"の表36を見ると、最下位は中国であり、<主観的幸福度指標>の値で言えば日本の6.0に対して4.5強という高さだ(指標は0から10までの範囲で数値化している)。中国を含め、下位グループにはロシア、ポーランド、ハンガリー、エストニアなど旧社会主義圏が多く含まれている。また、韓国は日本の上位にはいるがグラフから読み取れないほどの僅かな違いしかない。

上に挙げた国はいずれも「自殺大国」であることに気がつく人がいるだろうか?人生から十分な幸福と満足を感じているならば自殺を決行しようという動機は弱いはずだ。OECDの幸福度指標は確かに数値として整合している。そうも考えられるのである。

日本人が幸福の食材を眼前に持っているにもかかわらず、なぜ現実の幸福を実現できないでいるのか?甚だ感覚的な言い方ではあるが、それは食材はあれどレシピを知らないからである、と推論せざるを得ない。

旧社会主義圏の国々は、旧体制下にあっては安定した国民生活を達成していた。経済体制上、老後、医療など最低限の生活保障が整い、暮らしの不安は建前としてなかった。徹底した護送船団方式であり、それを確信犯的に信じてやっていた。しかし、それでは熾烈な競争に挑む資本主義国に経済戦争で勝てるはずはなく、社会主義の実験から半世紀余を経て、不安なき国作りの夢は潰えたのだった。歴史上、それは必然であると今は評価されている。

旧社会主義圏と同じく、日本も十分同じ軌跡をたどってきたと言えないか。共産党による社会主義ではなく、<国家による、官僚による社会主義>ではあったが、人生と暮らしの設計をオカミの裁量に委ねていたでしょう?納税すらもサラリーマンは天引きに甘んじ、税引き所得なら分かるが税込みの所得は意識しない人が多い。こんな国は、当然、社会主義に入るでしょう。韓国も軍事政権による中央集権が破たんし、更に97年のアジア危機では国ごと倒産の危機に瀕した。今の韓国は体制崩壊後の旧社会主義圏と類似したポジションにある。もちろんトラディショナルが行き詰った日本も同じである。中国もある意味で同じだ。社会主義建設はとっくに諦め、共産党が独裁してはいるが、自己利益追求を認め、しかるに政治体制は自由で開放されたものにはなっていない。とっくに社会主義建設は破たんしている。

OECD幸福度指標で上位グループを形成しているのはデンマーク、ノルウェー、スウェーデンなどの北欧、カナダ、オーストリアなどが目立つ。決して経済大国ではないし、輸出大国でもない。しかし暮らしやすいのですね。私が愛読しているブログに「ウィーンの静物画家」というのがあるが、昨年夏の記事に以下の下りがある。

ウィーンは、世界で一番住みやすい都市ということになっているが、
ここで暮らしていて、私が特に感じるのは、街でありながら緑が身近に豊富にある点、そして、子供が(犬も)優遇されている点だ。

こちらの学校は、9月始まりなので、学年が変わるときだからか、夏休みに宿題は皆無である。そして、期間は丸々2ヶ月。毎年「もう、そろそろ学校へ行きたい」という頃に学校が始まる。

・・・略・・・

クラスが無償で受講出来ると書いたが、学校の休みの期間中は、19歳の誕生日まで学校へ通っている生徒は、ウィーン中の地下鉄、市電、バスがタダで乗れる。交通費まで掛からない。

国立オペラ座が、14歳までどんな席も15ユーロ(約1.700円)で買える事は以前書いただろうか。最近、それに加え美術館がタダになった(美術史美術館を含む幾つかに限るが)。

こういう金銭的なことでも色々子供は優遇されているが、娘が小さい頃、毎日お世話になったところは、公園の中の「キンダー・シュピールプラッツ」(子供の遊び場)である。ウィーンは、至る所にこの「キンダー・シュピールプラッツ」(子供の遊び場)がある。大体よく整備された居心地の良いところで、娘が小学校へ上がる前に住んでいたところでは、すぐ隣にこの遊び場があり、そこともう一つ、少し離れているけれどもっと大きな所と、日に二度三度と通ったものだった。

民主党の「こども手当て」が大揺れに揺れているが、日本は金持ち国家である。子供が習い事をしたいと言い、年寄りもいる。もし家庭に1億円の資産がありながら、「それを取り崩すことはまかりならん」といい、「何事も我慢だ」と子供を抑えつけ、年寄りには最低限の年金生活を強要する。そんな暮らしであったら、そりゃ不幸だ。それはもう単なる貧しい生活ではないでしょう。心の貧困だ。

どういう風に生きていきたいのか?そういうことだと思うのだがどうだろう?
ちなみに後期高齢期(修正:70歳以上)を迎えて、まだなお平均で1千万円を超える資産をもっている国なんて(総務省「全国消費実態調査」)、日本だけだと思いますよ。どの国でも、普通、長生きしすぎれば年金と医療保険だけで毎日を送ります。それで十分ですよ。

いつまでも経済戦争に勝つことばかりを考えず、持っているものを賢く使う話を始めれば、日本人も幸福になれると思うのだが、どうだろう?

2011年5月24日火曜日

部分評論:大前研一の「集団知」

大前研一の「知の衰退からいかに脱出するか?」(光文社知恵の森文庫)を読んでいるところだ。これは今年2月に出版されているので、ほとんど著者最新の提言と言ってもよい。

文庫本にしては結構分厚く本文が528ページもある。なので、本全体について感想を記述するのは別の機会にして、今日は第4章「政局と集団知」、第5章「ネット社会と脳」だけに関する一点評論とさせていただきます。これだけは自分なりのスタンスを早くまとめておきたいと思ったのだ。

そこで述べられている著者のポイントはいくつかある。

時は小泉内閣の郵政選挙。B層という言葉をきいたことがおありだろうか?有権者は、IQの高いA層、守旧派で抵抗勢力のC層、もう一つIQが低くて付和雷同するB層に分けられる。選挙で勝つためには、このB層をターゲットにして、徹底したラーニングプロモーションを行うのが効果的である。著者曰く「郵政選挙は、初めからこのB層という、いわば何も考えない、IQが低い、とされる層を狙って行われたというのである」。このように相当衝撃的な文章表現で始まっている。

とはいえ、これは悪いと(そりゃあ嘆いているのは事実だが)著者は云うつもりではなく、趣旨は「ものを考えなくなった日本人」という現実認識。その状態をどう変えられるのか?そんな考察が第4章、、第5章のメインテーマだ。(ちなみに著者自身は郵政民営化には反対だと記されているが、それにはそれで著者独自の合理的理由が示されている)。

郵政選挙の最もダメなところは、それがマルバツで行われた点にあると著者は指摘している。語るべき見通しと伝えるべき判断を経ずして、結論だけを示し、賛成か反対かだけを問う。こうしたシングルイシュー・ポリティシャンは、心の底では有権者をバカだと見なしている証拠だ。そう著者は厳しく批判している。もちろん当時の郵政反対派は、もっとひどい状態であって、単に票田を守りたかっただけであるとも指摘している。それはそのとおりだ。

その後の道路公団、年金不祥事。すべて賛成か、反対か。いいか、悪いか。正解か、不正解か。国民は脳を使わず、また使わさせず、アンケート調査のような政治が行われている。それに対して国民はそれが自然なことだと適応しきっている。この現状に著者は相当憤りを感じているようである。こう書く小生自身も、いまは著者と一体化している。

著者は、国民総背番号制を実施するべきだと言っている。もしアメリカのソーシャル・セキュリティ・ナンバーのように、全ての国民が一意的に識別できるIDがシステム化されていれば、そもそも年金保険料未納問題などは起こり得なかった。それはそうだろう。行政機関が国民を一人一人把握し、国民がどこに転居しようが、どこに転職しようが、姓が変わろうが、追跡できるのだから。そうなれば隠し預金も持つことは難しくなるし、脱税、節税もかなりやりにくくなるだろう。悪意にみれば鬱陶しいが、しかし情報化時代の現代、当然やっておくべきことを「国家による国民管理システムには反対」のただ一言でつぶしてしまえば、結局は、生じるべき障害が生じます。そういうことです、という著者の指摘には同意せざるをえない。

考えないといけない。いま何をするのが我々にとって本当に得になるかを。

これをいいたいようだ。そして

考えるのは一人じゃない。みんなで考えよう。議論しよう。そんな議論の場を作れるのだろうか?

これが第5章のビッグテーマだ。

著者は現在の日本は政治の対立軸を作るのにふさわしい時代だと言っている。消費税と年金制度。結局、日本人はどんな風に暮らしていこうと考えるか?税金はどの位支払う覚悟があるのか?そういうことだ。

社会の問題解決に最もロバストな(腐敗せず、壊れず、最も信頼性の高い)システムは、すべての人たちが議論に参加する民主主義社会だ。この点は専門家も合意している。ただそれには、議論の仕掛けを作らないといけない。それが<集団知>の形成につながる。

著者はインターネットにその場を求めている、というか希望を託している。著者が実際に運営している<アゴリア>は、古代ギリシャの広場(アゴラ)と地球(ガイア)から名付けたネット社会の広場である。

リアル社会では生身の人間が向き合う。年齢、男女、職歴、財産、着ている服までがタテの関係を押し付け、偏りのない議論を邪魔する。ネット社会では、そうしたファクターから解放され、ロジックと議論の中身だけが提示され、展開される。もちろんネット社会にも<悪意>は混じる。しかしサイバー・リーダーシップを発揮できる人は現実にいる。多数の<智恵>をまとめていける人は現実にいる。本当はそうした人が社会をリードするべきなのだ。リアル社会ではスムーズに形成できない<集団知>がネット社会で形成できるような気がする。しかし、(いまのところ)著者にも確信はないようだ。

政治は現実の権力闘争であり、必ずしも智恵に勝る人がパワーゲームに勝利するとは限らない。しかし、日本国は曲がりなりにも民主主義という装置を与えられている。先ずはネット社会から<集団知>を形成し、考える日本人集団を再構築すれば、結果として私たちが選ぶ政治家も高いレベルで行動せざるをえなくなるだろう。少なくとも賛成か、反対かだけのマルバツ政治を拒否できるだけの国民になれる。政治家に問いかける権利を権利として活用できる。

著者が言いたいのは、日本人の<集団知>の欠如がマルバツ政治を招いている。その状態から何とかして脱出しないと世の中、絶対、良くならない。これは本全体から発せられれ主たるメッセージの一つでもあると感じたので、早々にここでまとめたわけなのだ。




2011年5月23日月曜日

私感―経済学者の共同提言(伊藤隆敏・伊藤元重)

今日の日経「経済教室」に伊藤隆敏、伊藤元重両氏が寄稿している。日本の経済学界では超一流の重鎮と言える二人だ。

メインテーマは「震災復興政策―経済学者が共同提言」で三つの提案から構成されている。一つは将来世代にツケを回すな。二つ目は電力対策としては価格変動で需給調整を行う。三つ目は町作りの方向。集積の利益を求め特区・税制などを弾力的に活用する。こんな概要である。

エコノミストとしては非常にオーソドックスな提案だと小生も基本的には理解できるのだが、残念ながらどの点についても、直ちに合意を得るには困難がつきまとうのではないか。そんな印象をもった。

まず第一点の将来世代へのツケ。ツケを回すなと言ってはいるが、既に将来世代は今回の大震災の被害を負担することが、事実として決まっている。物理的な生産資源が損壊した以上、将来世代が保有できる生産力は低くなっている。この傷跡はどう消そうと努力しても消せるものではない。

二氏は、国債で復興資金を調達すれば将来世代がその資金を負担することになるというが、生活水準はお金がどう循環するかではなく、生産活動で決まるものだ。失われた資本ストックが速く元に戻ればその方が良いに決まっている。100なら100の生産設備を動かして商品を販売すると売れ残りが生じる。だから国債を発行して国が雇用を守る。これは確かに将来世代の需要を先食いしている。国債増発にはそんな一面がある。需要を将来から現在に移しているのだ。お金の回り方を変えることで需要は時間調整できる。しかし今回は需要の後先が大事なのではない。損壊した生活基盤をどれだけ速く再建設できるかであって、早ければ早いほど、将来世代はより多くのストックを受け継ぐことができるのである。

次に、電力市場の需給調整には価格変動を、という提案。これは小生も基本的に同感だ。原発から化石燃料にシフトすれば電力コストは上がる。電力料金は上げなければならない理屈だ。しかし「経済教室」にはこんなことも述べられている。「・・・東電をもうけさせるだけとの批判もあるが、電力料金引き上げは価格シグナルを通じて供給を増やし、需要を抑えるために必要である。引き上げ分を東電ではなく賠償基金に直接入る仕組みを作る手もあろう」。確かに製造原価が一定で需要が増加すれば価格を上げるべきである。そうすれば企業の利益率は上がるので市場への新規参入が期待できる。生産者が増える分、供給が増え、価格は生産技術に見合った適正な高さに落ち着く。これが市場の価格メカニズムであり、「見えざる手」と称される働きでもある。

しかし、価格メカニズムに期待するからには、その市場が自由で開かれた組織になっていなければならない。では電力市場が地域独占ではなく自由で開かれた市場になるとしよう。一体、東電が支払う損売賠償コストは製造原価を構成するのだろうか?新規に参入する企業にとっては賠償資金など発電コストには入らない。このブログでもとりあげたが、事故を起こした企業が負担する賠償負担は価格では回収不能なサンクコストなのである。サンクコストは売り上げからは回収できない。だから自己資本が毀損したと見るべきなのだ。毀損した自己資本を埋めるには増資しかない。これを資本市場で調達すれば東京電力株式会社は生き残れる。これが不可能ならば政府が引き受ける。これが国有化だ。つまり、損害賠償負担は資本主義社会においては減資で対応するのがルールなのである。

電力料金値上げで利用者が払うお金を賠償支払いに充当してもよいというのであれば、それは広く国民が原発事故の後始末を負担することになるわけであり、その支払いは(ほぼ確実に)将来世代にも及ぶであろう。震災復興で必要となる資金は現在世代が負担し将来世代にツケを回すべきではないと二氏は主張している。だとすれば、現在の東電株保有者は現在世代なのだから、先ずは基本ルールに沿って減資という形でコストを負担するべきであろう。そう思うのだが、どうだろう?そもそも製造原価には含めえない賠償支払いを価格に乗せるとすれば、市場価格そのものに対する国民一般の信頼性が毀損されるのではないか。そうも思えるのだが、これは杞憂に過ぎるだろうか?

第三の町作りだが二氏の目は相当ドライである。地方財政が今後一段と厳しくなると指摘しているのはその通りだ。しかし、震災・津波がなかったとしても現状の生活継続は長期的には難しかっただろうという箇所は、小生には無為自然の理を薦めているようにも感じられる。何もなくとも継続困難であったのだから、これからは過重な住民サービスを整理して、コンパクトシティを作る。つまり、集中と選択です、な。東北地方は、これから集中と選択で行く。う~ん・・・。首都圏の電力需給は大丈夫なのか?エネルギーはこれからも地産地消で行けるのか?大都市圏の産業集積は、現状通りでいいか?あと50年はいまの産業構造で大丈夫なのか?新しい東北は新しい国土利用の観点からその役割を考えなくてもいいのか?小生は、どうもこの点についても心配でならないのである。

まあ、こんな感じであって、今回の大震災からの復興、現在の原発事故を見据えた新しいエネルギー計画に経済学からの発想は不可欠なのではあるけれど、そうそう議論は簡単にはまとまらない。これがとりあえずの感想だ。まさに今後は日本社会全体の<集団知>の形成がなくてはならないと思う所以なのだ。

この最後に使った<集団知>だが、いま読んでいる大前研一「知の衰退からいかに脱出するか」でも基本テーマになっている。明日か、明後日にでも論じてみたい。

2011年5月22日日曜日

日曜日の話し(5/22)

日曜画家の最大の弱点は基礎トレーニングをしていないこと。具体的には、デッサンと構図が弱い。色調は、その人なりに出てくると思うのだが、構図がダメだと作品にならない。それで、時々、模写をする。模写をしている内に自分が出てしまって、絵としては別になる。いささか中途半端だが、アマチュアです。好きにやらせて下さい。

寺井重三「薔薇」から制作 油彩 F6

さて、今日は閑話休題。小生は普通程度のドラマファンだが、もしプロデューサーなら作品化を研究してみたいテーマが二つある。両方、時代劇なのだが、素材発掘ということで。

『白石先生奮闘記』

新井白石だ。有名な割には、あまり話題になることのない人物だが、実は<元祖・民間専門家出身の政治家>です。封建社会では異例の人物。白石は藤沢周平が既に「市塵」に小説化している。人物的魅力は藤沢的小説世界で十分に花開いているのだが、物語的面白さはもっと上げられる。そう思うのは私だけではないはずだ。

白石の父が、中々立派な古武士であって、父のエピソードだけでも泣かせる。その父は、不運な事件に巻き込まれて主家を離れざるをえず、長年の間、新井家は流浪する。白石浪人時代の不遇、伝説となっている猛勉強、そして木下順庵という師との出会い、学生時代。縁あって徳川家の連枝の家庭教師となり、将軍の師となってからは政治家として苦闘する。学生時代以来の生涯の宿敵であった雨森芳州との論争はエコノミスト達をも魅了するはずだ。加えて、一大ロマンス「絵島生島事件」が同時並行で進行します。将軍薨去の後は、幼少の将軍を守るものの、最後は吉宗将軍の登場で失脚する。しかし、その後も清廉で枯れた学者人生を送りつつ、世の変遷を見る。評論家ですね。

なんでこんな面白い素材が手つかずのまま残っているのだろうと、日ごろ、不思議に思うのだ。

『意次の誠』

これは田沼意次だ。山本周五郎が小説化している。いうまでもなく「栄花物語」。これはこれで大変な名作だが、歴史の中で見ると、一層スケール壮大な話になる。

みなさん、江戸幕府の危機はいつから始まったと思いますか?黒船?そうですね。それは正解には違いない。

しかし、それよりも事態の急変に対応できるだけの柔軟な判断力と分析力、そして決断力をなくしてしまっていた。この事実の方がはるかに重大だ。大体、幕府の信頼が揺らいだ時に出てきた大老が譜代門閥代表である井伊家であったのは、文字通り、人がいなかったからだ。どうかしている。幕府政治はこんなものではなかった。どこからおかしくなったのか?

小生の小説的興味だけでもないと思うのだが、幕府政治の大きな曲がり角は「幻の11代将軍」徳川家基急死であったと見る。聡明で文武両道に秀でていたと評価されながら、鷹狩の帰途、16歳(修正:18歳)で急逝したこの若者は吉宗、家重、家治の直系である跡取り息子であった。

家治将軍は、田沼意次が推進する経済財政構造改革を徹底的に支持していたが、意次のような軽輩出身で能力ある人材を抜擢できたのは、将軍の独裁体制が確立されていたからだ。その将軍独裁権力は、実は5代綱吉が作り、8代吉宗にかけて完成された政治システムであったわけ。その潮流の中に田沼意次の産業政策が展開されえたのだが、当然、譜代門閥層は組織的抵抗を繰り広げる。

長男意知が城中で殺害されたのが、家基急死の5年後。更に、その2年後に家治将軍が病気療養中のところ薬湯を服用した後に急死する。そして田沼意次は失脚する。田沼意次失脚後、幕府は伝統的な譜代門閥層が権力を握り続け、最後の最後に勝海舟が出てきたり、川路、永井などが抜擢されたり、徳川慶喜がその能力によって傍系から将軍になったが、時既に遅しとなる。

組織内改革という事業が、いかに困難を極めるものか。たとえ将軍の絶対権力に守られていたとしても、政策が革命的であるというそのことによって、その政治家はあらゆる抵抗勢力の攻撃の標的になる。そして歴史は権力闘争に勝った側が作っていくものである。

山本周五郎の「栄花物語」で描かれている人物世界を超えて、当事者すらも悟り得なかった歴史の大きな曲がり角を、幕府という大組織が通りすぎて行った。時代はゆっくりと曲がっていくということに、ずっと昔、この作品を読んだ時には気がつかなかった。

同じことがいま現在の日本にも当てはまるのではないか?大震災の前と後という言い方を私達はしているが、実は、時代の曲がり角はずっと前に通り過ぎているのではないか?そんな思いをめぐらせているのである。

さて、そろそろ買い物に出かけるとするか・・・

2011年5月21日土曜日

おすすめリンク集(5/21)

今週は重要な経済データが公表されたし、昨日は東電の経営陣刷新などもあった。政府は相変わらずの迷走ぶりで経済音痴ぶり(それとも分かっていてやっている高等戦術か?)。ともかくも整理するべき情報には困らない。

何もない平和な日は戻ってこないのか。
まずは記事というよりデータを挙げておきたい。データと言えば次です。

まず日本経済のバイタルサイン
今年1~3月のGDP速報結果
は要確認。財布に入ったお金を表す名目の数字も大事だが、売れた数量を表す実質がもっと大事なデータだ。雇用、仕事の数、国民の平均的生活水準は(とりあえずは)実質GDPの高さで把握できるからだ。それが1~3月は前の10~12月に比べてマイナス0.9%の減少。マイナス自体は<想定内>です。自粛で心配された消費支出だが、1~3月は前の期と大体同じマイナス0.6%。むしろ4~6月に消費の落ち込みは現れるだろう。

消費データとしては直接的な調査結果である総務省の「家計調査」(3月)をみておきたい。
大震災後に、みんな何をどのくらい買いだめしたのか、一目でわかる。カネを使ったトップ3は、「寄付金」、「カセット式のガスボンベ」、「電池」である。寄付金は前年比で857%増、つまり9.5倍!ガスボンベは同じく3.5倍。電池は2.8倍。そりゃあ、これだけ一度に買えば店からなくなるわな、そう実感する。更には、ミネラルウォーター(前年の2.6倍)、カセット式ガスコンロ本体(資料では炊事用ガス器具に該当)。大地震直後の右往左往ぶりが伝わってくるではないか。

反対に「飲酒代」とか「宿泊料」、「ゲーム代」は減っている。というか、そういう気にならなかったわけ。それから鉄道運賃。これは計画停電の影響、それと旅行でしょ。

店から消えたと耳にした納豆。これは減っている。意外だ。それとヨーグルト。これらは買いだめしたというより製造できなかったのであろう。

数字は全回答者の平均である。人によって違いはあるが、みんな一斉に数字通りの行動をとったと考えてもよい。うちも(恥ずかしながら)ミネラルウォーターを買いだめしたのだが、普段1本買うところを、2本買っただけである。生産は、この程度の一斉行動にも耐えられない、ということだ。隣国と地続きのヨーロッパならこんなことはないだろう。ちなみに欧州では電気だって国境をこえて輸出入されている。

次は、復興需要と復興財源について。一昨日の投稿では、メリルリンチの吉川氏のレポートをとりあげた。そこでは、日本の経常収支黒字を考えると、財政赤字の拡大が金利急騰につながる可能性は小さい。たとえばギリシアと同列には論じられない。そんな見方を紹介した。

しかし
では反対の見方が示されている。阪神大震災とは違って、今回の東日本大震災では、まず確実にクラウディングアウトを招く。つまり、財政赤字拡大が金利の上昇を誘発して、民間企業の設備投資をおさえてしまう効果がある。そう判断している。

民間設備投資の動きは、本ブログの上記投稿でも指摘しているのだが、正直、現在時点では小生にもどうなっていくか分からない。企業がどれだけ日本国内でビジネスをやるのか。その覚悟いかんですからね。これからの民間設備投資、ここが一番のポイントであることは皆さんも目を向けておいてください。

国債発行残高を懸念する同じ視点から以下の二つ。
これは報道されてもいないし、話題にもなっていないが、内閣府が毎年公表している「国民経済計算(確報)」という数字がある。そこには、中央・地方の政府部門を併せて集計した連結バランスシートがある。これをみると日本の政府は2009年度末で初めて<債務超過>に陥った。つまり、いざとなれば土地、建物の処分などで資金を作って、国債という借金を返済することは可能だったのだが、それでは足らなくなった。資産の裏付けのない債券を発行するようになっている。ま、それでも国債が売れるのは、「俺たちがみんなで返すんだから、カネを持っている奴はいま出してくれよ」そんな空気が支配しているからだ。お互いを信用しているのですね。

こんな風に、大震災と復興事業、その財源など、論点はあまりに多く、ともすると話は一面的になり、井戸端会議と化す。全体を眺めておくのも非常に大事だ。そんな必要性には

大震災後の日本経済の成り行きには、アメリカの経済学者も固唾をのんで、見守っている。
さて東京電力関係だが、事故収束にはなお時間がかかりそうなものの、賠償スキームが一応決まり、経営陣が一応刷新されて、何とか一段階、事態が進んだか。

まずは東電の経営が世界でどの程度不安視されているか?これはBloombergから引用しておこう。

 5月20日(ブルームバーグ):クレジット・デフォルト・スワップ(CDS)市場で、福島第一原子力発電所で事故を起こした東京電力の社債保証コストが過去最大となった。市場参加者の関心は、債務が履行できない状態に当たるとみなされるような金利減免や債権放棄の有無に加え、政府の賠償支援に対する明確な姿勢に集まっている。

  CMAによると、東電の5年物のCDSはニューヨーク時間の19日の気配値中値で、前日比221ベーシスポイント(1bp=0.01%)拡大し、これまでで最大の726bpに達した。メキシコ湾原油流出事故で2010年6月29日に577.5bpを付けた英石油化学会社、BPの保証コストを初めて超えた。

  政府が13日に東日本大震災を受けた東電賠償スキームを発表した際、枝野幸男官房長官は銀行の債権放棄が前提になるとの見解を表明。これを機に東電のCDSは12日の212.5bpから約1週間で3倍以上に急拡大。BNPパリバ証券の中空麻奈氏は「政府の不用意な発言でデフォルトリスクがちらついた」と拡大の理由を指摘した。

・・・以下、略

(備考)取材協力:中山理夫 --Editor:Kazu HiranoTetsuzo Ushiroyama
記事に関する記者への問い合わせ先:東京 占部 絵美 EmiUrabeeurabe@bloomberg.net
記事に関するエディターへの問い合わせ先:
東京 大久保義人 
Yoshito Okuboyokubo1@bloomberg.net
東京 Teo Chian Weicwteo@bloomberg.net
更新日時: 2011/05/20 18:14 JST

CDSと言えばリーマン危機を思い起こすが、対企業債権のリスクを担保しておこうとする需要がなくなるはずもない。その東電債権に関する保険料がメキシコ湾岸原油流出事故でフラフラになった英国British Petroleum社のそれを超えた。簡単に言えば、あの時より不安だ、ということ。もうこうなれば、東京電力という会社が民間からカネを借りれるはずもなく、必要な資金は政府が保証をつける社債(つまり政府保証債)で調達させる。そう腹をくくったということでもありましょう。ということは、東電の賠償支払いは限りなく国債で調達するという意思表示でもあるわけ。

小生が菅政権に憤りを感じているのは、言っていることと、実際にやっていることが、これほど違う政権もないということだ。言葉のもたらす効果、企んでいることを読まないと、国民には意図が分からない。腹黒い政府だなあと思う所以です。なんでこの点を日本の大手マスコミは一切非難しないのか?不思議でたまらぬ。

いつも歯切れのよい切り込み隊長氏に登場してもらいましょう。

東電というより日本の電力市場の行く末は岸博幸氏の次の寄稿がいい筋をついています。

発送電分離については、電事連も「時間をかけて議論をする必要がある」と正面から受けて立つ構えを見せていて、政府が何の責任もとらないまま、ただで泣き寝入りをするつもりは全くないらしい。

経済学者は電力市場の一層の規制緩和、地域独占体制の変革を求める方向で走り始めている。小生も、東電の賠償負担のために東電という企業組織を温存するのではなく、電力市場開放の中で資産評価、債務評価を切り分けながら、形としてはM&Aを通して市場が解決するのが一番よいと思っている。これは予想だが、送電は電力会社が出資して統合するガリバー型企業を一つ作ったうえで市場開放し、また原発事業は公社化されるのではないかと思っている。いまの電力会社は発電事業をやりながら競争市場で生き残っていくのではないか。もちろん会社名も変わる。東電の賠償負担は、日本原子力公社(仮名)と送電事業を行う日本エネルギー株式会社(仮名)が折半して支払い債務を継承するのじゃないか。ひょっとすると原発公社が全部もつかもしれない。公社にしておけば、郵貯からいくらでも低利で調達できますからね(財投です)。

ま、銀行の不良債権だって、住専問題で表面化してから、りそな銀行処理で目鼻がつくまで7年かかっている。今年、来年の話しにはならないのは確実だ。

2011年5月19日木曜日

「政治主導」は職業貴賤論と同類である

昨日公表されたGDP速報をどう見るかを書く予定だったが、櫻井よしこ女史の寄稿を読んで、思わず同感し、現政権の本質論を語りたくなった。緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)の情報隠蔽といい、法的根拠もなく東電への貸し手責任を唐突に問うなど、世に憤りのタネはつきまじ。現時点の心情を本題より前に覚書きしておきたくなった。

× × ×

江戸期封建時代は士農工商の身分差別こそが社会の根幹だったと言われる。しかし、よくこの四文字を見ると、たとえばインドのカースト制度とは異なり、身分というよりは職業差別であることが分かる。実際、養子制度もあったりしたから、士農工商というのは、純粋の血統差別ではなく、生きていく職業によって、貴賤の別をたてる社会システムだったわけだ。

民主党の愛用する「政治主導」も、実は議員職は事務職に優越するという職業の貴賤をこそ言いたいのであろう、と今更ながら納得したのである。企業の中で株主が偉いか、専務取締役が偉いかなどを問うてみても、その社の経営を良くするうえで、そんな議論は有害無益である。本来、共通の利益を追求するべきなのだ。そうしてこそ企業は発展する。当たり前の理屈である。

MSN産経に掲載されている「櫻井よしこ 管首相に申す」(2011.5.12 03:34 4ページ)は以下のように締めくくられている。

政治主導の名の下に、結論だけがいきなり降ってくるのが菅政権だ。国益や国家戦略を欠いた首相の思考と、民主主義のプロセスをとび越えた首相の手法こそ、日本国が背負い込んだ最大の負の要素である。

政治主導というキーワードは、2009年の政権交代以来の民主党政権を象徴するものである。当初は、官僚主導と対立する言葉として受け取られ、官僚の独善性を否定するものとして、肯定的に受け取められた。それはあたかも明治期の薩長藩閥に対抗する自由民権運動を彷彿させるものとすら言えた。

しかし、東電の損害賠償負担枠組みの決定、被災地支援の実施体制など、実質は官僚支配そのものでありながら、国民の目に触れる場面でのみ政務三役なる政治家が出てくる。政治家が官庁を指導監督しているという形だけが「政治主導」になっている。

この有様では、政治主導とは言っても、その意味は「選挙で選ばれた政治家は試験を通っただけの役人よりも偉いのだ」という単なる職業貴賤論でしかなく、要するに中央官庁の上層部に一度はなりたいという利己的願望だけが先にあったのではないかと憶測されても仕方がない。

これは民主党所属の国会議員であれば、当然、熟知していることと信じるのだが、納税者の側から見れば、国会議員も役人も税金から給与の支払いを受けている点では同じ公務員である。更にいえば、仕事を犠牲にして国会議員という仕事を選び、職務専念義務の下で政治にのみ従事する、そんな経済的余裕のない普通の国民の目線から見れば、確かに失業はしないかもしれないが、普通に勉強をして普通に試験を受けて採用されている普通の公務員の方が、より平民に近い生活をしていると感じる。

大体、パーティー券販売やら個人献金などは、特定のサービスに対する対価ではありえず、そんな無色透明なカネを集金できるなど政治家にだけ可能な贅沢であろう。普通のサラリーマンであれば、そんな集金活動をすれば首である。第一、そんな暇もない。

表現は悪いが、民主党議員が官僚集団に対して「政治主導」を口にするとき、小生は「目くそ、鼻くそを嗤う」の喩えを連想する。納税者が望んでいるのは、質の高い行政と政治であって、国会議員と官僚集団が政府内別居を続けながら、ダラダラ、グダグダと、どちらが偉いかなどと茶番劇を演じ続けることではない。

総理大臣は、憲法で規定されている公的機関に過ぎず、官僚もそのポストに明確に定義された職務を担当するだけの人である。全ての公務員は法にその権限の根拠がある。いま何よりも求められているのは、最終判断を行うべき人は責任を負ってその判断を行い、実務を担当する責務をもつ人は淡々と職責を全うすることではないだろうか。

行ったことの評価は、後世の歴史家が独自に行えばよいのであって、「歴史に評価をまつ」などという台詞を口にすれば、「後世の歴史家なら高く評価してくれるはずだ」という利己的願望が現れていると批判されるだけである。国民に語るべき内容があれば説明をするべきであるし、真実を超えて何かを伝える必要はないのである。語った後は黙って後世の評価を待てばよいのである。

政治家にしても官僚にしても、国民の方を向けば為すべきことは単純明快なことだと思う。難しいと感じるのは、同僚、仲間内、ライバルなどを先に見るからであろう。

× × ×

さて本題。実質GDPはマイナス3.7%という年率が主に報道されているが、これは時速のようなものだ。3か月前の生産と比較すれば、約4分の1のマイナス0.9%が本当の対前期増減率だ。

ほぼ市場の予想通りの数値。次の4~6月期も確実にマイナスになる。7月から生産は増加をし始め、秋からは加速するというのが、いまの最大公約数的予想である。

いささか不謹慎だが、乱気流に巻き込まれ、高度は下げたがこの位なら雇用が急速に悪化することはなく、やるべきことをしっかりとやっていけば、間もなく態勢が整って、仕事の数が増えていくだろう。そんな風に見ている。

余りに予想通りの公表値だったから、今回の一次速報はこれだけとしたい。

日本は輸出立国を続ける必要があるのか?

日本は貿易立国であるとよく耳にする。貿易立国とは言っても、実際には輸出立国。輸入よりも輸出を多くすることで、国として生きていこうとする発想である。

日本は海外から原油や農産品などを輸入しなければならない。そのためにはカネがいる。だからモノ作りを大事にする。いいモノを作って輸出をする。輸出のできる企業を育てる。だから製造業大企業の利益を最優先に考えて経済政策の基本方針を決めていく。ずっとこんな考え方でやってきたのだが、これからもそれを続けていかなければならないのか?

最新の週刊エコノミスト(5月17日号)にメリルリンチ日本証券の吉川雅幸氏がエコノミストリポートを寄稿していて「日本の経常赤字転落の可能性」が議論されている。いうまでもないが、経常収支はその国全体で使いきれなかった余剰資金が1年間でどの位生まれるかを表す数字だ。年収1千万円の人が800万円使って200万円貯蓄しようとする。持家などを買わなければ200万円だけ資産運用に回せるから経常収支は200万円。持家などに設備投資をして、それに1千万円かかるなら、差し引き800万円の資金不足。つまり経常収支は800万円の赤字になる。経常収支大国日本の呼び名は、つまりカネをため込む日本、と同義なのだ。

その日本が経常収支赤字転落!だとすれば日本の資金繰りがきつくなり、外国から金を借りなければならない。そんなことがありうるのか?それが紹介するレポートだ。非常に目線のしっかりした指摘をしているのでポイントを順番に紹介しておきたくなった。

第一のポイント。日本の経常収支は昨年(2010年)も黒字で、10年前と比べると、むしろ対GDP比で拡大しつつある。(中国、韓国に押しまくられている中、これは意外でしょう!)

次に第二のポイント。黒字の中身は激変した。モノの輸出入の差額である貿易収支は黒字がどんどん減っている。反対に、海外に投資した配当や金利収入がどんどん増えている。2005年前後を境にして今では資産運用黒字が貿易黒字を上回っているのだ。これは日本が富裕国になった現れだ。

歴史的には、カネを借りて産業を育成する<未成熟の債務国>から<成熟した債務国>、<債務返済国>、その後、貿易でも資産運用収益でも黒字が生まれる<未成熟の債権国>、さらに貿易赤字を資産収益黒字で補う<成熟した債権国>、最後は貿易赤字を資産収益で補えず資産を切り売りする、あるいは外国からカネを借りる<債権取り崩し国>。まあ、こんな段階を経て国は発展していくといわれている。

この中で日本は<未成熟の債権国>に該当するわけだ。

第三のポイントが経常収支の予想だ。大震災は貿易バランスを悪化させる。いまの日本の貿易構造は石油など鉱物性燃料の赤字を自動車・電子部品の輸出で100%以上カバーしている。ところが震災でサプライチェーンが寸断されて、自動車・電子部品の生産が落ちた分、貿易収支はゼロ付近、もしくは貿易赤字すら可能性の中に入ってきた。

しかし資産運用収益の方は安定していて、貿易収支が赤字になったとしても経常収支全体が赤字になる可能性は低いと吉川氏は見ている。

ここから第五のポイントが関連してくる。いま問題になっているのは財政赤字をどう見るかだ。復興のために復興債を出せるかどうかが議論されている。ここで吉川氏は参考になる指摘をしている。財政赤字が拡大したとき、経常収支黒字国では金利がわずかしか上昇しない(つまり国内のマネーで順調に国債が売れるということ)、しかし経常収支赤字国では金利が急上昇する。(詳しくは、2010年度の経済財政白書をご覧あれ)

つまりこうなる。大震災で日本の製造業はダメージを受けたが、対外資産から安定して配当、金利収入が入ってくるので経常収支が赤字になる可能性は低い。国全体で資金繰りに困ることはまずないだろう。こんな判断になる。とすれば、需要抑制の副作用がある増税を直ちに実施するよりも、まずは復興債を市場で消化することで復興事業を進めていくほうが、効果的である。吉川レポートの見方に基づけばこんな結論になる。

基本的にはその通りだが、冷静にすぎる分析かもしれない。レポートでも言及している点だが、高齢化が進むと家計の貯蓄率が下がる。これまで日本の資金繰りは家計の貯蓄が支えてきた。いま日本の資金繰りを支えているのは、むしろ企業だ。成長分野を探しあぐねて社内に余剰資金をためておこうとする。カネを借りないものだから銀行も預かったカネの運用に困る。だから海外に運用する余裕もできるのだ。これが日本国内のドメスティック・インバランスだ。

しかし、企業は本来は利益の出る新規事業を求めているはずだ。設備過剰体質が解消し、過当競争がなくなれば、いつでもビジネスチャンスに打って出ようとするはずだ。日本の経常収支黒字は、中国のような過剰貯蓄ではなく、過少投資であることを見逃してはならない。設備が震災で損壊した分、その全体を復旧する動機はないはずだが、古い産業が集積していた地域に新しい産業を展開するスペースができている。今は絶好の投資機会であるのも事実だ。

とはいえ、日本の民間企業が設備投資をしていくとして、それはもう中国や韓国と競争するための設備投資ではないはずだ。もうそれは無理である。そうではなく、少子化が進み、高齢化する日本社会で豊かな生活をおくるための必需品が市場に提供されてくれば、それが最も望ましいはずだ。

内需拡大を最優先すれば、輸出大国の座から落ちることにはなる。しかし国民は充実した生活を楽しむ機会を与えられる。もしそうなれば、日本は<成熟した債権国>の仲間入りを果たすだろう。

TPP参加論は、輸出を増やすことを目的にして、唐突に提案された。しかし、それはグローバル・インバランス解消の中で、正反対の発想である。中野剛志氏の言う通りだ。

経団連などの財界本流は、モノ作りの大切さを旗印に円高防止、法人税引き下げ、TPP参加推進をこれからも強調するだろうが、それは尻尾が胴体を振る議論だ。そうではなく、国民の暮らしを出来るだけ豊かにするためには、どのような産業構造を持つのが正しいのか?そう考えるべきだ。産業は生きる手段であって、目的ではない。まして輸出型製造業が日本の国益であるというのは誤りだ。

輸出市場で国際競争力を維持するために、国内の賃金を引き下げ、また引き下げられるように労働市場の自由化を進め、更には解雇規制という規制を緩和しようという思考は、内需拡大・国民生活最優先の観点から徹底的に検証しなければならないと思われるのだがどうだろう?

ま、そこまでは書いていないのだが、今週のエコノミストレポートを読みながら、思いは自然にこんな風にめぐったわけである。

2011年5月18日水曜日

民間設備投資は相当の増加になる

大震災と原発でマイナス思考ばかりの世の中になっているが、信じられないほどの数字が経済活動から出てきてもいる。

それは民間設備投資だ。

先日、内閣府から公表された「機械受注統計」だが、これは3~4か月先の資本財の荷動きを教えてくれるデータだ。中でも船舶や電力関係を除いた部分が景気指標としては使われているのだが、1~3月で3.5%増加、4~6月の見通しで10%の増加になっている。

また今日の新聞には工作機械受注について業界統計が報道されていた。工作機械はマシニングセンターなど機械を作る機械のことである。これが動くと、息の長い設備投資ブームが近づいていることが見てとれる。4月の受注が前年比で何と32.3%の増加!輸出もさることながら、震災で壊れた機械を新調するための発注が相当増えているそうである。

IHIは復旧の目途が立たないと言われていた福島相馬第一・第二工場の一部操業を再開した。半導体のルネサスも生産停止中の那珂工場(茨城県)の供給能力を6月から毎月2割ずつ上げていく予定とのことだ。民間企業の震災対応は相当速いペースで進んでいるようだ。

今度の東日本大震災でどれほどの資本設備が失われたのか?

その範囲は農林水産業関係から製造業、流通、サービス業、更には社会資本まで全てに渡るが、おそらく数%ないし1割位の損壊率になるのではないか。もしも資本設備で生産能力が決まるのであれば、国内の供給能力も数%の桁数で低下しているはずである。その分、国内市場に回る商品は減り、稼働率は上がる。日本のデフレの原因の一つとして、低い稼働率の下で顧客を確保するための安値競争があげられた。過剰能力体質がなくなる。

先日は山崎パンが小麦価格上昇を転嫁するために6%の価格引き上げを行うと発表した。今日はフジパンも5%程度の値上げを行うと報道されている。

今年度下期は復興需要が本格的に出てくると予想されている。そのかなりの部分は公共事業である。今後心配するべき点は、デフレというよりインフレの方かもしれない。

何しろ空前の金融緩和が10年以上続いているのである。デフレマインドは単なる心理だから消えるときは一瞬である。インフレを見込んで市中の金利が上がったり、国債価格がするすると下がる日は意外に近いかもしれない。

金利が上がったり、物価が上昇しはじめたときにどうするか?
うろたえないように経済計画をあらかじめ作っておかないといけない。そんな時代である。


2011年5月16日月曜日

世論は空気に支配されている?

特にこれといった話題がなければ、今日あたり「e-Learningは学校に対する創造的破壊なのか?」を議論しようと思っていた。

ところが各社世論調査が出てきて、先日のブログを補足する必要も出てきた。今日は<世論>の動きは理にかなったものかについて考えたい。

もしも<世論>なるものが、投票を通して明らかになる民主主義社会の意志のようなものであれば、世論は決して合理的なものではありえない。この点は、ずっと以前にノーベル経済学賞を受賞した大御所的理論家アローが「不可能性定理」という形で証明済みのことである。ここで合理性というのは、普通の理屈、たとえばAがBより好ましく、BがCより良いのであれば、AはCより良いに決まっている、こんな理屈が終始一貫して通っているかどうかで判断する事柄なわけである。

こんな風に厳密に合理性を定義すれば、社会全体と言わず、一人の人間をとっても完全に合理的に考えているものなぞいないのではないか?どこか人間は、理屈を飛び越えて、矛盾に満ちた行動をする。そこが「人間的」なのではないかと、普段の私は考えてもいるのだが、今日は世論調査に話題をしぼるとしよう。

菅首相による浜岡原発停止要請を評価する人は共同通信調査によれば66%に達するとのことだ。それにもかかわらず、内閣支持率は28%、不支持率は57%になっている。他社の調査でも大体同じ結果が出ており、目安としては原発停止は国民の3分の2が評価。しかし内閣を支持する人は支持しない人の半分程度にとどまる。こんな所だと推測される。

先日のブログで小生は、踏むべき手続きを省略して法的根拠もなく緊急に浜岡原発停止要請を行うほどの必要性は安全上の観点からは認められない。そんな話しをした。この結論は変わらない。

とはいえ、要請後に新聞紙上に掲載された各地域の地震発生確率をみると確かに東海地域は格段に高い。目だって高いと言われれば、なるほどそうである。しかし、目立つからいけないのか?目立つから緊急に停止しなければならないのか?他の原発は世論調査によれば58%の人が「停止の必要性はない」と判断している。その確率は無視できるほど小さいのか?目立たないだけではないのか?

目だって高いから危険で、目だたなければ安全なのか?

もう一度、30年以内に大地震が発生する確率は87%ということの意味を考えてみよう。これは30年、つまり360か月の間、何もない1月がすぎることの否定文(=排反事象)だ。ということは1月という長さをとれば大地震が起こる確率が約0.6%、何もない確率が99.4%としておけば、政府の計算結果と概ね一致するのである。これは先日も書いたことだ。(単純化の仮定を置いた計算ではある)つまり、今後1月に大地震が東海地域で発生する確率は政府部内でも限りなくゼロに近いと考えていたはずである。

では時間を少し長めにとって1年以内に大地震が発生する確率はどの位になるか?それは何もない1月が12か月続くということの否定になるわけだから、上と同じ計算をすれば6.6%の確率で大地震が起こりうるという推測になる。これでも十分小さい確率である。もし本日の降水確率は10%ですと天気予報が伝えるとき、皆さんは雨支度をして外出しますか?普通はしないはずだ。雨の降る確率は10%であり無視できる確率ではないが、仮に降られたとしても大したことではない。わざわざ傘をもって出るほどのことではない。つまり「雨が降るかもしれない」というリスクは許容範囲にあるわけだ。

リスクを許容するか、許容しないかは
リスク評価=確率×予想損失額
で決まってくるものである。

1年という期間をとっても東海地域に大地震が起こる確率は10%もないということは政府も承知していたはずである。(この辺、詳しい説明はなかったが)それでも緊急に停止要請をしたのは、大地震が発生した時の予想損失が非常に大きいと考え、それは許容できるリスクではないと考えたためである。それ以外に理由はない。

6.6%という確率は大きいと考えるべきなのか?たとえば自動車を運転中に交通事故に遭遇する確率は1年間で112人に一人、確率では0.89%である。交通事故は必ずしも人身事故ではなく、仮に事故が起こったとしても1件の事故の損失の波及範囲はたかが知れている。この交通事故発生確率よりも東海大地震発生確率はかなり大きいという計算結果は予想される損害を考慮すれば許容されるものではない。これは理にかなった判断だ。酒を飲んだ上で運転をしようとしている友人がいれば「やめろ」と忠告するのと全く同じことであり、確率は小さくともリスクを許容できる程の小ささではない。そう考えても理解はできるのである。

しかし、事情がそうなのであれば静岡県や御前崎町、中部電力、更には国民に広く説明しておくべきではなかったのだろうか?決して、定められた手順を無視して、法的根拠のない行動を総理自らがとる緊急事態ではなかったはずである。客観的なリスクが現実にあるとも言えるわけなのだから、むしろ詳細な説明を行っておくべき状況だった。

客観的な状況説明を行うことなく、単に危険があると感じられるという理由で、総理が超法規的な裁量を下しうるのであれば、総理が判断すれば法的根拠もなく国民の財産権を侵害することもできるわけである。事実、今回の総理判断によって中部電力株を保有していた人は10%内外の損失を被っているのである。上に述べたように、浜岡原発を停止するべき客観的根拠はあったのだから、停止要請をするための閣議決定、あるいは停止要請を可能とする法律、政令などを定める旨、先に説明があれば関係者は必要な対応をしておくこともできたはずである。

空気に支配される政治ほど恐怖をさそうものはない。

世論調査は浜岡原発停止要請を評価する一方で、菅内閣への支持率がほとんど上昇せず不支持率も変わらない、このような結果は事態の背後を察すれば世論というものの合理性を改めて見てとれる。<天の声>は文字どおり<世論>であり、<総理の声>ではないことが証明されていると思うのだが、どうだろうか?



2011年5月15日日曜日

日曜日の話し(5/15)

東京が地震で被災した場合の危険地域ワースト10が都から公表されたと耳にした。先日TVのワイドショーでも話していて、小生がその昔下宿していた町の風景も流れていた。

「ああ、こんな感じだったなあ」、「路地は狭くてね、どこに通じるか、それが楽しくてねえ」とカミさんと話をしながらみた。「住んでいた下宿は、それは紅葉のきれいなお寺の近くにあってねえ、下見をしてすぐ決めたんだよ。大きな部屋で床の間、違い棚まであってさ、ご主人を亡くされた奥さんが学生をとめていたんだけどね、一か月くらいたって、大分暑くなってねえ、北のすりガラスの窓を開けたらさあ、塀があって、その上から卒塔婆が並んでるわけ。紅葉のきれいな寺の裏が墓場になっててな、その裏に下宿があったわけなのさ」。夏になると、窓をあけて、何か見えるか確かめたくもなったが、南の障子をあけると廊下越しに入る風で十分涼しく、それ以上、冷やす必要性はなかった。エアコンどころか扇風機すらいらなかった。昔の東京である。

その後、もう一度新しい下宿に移ったまま、再訪の機会はなかった。綾小路風に言えばあれから40年。住んだ家ももうないだろう。

数年前の初夏の頃、よく訪れた目黒不動に寄ってみた。全く同じ風景だった。




2011年5月14日土曜日

おすすめリンク集(5/14)

今週はやはり菅総理による浜岡原発停止要請をめぐり賛否が分かれたようだ。現在まだ行方が見えぬ福島第一と併せて、この1年のビッグテーマがエネルギー問題になることは確実だ。本当は被災地域をこえて日本全体の将来戦略を語らないといけないのだが、まあ、それはともかく無料登録の手間がかかるがダイアモンド・オンラインから1本おすすめしておきたい。
それから
ネット上の言論の府”アゴラ”でも
など多数が寄稿されている。

マスメディアでは今回の原発保障枠組みは東電救済であると評判が悪く、これもまた浜岡原発停止と同じく、菅総理は「歴史に評価をまつ」という心境だろう。賠償枠組みについてはアメリカも無関心ではないようだ。逆の意味で異論が出されている。これは新聞記事なので引用しておこう。寄稿者のジョン・ハムレ氏は、現在、米戦略国際問題研究所所長。米上院軍事委員会専門スタッフなどを経て、1997年にクリントン政権で国防副長官をつとめている。
福島第1原発で発生した事故を巡り、日本の市民や政治家らが抱いている憤りは十二分に理解できる。一方で、この問題で間違った政策対応を取った場合、より長期的な損害を生み出すことを忘れてはならない。

 現在、日本で原子力による損害を補償する枠組み創設のための立法措置が議論されている。その骨子は原発を運営する企業に対して、被害者への賠償に上限を設けないものだと理解している。

 東電や他の電力事業会社に無限の責任を負わせることは政治的には良いことかもしれない。しかし、(原子力)政策としては誤りと言わざるを得ない。電力会社の信用格付けを日本だけでなく、世界でも著しく損なう。いかなる投資家も上限のない責任制度に伴うリスクには耐えられない。

 東電の信用は崩れ落ちる。それだけでなく、日本の原子力産業全体の信用も消し飛んでしまう。世界の原子力関連市場において、日本は中核技術・部品供給において、世界的に鍵となる供給源となっている。その主導的な立場も失うだろう。
 日本には原子力エネルギーに対する新しい包括的なアプローチが求められている。これには既存の原子力施設に対する強固で独立した規制や、確固たる資金面での義務と免責、そして原子力に対する安全性と信頼性を高める確かな努力が伴わなければならない。
 事故を受けて、誤った政策を遂行し、原子力産業全体を損なう事態になれば、日本は「第二の災害」とも呼ぶべき事態に陥る。今、必要なのは事を急ぐような立法措置ではなく、考えを重ねたうえでの行動だ。日本政府は国際的に認められた(原子力技術に関する)リーダーらで構成する「委員会」を創設し、包括的な計画を作成すべきだ。

 この計画にはもちろん、損害に対する賠償制度も含まれなければならない。いくつかの参考モデルもある。米国が導入した原子力損害賠償制度「プライス・アンダーソン法」もその一つだ。原子力産業に極めて高い「安全と信頼の文化」を求めると同時に、投資家が恐れをなして電力事業への投資から逃げ出すことがないようバランスを取る必要がある。(以下、略)
(出所)日本経済新聞2011年5月12日1:28

極め付きで面白かったのは復興会議議長による以下の発言である。これも新聞記事なので引用する。
政府の東日本大震災復興構想会議の五百旗頭(いおきべ)真議長(防衛大学校長)は13日、日本記者クラブで記者会見し、歴史家の視点を持って被災地復興に取り組む考えを強調した。

 その上で、応仁の乱(1467年)や戦国時代を振り返り、「国中が、血で血を洗う争乱で乱れに乱れた。今の首相がバカかどうかという問題のレベルではなかった」と述べ、菅直人首相の資質を問うべきではないとの認識を示した。 
(出所)MSN産経ニュース 2011.5.13 18:41

私はこれ程までに広く国民が軽侮している総理大臣を知らない。東日本大震災や原発事故自体も未曾有であるが、いま日本の総理大臣に対して国民が懐いている軽侮の念も未曾有なのではないかと憂慮する。

次は、復興資金を政府はどう調達すればよいのかという問題だ。これもいま政府内で検討しているはずなのだが全く方向性が定まらない。これまたダイアモンド・オンラインから2本。
増税路線に対しては反対論も根強い。少し古いが

政府の資金調達というとき、それは日銀が発行する現金、ないしは銀行預金を指す。しかし政府が国民から信用されているなら政府が発行する国債を反対給付しても取引が成立する可能性が高い。そこで出てきているのは被災地の買い上げだ。これも色々な所で議論されている。文字通りのカネで買うのは非現実的である。そこで交付国債ということにならざるをえない、ということはこのブログでも書いたことがある。
水没した土地をどう評価するか?買い上げ区域をどう定めるか?買い上げてもらった人は何をするか?交付公債を流通させるか(させるとインフレになる)、金利のつく定期預金のような扱いにするかなど検討箇所は多数ある。



2011年5月11日水曜日

大相撲の八百長防止システムはあるのか?

日本の国技である大相撲は本来は夏場所であるところだが、「技量審査場所」なるいかにも役所の好みそうな名前をつけて何とかやっているところである。この場所が終わって、まさか出てくるとは思わぬが、万が一八百長の噂が再び流れたらどうするのであろうか?大震災復興に向けて国民が助け合っている中で又もや八百長で揺れれば、その時こそ、伝統の国技は終焉を迎えること間違いない。仮にそうなれば、極めて残念だと多くの人は感じるのではないだろうか?

その相撲が八百長であるのかないのか、どう定義されるのかという議論はさておき、一場所15日が勝ち越しであるか、負け越しであるかで、収入ががらりとかわってくる切所に立てば、誰しも談合によって自己救済を図る誘因を持つのは自然なことである。動機があるのであれば動機を持たないようにするのが先決で、携帯をとりあげようが、他部屋の力士との接触を禁止しようが、しょせんは無駄である。

大体、掛け値なし本気のガチンコ勝負を15日連続でやれば、怪我をする確率が高い。特に技量が向上途中にある若手の普通クラスの力士はそうだろう。そして若手の向上途中にある力士ほど怪我をおそれるはずだ。怪我をしても次の本場所は年6場所制では2ヶ月先にやってくる。骨折でもすれば1ヶ月は稽古が出来ない。そろそろと再始動しているうちにもう本場所だ。その間に巡業などをやって勝負勘を取り戻しておけばいいが、それは無理だろう。そこでまた無理をして怪我をするかもしれない。そんな状態で15日またやる。プロ野球で走塁中に靭帯を切ったとする。それが4月ならオールスター前に復帰というのが相場ではなかろうか。相撲は落ち方一つで不運な怪我をする。一度怪我をしたらそのまま番付を落ちていって角界を諦める可能性も頭をよぎるだろう。

怪我をおそれずシナリオなしのガチンコ勝負を毎日ずっとやれというからには一定の条件が必要だ。

ということは、現実に八百長が横行しているのは、その必要条件が満たされていないからだと見るべきだ。

では八百長をせず、全ての力士が闘志そのままのガチンコ勝負を見せるためには、どんな条件があるのだろうか?思いつくままに列挙してみよう。

第一は、いうまでもなく<保障体制>だ。自衛官、警察官が危険な任務に就く時と状況は同じである。そもそも力士は格闘が好きで力士という人生を選んだのである。談合などで勝負を決めず力で相手をねじ伏せたい本能を本来は持っているはずだ。しかし、格闘という危険のある興行を行うからには、万が一、身体を壊した場合にはそれまで期待されていた人生と遜色がないほどの資産と生活を約束しておかなければならない。危険に見合った保障をしなければ力士は自分たちで危険を除去する誘因を持つ。

勤労者であれば医療保険、年金保険、雇用保険に原則加入する訳である。怪我をするリスク、所得低下のリスクをカバーする保険を充実させることによって、力士が本来持っているはずの闘争本能を引き出すことはできるはずである。常識的に考えて保険は既に設けられているとは思うが、それでは不十分なのだろう。保険料は力士本人と部屋の折半で負担しているのだと思うが、入場料にも含めて観客にも一定額を負担してもらうのが適切だ(もうやってるかな・・・)。リスクをカバーする保険料はコストである。本来は質の高い相撲を見るための価格はそう安くはないのだ。

第二は、<過重労働を避ける>という観点が必要だ。小生は相撲には人並みの関心しか持っていない。それでも隔月で本割り15日という今の興行体制は勝負を客に見せる側から言えばギリギリで何とかやっているのが現実ではないか、と思う。小生も傍目には呑気な仕事をやっていると家内などには言われている始末だが、それでも世知辛い世の中、アウトプットを出せとしょっちゅう遠回しにプレッシャをかけられる。それは例えば自己評価シートであったり、部内研修会であったり、業績リストの提出であったりする。アウトプットを世に問うまでの準備の時間が長いのに、組織の上層部はこれまた世間からのプレッシャを受けているので、とにかく成果を出してくれの一点張りになる。現役力士は体作りに時間を十分とれないバタバタ状態でノルマだけをこなしている可能性が高い。

第三は、第二の関連だが<年四場所13日制>にする提案だ。2ヶ月に一回ではなく、3ヶ月に一回にして日数も短縮する。その四場所は4月と10月を国技館、1月、7月は福岡、大阪、名古屋、仙台、札幌の巡回制にする。あるいは特定の一場所は市町村を対象にしたオークションにしてもよい。興行頻度を抑える一方で、チケット価格を引き上げる。勝負内容の質を上げて、顧客の満足度を高め、利幅をとる値上げ戦略を採るのだ。こうすれば毎場所全力士が本場所に出るのではなく、オフになる力士をローテーションで回すことが出来る。その休暇を利用して社会参加活動や相撲啓発活動などを担当させれば社会感覚も身に付くであろう。

第四は、本割りの勝ち越し、負け越しという二分法で次場所の昇格、降格を決めるのではなく、<評価システム>をきめ細かくする。たとえば、勝ち星マイナス負け星の数字に応じて、所定のプラスポイント、マイナスポイントを加算する。そのポイント残高を昇進、降格の主たる材料にする。ポイント残高が一定数値を超えれば昇格させるか、ボーナスを支給する。負けが増えてポイント残高が特定数値を下回ればその位には留まれない。上位力士に勝った場合は銀星で追加ポイント20%、金星で50%増しなどとしてもよい。そのポイントは野球の打率、防御率と同じようにファンに公開する。こうすれば7勝を8勝にするためだけの談合は必要性が薄まる、というより、なくなると思われる。

最後に、相撲部屋、それから日本相撲協会だ。その収入源多様化、つまり事業多様化である。小生も含めて多くの人は、場所がない期間、日本相撲協会、個別の相撲部屋がどんなことをやっているのか余り知らない。そこは野球などと同じで多分練習をしていると思われるが、相撲に縁のあるOB、関係者は全国に厚い層となって分布しているはずだ。協会は都道府県、市町村単位で支部活動を行っているのだろうか。学校の体育会、クラブ活動、町内会、商工会議所、観光協会等々と連携して、地域振興のために寄与できるかどうかを考えたことがおありだろうか?こうしたフィールドワークに強い元力士は結構いるのではないか。力士はただ格闘するためだけの人材ではない。角界と社会の架け橋となって活動することの方が得意な人もいるのではないか?そうした人が、本来は協会運営の要となるべきであるし、部屋の親方は昔の名力士であっても、社会感覚のある人が経営アドバイザーになることは大いに有益であるはずだ。

もっと案はあるかもしれない。いずれにしても不祥事が反復されるのはシステムに欠陥があるのであり、だとすれば当事者のモラルや人間性を責めるだけでは問題は解決されないのである。よく言われるのは「客の入らないレストランの責任は、シェフとホールではなく、トップのオーナーにある」。経営マインドのケの字もない文科省官僚と中期経営計画を相談しても有害無益だ。マスメディア、広告、出版、その他文化人12名程度から構成されるアドバイザー会議を設け、年4回程度、開催する方が余程有益だろう。もちろん会議の議事録は公開し、その実現について監督官庁である文科省がフォローするべきことは言うまでもない。

問題解決のためにできることはある。
大相撲の八百長は力士のモラルが問題なのではなく経営問題である。

1~3月期のGDP速報は5月19日公表予定

大震災3.11で日本の生産活動が大きなダメージを受けてデータ直近の3月足元では10%を超えるマイナスになっている。

サービス業を含めた生産全体ではどうなのか?
GDPは日本経済のバイタルサインで、この数値が急低下することは、私たちの暮らしが成り立たないことを意味する。

内閣府から1~3月期のGDP速報が19日に公表される予定である。民間シンクタンクは早くもその予想を立てている。週刊エコノミストの5/3・10日合併号に掲載されているから引用させていただこう。各行、左から順に11年度、12年度、その後は11年度の1~3月、4~6月期、7~9月期、10~12月期、12年度1~3月期の予測だ。

シティグループ証券  1.3  2.5  0.3  -0.4 1.1 0.8 0.8
野村証券      0.8 2.9 -1.0 -2.5 3.5 5.9 4.1
明治安田生命保険  0.8 2.5 -0.7 -2.5 3.4 5.1 4.0
日本総合研究所   0.5 2.2 -0.1 -0.3 0.7 1.5 2.2
ニッセイ基礎研究所  0.1 2.7  0.2 -4.8 1.8 4.5 2.7
BNPパリバ証券   -1.2 1.9 -4.0 -3.3 -4.9 10.9 -0.3

表が少し見にくい点を許されたい(表の書き方を12:35に修正)。数字はすべて前の期に対する増減率でパーセント単位である。

これを見ると、大半は6月までは生産が下がり続けるが、夏にかけて上向きになると見ている。

次に、これ程の大災害にもかかわらず(BNPパリバ証券を除いて)今年度はプラスの経済成長になると予測している。災害規模の甚大さを考えると、こんなものかなあとも思うが、リーマンショックは世界規模の経済混乱。今回は日本一国で発生した自然災害ということの違いが現れている。

更に、来年度は復興需要で2%から3%のプラス成長になるとの予想。これはまず全てのシンクタンクで一致している。

機関ごとにかなり違うのは、4月から6月にかけての生産の落ち幅と夏以降の回復の速さである。これは見方が相当違う。というか、政府の復興事業がどのようにまとまってくるかに依るので、政治リスクがどう働いてくるかの問題だ。

まとめると、「日本経済の心電図はしっかりしており、間もなく意識が回復すると思われるが、容体変化への対応が遅いなど病院側のマネージメントリスクが無視できず楽観はできない」。

× × ×

小生自身の予想としては、この春の荷動きは在庫取り崩しによるもので、全国的に生産がストップしていた気がするので、4月から6月まではBNPパリバの見方が当たっているような気がする。7~9月も電力不足が生産を抑えることを危惧している。これもBNPパリバと同じ。しかし1~3月期は四半期合計なので、それほど落ちてはおらず、-1%以内の低下ではないかと予想している。

2011年5月10日火曜日

浜岡原発停止の目的は政治であって安全ではない

中部電力の浜岡原発が総理要請により停止となった。この原発は予想されている東海大地震の予想震源域の真上にあり、以前から危険性が指摘されていた。また30年以内にマグニチュード8以上の大地震が到来する確率も87%と政府の委員会が公表した。

リスクに備える行動をとることも政治家に期待されている。そこで即刻停止という判断をしたのが今回の総理要請である。が同時に、リスクに備えるためどんな行動をとるか、企業経営者の裁量にゆだねられている部分もある。リスクに備えるためには、どんな私的権利も制限されていいというわけではないし、まして損害を甘受する義務はない。

さて、30年以内に<心配される事象=大地震>が発生するというのは、間近に迫った危険だと認識するべきなのだろうか?

私は地震発生確率の計算方法を熟知しているわけではない。しかし、確率を計算する場合の一般的考え方として、あい続く同じ事象を独立とみなすか、独立とはみなさないかの区別が大事だ。

独立というのは、ある期間内に特定の事象が起こる確率と、次の同じ長さの期間内にそれが起こる確率は、いつでも同じだと考える。たとえば、電話がかかってくる確率はこれに近い。5分内に電話がかかってくる確率が5%だとすれば、5分が過ぎた後の次の5分に電話がかかる確率も同じ5%だ。そう考えるなら、これを<独立性の仮定>と呼んでいる。

「独立でない」というのは上と反対のケースだ。たとえば火事が起こる確率、地震が起こる確率はこれに該当するだろう。ある家が次の10年以内に火事になる確率が1%ある。では10年間、火事が起こらなかったとする。住人の注意が行き届いているのであろう。これを考慮すれば、次の10年で火事が起こる確率は1%より小さいと考えられる。あるいは、もし10年以内に火事が起こってしまったら、家は焼けてなくなるから、次の10年で火事が起こるなどと考えること自体が無意味になる。状態がどう推移するかで、確率が変わるわけだ。そんな場合は独立性の仮定を置くのはまずい。

30年以内(=360か月)に大地震が到来する確率が87%というのは、何も起こらない1か月が360回続くことの排反事象になる。もし独立性を仮定すると、1月以内に大地震が起こらない確率が99.4%であれば、政府の結果と同じになる。差し引きすると、1月以内に大地震が来る確率は0.5%程度しかないが、そういう平和が今後360か月も続くと考えるのは呑気すぎますよ。そういう解釈が合理的だ。但し、この計算は独立性を前提している。

おそらく30年以内に来る確率が87%という場合、毎月の発生・不発生は独立ではないと考えるのだろう。最初の10年に発生しない場合は、次の10年で発生する確率が高く、それでも発生しないなら最後の10年ではほぼ確実に起きる。そう考えるのが理にかなう。しかし、発表されたのは「次の30年で大地震が起こる確率」だけであって、今後5年はおろか、今後10年も公表していない。

ここで言えることは、政府の地震調査委員会の声明は極めて曖昧であり、説明不足であるということだ。常識的に考えて結論がそうであれば、前提によらず、1月以内に東海大地震が起こる確率は限りなくゼロに近い。そう思われるのである。

それでも停止させるというのは、少なくとも数理的かつ経済的合理性を欠く。原発施設の運営はビジネスである。停止、検査、運転には合理性がなければならない。合理的根拠を欠き、内閣の意思決定を行う法制的基礎である閣議をすらもすっ飛ばして、「直ちに浜岡原発の停止要請」という行動に踏み切ったからには、数字とは関係なく浜岡は間近に迫った危機であり、だから停めたんだ。そう考えるしかない。そう考えたのであれば、それは一つの立場である。政治家は自らの信念をもつ権利がある。

であれば、大地震が起こる確率は極めて小さいが、明日その危険が来る可能性もゼロではないのであるから、全電力会社の全原子力発電を直ちに停止させるべきであろう。そうしてこそ筋が通るのではないか。それほど政治と原発が密接不可分なのであれば、福島第一原発についても政治の責任を認め損害賠償の過半を国が負担するべきではないか?

菅首相は停めるのは浜岡原発だけであると言い切った。拠って立つ理念が分からない。それは「浜岡原発を停めたのは政治である」ということを自ら告白したのに等しい。それは国民を守るといってはいるが、菅政権の支持者の利益のためである。こういう受け取り方をするしか聞きようがないのである。

中部電力株は10%の暴落となっている。これは、文字通り、政治が経済を振り回している。この点だけは明らかである。

2011年5月9日月曜日

Eラーニングは学校を創造的に破壊するのか?

東電による損害賠償枠組みがまとまったら、直後に金融機関への債権放棄要請が官房長官の口から出たり、国家戦略相が電力市場の発送電分離に言及する。かと思えば、今日の新聞には官房長官も発送電分離ありうると追認する記事が出る。その記事の下に目を動かすと<TPPの参加判断先送り>という文字がある。

政治家の一挙手一投足が注目されるのは自然だが、情報を舌先で意図的にリークし、周りが異を唱えにくい空気をつくり、政治を行っていくという手法は、やはり上等のやり方じゃあない。今日はそれだけを言っておきたい。

極論すれば、戦前の官僚内閣なら情報操作、世論誘導が必要手段であった。それは国民の支持が欲しかったからだ。しかし、議院内閣制のもとでの内閣はそもそも国民が政権を支持している理屈だから、あえて意図的な大衆誘導など不必要なはずなのだ。

口先誘導を繰り返しながら、大衆の支持を作っていこうという政治姿勢は、原則なきポピュリズムの典型であって、小生はこれこそ現政権が衆愚政治に堕しつつある兆候だと見るのだが、どうだろう?

以上、表題記事の下書きと公開した日付がずれたので、5月17日現在の新聞に言及しました。

× × ×

実は、本日(今日は5月17日)のブログは表題のとおり、Eラーニングを語ろうと思っていた。ところが本文を編集し、下書きとして保存してあったはずのファイルが、Blogger.comによる先日のメンテナンス作業で一段階前のファイルに置き換えられてしまったようで、本文の肝心の部分が全て消えてしまった。

もう一度、同じ文章を入れなおす気力はないので、骨子だけをここに記しておきたい。大体以下のようなことを書いたのである:

数年前、小生は統計分析を学習するためのEラーニングサイトを立ち上げようと苦心惨憺していた。このブログにもその頃の名残を残してある。ま、記念というか、名残惜しいのですね。

まずは自動採点機能付きのドリルコーナー、サンプリングと標本平均の計算シミュレーション、回帰分析シミュレーションなどができるWEBアプリを作った。それからオンデマンド授業。ただ録画をしてもつまらないので、結構高額な商用製品を買って、パワーポイントと同期をとるスクリプトを自動生成させた。

1年以上をかけてコンテンツを作成して授業現場に投入して、学期最後には授業アンケート調査で学生の評価がデータとして戻ってきた。そのアンケート調査は全授業について行っていたから、満足度を形成する色々な因子を評価分析できたわけである。

その結果、Eラーニングの充実は確かに授業満足度の上昇に寄与していて、特に「分かりやすさ」を高める作用があることがデータから明らかになった。

Eラーニングのコンテンツ作成は、労力とカネと時間を必要とするが、一度作成すれば後はサーバーがやってくれる。サーバーの運転コストは大変安い。その安いサーバーが学生の授業満足度を高め、授業内容の理解を深めてくれるのであれば、学校経営の立場に立てばこれは嬉しい。同じ授業に複数の教員を配置するのと同じ効果をもたらすのだから、Eラーニングは確かに教育現場にとって福音だ。

Eラーニング導入直後の段階ではそんな評価をしたわけだった。

ところが、最初の評価は次第に修正されていった。決して、Eラーニングは低コスト・効率的な教育方法ではなかった、特に学校という組織の下では。

時間の経過とともに発生したのはメンテナンス・コストである。何よりブラウザの進化。そしてセキュリティ管理の厳格化。そしてスクリプト言語の仕様改変とレベルアップ。それらが原因となって、再生できていたコンテンツが再生できなくなる。スクリプトを手作りでなく自動生成させていたことが裏目に出て、デバッグに時間をとる。

障害解決は時間との勝負だ。次の障害と複合しないうちに、できるだけ早く原因を特定して、正常状態に戻す作業を進めることが大事だ。複数の障害が重なってしまうと、解決に要する時間は加速度的に長くなる。これは本来はビジネスなのですな。必要な労働を必要な数だけ投入する。そのコストは製品価格に上乗せして回収すればいいのですから。

学校という組織が企業組織と異なるのは、専門分野ごとに専門家が集まった商店街である点だ。投入した時間をコストとして回収する原理にはなっていないし、ある業務を犠牲にして、別の業務を実行できるように人的資源を投入するということはできない。大体、授業を休講にして、Eラーニングをメンテするなどということは、それが望ましくはあるとしても、ダメなのですね。

当初は低コスト・効率的に思えた新技術だが、予想もしていなかった環境変化が起こる中で想定外のコストが発生し、システムとして決して安価なものではないことが明らかになってくる。

何とこのロジックは、原子力発電のロジックと似ていることよ。というより、世の全てのイノベーションは、こうして採用され、試練を潜り抜け、生き残る価値のある技術は生き残っていくのだろう。そう思ったりもするわけだ。

本当にEラーニングで提供できるサービスがあり、サーバーのほうが教員よりも安価であるのなら、Eラーニング事業を学校の事業の中にインコーポレイトすればよいのである。そうすれば、WEBビジネスの技術革新と同じスピードで学校教育のレベルアップを実現していくことができるのである。

しかし、そのために学校に多く配置しなければならない人材は伝統的な「教師」というカテゴリーではなく、コンテンツを編集、管理するための「エンジニア」という人材であろう。

教育は人から人へ、つまり先生から学生へ直接行われるべきものだと、みんなそう思っていた。しかし、決してそうではない。そんな時代になってきたという事実を、いつ率直に認めるのか?それが非常に大事な問いかけになってきている。そう思うわけである。

確実なことは、これまで教師が担ってきた仕事の相当の部分はコンピューターで置き換えることが可能だ。ということは、それでも学校という場で生きた人間が教師として生徒と対面するからには、教師が果たすべき新しい役割があるはずなのだ。それをこれから議論していかないと、IT革命の浸透の中で学校という組織は必ず解体されていく。そう考えるわけだ。つまり創造的破壊だ。

まず破壊があって、次に創造をしないといけないのだが、最大の問題は中央官庁である文部科学省は学校制度の運営管理だけを考えていること。管理しているつもりが、いまの学校の在り方を続けること自体を目的とする、創造に必要な破壊を停止させることを第一に考える。その可能性も高いことだ。

だとすれば、19世紀以来の「教育は学校で」という常識は完全に陳腐化し、遠からず学校システム全体が時代遅れの恐竜のような存在になるだろう。

私感―中野剛志「TPP亡国論」

最近評判の中野剛志「TPP亡国論」を読み終わったのは1週間前だ。内容は世評程には過激でもラディカルでもなく、むしろ若い人はストレートな言い方をするのだなあというか、表現は悪いが文章全体からフルーティな香りが伝わるような本だった。著者は1971年生まれだから、40歳か。小生が教師生活に転じたのもその年齢だったなあ、といささか感慨も催しているのである。

さて今日は「TPP亡国論」三つのポイント、一つの疑問を呈しておくことにしよう。

まず主な主張は次の三点に尽きるような気がする。

【1】世界経済の問題の核心はグローバル・インバランスである

日本、中国などの貯蓄過剰、アメリカの投資過剰が世界経済の不安定化を招いた。グローバル・インバランスが前者の経常収支黒字、後者の経常収支赤字となって現れていたのだが、それが国際金融市場を通して、アメリカの住宅バブル、原油をはじめとした国際商品バブルを惹起した。そうした国際的な資金偏在が原因となって、ついに金融セクターが機能不全を起こし、モラル崩壊をも伴ってリーマン危機につながっていった。そういう認識だ。

小生もこの見方には基本的に同感です。

故に、今後望まれる変化は、オーバーローンになっていたアメリカの輸出増加、輸入抑制つまり内需抑制。と同時に、オーバーボロイングになっていた中国、日本などの内需拡大。理屈はこういう結論になる。

ということは、日本が輸出拡大を企ててTPPに参加したとしても、アメリカ(及び他の参加国)は販売先としての日本を見ているのであって、日本の輸入増加こそが望まれている。しかし日本は輸出をしたくてTPPに入ろうとしている。世界経済問題を解決するプロセスの中で進められようとしていることと、日本がやりたいことが、全く正反対の関係にある。これは素晴らしい論理構成だ。

著者のいうとおり、TPPは実質的にはアメリカとのFTAである。多数の参加国が協議をするとしても、方向としてはアメリカの視点で、アメリカによる世界経済戦略の一環として、TPPは協議されると予想され、参加したとしても日本のペースで合意が得られる理屈は最初からない。

確かに本筋をついていますねえ。「自由貿易は経済的な厚生を向上させるはずである」という理論的・原理的な思考を単純反復するだけではなく、いまの場合に当てはまる現実的な見通しをエコノミストは提供するべきである。それが専門家の役割だと言える。

【2】 日本経済の問題は何よりもデフレであって財政赤字ではない。内需拡大によってデフレを解決することが最重要な課題だ。

著者の「デフレ悪玉論」には、率直なところ、全面賛成ではない。半分だけ同意する。

まず、消費者物価を目安にした日銀のいまの金融政策にはデフレバイアスがあると思っている。消費者物価には原油などの一次産品など輸入品が含まれている。だから石油、農産物などが高くなれば、日本国内の製品は安くならないといけない。賃金も利益も下げないといけない。この論理は、日銀券の価値安定には寄与するが、小生は適切ではないと思う。目安としては消費者物価ではなく、名目賃金の安定を重要視するべきだと思う。国内の賃金安定に十分なマネーを供給することに日銀はコミットするべきだと思っている。

更に、いまは少子化、人口減少への時代だ。資産を増やす貯蓄が大事なのだろうか?むしろ<資産取り崩しを進めるマイナス貯蓄率>のマクロ経済が大事だと考えている。そのための政策運営を研究するべきだと思う。

貿易黒字どころか、経常黒字も今後維持できなくなるとどうなるか?その場合は、国内資産を取り崩すか、対外債務で調達するかである。しかし、日本の人口が減少するなら、合計指標であるGDPも低下するのが自然だろう。保有するべき生産設備ストックもスリム化してもよい。

高齢化したあと子供もいなくなった大きな邸宅は重荷だ。そもそも日本は明治維新時に3千万人だった。第2次大戦後に多数の日本人が外地から帰還したため超人口稠密国になった。そのため宅地開発と自然破壊が進んだことを思えば、生産合計の縮小を大問題だと考える必要はないだろう。

資産をもっと増やすことよりも、資産を有効に使うことを考えるべき時代だ、という著者の指摘は正しい。

但し、日本の最重要問題はデフレであるという著者の認識は、たとえば野口悠紀雄氏の「日本を破滅から救うための経済学」の見方とは全く違う。野口は、日本で生じているのはデフレではなく、グローバル市場の中で進んでいる製品安・サービス高という相対価格革命であると見る。

たとえて言えば、1960年代の日本の高度成長時代、都市で働く製造業サラリーマンは農村に留まる人たちより高給をとっていた。だから大都市に人が集中したのである。いま世界の製造業は新興国という新規参入が相次いで果てしのない価格競争をしている。だから先進国は高度の知識を必要とするサービスに人が移動している。日本はその移動のスピードが遅いと野口は指摘しているのだ。

もし新興国ラッシュによる相対価格革命が日本の地盤沈下の主な原因だと見るなら、それは日銀のお金があるか、ないか、では解決できない。日本の物価だけを全体に上げていっても、かえって安い輸入品に食われるだけではないですか?この質問にどう答える。

デフレも確かに<物価不安定>の現象であり問題なのだが、じゃあデフレを解決すればMade in Japanが売れるようになるのだね、という具合に簡単にはいかないと見る。

【3】国際競争力は、関税の話ではなく、通貨の問題である。

韓国とアメリカ、EUで合意しているFTAに対する対抗戦略としてTPPが議論されている点を著者は批判している。経済界ではこの側面が非常に強調されている。

しかし、国際競争力は関税の高さで決まるというより、為替レートがより決定的要因である。既に十分引き下げている関税をこれ以上下げる余地はそれほどなく、TPPに参加すれば、結局は農産物市場開放と非関税障壁解消(つまり日本特有の規制や商慣習などの変革)の両方を約束する状況に追い込まれる。著者の見通しは、成程、その通りだ。

だとすれば、TPPよりは例えば為替安定のための環太平洋通貨安定基金(Trans-Pacific Monetary Fund)なるもののほうが日本にとっては余程メリットになる、ということにもなり、アメリカは嫌がるかもしれないが、日本は日本で「国益」を追求するべきだ、という議論にもなってくる。

但し、著者の議論に疑問もあるのである。それは次のように経済学に関してだ。

【4】 輸出もデフレの原因である!!?

これには小生はたまげた。たまげたのは小生は経済学を学び、今は統計専門家をやっているためである。

一般に経済学で考えられているのは、需要は客の数を意味し、<需要が増えれば価格は上げられる>し、需要が減れば価格は下がる。小生もそう世の中を見ているのですね。

国内の買い手に売れば、それは<消費>であったり<投資>になる。海外の顧客に売れば<輸出>になる。輸出は日本の製品への注文なのだ。外国からの注文が増えて、なんで国内の価格を下げるのか?安く買い叩こうという外国の客には売らなければよい。それに輸出に回す分、国内の出荷も減りますからね。減った分、価格は上げやすくなる。どう考えても、輸出が原因で国内の販売価格が下がる理屈にはならない。

逆に、輸入が増えれば日本のデフレ要因になる。それは供給が増えて、商品が国内にあふれるからだ。
(本当は、安い価格で売るよりも、なぜ日本の業者並みの価格で売ろうとしないのか、という企業行動の問題も別にある)

まとめると、輸出も輸入もデフレの原因になると中野氏は考えている。だとすれば、日本よりも輸出や輸入を数多く行っている開放的な国、たとえば欧州諸国やシンガポールなどのアジアの小国は、日本よりもずっとデフレ体質になっていないといけない。しかし、全然そんなことはない。

このように小姑のように重箱の隅をつつけば綻びはある。しかし、綻びは全ての本にある。全体としては著者のTPP批判は舌鋒鋭く、一部で批判されているように論旨が混乱していることはない、と小生は思った。冒頭述べたように、若さ、勢いを感じた。

となると、昨年唐突にTPP参加論が出てきたのは、横浜であったAPEC首脳会議で菅首相に持たせる引き出物だったのかなあ、とも思われるわけである。