小生がまだ小役人をしていて、勤務先の広報誌の編集を担当していた頃、あるエコノミストが「階層消費の時代」という言葉を流行らせたことがあった。小生も、「言葉選び」の斬新さに目をつけて、そのエコノミストに原稿を依頼しようと思いついたのだが、近くにいる先輩が「やめとけ、大体、階層消費ってなんだ!?階層消費なんて言い出せば、エンゲル係数の分析でもすりゃあ、大事な事はわかる。マユツバな概念だ、これは」という大層な剣幕で、それで小生は目をさまして発想転換したものであった。そういえば、その頃、別の社会学者が「階層化社会」という言葉で注目を浴びていた。マスコミは何かというと「言葉が大事です」と言うが、言論ビジネスの商売道具を大事にするのは当然だ。しかし、その他の仕事をしている人間は、言葉選びだけをしていればよいわけではない。
ま、どれも1980年代後半、バブル時代の頃であり、「経済大国」としての自信が日本全体にみなぎっていた。そのみなぎる自信の背後では、「階層化」というキーワードが世に受けていたのだ、な。
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マーケティングの極意は「顧客のセグメンテーション」にある、というのはビジネススクールなる機関に少しでも関心のある人なら同意するはずだ。
要するに、行動パターンが類似した顧客ごとにグループ化して、別々の異なったマーケティング戦略を企画し、利益を最大化するわけだ。不完全競争下の価格支配力を活用した、経済学者なら常識とも言える経営戦略眼がここにはある。
異なった顧客というとき、年齢、性別、居住地域もそうだが、やはり年間収入、保有資産が行動の違いをもたらす最重要な属性である。であるので、合理的なマーケティングとは、富裕層には富裕層向けの、低所得層には低所得層向けの販売戦略を展開する、まあ、身も蓋もないがそういうことが是とされている。
富裕層を「上級国民」、低所得層を「下級国民」といいかえると、今回の交通事故騒動はそっくり現在の社会構造にオーバーラップする形で噴出している、極めて現代的な社会現象である。
自動車も軽自動車があれば、数百万円から何千万円クラスの高級車がある。欲しくても買えないクルマ好きの人が街を走っているBenzやBMW、Lexusをみれば、世の不条理を感じるだろう。おしゃれの好きな人が、ARMANIやTiffanyを身に着けている人物を目の前でみれば、ひょっとすると腹が立つかもしれない。住んでいる住居だって、その違いの甚だしさは驚くほどである。
マーケティングには違いがあっても、せめて法の適用は平等であるべしという理屈は、その通りである ― 徴兵制がしかれている社会とそうではない社会とでは自ずから平等感覚にも違いがあるのじゃないかと小生は感じたりするが、それはまた別の機会に書く(←案外、重要な論点と小生には思われる)。
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一言メモになるが、感じることを記しておきたい。
「上級国民にも処罰を」と憤激している人は、高い確率で自分は上級国民ではないと思っているのだろう。「下級国民としての自分」が前提されている。その「下級国民」が社会を望む方向に導きたいと感じている。
しかし社会に影響力を与えられれば「上級国民」である理屈だ。
小生は、「上級国民」を非難する声の中に、自らが上級国民になりたいという願望を感じる。
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誰でも作家を志せば、文豪ゲーテのごとくありたい。
しかし、創作者ゲーテは人生を通して自らを削りながら燃焼して周りを明るくする蝋燭のようであった。トーマス・マン『ワイマールのロッテ』では最終章でゲーテ本人にそう語らせている。
思うのだが、上級国民であれ下級国民であれ、A層であれ、B層、C層であれ、偉い人であれ、偉くない人であれ、「幸福」という次元で測れば、言われるほど違いはないのじゃないかと思う。というより、「幸福」へのチャンスは、まあまあ、平等に提供されているのがこの浮世ではないか。そう思っている。
小生の両親は、成人前に戦争で苦労し、家庭をもってからは戦後の混乱期であり、忙しく働いたあとは病気で比較的若くして世を去った。それでも、思い返すと両親よりは長生きした小生とほぼ同量の幸福は享受していたような気がするのだ。
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