2019年12月28日土曜日

一言メモ: 「女性宮家」を新設すると変な話になりますぜ

相当以前にも投稿したことがある話しだが、時代、国境を超えて聴き手に受けること間違いなしの面白い話題が三つある。それは

第一に「旨いもの、まずいもの、変わったもの」。食事の話がくる。
第二に「贅沢、財産、城の大きさ、領地の広さ、富」。要するに、こんな金持ちがいるという話だ。
第三が「愛と憎悪」。お家騒動、仇討、復讐、跡目争いなどはこの範疇に来る。

さしづめ、今の皇室問題は上の第三に含まれるわけで、受けること間違いなしの話題であることは間違いない。

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いま「女性宮家」を中心に検討が進んでいるとのことだ。

内親王を民間に嫁入りさせることなく、生涯ずっと皇室に縛り付け公務を押し付けようという算段だろう。

まあ、宮家歳費として女性に報酬は支払われるのだろうが、ただ、どうなのだろうネエ・・・と思う。宮家から嫁いだ旧家の御簾中としてノンビリと暮らすことは出来なくなるという以外にも、色々と可笑しなことが発生しそうだ。

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例えば、日乃本太郎さんという民間男性と内親王が結婚するとする。内親王は宮家のままだとすると、その女性は嫁ではなく、故に日乃本姓を名乗らないことになる。

つまり「夫婦別姓」になるのだろうか?

いくら庶民の世界では名字の意味が空洞化し、戸籍上の名前、普段の名前が入り乱れて、滅茶苦茶になりつつあるとしても、皇位継承にかかわることは「家の継承」、「血統の維持」であるのは明白だ。とすれば、どの姓を名乗るのかという点は最も重要であろう。大体、何度も投稿したが「世襲による皇室」と「戦後民主主義」とは水と油の関係にあるのは直観でわかるはずだ。いまの世間の常識で理屈っぽく答えを出すと、それこそ皇室は滅茶苦茶になるかもしれない。

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その子はどうか?

女系の子孫は皇族ではないという現行の原則を通せば、その子は例えば日乃本次郎という名を名乗ることになる。仮に女系の子を皇族に認めるとしても、父が日乃本太郎なら長男も「日乃本次郎」と名乗りたい、と。そう希望する事態もありうるであろう。日乃本家には男子がいないので日乃本姓を名乗らせたいとする父側実家の事情があるかもしれない。それを禁止する法的根拠はないはずである。

そして、仮にその他皇族が絶えて、日乃本次郎氏が皇位を継承することになれば、それ以後は天皇の姓は「日乃本氏」に変わり、欧州の父方姓を王朝名とする習慣に従えば日本も「日乃本王朝」が始まることになる。そして、日乃本一族は新たに皇族として認知されることになるだろう。

実際、こうした変事は欧州でもあり、有名なところでは屈指の名門・ハプスブルグ家が18世紀の中頃、神聖ローマ皇帝にしてオーストリア大公であったカール6世の長男が夭折したため娘のマリア・テレジアが女性の身でありながら家督を継ぐことになった。ローマ皇帝にはなれないのでフランスのロレーヌ公(ロートリンゲン家)の息子フランツと結婚しローマ皇帝位はフランツが就き、ハプスブルグ家とオーストリア大公は娘マリア・テレジアが継ぐことになった。これ以後、ハプスブルグ王朝はハプスブルグ=ロートリンゲン王朝となり、第一次世界大戦敗戦で帝国が崩壊するまで続くことになる。帝国崩壊時、オーストリア国内で復位運動が拡大しなかった背景として、既に王朝がフランスのロートリンゲン家の血統に移行していたという点も挙げられてよいかもしれない。実際、マリア・テレジアによる女系継承に対してプロシアのフリードリッヒ2世(フリードリッヒ大王)が反対を唱えオーストリア領の一部シレジア地方を侵略した。即ち、オーストリア継承戦争である。この戦争で敗退したオーストリアは今度は戦備を整え七年戦争に打って出た。聡明な娘を愛する思いから女系継承をとったことから長期間の戦争がヨーロッパでは起きてしまったわけである。

家の継承は思わぬ紛糾を誘う一因になるということだ。

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こうした事態を避けるには、そもそも最初から婿の日乃本太郎氏が自身の姓を捨てて皇室に入ることにすればよいわけだ。だとすると、日乃本氏も皇族という扱いにしなければならない。ちなみに、上に述べたフランツ・ロートリンゲンは姓は捨てず、ハプスブルグ家の方がハプスブルグ=ロートリンゲン家と改名したのだが、領地であるロレーヌは捨てることになりフランス王国に返納した。フランスがロレーヌ地方に対する領有権を主張するのはそのためである。

内親王と結婚する民間男性・日乃本太郎氏は本当に姓を捨てて皇室に入るのだろうか?

そうするとすれば、要するにこれは古来とられてきた「入り婿・入り養子」と実質は同じになる。違うとすれば、全てを捨てて養子・婿入りするにもかかわらず、入った先の「主人」はあくまでも(家付き娘のケースは)妻の側である可能性が高い点だ。英国王室のように「△△公」といった貴族の称号を付与してくれるわけでもあるまい。更に、配偶者がもつはずの財産相続権を民法の規定通り持てるのかどうかすらも怪しい。何世代かの後いつの間にか皇室財産が日乃本家の私有財産に移っているという事態をさけるためである ― 皇統とは無縁の純粋民間人男性の場合は不確実な面があまりにも多い。イヤハヤ、「婿養子未満」の扱いになることはほぼ確実な想定とするべきであろう。

歴史的に縁の深い家から養子を入り婿として迎え「血族」(というと山口瞳の『血族』を思い出すが)の絆を守る努力は日本社会で広く行われてきた慣行である。暗愚な直系男子に継承する事の危険を避ける工夫でもあった。であるなら、女性宮家などと臨時・緊急的に宮家の数を増やして税金を使うよりは、既存の宮家に養子を迎えるほうが余程分かりやすい ― 勿論こうしたからと言って、徳川幕府12代将軍・家慶が暗愚な実子・家定よりも水戸家から一橋家に迎えた慶喜を偏愛した例もあるので御家騒動が起きる可能性は常にある。

以上色々と述べたが、女性宮家などと対立を招きそうな新手のやり方を創めるよりは、皇室・皇族の婿養子を解禁するほうがどうやら理に適うのではないか、と。そう感じられるのだな。

・・・これで御用納めとういことで。そろそろ年末・年始モードに入るとしよう。

2019年12月27日金曜日

「いま女性は生きづらい」という表現に関連して

『現代の日本社会は女性が生きづらい社会』であるそうだ。

小生の亡くなった母は10代には戦争中だった。毎日、勤労奉仕ばかりさせられたそうである。みな同じであったが、戦後になって行政を不服として訴訟が起こされたというのは寡聞にして聞いたことがない。戦後になると食べるものは乏しく、父と結婚をしてからも狭い社宅で暮らし風呂は共同で時間を決めて交替で入浴したそうである。色々と気兼ねをする毎日だったろうなあと想像する。まあ、皆同じだったといえばその通りだが、母が若かった時代もやはり「生きづらかった」といえば言えたのではないだろうか。現代でも「つらいどころか生きているのが危険である国々」は決して少い数ではない。

しかし、母は戦時中や戦争直後の時代は辛かったとはあまり話しをすることなく、それよりは「女は三界に家無しなのヨ」とよく小生には話していた。

息子に何度も話すのだから、よほど情けない思いをしていたのだと推測される。「三界」とは、人生を幼い時代、壮年時代、老年時代の三つに切り分けた三つの時代という意味であったようであり、女性は幼いときは親に、大人になれば夫に従い、老いては子に従う。それが定めである、と。要するに、女性は自分では生きてはいけない、と。そういうことであったらしい。

これだけを聞くと酷いネエと思う。

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とはいえ、当時から小中学校では女性教諭が増えてきていた。芸術、文学等の分野ではずいぶん女性が活躍していた。医学教育を目的とした女子医専も幾つかあり女性だからといって教育機会が得られないという状況ではなかった。が、もちろん社会に「男女差別」はあるにはあったのだ。そもそも「男女七歳にして席を同じうせず」というのは性差別の完璧な一例であるには違いない。むしろ差別というより分離の感覚であったかもしれない。だから近代になってから混雑する都電の車両の中で男女が混在する状況は日本人の感覚では許容できないはずだと考えたことが小生はあった。しかし、この点は江戸期の老中・松平定信が衛生上の懸念から新たに銭湯男女混浴禁止令を出すまでは日本人にとって混浴は自然の習慣であったことを知って理解できたように腑に落ちたものである。

他方、「これは男性が受け持つべし」と明確に意識されている役割もあったようだ。例えば戦前期、それも戦争前は学校が生徒の親と連絡をとる場合は父親に対して行うのが原則であったという。教師と何かを相談するときも父親と面談するのを当然としていたそうだ。育児の責任は最終的に父親がもつという感覚は、言うまでもなく「家制度」に由来していたに違いない。町内の集会も男性が出席をするのが慣行であったそうだ。よく「前時代的な言い方」の代表として「男は外で仕事をし女は家を守る」が挙げられる。この言い方がこれほど頻繁に使われていたのは、ほぼ100パーセント、文字通りにこの言葉が当てはまっていたのが戦前期・日本社会の雰囲気であったことを伝えている ― 少なくとも太平洋戦争が日本の社会を変えてしまうまではそうであったに違いない。

「男子厨房に入らず」という言葉も有名だ。祖母がよく口にしていたので小生も世代的には周辺部にいるのかもしれない。しかし、この言葉も多少曲解されている一面があるように感じている。むしろ「ここは女の仕事場」というニュアンスもあったようであり、他にも男が口出しをするべきではない世界が色々とあったとみている ― 戦後の日本社会は激しく変化してしまったので、この頃の家庭の雰囲気を支えた生活感覚を小生も体感感覚としては思い出すことはできないのだが。

ずっと昔になればなるほど女性の立場や権利が単線的に弱くなっていたと考えるべきではないと思っている。小生の父方の祖母の実家は「あの家は代々女が優秀で男は駄目だ」と言われていたそうであり、田畑の経営、使用人の差配、家計管理まで嫁入り先で活躍したという話を聞いたことがある。

現代日本で「女性が生きづらい社会」であれば、「男女差別」が強く、「男女不平等」であった昔の日本社会においてはより一層「女性が生きづらい社会」であったという理屈になる。しかし、小生が聴いてきた思い出話の範囲では、これは必ずしも事実ではなかったと想像される。

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過去に向かってずっと遡るほどに男性は生きやすかったというわけでもなかった。

なにも家を代表して当主が責を追って切腹などと言う時代まで遡る必要はない。小生の母方祖父は次男であったが、次男であったが故に職業選択は自由であり、自身の適性にそって法律を勉強した。ところが兄は家業を継がなければならなかったので商業高校で多少の教育を受けることができたのみであった。「家」を継承する倫理上の義務がなければ別の人生を選択したかもしれない。

「生きづらい」というのは、このようにどこかで「個人」と「社会」とが相克し戦っている状況が、前提としてなければなるまい。ただ、その前提たる状況は社会的な「因襲」から由来するものであり、因襲が因襲たりえたにはそれだけの利益があってそうなった、全ての因襲はソーシャル・マネジメントとして継承されてきたものでもある。そんな事情もあるであろう。

母が「生きづらい」と感じていたのかどうかは分からないが、「女は自分の経済力で、自分の所得で生きてはいけない」ということだったとすれば、それは確かに自分が情けないと感じる理由になったと思う。その感覚は現実そのものを踏まえた感覚であったかもしれないが、森鴎外のいう日本社会の「因襲」がもたらしていた圧力であったのかもしれない。あるいはアメリカのヒラリー・クリントン夫人のいう「ガラスの天井」と同じだとすれば、男女をめぐる問題は洋の東西を問わないのだろう。ではあっても、漱石や鴎外、荷風などの作品に登場する女性たちには暗い影がさしているとは小生どうしても感じられない。ただそこには幸福な男女と虐げられて不幸な男女がいるだけである。むしろどの時代であっても女性は強くてしたたかだ。家族の中でも決して亭主には負けていない。イプセンの戯曲『人形の家』が輸入されてからはそれが追い風となり思想的な基盤にもなったろう。『人形の家』は夫と子を捨てて家を出て社会の因襲を破り捨てる女性の話である。その女性には喝さいがおくられたのだ。

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そんな「因襲」が現代日本においてもまだ女性たちを「生きづらく」させているとすれば、「近代的なモラルと日本伝来の因襲」とを対比させた鴎外的観察もまだなお意味をもっているわけだ。鴎外中期の名作『青年』などは、まだまだ小中学校で課題図書に指定してもよい。

ただ、どうなのだろうネエ……。いまの日本社会に明治・大正から続いてきた「因襲」などがあるのだろうか?ちょっと疑問だ。

既に21世紀である。熟年離婚も増えている。三下り半をつきつけているのは寧ろ女性じゃないかという印象も小生にはある。財産分与も制度化され、「家」は100パーセント崩壊ずみだ。

だから「生きづらい」のは女性だけなのだろうかと思ったりもする。男性には生きやすいが、女性には生きづらい社会なのだろうか、今は?そんな視線にたつと、小生などは男の子ばかりを育てたせいか、いまは男が生きづらい時代じゃあないか、そう思うことが多いのだ、な。

正直な所、『男性も生きづらくはありませんか?』とアンケートを行ってみたくもある。

因襲的な「家」の中で、居心地が良かったのは男性であったのか、逆に女性であったのか。近代女性解放運動では女性は家の中に閉じ込められた存在であったのだが、幸福度意識調査を行ったわけでもあるまい。小生は、古い時代に生きた祖父や祖母の世代、そのまた親の世代がどのような感覚で毎日をおくっていたのか、リアルな感覚というのが全くない。想像すらもできないのだ。

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そもそも日本で「生きやすい時代」というのはいつあったのだろうか?

多分、生きやすい社会であれば、満足度も高く、自殺率も低く、訴訟件数も少ないのであろうなあと思う。とすれば、一つのデータとしては毎年恒例の"World Happiness Report"でフィンランド、ノルウェー、デンマークという北欧諸国はトップを占め続けているわけである。ところが、フィンランドの自殺率は、近年低下してきたとはいえ2016年には15.9となっていて国際的には高い方に属する(Wikepediaより)。日本の18.5よりは低いが、イスラエルの5.4、トルコの7.3よりはずっと高い。そのイスラエルやトルコの国民の幸福度が高いとは誰も予想しないだろう。実際には上記の"World Happiness Report 2019"の幸福度ランキングではトルコが79位、イスラエルが13位である。

これだけの違いで大した結論を導くのは危険であるが、どうやら「幸福であると感じる事」と「この世に未練はないと感じる事」の二つはほぼ無関係のようである―順位相関係数などを求めて確認することが本当は望ましいのだが、省略する。

ちなみに日本の自殺率を男女別にみると、男性が26.0、女性が11.4と男性の方がずっと高い。金融パニック直後の2000年の日本で同じ数字をみると、男性の自殺率が35.8、女性の自殺率が13.9である。男性が9.8ポイントの低下、女性は2.5ポイントの低下で男性の方が低下幅が大きい。金融パニック直後の混乱した社会から男性は大きく低下しているが、女性は男性ほど低下していないとみる視点もあるだろうし、そもそも「生きていたくない」と感じている人の割合は女性より男性の方が高いという事実に着目するべきだという視点もあるだろう。今は昔に比べると、「生きていたくない」と感じる人がずいぶん減ってきたという見方もある。

いずれにせよ、幸福度と自殺率はそれほど関係しているわけでもなさそうだ。では、「生きづらい」というのは「不幸であること」を意味するのか、それとも「生きていても仕方がないと感じる」ということを意味するのか?それとも……

この問いかけに小生はいま非常に関心を刺激されている。

亡くなった母の話に戻るが、
つらかった時代は今までにもあった
これだけは否定できないようである。

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色々と書いたが、「生きづらい」というより
ものいえば くちびる寒し 秋の風
こんな感覚を最近は覚えることが増えた。ルール違反の言葉狩り、コンプライアンス、モラルと社会的制裁の横行の故である。

日本人が仕事から解放されて寛げるのは公私の私である空間である。その空間は家族と自宅であるにもかかわらず、そこも複数の人間の集合体として認識され、公私の公が支配する空間であると理解され、法律の適用範囲になってきた。保護されるのは個人情報であり、文字通りの一人ずつの個人であると理解されるようになってきている。このロジックを反駁するのは普通に人には難しかろう。

人間が独りで生きることを強要されれば、淋しく生きづらいと感じるのは当たり前である。

森鴎外が哲学者・ニーチェを所々で引用しているが、どの程度まで共感していたかは不明である。

「自然の合法則性」なるものは、ただ諸君のこじつけと下等な文献のおかげで成立しているに過ぎない。・・・「法則」の前に一切が平等である。これについては自然といえどもわれらと異ならず(投稿者追加:自然も自由気ままではなく法則には従う)、われらに優らない」などというのは小賢しい迷彩であり、その裏には、すべて特権あり卓越する者に対する賎民の敵意や、無神論のより洗練された後継者が隠れている。「神様もまっぴら、殿様もまっぴら」―諸君もこうしたいというのであろう。だからこそ「自然法則ばんざい」というわけだ・・・

上に引用した下りはニーチェの『善悪の彼岸』の22節にある。「自然の合法則性」を「社会の合法律性」、「自然法則」を社会の法則である「法律」で置き換えれば、現代社会のある一面を言い当てていると誰もが思うに違いない。こうしても文意はそれほどは変わるまい。

『善悪の彼岸』は1886年に出版された。19世紀末、「ベル・エポック」(=良き時代)と呼ばれる時代だ。第一次大戦の勃発で全ては崩壊したが、開戦は28年後のことだった。 わずか1世代の後のことである。

2019年12月24日火曜日

一言メモ: 「離婚」&「養育費」と政府はどう向き合えばいいのか?

「離婚」、「養育費」は100パーセント私的な事柄である。この分野に国家権力が指針や法律を定め、命令を発するなどということは(小生の感覚では)絶対にしてほしくないところだ。

ところが……

何と「養育費引き上げ」、というより離婚時の養育費算定の基準を政府が引き上げたというのでワイドショーの話題になっている。

となると、「町の声」に登場するのは養育費を支払われる側(になることの多い)「女性・ひとり親」の経験談ということになる。中には、養育費を支払ってくれない男性は逮捕してほしい…などという声が出てきているのは、小生正直なところ、『これって上方漫才じゃないか』と曲解したくらいだ。

「まさかネ、だって逮捕しちゃったらそれこそ養育費、もらえないじゃないか」と。カミさんは「苦労するのは子供を育てている女の方なのよ、そこ分かってる?」といつものパターンの雑談が進むことになった。

一言で言えば、離婚をきっかけにした「生活破綻」が、個別のケースを超えて、一つの社会問題になってきている。

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もちろん、ここには「結婚とは何か」、「離婚とは何か」、「神前の誓いは何を意味するのか」等々、根源的な倫理的問題が隠れているとはいえる。

がザックリと書いておこう。要するに、安心できる成長環境、安心できる老後の環境などなど、自らが十分な生計費を稼ぐ能力をもたない状況でどうすれば健康で文化的な暮らしを日本社会が保障してあげられるのか、という問題である。

それには、付加価値税(=消費税)10パーセントでは十分な財源が調達できない。選択肢は、欧州型の税率20~25%の社会か、あるいは旧ソ連のように産業国有化を基盤に社会主義社会を構築するかの二択である。日本は実に中途半端なまま過剰な要求を政府に突き付けている。政府に頼るのではなく、出来る限り自立するべきである。そう考える人がまだ多い。政府に頼れば政府の指導に従わなければならなくなる。政府の生活指導などは真っ平御免である。少なくとも、小生を含めた旧世代はそう思ってきたし、今もなおそう思っている人は多かろう。

もし生きていくうえの原理・原則を新しく立て直すというところまで踏み込んでいけば、日本も真に安心の出来る人生を全ての日本人に保障することが出来るはずである。しかし、それには犠牲を伴う。日本社会から失われるものもある。

何事も「一得一失」である。何を諦めて何を獲るかという選択を日本社会がすれば「保障」すること自体は可能だ。そうすれば離婚をきっかけにした生活破綻は防止できる。

しかし、現在の世代構成の下ではこんな未来は実現されそうにない。旧世代の心理の根底には「政府不信」がある。「反体制礼賛」の心情がある。税率引き上げには賛成しないはずだ。と同時に、(論理的矛盾でもあると小生は思うが)社会主義、共産主義を志向するわけでもない(と観ている)。家族、親戚、一族の相互扶助にも旧世代は否定的だ。つまり、核家族主義でロマンティックな「まだまだ元気イズム」の信望者であると年下の小生などはみている。しかし、旧世代はいずれフェードアウトしていく運命だ。

社会哲学、政治哲学の変更は、世代交代のみによって進む。政府サービスの拡大に関して結論が出るまでには、まだ10余年以上の時間が必要だと感じる。現在の日本社会は「国家規模の老害」が蔓延中である。民主主義の下では「待つ」しかない。

というので、客観的観点にたてば、今回の件については判断は実に明快に下せると思う。

この件は前にも何度か投稿した。中でも中心的な論点をあげているのはこの投稿だと思う。

ただ上の投稿でも触れているように、この問題で日本は相当苦労するのではないかと予想している。

一言メモとして今日も残しておきたい。

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以下補足だが、

日本社会が解決しなければならない大問題は少なくとも二つはある。一つは厚労省マター。つまり老後の保障と育児補助。安心して生きていける社会を築くということだ。税制戦略が主たるテーマになるのは必至だ。この問題を解決しない限り、少子化も閉塞感も解消しない。もう一つは経産省マターであるエネルギー問題。先ずは電力需要にどう対応するかということだ。環境重視と口では唱える。再エネを増やしていくと唱える。省エネにも熱心だ。ところが実際の行動では石炭火力を世界に遠慮しながら増設する。節電を求める。いま日本に真面目なエネルギー基本計画はあるのかということである。

出来れば高等教育と研究開発水準の維持に政府は注力してほしい。欲をいえば、皇室の将来と日本(人)の国際化ももう一段レベルアップしてほしい。その道筋をつけられれば、政治としては大成功だ。

それにつけても、「安倍政治」を評価する気に中々なれないのは、憲政史上の最長不倒記録を達成しながらも目前の大問題の何一つも真剣にはとりあげず、深堀りをせず、最後まで難しい政治課題から上手に身をかわしてきた点だ。野党の政治力に小生は何の期待ももっていない。贅沢は言えない。しかし何とも無責任に見える。これでは不戦敗じゃあないか?それとも『負けるマージャンはしない』という戦略であったのだろうか?

現内閣の政治的エネルギーの半分以上は、集団的自衛権の容認と安保法制、特定秘密保護法の制定に費やされた。戦前期・日本でいえば、陸海軍省(と外務省)と内務省が所管する事項だ。やはり現内閣の体質はかなりのタカ派である。

それでもこれだけ長く続いたのは、TPPと対欧州EPAを実現して経済界のバックアップを受け続けられたからだろう。株主利益(=企業利益)に好意的な金融政策も幸いした。「わざわざ水をさす必要はない」と考える経済人は多い。本当は経済学者が頑張る必要があるのだが、現内閣で真に発言力のあるエコノミストは誰一人いないと小生はみている。

離婚と養育費などという話題がTV番組を賑わせている。そろそろタカ派外交(?)だけでは日本社会がもたなくなってきたのかもしれない。

日本の現首相は財界活動ばかりに熱心で、いつの間にか社内がガタガタになってきたことに気がついていない、そんな会長に似ているかもしれない。そういえば、経団連会長を輩出した大企業で同じ主旨の記事を最近どこかで読んだが……。どこだったっけ?東芝だったか?ニッサン?…キャノン?

2019年12月20日金曜日

現代民主主義に関する冗句

レイプ裁判があったかと思うと、セカンドレイプ提訴もなされる模様で、この分で行くと名誉棄損で反提訴→サードレイプ告発→名誉棄損で反提訴→4th レイプ告発と、延々と無限ループが続きそうな見通しである。

そもそもその国の法律に訴えても、どちらが正しいか、どちらが善であるかという問題に解答が得られるわけではない。法律とは要するにその国のローカル・ルールであり、「このように決める」と決めておくという内規に過ぎない。その国のソーシャル・マネジメントのツールである。法の根底に普遍的な哲学があると思うのは勘違いである。法が何かの普遍的価値基準に基づくべきならば、国によって法がバラバラであるのは許せない話になる。その時々の事情で法を改正しても可であるのは、法が学問的な真理であるというより、スポーツやゲームのルールと同じ本質を有しているからである。大体、国家が定める法律によって適法か違法かの判別はまだしも、倫理的な正邪善悪が決まってくるなどと考えるのは、国定教科書に基づく道徳教育よりもタチガ悪い思想であろう。

訴訟ゲームで勝敗が決まったとしても、現実と言うリアリティの中で正邪善悪の区別が刻印されるわけではない。どちらが正しいかとか、善であるかという問題に対して法律は回答する立場にない。実存する客観的世界に正邪善悪の線は引かれてはいないのである。

このような点は最近になってから何度か投稿していることである。

なので、儲かるのは弁護士だけであるという現実だけが意味のある結果である。そして、弁護士が利益を追求するためのプロモーションに注力するのは当然の理屈である。

嫌だネエ、こういう社会は……。小生の青春時代は遠く過ぎ去った過去になったが、乱暴であっても人情があった。


***

こんな世相から思い浮かんだ冗句:

トーマス・ホッブズは原初自然の状態においては
人間社会は万人の万人に対する戦いである
こう想定した。この想定を置いたうえで野性・無法から脱却するための「社会契約」として国家と自然法(王権)を考えた。

ホッブズに対して同じ英国のジョン・ロックを置くと真面目な西洋哲学史になる。

小生は以下の冗句を思いついた:

原初の人間社会は「万人の万人に対する戦い」であった。現代の民主主義社会においては「万人が万人に従う社会」となる。 

原始時代が野性の暮らしであるとすれば、現代の民主主義社会は誰もが誰かに従う奴隷の社会に似ている。

「ノーブル」とか「独立」とは正反対の「卑屈」や「迎合」が世の中では歓迎されがちになる。誰かを尊敬すれば差別として、誰かと助け合えば戦略的結託として、誰かを愛すれば不公平として邪推されがちである。

自由がありそうで実は自由がない。人は誰でも自由に意思決定しているようで、実はルールが生活のあらゆる側面を束縛している。民主主義の名のもとに……。平等と公平の名のもとに。

現代社会特有の「閉塞感」は根源的には発達した民主主義の臭いだと言える。民主主義は多数者のモラルを少数者に押し付けて恥じない。法を超える力を行使しても恥じない。その様子は横暴な独裁者や、傲慢な貴族階級と違いはないようにみえる。肥大化した民主主義には臭いがある。腐敗した独裁制や退廃した宮廷政治とはまた違った臭いであるが、愉快ではないという点においては共通している。

時に、一代の遊蕩児ドン・ジュアンが魅力ある人間に映るのはごく自然な事である。江戸幕府初期の侠客・幡随院長兵衛に人気が集まるのと同じである。

善いことだからといって過剰に肯定するのは問題である。

先日の投稿でも書いたが、
社会は常に進歩し続けるものではない。慰めは、退化し続けるものでもないことだ。
改めてそう感じる。

2019年12月19日木曜日

感想: 年末の「第九」について

先日、隣町の時計台近くにあるコンサートホールで『第九』を聴いてきた。佳かった。ただ、尾高忠明指揮のS響の音はホールの特性かもしれないが、残響の厚みと重量感があり、第4楽章の輝かしさをつくるには向いているが、あくまでも第4楽章という印象でもあった。

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それにしても、第九を聴くのはもう何度目になるだろうか。コンサートでも、レコードでも、CDでも、Youtubeでも、これまで数えきれないほど聴いてきた。

「何度聴いてもいいネエ」とは思う。が、正直なところ先日聴いて改めて気がついたのだが、実のところベートーベンの第九が「面白い」と心の底から感じてきたわけではなかった。本当に感動して涙が滲んだことはない。それほどまで感動したのは別の楽曲である。

意外なことに気がついたわけである。第九の中であれほど気に入っていた第3楽章のアダージョも、全体の中では好きだという事であって、無人島に独りで漂着する時にもっていきたい再生リストの中に入れておきたいわけではない、マ、要するにそれほどではない……。これが小生にとっての「第九」である。こんなことに改めて思い至ったのが先日である。

好きだ、好きだ、と思い続けてきた人を、本当の意味で愛しているわけではなかったと知る時がいつかやってくるだろうと、「誰かが言ってました」というと、某TVドラマの受け売りになるが、そういうことである。

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日本の年末は(事実上)『第九』しかクラシック音楽の公演がない。なのでクラシックを聴いて一年を締めたいと思っても『第九』を聴くしかないという状況だ。

もし同じベートーベンの『英雄(Eroica)』があれば、小生は確実にエロイカを聴く。こちらのほうが「ゆく年、くる年」を想い返す年の瀬には相応しいと感じる。個人的には、である。更にいえば、歳末特有の賑やかで輝かしく、一面では何かが過ぎ去っていくことに淋し味を感じ、今が愛おしく想うような気持ちにピッタリと合うのはむしろモーツアルトの38番「プラハ」ではないかなあ、と。そんな風に感じることもある。もちろん個人的には、だ。もし、いずれか交響曲をということならハイドンの交響曲101番「時計」が最初にあり、そのあとモーツアルトの38番「プラハ」、最後に41番「ジュピター」というプログラムであれば、先日の「第九」の2倍の価格であってもチケットを買うと思う。もちろん「個人的には」であり、主観的な需要者価格であるに過ぎない。ではあるが、上のような演目であれば、小生は正に「天上に昇る」ような高揚感を感じるだろうことは間違いない。

すべて「個人的な」感想である。ではあるが、「第九」もまた現代日本ではビジネス・ミュージックとして提供されているのであるから、もっとマーケティング・リサーチをしたほうが良いのではないか。そうも思われるのだ、な。

ある意味で、日本のクラシック音楽界は『年末には第九』という制約を課されている。その分、年間スケジュールが不自由になっているかもしれない。オーケストラ編成を決めるにも制約があり、年間の演目編成においてもまず年末が固定されるので個性化、差別化がやりづらいかもしれない、と。そんな要らぬ心配をしてしまう。

西洋では歳末に「第九」を聴くという習慣はない。むしろクリスマスを間近に控えた歳末は、クリスマス・オラトリオやカンタータ、ミサ曲など教会音楽の方が季節には合っている。日本で「第九」が盛んなのはキリスト教が普及していないから、と小生は理解している。ま、ベートーベンが作曲した「第九」の第4楽章「歓喜の歌」は宗教を問わない汎人類的色彩を帯びている。なので、極東の異教徒・日本人の感性にも受け入れやすいという事情はあると思っている。

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先日聴いたS響も相当の大編成だった。19世紀も後半に入るブルックナーやマーラー程ではないにしても、ベートーベンも「第九」になると、オーケストラ編成は18世紀音楽に比べて大規模になる。先日のS響もコントラバス5台(それとも4台?)が入っていたので驚いた。

しかし、交響楽団を大編成にすると、年間稼働率を維持するために又々プログラム編成に影響が出てくる。ロマン派に重点がかかってくる。本当は現代日本のクラシック・ファンは、18世紀のバッハ、ヘンデルはもちろんハイドン、モーツアルトもまた好んでいると思うのだ。その18世紀音楽は小規模でよい。ホールの定員もずっと少ない方がよい。そもそもモーツアルトの器楽曲はほとんどがザルツブルグの宮廷で貴族たちを聴衆にして演奏されたものである。ベートーベン以降のロマン派音楽のように、発達した市民社会で盛況を極める大コンサートホールで不特定人数を前にして鳴り響かせるために作曲されたものではない。モーツアルト、ハイドンの音楽なら先日の「第九」で入った半分の人数で足りるはずである。

「第九のワナ」である。

小生は、もっとモーツアルト、ハイドンの協奏曲や交響曲を聴きたいと願っている。現代日本のクラシック・ファンもモーツアルトをホールで実際に聴けば、そのシンフォニックな響きの深さと厚みに魔法のような驚異を感じるに違いないと信じる。

しかし、一度、大編成の交響楽団を持ってしまうと、常に年間収支をバランスさせることが経営管理上の主目的になる。フル編成の公演回数が多いと、小規模編成の第2オーケストラを編成して、フル編成とは独立して活動させるのは中々難しいかもしれない。それでも、フル編成の公演はもっと回数を減らして、チケット価格を上げてもよいから、小規模編成の曲目を増やしてほしいものだと小生は思う。

オーケストラは19世紀のロマン派全盛の中で次第に大規模化した。しかし、20世紀の後半から、特に21世紀に入り逆方向への流れが生まれているように思う。200年以上も昔の音楽をその時代のリアルな響きでもう一度聴きたいと思う人が増えていると思う。その時代、実際に聴くことが出来たのは宮廷に入ることができる貴族達だけであったのならば尚更の事である。

2019年12月14日土曜日

一つの疑問orメモ: 自発的な「社会的制裁」のコストをトラブル当事者に請求できるのか?

女優・沢尻事件の余波はまだ収まる気配がない。

NHKは、沢尻が出演する大河ドラマの全シーンを全て撮り直すことにしたとのこと。そのために発生するコストは、今後、沢尻本人か、所属する事務所に請求することに決めているのだろう。

撮影済みのシーンについては放送するべきだという意見も世間にはあり、全シーン撮り直しというNHKの決定の背後には、途中までは沢尻が登場し、そのあと別の女優に交替するという場合、二人の力量の違いがあまりにも露わになり、ドラマの水準がそこで決定的に落ちてしまう。そんな事態への危惧もあったろうと小生は邪推している。決定に至る楽屋裏の事情はまったく闇の中である。

***

女優・沢尻が裁判でどんな判決に服することになるのかはさておき、『法律に違反する行為をした。故に、出演シーンは放送できない。放送できないので撮り直す。撮り直すためのコストは女優本人に請求して当然」というロジックには、小生は全面的には賛成できない。

***

今回の薬物摂取行為が法律に違反していることはその通りだ。しかし、「だから撮影済みのシーンは放送できない」と決定する根拠は何か?法令ではそう定められていないと小生は理解している。おそらく、契約上の規定から議論される事柄なのだと思う。

とはいえ、何らかの不祥事を起こしたが故に出演を取り消すという決定は放送局側のみの裁量で行われている。契約のもう一方の当事者である出演者の言い分はまったく聴取されていない。

片方の判断で出演契約をキャンセルし、キャンセルに伴って間接的に発生するコストも全額を取り消された相手側に請求する……、どうも小生にはバランスが悪いように感じられる。

***

今回の違法薬物摂取事件を小生はどんな観点から見ているかという点は既に投稿している。

ずっと昔、戦争直後の日本で「ヤミ米」を拒否して餓死した裁判官がおり、それが何と美談になったことがある。では、違法な「ヤミ米」を闇業者から買った事実が露見した公務員は、その時点で懲戒解雇され、そればかりではなく解雇にともなうあらゆる追加費用を負担しなければならないのだろうか。

自発的かつ裁量的な社会的制裁は、あくまでも社会的心理を忖度する一方の当事者の決定である。片方の当事者は法律のみに服する義務を負う。一方の側だけの裁量で損害賠償請求金額を決定するのは自由だが、そこには道理がなければならず、騒動の発端となった片方の当事者の納得が必要だ。

賠償責任範囲の決定は民事裁判の場で行うことが望ましい。

そもそも小生は本ブログでも何度か投稿しているように、「社会的制裁」は即ち「集団的私刑」であると観ているので、これ自体が憲法違反。社会的制裁は違法な現象であると考えている。違法な行為を犯した人物に違法な私刑を加えるのは無法社会であって認められるロジックはない。

2019年12月13日金曜日

「合理的、あまりに合理的」な宗教観とは無宗教だと思っていたが・・・

芥川龍之介が谷崎潤一郎にしかけた論争が『文芸的な、あまりに文芸的な―併せて谷崎潤一郎君に答ふ』である。昭和2年だからもう100年近くも昔のことである。

これに似た感想を最近もった。

というのは、Amazonが僧侶派遣サービスを始めて日本仏教会と対立していたという所までは聞いていたが、いつの間にかなくなったというのだ。

こんな下りがネットにあった。

菩提寺を持たない人や、故郷から離れて都会に住んでいる人は寺との接点が乏しい。「布施金額をハッキリと教えてもらいたい」という施主は少なくなかった。僧侶派遣は、そうした合理主義を求める都会型の施主のニーズに応えてきた。

「合理主義」に徹すれば、読経サービスには価格があるはずだ、という思考になるのだろう。

分からないなあ、と小生は思う。

これって「合理主義」だろうか?

合理主義に徹すれば読経などは意味のない言葉の羅列であるはずで、まったく必要性のないものである理屈だ。

人が死ねば医師が死亡を確認したあと行政機関に死亡届と死体火葬・埋葬許可交付申請書を提出する。発行された火葬許可証を提示して火葬執行した後は、執行済みと押印された書類を見せて納骨なり散骨など、いずれかの形で処理する。科学的かつ合理的に考えれば、これ以外の何物も介在する余地はない。

必要なことは行政手続きであって宗教行事ではない。

仏教の経典を読み上げるのは宗教行事である。

宗教行事を行うときそこに科学的合理主義が入り込むはずがない。もし本心は合理的に行動しようと考えつつ、何らかの理由で宗教的行事も行っておこうと思うなら、それはその人が非合理だからだ。

合理的に、あまりに合理的になれば、かえって非合理の体をなすのかもしれない。が、所詮は迷走している思考回路にすぎない。

「信仰」と「科学的根拠」、「合理主義」とは水と油、まったく縁のない二つである。

マ、非科学的な論理体系であった中世スコラ哲学があったくらいだから、仏僧の唱える読経にも「自然価格」があるのだと言われれば、屁理屈としては面白いと思うが、何だか 『極楽浄土に旅立つ旅費の方が宇宙旅行より安いんですネ』と聞かされているようで、ギャグとしても出来がよくないと思うのだ、な。

2019年12月12日木曜日

メモ: 「利他主義」の中身は

森鴎外は人生を通して「因襲」と「モラル」、「科学」と「常識」の狭間で悩み続けたようなところがあると知ったのは比較的最近のことで、若い時分から疎遠にしてきた有名人の書いたものをやはり読んでおこうと思いついのたがきっかけだ。但し、もっと若いころから読んでおきたかったかと言われると、それまた微妙なところではある。それより鴎外の人生と同じペースで圧倒的に多い小品を読み続けてきていれば「同病相憐れむ」ような慰めを感じたかもしれない。

「鴎外選集」の第何巻だったろうか、『青年』がある。若いころに一度読もうとしたことがあったが、余りのつまらなさ、理屈っぽさに途中でやめてしまった。漱石の『三四郎』のほうが遥かに面白かった。ところが、最近になって『青年』を読むと、結構うなづけることが書いてある。これは青年期に読む作品ではない。中高年になってから青年をみる眼差しに立って書かれた小説であることを知った。だから小生もやっとピンと来るようになったのだろう。

小説には「読む適齢期」というものがある。

鴎外は屁をひるような排泄行為のノリで人生を通してずっと文章を書き続けた人である。

***

『青年』の中で真のモラルを主人公・小泉純一が友人に問いかけるところがある。そこでモラルは本質的には「利他主義」に立たなければならないと鴎外は語らせている。

小生は経済学から出発したので学問上の大前提として「利己主義」を置いている。ただ、そこには「人は利己主義に立つべきである」という意味合いはまったく入っていない。そもそも社会科学を自称(?)する純粋経済学では「……べきである」という言明は一切排除されている。価値判断ではなく「大部分の人は自分の利益を第一に求めるものである」という事実認識にたっているという意味合いである。

経済学を基礎にしている人間からいうと「モラルの基礎には利他主義がある」という考え方には同意できない。

ただ、経済学の始祖・アダムスミスは『道徳感情論』も著している。そこでは利己主義がモラルの基礎として前提されているわけではない。ただ「利他主義」とも違っている。行動の動機としては利己主義を認めながら、他者への同情や共感、つまり「道徳感情」をモラルの基礎に置いているのが特徴だ。孟子の「惻隠の情は仁の端(はじめ)也」に近いところがある。

***

とはいうものの、鴎外が登場人物を通して語った「利他主義」は見る角度によっては理解できる。というのは、「利己主義」を人間の行動動機として前提してしまうと、それは野生の世界そのものになるわけであり、そこでモラルを貫くなどは不可能になる。そんな素朴な理屈がある、と思われるからだ。

ただ、いま鴎外の考えを読んでいる小生も「利他主義」が機能するとは到底思えない。

というのは、利他、即ち「他人の利益」を「自分の利益」にも増して尊重するのは要するに「家来の道徳」、「奴隷のモラル」にしか思えないからである。

「利他主義」とはいうが、他人なら誰でもよいわけではないだろう。要するに、自分の愛する人物のためには自己利益よりもその人物の利益を守りたいということだろう。言い換えれば、愛する人のために尽くし、嫌いな人には尽くさない、という行動方針である。これなら、鴎外に言われなくとも、誰もがやっていることではないか。愛する対象が人ならまだ温かみがあるが、これが国や会社になると文字通りの「滅私奉公」となる。戦前期・日本の最大の誤りであったのではないか。

「利他主義」などと理解困難な用語は使わず、「隣人を愛せよ」、「なんじの敵を愛せよ」ではなぜいけないのか。同じことではないかと思われた次第だ。

2019年12月11日水曜日

一言メモ: 「疑惑過剰」の時代?

国会の「疑惑3議員」に冬のボーナスが満額支給されたことを世間は批判しているそうである。

吃驚だ、と同時に分かるような気もする。

この理屈でいくなら、パワハラ疑惑が持ち上がった瞬間に部長はボーナス半額、セクハラ疑惑が指摘された時点で同僚は停職3か月。モラハラ疑惑が噂された途端にあなたは解雇。そんな事態になりますぜ。

罰すりゃあイイってもんじゃないでんしょう。子供を叱ればいいってもんじゃねえ。なんでも真実ってものがあるんじゃあないんですかい?よおく聞かなきゃあ駄目だ。

まこと、疑わしきは罰せず、である。

さばいてはいけません。さばかれないためです。 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。

イエス・キリストが山上で語った2千年前から世間というのは何も変わっちゃあいない。イエス・キリストですら世間の知恵者から「疑惑」をもたれて告発され「罪人」として十字架にかけられたのであるから……。

清く、正しく、美しくは確かに憧れる人もいるが、物事には程合いがある。過剰になって鬱陶しいのは、正義だけじゃない。善意も過ぎると面倒だ、美術品だってあり過ぎになると横つこしくって邪魔だ、モーツアルトの名曲だって一日聞いていれば飽きるものだ、部屋だって適当に散らかっている方が住みやすいものである。健全な懐疑は知識への近道だが、疑惑過剰はイヤな社会をつくる。日本はそのうち「盗聴社会」になって密告者が「正義のボーナス」をもらってヒーローになるに違いない。

そういえば鴎外を引き合いにこんな投稿をしたこともあった。

「疑惑」を鵜呑みにしちゃあ危ないネエ。それより行動の裏には動機あり、動機の中には「利益」あり。人間って奴は昔も今も何も変わっちゃあいない。進歩するのは科学だけだ。人間性に進歩などはない。危ない、危ない。

2019年12月8日日曜日

世論調査と社会状況の関係

ロイターにこんな記事がある:
[ロンドン 3日 ロイター] - 問い:英国議会の解散総選挙の結果をどうやって予測するか。ただし、非常に多くの世論調査が間違っており、有権者の半数は投票先を決めておらず、誰が勝つかではなく、どれくらいの差で勝つかが重要な要因であるとする。(中略)
ロンドンを本拠とするユーライゾンSLJでマクロ系ヘッジファンド・マネジャーを務めるスティーブン・ジェン氏は、「参考にするデータの85%はかつて世論調査の結果だったが、今では恐らく30%だ」と語る。「世界があまりに複雑になってしまい、かつては標準的な指標だった世論調査は、もはや実像を捉えていない」。
(出所)ロイター、2019年12月8日08:13配信

世論調査では、単に「与党に投票しますか?」という質問でも意味のある一問となる。その場合、社会全体の与党投票率が$p$であるとき、$N$人のサンプルから得られる投票率のサンプリング誤差は$\sqrt{p (1-p)/N}$であることは数学的に証明されることである。サンプルの無作為性はサンプリング方法に配慮さえすれば実現できる。したがって、サンプリング誤差は標本数さえ増やせば幾らでも小さくすることが出来る。

この論理には誰も抗うことは出来ない。故に、『かつては標準的な指標だった世論調査は、もはや実像を捉えていない』という言い方はロジックとして間違っている。

しかし、現時点の英国内情勢を想像すると12日に予定されている総選挙結果を世論調査から予測するのは極めて困難だろうなあ、とは思う。この点には共感できる。

その理由は「民意が一日の内に急変するかもしれない」。それ以外にはない。その人がどちらの党に投票するかについていくら事前に調査しても、当日の行動が予測できないからだ。あらゆる統計調査は、集団全体の特性が安定的に決まっていることが大前提である。6の目が出る確率が$1/6$である正しいサイコロが常に振られるのであれば、何回かの結果を観察していれば必ず6の目が出る確率を推測できるようになる。しかし、6の目が出る確率が$1/6$ではないイカサマのサイコロがランダムにとられて振られるならば、次に出る目の予測は完全に不可能になる。いくらデータを集めても役に立たないからである。

世論調査が役に立たないという理由は以上のように理解できる。

***

理解はできるが新たに感じる疑問がある。

こんなに不安定な民意が重要な政策課題を決めるというのは問題解決の方法としては最悪の方法である。今日の結果と明日の結果は多分違うだろうから、今日の結果を尊重する気持ちには誰もならないだろうからだ。

なぜ最良の方法を探そうとしないのだろう。

『民主主義が正しい』というドグマから解放された方がよい。『民主主義が正しい答えを選ぶことは比較的多い』という程度の利用がおそらく方法選択としては最適なのだろうと小生は思う。

以上、最近何度か投稿している内容と整合した書き込みになっている。

【加筆:12月13日】昨日の英国総選挙ではどうやらジョンソン首相率いる保守党が圧勝した模様である。世論調査では保守党優位ではあったが労働党の猛追が指摘されていた。それが「圧勝」。やはり世論調査の通りの結果とは相当違っていたと言えるかも。しかし……、選挙を昨日やったからこんな結果になったのであって、明日やったらまた違った結果になるのかもしれない。『我々の民主主義は世界一素晴らしい』などと喜んでいるほど素晴らしい民主主義とは小生には思えない。

2019年12月7日土曜日

メモ: 「分かる」ということ、「人間科学」はどの程度まで信用できるのか

どんな事柄でも勉強し、練習する結果として真に自分のものにするには4つの段階があることが経験的に分かってきたような気がする。

第一は「頭に入れておく」という段階だ。記憶された知識と言ってもいい。クイズに正解するというのはこの段階の知識を問うているわけだ。第二は「頭で理解する」という段階だ。数学の証明を1行ずつ追跡して論理に穴がないかどうかを調べている時などがそれに該当する。確かにその通りだと、文字通りの意味で頭では理解する、そんな状態である。しかし、証明が分かったとしても、その定理の意味することが分からないことは多い、というより通常である。スポーツでは頭で理解しても無意味である。音楽でもそう、美術でも同じである。そこで第三に進まなければならない。それは「腹に落ちる」とも言えるし、「本質が分かる」と言ってもいいだろうし、「共感する、感動する、ハッとするという感じ」とも言える。これがないと定理は使う気にならないし、使っても自信がなく、恐るおそるである。統計分析で新しい分析スキルを身につけるには頭で理解しても使えない、誰でもできる練習問題ならできるが、実地で使うべき時に使えない、それと同じかもしれない。自転車に乗れるようになったり、鉄棒の逆上がりができるようになるのは、「分かった」状態である。最後の第4は「無意識にできる」という段階である。自分の一部になった感覚に近い。頭をさげて挨拶をしたり、母国語を使うのはこの段階である。

認知症を患っても母国語まですっかり忘れてしまうことはあまり聞いたことがない ― 多分、少数なのだろうと思う。同じように、母が自分の子を分からなくなることはあるが、子が自分の母を忘れ切ってしまうことはあまりないそうだ ― 残念ながら現代日本ではこれも家庭状況に依存すると言わざるを得ないが。幼い時の若い母の写真を見せると、他のことはすべて忘れているのにその写真だけには反応したりすることがあるそうである。母の映像は子の一部になるのだろう。

真のバイリンガルになるには8歳が限度という。8歳までに覚えた言葉はその人の一部になるのだろう。自分の一部になった知識や技術は忘れることがない。親の愛情を子の一部になるほどに浸み込ませるには6歳が限界という。学齢期になるまでが限度であり、その後にかける愛情を子が理解しても、それは理解した愛情でしかないのかもしれない。できれば4歳までに降るような愛情を注ぐことが大事とも聞いたことがある。とすれば、幼稚園に入るまでは子を決して離れた場所に置かないことが必須なのかもしれない。

新興の学問分野の自称専門家が色々な見解をメディアを通して述べることが増えているが、児童心理学はあっても知識心理学は聞いたことがなく、精神内科はあるかもしれないが発達内科はあるのかどうか分からない。

いつの事になるか分からないが、「クローン人類」が実験的・人工的に育てられ、その子が知識・情愛・洞察力など人間なら持っているべき特性を全ての分野でバランスよく備えている、そんな事実が得られるまでは、どの専門家も人間のことをよく理解してはいないと言うべきだろう。(現実に可能かどうか分からないが)成功例と失敗例の双方がデータとして集まり統計的に信頼できる知識学的発達理論が構築されるまでは児童の健全な成長について真っ当な科学的意見などは提供できないと小生は思う。

人間に関する学問的知識はまだまだ不十分である。分からないことの方が圧倒的に多いと小生はみている。

2019年12月6日金曜日

メモ: 法律とモラルについての断想

法律とは要するにソーシャル・マネジメントである、というよりそのためのツール(の一つ)である。ソーシャル・マネジメントというより支配のためのツール。ごく最近では支配する権力を抑制するためのツール。こんな点も強調されるようになった。この種の話題は本ブログで最近になって複数回投稿している。

法律と機能が類似しているのがモラル|倫理|道徳である。道徳もまたずっと昔にはソーシャル・マネジメントのツールの一つとして大いに活用された。儒学などはその一例である。

***

機能としては似ている面があるものの、法律とモラルは完全に合致しているわけではない。

法律的には合法であるが、モラルからみると非難されるべき行為がある。反対に、法律的には処罰の対象になるが、モラルとしては非難するべきではないと思われるような行為もある。この二つのズレは、TVのワイドショーでも毎度毎度の事件で格好のトピックを提供している。

明治期の文豪・森鴎外は『青年』の中で「因襲」と「道徳」との矛盾、対立について登場人物の口を借りて考えを述べている。因襲とは江戸期以来の日本人の慣習、道徳とは一言で言えば西洋から輸入されたモラルのことである。明治時代の日本においては、この二つは当然のことながら矛盾していた。鴎外は、因襲を排してモラルにつくという立場を肯定している。やはり西欧を手本にした明治の人である。しかし、現代の日本人はこれほど素朴に「日本人の常識」を「因襲」として否定しているわけではない。「外国ではそうかもしれませんが……」という言い方は現代の日本人の好んでいるところだ。

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よく思うのだが、現実に人間社会で社会を統制しているのは何かと言えばそれは法律の方であるのだが、世間の人々はたとえ適法であってもモラルの観点からある行為を厳しく非難することが多い。『今の法律では合法ということになっちゃうんですよネ』という言い回しをこれまで何度聞いたことだろう。その背後にはモラル、つまり道徳が意識されているものだ。これをどう理解しておけばいいのだろう。

コンプライアンスの好きな現代日本人の事だ。法律の側に問題があると言いたいわけではないだろう。それなら『合法ということになっちゃうんですよね』という言い方はない。法と矛盾する日本人の常識がおかしいと言うべきではないか。しかし、そういうわけでもない。日本の文化、ありのままの日本人の姿勢にそれだけ自信を深めてきているということなのだろうか。

人間が守るべきモラルについては、たとえばカントが実践理性の観点から深く考察しているし、ニーチェもまた「超人」を措定してその向こう側を論じている。それこそ古代ギリシア以来、哲学者は法律を論じるよりも遥かに徹底的にモラルについて議論してきた。

モラルは守るべきだ、法は守るべきだってネエ、親父の遺言も、お袋の言いつけも、ホント、アッシが守らないといけねえものは一体いくつあるんですかい?何をやっても誰かに叱られるってえのは、割が合わねえじゃござんせんか。

人は誰でも自由に己が歩みたい道を歩みたいものである。原始人の未開な社会では共同体の一歯車として働き、生き延びることだけを目標にして短い人生をおくったろうが、文明が発達し、社会が豊かになれば、ヒトたるもの自分がもって生まれた才能を開花させたいと願う。その個人、個人の思いを尊重する事こそ、現代社会で最も重要な目標であるはずだ。

***

唐突な展開かもしれないが、実証科学的に考えれば人類の直接的な祖先はサルである。更に、その祖先を遡れば地球上の生命体は全てバクテリアやウィルスといった存在から派生してきた存在にすぎない。人類と同じような「社会」を形成して生きているアリやハチも、長い時間を経た今だからこそ似ても似つかない形になっているが、元をただせば生命体としては同根なのである。

そのサルの社会でもやはり「掟」はあるのだろう。アリにもハチにも「掟」というのはあるのだろう。種に織り込まれた行動基準と言う意味ではモラルとも言えるかもしれない。もしそうした昆虫のルールやサルの倫理をリスペクトする気持ちに全くなれないとするなら、ヒトがヒトとして内在的にもっているモラルも要するにその程度のものであると考えても理屈は通るのである。

それでも人間のモラルが崇高であることを主張したいなら、人間存在(語っている人の?)の尊厳やヒトがもつモラルの背後に神の存在をみるというような何らかの超越的な大前提が必要である。であれば、人のモラルを主張しながら、同時に自然科学的に無宗教を貫いたり、神的存在への無関心を人前で語るのは、基本姿勢として矛盾していると小生は思うのだ、な。唯物論的かつ機能的に人間社会を観察するのであれば、モラルなどは盲腸のようなものである。

「法を守る」という感覚をヒトがもてば、それだけで十分であり、それで現代社会は運営できる理屈だ。結局、森鴎外が善しとしている立場に近い所にいる自分がいる。鴎外死して既に100年がたっているのにだ。

とすれば、現実に機能している文明的所産である「法律」に問題意識を集中して、「法の完成」に向けた議論を真面目にするべきだろう。しかしながら、社会的目標を達成するための最適な法とはいかなる法体系であるのか?社会と法、法と経済の関係下に現れる問題を解決するための一般理論はまだ何もできていない。

法的には違反していないが、道義的に非難するべきだという議論、法的には違反しているが、モラルとしては理解できる行動であるとか、世間ではよくされる議論だが、所詮は迷走している思考を表していると思うのだ、な。

2019年12月2日月曜日

一言メモ: 結構「天皇」について書き込んでいるものだ

このブログで結構「天皇制」や「天皇」(この二つは別の話題だ)について書いてきていることに今さらながら驚く。

たとえば、これあれなどだ。他にもある。検索をすると意外に多数の投稿が出てくるので驚きだ。日常的に「天皇」について考えるなど、小生の専門分野でもないし、理屈ではあり得ない。それでも関心があったとすれば、やはり日本人だから、というしかないのだ、な。誰でも日本の人は天皇について無関心ではないのかもしれない。

***

前の投稿でも書いたように、「正解」がある問題は実はこの世界にはほとんどない。

「正解」と言われているあらゆる解答は、『いまの仮説が使えるならば』とか、『この位の誤差で許されるならば』とか、『ルールや法律で定められている』とか、更には『多くの人はこれがよいと信じている』とか、何かの言い訳|条件|前提|社会的状況などの一言があって、あたかもそれが「正解」であるとされているものだ。完全に正しい議論は、数学や論理学の世界にのみありうるもので、そんな世界は精神的な世界であって現実の世界ではない。現実の世界とは要するにただの「沈黙せる現実」であって、そこに「正解」というラベルが貼られている状態は一つもないのだ。統計学者George E. P. Boxが語ったように"All models are wrong"という事実認識は真理をついている。

「正解」がない問題を解決する必要があるとき、回答を決める方法(の一つ)として民主主義があるということも書いた。

「天皇制をどう安定的に維持するか」という問題は「正解」のない問題である。

故に、天皇制をどう安定的に維持するかを決定するには民主主義による(のも一案)、というのが三段論法的な思考になる。

しかし、最重要な論点は『民主主義は正解のない問題に解答を出すための方便であって、正解がないという問題それ自体の真相が変わるものではない」という点だ。

民主主義だから正しいというロジックはない。

民主主義が出す決定がしばしば事後的に誤りを犯しているように見えるのは、そもそも正解がない世界に私たちが生きているからに他ならない。

***

天皇制の維持に関する正解なき問題は民主主義によって解決するべしという思考は確かに現代日本社会においてはロジカルであるが、正直なところ、この理屈を全面的に信頼できずにいる自分がいる。

なぜなら「天皇制」と「民主主義」ほど、水と油の関係にある二つはないからだ。天皇制がなぜ非民主主義的かという理由については、今更わざわざ説明する必要はないだろう。

民主主義を信頼するなら、天皇制を廃止する ― 法的な意味で廃止する、つまり憲法外の存在として公的性質を奪う ― のが純粋にロジカルな答えだと小生には思われる。しかし、小生はこの答えにも満足しない。

とすれば、小生は多少なりとも非民主主義的にならざるをえない。おそらく、日本人なら誰でも同じ心理をもっているのではないかと想像する。

天皇制、というかあらゆる「君主制」を維持する根源的な心理は、民主主義に白紙委任状を与えることへの躊躇、ためらいである。

21世紀においてなお人々は民主主義を全面的に信じているわけではない。そういうことではないだろうか ― 特に普通選挙制に基づく現代民主主義に対してはそう言えるような感覚を覚える。


2019年12月1日日曜日

断想: これもジェネレーション・ギャップ

18世紀から19世紀への移り目においてヨーロッパの時代の区切りになるのはフランス革命だろう。「フランス革命」という言葉には曖昧性が残るので、これを「ナポレオン戦争」と言いかえると意味が明確になる。

近代欧州において「ナポレオン戦争」を知っているか、知らないかは最大のジェネレーション・ギャップではなかったかと想像する。

***

モーツアルトはナポレオン戦争を知らずに死んだ。

ベートーベンはナポレオン戦争の始まりから終わりまでを経験した。

この違いは大きい。

ハイドンは長生きをしてからフランス軍が占領したウィーンで死んだ。

ベートーベンの後は第一次大戦までほぼ一つにつながっている。なので、最近もあった「モーツアルト・ブーム」には実のところ不思議を感じたりする。

***

昨晩、元の勤務先の同僚であり大学の後輩でもある幾人かが出席する夕食会に招かれた。談論風発。カミさんも参加したが、大学で仕事をしている人はとにかく自己主張が強い、話し始めると長い、まとまりかけてきた結論をひっくり返すような意見が最後に必ず出てくるなど、今更ながらも呆れてしまったよし。『だからマンション管理組合の総会には出席したくないんだよ、合意されかかっていることにイチャモンをつけたくなる気持ちに逆らえないんだよね』と、関係のない言い訳をする。

『今の学生はやっぱり幼稚化してますよ。よく勉強のできる真面目な女子学生が多いんだけど、ワタシ、答えのない問題を議論するのが好きなんですよ。すると、正解はないんだと知った途端にヤル気がなくなるみたいで……』 
『正解がないんだと知った途端にテンション、下がるんでしょ www その心理分かる気もしますヨ。必ずある正解を出すことが面白い、宝探しに似た心理なんでしょう。そんな風に勉強してきたんだと思いますヨ。』 
『クイズと勉強をごっちゃにしているのネ』
先日の投稿でも述べたが、数学には文字通りの「正解」があるが、自然科学に場を移した途端に「正解」であるのかどうかはハッキリしなくなる。ニュートンの万有引力の法則は宇宙という広大な空間や素粒子という微細な世界では厳密に成り立たなくなる。宇宙規模の計算になると相対性理論を活用しないと誤差が大きくなる。しかし、その相対論は素粒子の振舞いを理論化した量子力学と合致しているわけではない。話が経済現象や社会現象になると、どの問題にも正解らしい正解を与えることはほぼ不可能になるのだ。

正解がない領域で問題に取り組むとしても何か結論を引き出す必要がある。しかし、データとロジックでは答えが決まらないので、何かの価値観なり信条に立脚するしかない。先日の投稿では『何が正解かルールを決めてしまえばよい』と書いておいた。つまり法律なり規則なり手続きである。経済学が幾つかの派閥に分かれているのは何が正解か定まらないからだ。 政治学もそうだろう。

『経済学では何らかの価値観によらなければならない問題は回避してきた、それで純粋の社会科学としての体裁を保ってきたという歴史があるんです。』 
『あなたは価値観に基づく経済学を支持する立場ですか、価値観とは関係のない理論を受容する立場ですか?』 
『私はネ、統計専門家ですから ww、 必ず正解がある問題と取り組んできました。正解のない問題と取り組むと、結論をどう下すにせよ、必然的にどこかの「派閥」に属することになる。そういうことは私は好きではないんですよ。

小生が経済学を勉強した時代は「価値自由」というキーワードが重視されていて、分析の結果は客観性のあるものだと理解されていた。「パレート最適」という最適概念には一切の価値観が含まれていない。純粋な厚生概念であると。そう説明されていた。パレート最適である資源配分の中のどの状態を社会が選択するかは、何を善しとするかという価値観が必要であるから、そんな問題は扱わないのだ、と。

21世紀という時代は「科学としての経済学」を許さなくなるのかもしれない。誰かが損をし、誰かが得をするという問題にも何かの結論を出さねばならない。「社会科学」にもその役割を期待されている。

しかし、誰が損をし、誰が得をするかを決める仕事は「科学者」の仕事ではないと小生は考える。これまたジェネレーション・ギャップかもしれない。