2020年4月29日水曜日

「日本的機会主義」の典型的な例

このブログでも書いた記憶があるが、日本人の特性として「機会主義的」という行動特性がある。

目的を達成するための戦略に沿った準備・実行・定着を長期的・計画的に進めるよりは、好機をとらえて瞬時に反応するのが得意である。

悪く言えば、小生の田舎でいう「キョロマ」、よく言えば利に聡く、俊敏であるということだ。

こう書くと、オリンピックや万国博覧会開催に向けて、長期計画のとおりに整然と準備できるのが日本だと。そんな意見が提出されるのは確実だ。しかし、思うのだが「得意なのはここまでではないのか」と。

戦略があるとは、目的があるということだ。目的を設定するには、意志が明確でなければならない。なぜオリンピックを招致したのだろうか?なぜ万国博覧会を招致したのだろうか?たまたまチャンスであったからではないだろうか?

機会主義的だというのは、日本は国家や国民の意志が薄弱で、故に目的が曖昧なままである、そんな意味合いで使っている。チャンスに乗じることには国民の合意が得られやすい。そんな風に日本は運営されて来たのではないだろうか?なので、日本は本質的に「機会主義的」だと思っている。

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いま、唐突に9月入学論が広まってきている。

で、連想するのが戦前期日本の歴史的大失敗だ。

戦前期日本の最終的崩壊の端緒になったのが「満州事変」であるのは、多数の歴史家が合意している事だと思う。これも(ある意味)唐突だった。

戦術的には見事であり、短期間のうちに少数の兵をもって広大な中国東北部を日本の影響下に置くことができた。それは(企画者の意図は)「対ソ防衛の高度化」を目的としていた。

ところが、中国本土で反日感情が高まり、対応を迫られる。当初の戦略的目的である対ソ防衛を再確認すれば中国とは融和的な外交を進めるのが定石であった。

しかし、ここで『この機会を利用して、中国に一撃を加え、反日的な冒険主義を抑え込もう」という意見が出てくる。中国と敵対する軍事行動を起こすならば、そもそもソ連を刺激する満州事変などは必要なかった理屈である。

この「こんな状況になった以上・・・△△を実行するのが得策である」という提案に日本人は非常に弱いと小生は観ている。

そして発生したのが日中戦争である。以後、日本は泥沼戦に陥り、ソ連、中国、その後はアメリカ、イギリス等々と敵対し、退き時に迷った末に最終的に島国の小国である弱点を克服できず、補給も破綻し、大敗、全面的に崩壊し、国の成り立ちまで一変してしまった。

★ ★ ★

すでに一部の人たちが9月入学説には反対している。

小生は「反対」というより、本年9月から新制度に移行するなどは「絶対無理」と確信している。

まず担当の文科省に極めて有能な人材が、次官、局長、課長、課長補佐それぞれのレベルを考えても、最小限で計4名、全国規模の制度移行であるので、手足となる人材を含めて、15名から20名程度はマンパワーがほしいところだ。いや、いや。初等中等教育だけではない。高等教育もそうだ。40名は特別チームにほしいのでは?SNA体系の毎年の推計作業にもその程度は必要だから、全学校の新制度移行となると、もっと必要かもしれない。いるのだろうか、そんな有能な役人が?これでも文科省本省内だけである。官庁だけで原案を作るわけにはいかないはずなので、国公立・私立大学、高校、小中学校を代表する人物も選ばなければならない。

たかが入試センター試験の改正だけであっても、移行直前に問題点が噴出してとん挫した。

たった4か月で9月入学制への移行実現など、出来るはずがない、と。そう思わざるを得ないのだ、な。

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もしやるなら現時点の「PCR検査体制の強化」ではないが、文科省本省内の「体制強化」から準備しなければならない。新コロナ感染拡大への準備すらマトモに出来ず、医療崩壊に加えて、『あれもない、これもない』という情況を解消できずにいるのに、制度変更に向けた精緻な準備など、まったく出来ていないだろう。

本ブログにも何度か投稿しているが、ヨーロッパ、アメリカと比較しても感染者が一桁少ない新型コロナウイルス感染である。それでも、政府の対応はオロオロとしたもので、後手に後手を重ね、有事の備えなどはまったく為されていなかったことが歴然としている。

この程度の感染症にすらマトモな対応ができない現政権と8年間の長期政権下で弛緩してしまった官僚組織である。すぐにスタートするとしても残り4か月で全学校が統一して4月入学から9月入学の新制度に移行する・・・出来るはずがないではないか。混乱と問題がゲリラ的に噴出して制御不能になるのは必至で、その後の展開は想像すら出来ない。

そもそも9月入学への移行は、それ自体としては時代の求める課題なのだから、大きい船が方向を変えるように、既に原案と工程表は文科省内で出来ていなければならず、あとは実行あるのみ。こうなっていなければならない。しかし、昨秋から伝わってきたのは、新センター入試の失敗ばかりであった。

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不用意に戦線を拡大するとしよう。

いま局所的に「医療崩壊」を引き起こしつつある現政府は、医療崩壊の次に学校現場の混乱を招き、「教育崩壊」を引き起こしてしまうことが必至である。

9月入学へとフワッと着手した現政権は、混乱の責任をとり8月には唐突に総辞職するだろう。その頃は学校全体が混乱の極みに陥っている・・・いったい、来年3月に進級できるのかできないのかすらも不分明になっている。そんな可能性すらある。

戦略的覚悟もなく2正面作戦に入り込んだ日本は、春の「医療崩壊」、夏にかけての「教育崩壊」、真夏の「政治崩壊」へ、文字通りの<崩壊3連発>に向かって一直線だ。おそらく、秋までには迷走と無策が引き起こす大不況の中で「経済崩壊」もあるかもしれない。いまは「外交」ではなく「内政」の季節である。現政権の布陣はお寒い限りだ。戦線拡大ではなく、目的を限定して「選択と集中」でいくのが復活への王道だ。

実力をみても出来るはずがない夢を語るのは、デマゴーグや魔女、数字だけが欲しいテレビ局に勝手に語らせておくがよい。

千里の道も一歩から。必要なのは、
99パーセントの汗と1パーセントの着想である。 
口先の言葉には価値がない。

「状況がこうなったのなら、長年のこの問題、一挙に解決するチャンスじゃない?」基本戦略なき日本が敗北するときの象徴的動機である。まさに機会主義者である。

そもそも「こんな状況」になればどうするかは、当初の戦略に含まれていなければならないわけである。

大体、新コロナによる犠牲者数が日本より1桁多いヨーロッパ、アメリカにおいてすら、『このような困難の中、思い切って国の制度を変えてしまおうではないか』などと、一体何を主目的としているか分からないような行動をする(しようとしている)国はない。日本の、というより日本のテレビ業界の報道ぶりは文字通りの『貧すれば鈍す』で、それ故の
蜂の巣をつついたような大騒ぎ
まさにこの形容が当てはまる右往左往である。利を求める典型的な「機会主義」であるわけだ、な。

学校の授業日数の減少は、それ自体として解決可能な問題だ。この位の問題であれば、文科省が現に保有するマンパワーでもいくらでも良い解決案が出てくるはずだ。荷重能力の範囲内であれば信頼してもよいと思う。


2020年4月26日日曜日

一言メモ: 政党は政策のメーカーなのだが

政策のメーカーは「政党」だと小生は思っている。選挙とは無縁の非民主的勢力である「官僚」が政策のメーカーである状態はできるだけ早く終わらせるべきだと思う。

メーカーである以上は「優良顧客」を確保するなど「顧客管理」が非常に大事なのだが、今日はこの重要なテーマとは別のメモを書いておきたい:


今回の新型コロナウイルス禍で、全国の知事にもピンからキリまである事が露呈されている。これは良い事だと思う。市町村長にも想像以上の実力差がある。

学力もそうだが、平易な問題や頻出問題を解くだけでは実力の違いは分からない。難問を一定の時間以内に解くという難局において、はじめて真の実力が現れ、目に見えるようになる。

政策のメーカーである「政党」の真の実力もまったく同じ理屈が当てはまる。

小生は、「国民民主党」のメールマガジンを定期購読している。自民党、財務省のメールマガジンもそれぞれ政策の行方、税制などの情報が得られるので購読している。

最近になって内容が出色であるのは国民民主党の提案である。

本来は、情報を届けるのがメディアの役割である。メディア自らの主張に賛同をつのることは、経営理念はともかく、読者の側には価値がない。

その昔(今もなおそうであるが)、『暮しの手帖』が金銭的しがらみから解放される戦略をとって、読者に客観的な生活情報を提供してくれたように、政策のメーカーである「政党の品質」について、読者のしがらみ、思想のしがらみから解放されて自由な立場で、役に立つ情報を提供してくれるメディアが登場してほしいものだ。

つい先日、長年愛読してきた『道新』の購読を解約した。現在、選択可能なほとんど全てのメディアは、頑張っている政党とダメな政党の違いを何も知らせてくれていない。

そういえば、野党の「シャドウ・キャビネット」はいつの間にか消えてしまったネエ、まだあるのかナ・・・この気骨のなさ! だから「ダメ野党」などと蔑視されるのだと思う。

メディア主導で優良野党とダメ野党を「視える化」し淘汰していくのが王道だと思われる。

国会だけではなく、地方議会、首長も含めて、「政党別評価スコア」を定期的に公表するくらいの企画は、「マスメディア」を名乗るならとっくにやってほしかったところだ。短期的な不規則変動の目立つ内閣支持率よりは、労力はかかる。が、手数がかかる故に質の高い有用な情報になる可能性が高い。「内閣支持率」、「政党支持率」などの世論調査は効率的な「数字作り」だが、所詮は低コストの情報提供サービスであって、AI(人工知能)にまかせて自動化できる作業だ。

2020年4月24日金曜日

先日のこの予測は見事に間違った

3月中頃だが、本ブログでの投稿でこんな予測を立てていた。抜粋だが
  • 社会の基盤である生産活動は(基本的に)再開されるはずである。発症し感染が疑われる場合は検査を行い陽性の場合は自宅待機とするのはインフルエンザと同様に対応する。こんな方式になると予想する。 
  • 但し、クラスター形成の確率が非常に高くなる活動、つまり下図の3条件を満たす活動は時限的に、例えば1年間程度は禁止もしくは自粛要請されたり、あるいは入場時の体温チェックが義務付けられるのではないか ― 具体的にどの分野、施設で何が求められるかは、ちょうど「軽減税率」対象品目を指定するのと似ていて、恣意性が混じるのは仕方がないが。もしその間に喪失所得が発生するなら、幾ばくかの所得補償が失業保険と併用しながら別に立案されるだろう。 
  • 感染者が自宅で発生した時の「自宅待機」のあり方が最も重要になる。例えば『新型コロナウイルス感染者の自宅待機に関する行動指針』が感染者本人、家族への「お願い」として国内全世帯に郵送配布されるのではないか。日本人は公的な方針に従うことが好きである。全世帯配布は『年金お知らせ便』と同じである。

生産活動は(基本的に)再開されるはずである・・・という予測は見事に外れた。とうとう日本全国を対象に「非常事態」が宣言されてしまった。接客業、サービス業を中心に全面的に生産が停まりかけている。予想よりはるかに事態は深刻化してしまった。「検査を行い」と書いているが、その検査能力が資材、人材ともに不十分で乏しく、日本の決定的弱点であったことも知らなかった。まさか検査試薬はともかく、検査技師で実際に検査ができる人が有資格者の1割にも満たないとは、1月から2月にかけて誰が言っていただろうか。幕末の「旗本八万騎」じゃあるまいし、開けて吃驚とはこの事だ。襲来する敵勢の把握と手元に保有する自国戦力の把握とは戦略策定の核心である。

検温チェックの義務付けは「義務」というより自発的に不可欠のチェック項目になったようだ。というより、念頭に置いていたハイリスク区域(ライブハウス、カラオケボックス等々)だけではなく、遊興施設や飲食店など広く投網をかけるようにして、ほぼ全面的に営業自粛が要請されている。行政命令がないだけで実質的にはヨーロッパ並みの都市封鎖を目指し始めたようでもある ― とはいえ、ニューヨークの感染拡大に最も寄与率が高かったと見られ始めている地下鉄などの通勤電車。こちらはまだテレワークを要請しているだけであり、朝の品川駅の混雑ぶりなど、変わっていない印象だ。政府は「できる限りの手を尽くしている」という情況では決してない。なので、全体的には一月前の予測の範囲内かもしれない。所得補償の予想は、まあ当たったというところか。

大きく外れたのは「自宅療養」が基本になると考えた点。小生はストレプトマイシン登場前の戦前期に「結核」感染者が過ごした環境を念頭においていた。インフルエンザは簡単検査キットも特効薬もあるので怖くない。戦前期の「結核」は伝染性が強く、特効薬もなく、死亡率も非常に高い感染症だった。しかしながら、カミさんの叔母は若いころに結核を患い、若くして身罷ったそうなのだが、自宅でずっと療養を続けていたという。国立療養所は一杯で受け入れてもらえなかったのかもしれない。その頃の日本人の家は、通気性の良い日本家屋がほとんどで、その叔母が療養していたのは離れ座敷であったそうだ。現在、そんな環境を確保できる日本人は大都市圏にはほとんどいないだろう。マンションでは無理というものだ。加えて、結核は長年月にわたってユックリと進行する病気だったと聞いている。新型コロナウイルスによる肺炎のように数日のうちに容態が急変して死に至るという病気ではなかったのだろう。コロナを「自宅療養」するのは危険である。

・・・これが約一月前の小生の予想だった。

いま読み返してみると、つくづく新型コロナウイルスをなめていたナア、と。

役所で働いていれば、とんでもない判断ミスをしていたに違いない。恐ろしいことだ。いまは巡り合わせで呑気な毎日を送っている。その幸運を神様に感謝する。現役の人たちは、文字通り「戦争」を戦っている心境であるだろう。とすると、われわれ多くの国民は丸腰で敵襲に立ち向かっている「銃後の民」ということか。

2020年4月20日月曜日

今回の公衆衛生戦略の失敗から得られる教訓は

自宅療養中もしくは路上で死亡するという「変死」件数が東京都内でこの1か月で6件にのぼっているそうだ。北千住駅前で発生した最近例では死後に新型コロナのPCR検査をすると陽性であったとのこと。そういえばPCR検査後も自宅療養を指示され、その後容態が急変し死亡した清水建設社員の衝撃もつい先日の事だ。この時も陽性であることが死後に判明した。この種のことが今後もありうるのではないかと危惧されるのが現状だ。

韓国でも新コロナ型ウイルスの集団感染が大邱市で発生した時、自宅療養中であった陽性患者が突然の容態急変で死亡するという悲劇が発生した。医療崩壊の象徴的現実を大邱市で目の当たりにした文在寅大統領がそれまでの治療戦略を転換することを決断し現在の成功に至ったことは既に周知のことだ。

初めて新型コロナウイルス感染者が日本国内(神奈川県)で確認された1月15日以降(もう随分な日数が経ったものだ)、日本は海外とは異なる日本独自の戦略で新型ウイルスの感染拡大を抑えようと努力を続けてきた。しかし、抑え込もうとしている新型ウイルス感染者が適切な医療や検査を受けられず自宅療養のまま、あるいは路上で既に複数人数死亡し始めている。この厳しい事実は、日本で採られてきた医療崩壊回避戦術が事実上失敗したことを端的に示している。

ウイルスとの戦いである公衆衛生は国際関係における安全保障と同レベルの重要性をもつ国家戦略の核心的部分だ。その戦いの序盤で医療の最前線は崩壊を起こしかけており、「医療崩壊を避ける」という第一段階の主目的は達成できなかったようだ。

立て直せるか?

予想とまでは言わないが、この点を野党が執拗に指摘・非難すれば、TVのワイドショーも追随し、安倍内閣は夏までに信頼を失い、首相は政権を投げ出す可能性が高いと小生には思われる。森友学園事件の後遺症も化膿したように尾を引いているから猶更だ。ただ、後の見通しがない状況でもあり、敢えて政治的混乱をひき寄せるのは野党にとっても両刃の剣だろう。

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そういえば、ずっと前、といってもまだクルーズ船ダイヤモンド・プリンセスへの対応で世間が騒がしかった頃だと思うが、カミさんが毎朝視ているワイドショーで若手の辛口評論家F氏が
感染者を絶対止めるっていう「水際作戦」も分からないわけじゃないんですけどネ、湖北省以外の中国から観光客をどんどん受け入れてるわけじゃないですか。クラスターをつぶすために的を絞ってPCR検査をするとしてもネ、裏口からどんどん入ってくるわけだから、検査漏れがどんどん出ると思うんですよネ。ふと後ろをみたら「水浸し」だったなんてことになるんじゃないですかネエ・・・
こんなような意見を言っていたことを思い出す。TV画面ではそんな感想には否定的で、『そうならないように関係者が頑張ってるわけでしょ!』、『頑張っている人たちの努力に敬意を表しましょうよ』などといった反応が大多数を占めていたものだ。

「行動」は「理性」が計画するが、理性は「願望」や「感情」によって影響される。

その頃、医療関係者が話していたことは
無症状、軽症の人にPCR検査をかけて陽性だからって、やることはないんですよ。ワクチンも特効薬もなくて、医者に出来ることはないんです。だから検査に意味はないんです。意味のないPCR検査は絶対するべきでなく、命を救うために意味のある対象に的を絞って検査するのが効率的なんです。
大体、こんな意見だったと記憶している。同じころ、WHOのテドロス事務局長が
Test! Test! Test!
と声明を発した際も、同氏の中国寄りの姿勢に反発していたせいだろうか、日本国内で評判が悪く、「意味のない検査拡大は医療崩壊を招くので絶対反対です」といった意見が世間にはあふれた。ふと後ろをみると「水浸し」になっている情況はこうした風潮から実現したのかもしれない。

検査対象を絞り、検査資源を節約使用しても、医療崩壊は現に起こっている。故に、戦略は失敗である。それは感染者を見逃していたことの必然的結果だ。検査拡大・感染者囲い込み戦略が定石であった。日本で検査対象を絞ったのは、日本国内の検査資源が乏しかったからである。まさにこの点こそ問題の核心であり、日本の弱みであったことをリアルタイムで誰が語っていただろうか。

この間、何がボトルネックなのか?こういった実質のある問いかけはほとんどなく、取材も調査もなかったように見える。情報を提供するのがメディアであるのだが、世論を統一するためにメディアが使われているという感覚すらあった。

多くの場合、定石は常識に近い。素人の岡目八目は意外に当たるものなのだ。ま、専門家は『だって政府が入国を止めなかったし…』と釈明するとは思われる。政府関係者は「まだ失敗というのは当たらない」と主張するだろうが、それはテドロスWHO事務局長が「まだパンデミックというのは当たらない」と発言し続けていた姿勢と同じである。

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日本流の検査資源節約主義、ターゲットを絞った効率使用主義は失敗に終わった。これをきいていて、小生は、日露戦争後に海軍の伝説的名参謀・秋山真之が起草したとされる『百発百中の砲1門は、百発一中の砲100門に勝る』という文句を思い出した。

乏しい資源を節約して合理的かつ賢明に使うという日本人の特性がここに象徴的に表れているが、足りないなら検査資源拡大を急ぐべきであった。
百発百中の砲一門より、百発一中の砲百門のほうが最後は勝つ。その1門が破壊されれば勝負は決まるからだ。
量は質に代替される。高度の技は消耗戦における勝利をもたらさない。高度の技を修得する人間の数は限定的であるので犠牲に耐えられないからだ。これは組織論の基本的な命題だ。

少数の人が匠の技を披露することも鮮やかで見栄えがするが、平均的な人でも結果を出せるように資源を整えておくことが何事によらず勝利の方程式である。カギは補給にある。日本は民族的通弊として<補給>を軽視しがちだ。長期戦、泥沼戦を嫌悪し、技に頼った速戦即決を好むが故の弱点である。

今回の失敗から得られる教訓は
備えあれば憂いなし
まさにこの一語に尽きるのではないだろうか。

ドイツは確かに死亡数こそ日本を上回っているが、周辺のヨーロッパ諸国に比べると感染で犠牲になった人数が格段に少ない。確かに医療システムに優位性があるのかもしれないが、今回の新型コロナウイルスがヒト・ヒト感染することが確認されるや、1月中旬からウイルス禍を迎え撃つ準備に着手したという事実をみるべきだ。日本ではこの頃、既に感染者が国内でもう確認されていたのである。敵は上陸していたのである。

補給が破綻し、長時間の戦いの中で最前線から消耗し、枝葉が枯れるように順に壊滅していくのは、典型的に日本的な敗北の風景である。言うまでもなく、湖北省以外(後で浙江省も追加されたと記憶しているが)の中国本土から観光客を延々と受け入れ続けたことも、今回の対ウイルス防衛のための戦略としては、まったくの愚策であった。これは政府の戦略目標が対ウイルス防衛だけではなかったことを意味している。

そこでもう一つの教訓:
二兎を追う者は一兎をも得ず
こういうことではないだろうか。平時なら複数目的の間のバランスが大事だ。しかし、非常時においては非常状態(≒戦争状態)をもたらしている問題をまず最初に解決しなければならない。負ければ全てを失うならば勝つための犠牲をコストとは考えず、先ず勝つことに集中しなければならない。そんなシンプルな理屈である。平時モードと戦時モードとのモード転換に日本人はもうずっと慣れていない。

何もかもを得ようとして、何もかも失ったのが、現政権であるのかもしれない。何という急な暗転だろう。8年間の蓄積の全てを一挙に失ってしまったとすれば。この根本的原因は『まあ、大丈夫だ』という指導部の慢心にあったことは間違いない所だ。大敗するときの正に「敗北の方程式」が当てはまる典型例である。

★ ★ ★

・・・マ、客観的に数字を見る限り、日本の新型コロナによる死亡者数は欧米に比べると桁が違う。今後は、検査で陽性となり治療をうける感染者すべては、"active case"を経由した後、"Death"か"Recovered"という二つの結果のいずれかに到達し"closed case"となる。便利なので"worldometers.info"を視ることが多いのだが、これによると4月23日15:55現在で、日本は
Deaths: 299
Recovered: 1424
である。Closedベースの死亡率は17.4パーセントである。この値は全世界の数値概ね20パーセントとそれほど違いはない。最終的にどの程度の死亡率になるか、まだ予測は難しい。検査を受けるまでもなく感染し、気がつかないうちに治った人もいるだろう。なので、真の致死率について確度の高い数値が得られるのは随分先の事になるだろう。



2020年4月19日日曜日

手作りマスクの広がりと政府の怠慢ぶり

愛媛の松山に小生の「年下の義理の姉」が暮らしている。本ブログでも書いたことがある。先年、呼吸器内科医だった夫君を亡くしたのだが、まだそれほどの齢でもないので、介護施設でまた働き始めた。

他の地域もそうだが、施設内でマスクが全く足りていないそうだ。政府から給付はあったが文字通りの「焼け石に水」なので、裁縫の上手な姉にマスクを作ってくれないかと施設から頼まれたそうだ。

ところが十分な量のゴム紐がこれまたない。まったく「ないない尽くし」が現在の日本経済で政府の無能ぶりには腹が立つのだが、うちのカミさんに「ゴム、余ってない?」と携帯で聞いてきた。カミさんが押し入れの中をゴソゴソとひっくり返していたのはそのためらしく、「あった、あった」と言っているので近くに寄って見てみると、白のゴム紐が4メートル、黒が2メートル。これなら使えそうだネ、ということになった。『ねえ、うちにも二つ作ってくれるかなあ? 安倍さんのマスク、何だか小さすぎるようなのヨ』と携帯で話しているのが聞こえてきた。

政府上層部のダメダメ振りを現場の自助努力でカバーしていく。文字通り、日本的な風景だなあと思った次第。

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それにしても、医療で超過需要が発生すれば、マスクだけではなく、アルコールや防護服も不足することは予測できたはずだ。マスクの需要が予測されれば、今度はガーゼをどれほど生産しなければならないか、ゴム紐がどれだけ不足するか。ガーゼもなくなれば、白い布という布が足らなくなることも計算すれば出てくる。施設内では白い布が足らなくなればシーツを使うという。ミシンもなくなるし、ミシン糸もなくなるだろう。

まるで何もかもがない終戦直前の職場だネエ

そう思った。

内閣府や経済産業省では、需要構造の激変に対して多種多様な商品のどことどこで超過需要が波及的に進んでいくか、シミュレーション計算してみたのだろうか。

ツールは、80年以上も前からある「産業連関表」でも役に立つ。産業連関表を用いた波及効果分析など、エクセルでもできる。500×500レベルに分けても逆行列の計算などは一瞬で終わる。

ボトルネックはどこで発生し、どこに制約の影響が及びそうか。輸入制約はどこで発生して、どれを止めるか。単純な線形計算だが先ずはそこからでしょう。もしシミュレーションしたなら数値計算結果を見てみたいものだ。

それとも動学的確率的一般均衡(DSGE)型マクロ計量モデルなら動かせるが、産業連関表など動かしたことがないのだろうか。

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厚労省内のクラスター対策班にいるN北大教授が「無対策の場合の新コロナウイルス感染による死者数」が日本全国で40万人程度に見込まれるというシミュレーション結果を明らかにした。無対策の場合の死者数見通しは100年前のスペイン風邪による死者数38.9万人(参考資料)とも整合する数字だ。

ずいぶん世間を驚かせたが、計算は計算である。同じように、経済環境が激変した状況下で、商品ごとの需要見通しもシミュレーション計算できる。需要見通しがあれば生産要素の投入計画も作れるだろう ― まるで「物資動員計画」だが、現実はそんな情勢になってきた。

命に関するシミュレーションが公表されたのなら、政府自ら重要だと再三話している「経済」についても計算位はやったらいいのにと、改めて呆れる思いでそのスローモーぶりを見ているところだ。

2020年4月18日土曜日

一言メモ:「官邸主導」とは要するに「意向」を忖度する非公式政治のことであったか・・・

政府内部の意思決定プロセスは安倍政権になってから元々不透明になっていた。それが「安倍流」とも「官邸主導」とも言われてきた。一部の人はトップダウンだと誉めてきたが、しかし「総理の意向」というキーワードは、小生が小役人をしていた時分には、使われなかった言葉である。聞いたことはあったが極めて稀でありまるで奥の院の様子をうかがうような感覚があったものだ。

「総理の意向」というのは、憲法上の規定から考えれば、まったく意味のないものだ。首相個人がなにを考えているかということと、行政府の意思がどのように決定されるかは、別々の事柄である。故に、総理は自らの個人的見解を明かさないものだ。太平洋戦争末期の戦前期最後の首相・鈴木貫太郎が「終戦を実現する」という真の意図を隠し続け、最後の最後になって(天皇の力も借りて)終戦という決定を得たのは有名である。「総理の意向」が万が一否定されてしまえば、これはもう「おしまい」なのである。

行政府の意思は閣議で決める。閣議は全員一致でなければならない。反対なら反対だと閣議で発言すればよい。戦前期日本で陸軍大臣が反対の意を告げ、現役武官制の下で陸軍が次の大臣を出さなければ内閣は自動的に総辞職した。戦後日本では総理大臣が代わりの大臣を任命できる。総理に出来ることはここまでであるはずだ。まあ、「指示」できると規定されているが、自分が任命した大臣を指揮するならともかく、大臣を飛ばして次官や局長、果てにはその下の課長まで呼びだして命令を出し始めれば、大混乱は必至である。また、そんな権限もない。会社員なら誰でも分かるはずだ。

「総理の意向」という言葉が実効性をもってきた最近数年間の情況は、官邸主導というより、ザックリ言えば「政治の個人商店化」である。体制の外にあった「目白の闇将軍」が政治をとりしきった情況と、「ワンマン」というとまだ聞こえはいいが、体制の中で超制度的な意思決定がなされてきた近年のあり方は、体制の外と中との違いはあるが、外から見ていると同じに見える。意思決定システムが壊れているのだ。

憲法に基づく行政システムを機能不全にしていることの責任は大きい。この点では、護憲的リベラル派の言い分に理があると思う。

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戦前期日本で「天皇機関説」が長らく公式の見解であったが、大物憲法学者・美濃部達吉が政友会の党益に反する言動をある時期にとったというので、それ以後政友会所属の政治家から激しく憎まれ、ついに昭和10年になって「不敬罪」で取り調べをうけ貴族院議員を辞職するに至った。「天皇機関説事件」である。この後は、天皇は「機関」ではなく「君主」となった理屈だが、実際には軍部が超法規的に暴走を続けるという顛末になってしまった。

戦前期日本の意思決定システムの崩壊は天皇機関説の否定を契機とする。

戦後日本で総理大臣という地位は行政権を組織する一つの機関である。「総理大臣機関説」があるとすれば、この見方が否定されるときに、戦後日本の意思決定システムは崩壊するというロジックだ。
非公式の政治は必然的に不透明になり、不透明な政治は必ず隠ぺい行為を繰り返し、その結果として必ず堕落する。
 歴史から帰納される傾向だと思うが、これは命題としておいてもいいのじゃないか、と。

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総理大臣は内閣を組織する一人の国会議員に過ぎない。総理大臣に行政権があるとは憲法で規定されていない。行政権は内閣にあり、内閣の意思は全員一致による。故に「安倍首相の意向」という言葉が頻繁に使われている現状はおかしい。

この事自体が、日本の意思決定システムが壊れかけていることの証拠である。

大体、日本のメガ企業の社内で「社長の意向だ」という言葉が実効性をもつような会社など、いずれ経営不安になるのが確実だ。これを「裸の王様」という。

非常事態で真の意味で緊急対応をしたいなら、「社長の意向」などと言わず、期間を定めたうえで「全権を社長に委譲し取締役会は休会」にすればよいのだ。

閣議を休会し、総理が全ての権限を掌握し、国会には事後報告することで済ませ、中央省庁を直接的に指揮命令できるなら、その命令に反する官僚は即時適切に罷免できるというロジックになる。ただ、この体制は全権を付与されたトップが全ての責任をもつということでもある。全権委任期間が終了するまでに結果を出せなければ罷免され、議員の地位をも辞職する仕儀となろう。政治家としては汚辱に塗れ失意の晩年を送ることになる。

これだけの覚悟をもてる政治家がいるのだろうか?ナポレオンも国家的非常時の独裁者であったが、ランヌ、ダブー、ネイなど20人を超える名将を戦場で自在に使いこなすことで初めて戦果をあげたことを忘れてはならない。軍事に限ってもこれだけの人材を発掘して初めて可能だったのだ。ナポレオンが全てを決定したわけではない。更に、民法をはじめとする法体系の一新、教育制度の一新とナポレオン時代に確立された諸制度は多い。この期間に政権に参加したフレッシュな人材は文字通り数えきれず、フランス社会の社会階層の構造そのものが一新されてしまったのである。一人が権限を行使するとしても、真に優秀な人材を評価発掘して、使いこなす能力をその一人が個人的に持つ必要がある。そんな政治的天才がいま日本の政界にいるとはどうしても思えないのだ、な。

ま、結論的にいえば、天皇制をしく日本で直接選挙による大統領制など日本では実現できるはずがない。大統領でもないのに行政権を体現するのは無理である。なので、「意向」となる。

しかし、「意向」に基づく政治は、トップが責任をとらない無責任政治を容認していることと同じである。



このところ何度かに分けて「必死の現場とダメな上層部」について断片的に書いてきた。色々なことを覚え書きにかいたが、大分、全体像が出来てきたような感じがする・・・

2020年4月16日木曜日

笑い話?「日本人には出来るんですね」という素人談義

総理大臣が、命令でも、指示でもなく、単なる要請であるとしても『外出はしないでください」と発言する。そうすると、日本人は粛々、淡々、命令に服するが如く外出を控える・・・
日本人は命令がなくとも外出を控えることが出来る国民なのです
こんな話を一体何度TVで聴かされたことだろう。

ヨーロッパでもアメリカでも中国でも、民主主義国、共産主義国を問わず強権的な都市封鎖を断行するしか国民の行動を変えることは出来なかった、しかし日本ではそんな命令は不要である。日本人一人一人の意思でそれが出来るのだと・・・

これほどの空しい自慢話をする情況なのか、日本は?いい加減にしてもらいたいものだ。

それはともかく、TVではなく、新聞メディアにも不思議な点がある。というのは、漫画文化、具体的には「風刺漫画」がこんな世情の中でも低調だという点だ。

風刺漫画も行き過ぎるとフランスのシャルリー・エブド襲撃事件のようなテロを誘発する可能性があるが、日本人の描く風刺画はそれほどまで先鋭的な画にはならないと思う。せいぜいが、多人数の庶民が「早く非常事態宣言して!」と下段から嘆願しており、中断では大臣が「だって経済が・・・」と苦悩の表情でつぶやき、最上段で首相が「マスクのことは心配はいらぬ」と厳かに告げている作品になるくらいだ。作家がいないのだろうか?WEB版の一枚看板にできるのではないか。漫画大国日本が泣いていると思う。

そういえば、狂歌や川柳も最近は下火だ。

有難や マスク2枚を 賜りぬ
  小さきにつき 家宝とはせむ
スーパーの 玄関にある アルコール
  売り物とするが よかれとぞ思う 

生活実感があれば、下手でも一、二首ははすぐにできるものだ。新聞はなぜ「世相川柳」、「今風狂歌コンクール」を開催しないのだろう?要るものは入手困難、いらないサービス業に従事している人は生活困難の世相。おそらく傑作作品の応募が集中するに違いあるまい。

政権批判には熱心であるのに、実に単調にして、ただただ非難の一辺倒で芸がない。これでは馬鹿に見えてしまう。政敵を非難するには政敵を超える知性を示すことが大切ではないだろうか。

★ ★ ★

それはさておき・・・

いまでもクリーニング店の末端の店員は感染に怯えながら職場を捨てずにいる。清掃業者もそうである。スーパーのレジ担当は健気にも仕事を続けている。アメリカでは防護服やマスクの支給がなければレジ担当はできないと従業員が業務命令を拒否する例が多発したというのにだ。医療機関、介護施設、保育所等々は言わずもがな、だ。

商店街の個人商店も同じだ。銀座や渋谷は閑散としてきたが、住宅街の地元商店街は常にもまして<混雑>している。

品川駅の混雑ぶりはほとんど何も変わらない。

要するに、総理大臣の要請に日本人がどれほど応えているかといえば、「御心配には及びませぬ。銀座では守られています。渋谷、新宿も閑散としております」というレベルの話しである。

まして、非常事態宣言を出した地域の一歩外に出れば、そこは区域外となる。自動車学校は混雑している。学校も普段通りだ。小生の母親は、晩年の数年間、茨城県取手市で暮らしたが、利根川の向こう岸の取手市内のパチンコ店がいま繁盛しているそうだ。

【加筆2020/04/16】本投稿の直後、政府は非常事態宣言範囲を全国に拡大する方針を明らかにした。

室町時代、頻発する戦を止めたい守護大名が足利将軍家に和平の仲立ちを依頼することがあった。戦を止めよと書状を送る。そこで戦は止まる。止まったあと、別の場所で別の戦をはじめるのだ。戦国時代への道はこうして開かれた。

つまりは、室町幕府のガバナンス欠如は何が原因であったかというのが論点になる。戦後日本の政府が21世紀初めにガバナンス能力を喪失した原因は何であったかという問題が、後になって歴史学界のテーマにならないことを祈るばかりだ。

★ ★ ★

ドイツ人は命令をするのも、命令をされるのも上手な国民であると言われることがある。

小生の経験だが、日本人は命令をするのも、命令をされるのも下手な国民であると感じる。小生自身からして、まさにそうである。

それでも事に当たって良い結果を出せるのは、生活がかかっている場において日本人は逃げずに持ち場を死守するからである。「逃げ場」を求めずに、留まって戦う性格が育まれたのは日本が島国であるからであろう。

末端の店員は頑張るが、その上司は少しダメになる。しかし、現場を視ているのでマシである。上司の上司になるとかなりダメになる。そのまた上司は現実が視えていない。トップになると、そこにトップとして座っているだけの存在になる。

故に、日本のトップはトップとして座っていることに意識を集中するべきである。そのほうが全体がうまく行く。

★ ★ ★

特に、突発的かつ想定外の緊急事態においては、日本のトップは何もしないほうがよい。そもそもトップは座っているだけの存在であることを前提にシステムができているのだ。『殿、ご安心下されませ、それがしどもが世間をとりしずめますほどに』、『うむ、頼んだぞ』と・・・これが日本の「伝統的統治スタイル」であった。

この何日か、頑張る現場とダメな上層部について投稿したが、要するに
トップは元気で、いればイイ
という社会システム構成原理が日本にはある。これに尽きるのではないかなあ、と。そう思うようになった。

天皇から、藤原家の摂関家に、摂関家から将軍家に、将軍家から大名に、大名から下級武士に。ピラミッド構造の下層に移るにつれ、人口も増え、実務能力も上がる。正に、勝海舟がアメリカから帰国して老中に答えたように
我が国と違って上に行く程優秀です
こんな日本的意思決定システムの骨格は、幕末から150年以上たった現代でも変わっていないということだ ― まあ、今のアメリカ政府だけは例外的状況だとすればだが。

持続する状況はそれがナッシュ均衡であることを示唆する。ではどうモデル化するかといえば、これまた面倒そうだ。ゲーム論的にみた日本的社会の特性は他の研究成果を渉猟することで満足しよう。

★ ★ ★

 想定外の感染症拡大という非常時に際してそんな日本社会の伝統的DNAが再び表面化していることが大きな問題だ。

もっと大きな問題は、政治主導の行政を目指しながら政治家が責任をとろうとしない行政を何年も続けてきたことだ。

しかしながら、以前の官僚行政では官僚は無謬の前提に立って自己保身をはかっていた。悪い結果の結果責任は政治家がおっていた ― たまたま責任をとる巡りあわせとなった政治家にとっては一世一代の見せ場でもあった。内閣総辞職で政治家が責任をとりながら官僚行政は安定性を保っていた。天下りを通じて社会の隅々まで中央政府の統制がきいていた。政治主導になってからは今度は政治家が無謬の前提で守られるようになった。失敗の責任は官僚が負うようになった。そう理解するべきだろう。

本来は武家を指揮するべきはずの朝廷と公家が権力を取り戻そうとしたのは?回答は、後醍醐天皇の建武新政と明治維新である。政治主導とは、本来は官僚を指揮するべきはずの政治家が権力を取り戻そうとする運動であった、と。歴史家はこの20年程度の現代史をこんな風に総括するかもしれない。

では官僚の無謬神話が現実に崩壊した契機は何だったか?それは幾つか考えられるが、いずれ別の機会に記したい。

★ ★ ★

大事な点だが、日本においてはトップは歴史的・伝統的に<無答責>なのである。この事情は、天皇親政でも幕藩体制でも戦前期も戦後日本も同じである。結果責任は免除されるのが日本的組織のトップである。無答責は日本独自の天皇制が継続した根本でもあり、いろいろな所でこの<無答責の法理>が日本では息づいている。

日本では、君主が将軍を抜擢して権限を委譲し、その将軍が敗れれば自分の死も覚悟するという切迫した状況は歴史的にほとんどなかった。なので、トップは無答責のヴェールに守られ、臣下が実務を行ってきた。トップに責任はなく、実務担当者はトップではないので責任はないのである。
責任なき所に努力なし
故に、生活がかかっている下層部が頑張るのである。煎じ詰めれば、こういう事ではないだろうか。「平和ボケ」と言ってしまえばその通りかもしれない。

戦前期日本では、天皇は無答責であったが、首相、大臣は天皇に対する責任は負った — その究極の表現行為を太平洋戦争に敗北した前後に見ることができた。戦後日本では、天皇に対する責任が国民に対する責任に置き換わっている(はずである)。が、本当にそうなのだろうか?現行憲法が日本人自身から生まれたものではないという(公式には)「出生の秘密」がある点に、現代日本の最も脆弱なウィークポイントがある。憲法に対して責任をとる政治家の忠誠は、憲法制定権力に対する忠誠である理屈なのだが、それが必ずしも日本では日本国民に対する忠誠とはなっていないかもしれない。が、これは余りに大きな問題なので、まだまとまりがつかない。

2020年4月14日火曜日

テレワーク拡大の予想

政府が旗を振っている「テレワーク」。日本の産業界に浸透・拡大していくのはほぼ確実である。

いま政府は新型コロナ対策をテレワーク拡大の最大のチャンスとみている(はずだ)。言うまでもなく、日本企業の国際競争力強化のためである。

本ブログでは小生の趣味である「将来予測」を幾つか投稿しているが、テレワーク拡大の予測もその一つとして追加しておきたい。

なお、予測はあくまで「予測」である。なぜそうなると思うかというロジックだけが意味ある内容である。そうなるのが望ましい/望ましくない、そうなってほしい/ほしくない、等々という思いは予測作業にとっては余計な感情で、全て邪念だ。自分自身の予測に愕然とする瞬間は、時に予測屋が経験することでもある。

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ずっと昔、まだパソナ・グループが「テンポラリー・センター」という名前の会社で、「人材派遣」という新しいビジネスがどれほどのものか、若い小生には全然ピンと来なかった頃だが、当時の「若殿」、つまり現在の代表にも入ってもらい座談会をアレンジしたことがある。ほかに招待した人たちの面々は残念ながら忘れてしまった — その時の座談会が掲載された雑誌は図書館には残っているだろうから確認は可能だが。

その当時のキーワードもまた『色々な働き方ができるようにしよう』であった。その頃は、「会社員」といえば100パーセント正規社員。年功序列の下で会社のために無定量・無際限に働くのが当たり前だと思われていた。働き方には「通念」があるのだ。それを働く人の身になって、一定時間、一定範囲の責任で、自由に働きたい。そんな思いに応えるビジネスが人材派遣サービスであったのだ。

その頃の理念と最近の「働き方改革」と。理念だけをみれば全く同じに見えるのだ、な。小生には。

人材派遣ビジネスの成功は非正規就業者の拡大という形で実現した。企業の利益には大いに貢献した。

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規制緩和と自由化は、競争に巻き込まれて敗退する人たちの悲哀と抗議があるにせよ、常に経済活動を活発化し、結果として所得と利益を増やすものである ― 負の側面は、自由化そのものから生じるのではなく、独占化・寡占化による市場の支配、機会の抑圧、優越的地位の濫用、行政との癒着がもたらすものだ。が、まあ、この話題を掘り下げると混乱しそうなので、また別の機会に。

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テレワークもまた必ず拡大し、成功するはずだ。関連分野の需要拡大はほぼ確実に見込める。

なぜなら企業利益に貢献するからだ。

現段階ではまだ通信環境、セキュリティなどテレワーク基盤が整っていない企業が多いと思われる。しかし、このこと自体がテレワーク関連分野にビジネスチャンスが多くあることを示している。

人事部長: 君ねえ、相談なんだけど、10月からテレワーク勤務に移ってほしいんだ。毎日出社するのも大変だろう?
A氏: それは基本的には、有難い話しなんですが・・・
人事部長: まあ、通勤手当はなくなるけれど、毎朝の満員電車からは解放されるわけだしな。給与の方は会社としては大体8掛けで考えているんだ。賞与は同じだ。副業も認める。まあ、新しい事でもあるしね、これはあくまで打診ということなんだが、どうだろうか?
A氏: そうですね。家内とも相談してからご返事させていただいても宜しいですか?

こんなやりとりが増えていくだろう。

テレワーク基盤整備には政府から助成金が出る。基盤が整ったあとは、人件費コストの節減に大いに寄与するはずである。

こんな旨い話しに企業が乗り出さないはずはないのである。

テレワーク勤務に移行した人材が、その後の社内出世競争にカムバックするのは、まずありえないことだろう。

2020年4月13日月曜日

ほんのメモ: 軽症率8割よりは使える指標かもしれない

前回投稿の補足の意味合いでメモしたい:

新コロナ型ウイルスは軽症が8割、重症が2割というのがザクッとした内訳である。

ところが、日本では重症患者が海外に比べて非常に少ない点が際立っている。この点に着目して『BCG接種など何らかの理由で日本では軽症ですむ確率が高いのではないか』と語る人も増えている。

厚生労働省が公表している4月11日18時現在のデータを引用すると以下の通り(クルーズ船を含む):

PCR検査陽性者=7420人
うち退院者数=1428人、 死亡者数=110人

感染者は、治癒して免疫を獲得するか、死亡するかのいずれかである。軽症、中等症、重症、重篤は途中経過の段階である。退院者を治癒した患者数とみなしたうえで、結果の確定した退院者と死亡者を合計して死亡率を求めると
110÷(1428+110)=0.072
 となり、日本国内の死亡率は7.2パーセントになる。

『軽症以外の2割は助からない』というのは言い過ぎだが、退院できるか死亡するかを分ける7.2パーセントは決して低い数字ではないのではないか。重症化した時の条件付き死亡率は、ザックリ、36パーセント(=7.2÷20)ということでもある。重症化して命は助かったけれど肺の機能損傷により酸素ボンベがなければ歩けなくなる人も多数発生するに違いない。そうなると仕事を続けるのは無理である。そしてどんな体質の人が重症化するかというのは全く分からないのだ。高齢者、糖尿病、高血圧、その他持病がハイリスク要因だとは言われているが詳細は分からない。情報がないので怖い。誰もがそう感じるのではないか。

【加筆2020/04/14】 ちなみにJohns HopkinsのCovid-19 Dashboardで世界全体をみるとTotal Deathsが119588人、Total Recoveredが448998人であるので、
 119588÷(119588+448998) = 0.210
つまり結果ベースの死亡率は21パーセントになる。最初に引用した「重症化率20パーセント」という概数と一致するが概念的には違いがある。

日本は7千人を超えるサンプルに基づく結果ではあるが、この値がどんな値に収束していくかはまだ入院中の患者が多数いるので不確定だ。

が、少なくとも『日本では重症患者は少なく、一方で陽性確認されていない無症状感染者、軽症感染者が潜在的に多数いるという可能性を考えると、それほど怖れるほどの感染症ではないのではないか』という見方は、(現段階の)数字を見る限り楽天的、"too optimistic"だろう。

死亡率を1から引けば「救命率」になる。救命率の理想は言うまでもなく100パーセントである。この「救命率」を可能な限り最大化する。医療現場を正常化するとはそういう事だろう。ここで『季節性インフルエンザ並みの救命率でよいのではないか?』、『救命率を99.9パーセントにするにはカネがかかり過ぎる』等々、こういう見解が当然ながら出てくるだろう。それは医療の問題ではなく、更には経済学で解ける問題でもなく、社会的価値観が決める問題だ。つまり政治家が結論をだすべき事柄である。

2020年4月12日日曜日

日本で「現場は優秀だが上がダメ」が当てはまる原因について

政府で新型コロナ対応の指揮をとっているのが、どうやら最近は加藤厚労相から西村経済再生相に交替したような雰囲気で、「新コロ大臣」などと呼ばれているようだ。

TVのワイドショーなどでは『日本は戦争中の記憶もありまして、政府が国民に命令を下すという状態にアレルギーがあるのですネ・・・』などと語る人がいる。

間違いだと思う。

全ての権限が中央政府に集中していたはずの戦時の国家総動員体制であってすら、日本政府はノロマで、と同時に細部にこだわり意思決定が常に遅れ、和平(=降伏)の好機を逃し続け、最後は酷い負け方をした

日本政府の上層部がダメであるのは、権限とか、民主主義とか、人権尊重という点に原因があるのではない。極めて民主主義的である欧米先進国でも新コロナ対策では政府による強権的なロックダウンが行われている。

日本政府の「伝統的ノロマ振り」の原因は、権限の弱さにあるのではない。民主主義であることとも無関係だ。では一体なぜなのだろうか。

この問いかけは本当に難しいと思う。

★ ★ ★

組織的意思決定にはトップダウンとボトムアップの二つがあるとよく言われる。が、どちらも理想型ではない。

トップダウン方式が理想的に機能するには、そのトップが天才であることが望ましい。天才でなくとも、優秀で、周囲には仕事の出来る人材が集まっていてほしい。トップダウンはトップと上層部の力量がそのまま結果に反映される。

かといって、ボトムアップ式の意思決定にまかせていると「部分最適」には熱心だが、「全体最適」を行う人がいないという失敗を犯してしまう。
組織が失敗するときは、組織的意思決定が失敗しているのだ。
この命題は常に正しい認識である。

日本政府がノロマであるという失敗を犯しつつあるなら、それは意思決定システムが失敗しつつあるということと表裏一体だ。

★ ★ ★

小生が小役人をしていた昔なら、新コロナ対策で記者会見を開くのは、原則、厚労相であったはずだ。寧ろそれよりも専門知識を問われる感染症対策だから、厚生労働省の医系技官の頂点にいる<医務技監>が定例の記者会見を行い、それをTV中継したりしていたはずである ― 「医務技監」という職名は塩崎厚労相の時代に公衆衛生の重要性の高まり等を考慮して新設された次官級ポストであるから「(公衆?)衛生局長」という当時の名称を使うべきだが。議論が経済対策に及べば先ずは経済再生相が主管する筋合いなので、財務省、経産省、国土交通省等々と総合調整してまとめた結果を西村大臣が会見して伝えるだろう。

時代は変わり、誰が何を担当するかというシステムは変わってしまった。

しかし、日本政府の<ノロマ振り>は、どのような体制をとるかとは関係なく、常にノロマであり、その様子は戦前も戦後も同じであるようだ。たとえ記者会見一つをとって、それが小生が知っている昔の方式であったとしても、やはり日本政府はスローモーで、ノロマであったに違いない。

そんな風に想像せざるを得ないのだが、一体、なぜなのだろうか。

***

日本政府の対応は常に遅く、ノロマであったかもしれないが、太平洋戦争の大失敗を別とすれば、致命的な失敗はせずにすんできたとも言える。

戦後に限ってみても、日本は幾つかの試練を乗り越えてきた。1970年代の2回にわたる「石油危機」もそうだが、それより前のブレトンウッズ体制崩壊と円高不況時もそうだ。1997年から98年の「金融パニック」でも遅れに遅れた政策を何とか実現した。失われた20年になったが「不良債権」も亡国の惨事までは至らずに解決できた。朝鮮戦争やベトナム戦争など、いま勃発すればマスコミは狂ったように毎日騒ぎつづけ不安を煽っているだろうが、うまく立ち回ることができた。「政治主導」という旗印はなかったが、日本政府は激動する環境に適応してきた。

ノロマだが課題は解決できた。だから今日の現代日本があると言ってもよい。課題解決に失敗し、落第していたなら、今頃はG7からもG20からも脱落していたかもしれないのだ。

ノロマではあるが、劣っているとか、低能力であるという批判は当たらないだろう。

要するに、スローモーで遅いのである。遅すぎて失敗したことは山ほどあるが、せっかちで早過ぎることをやって、それが「明らかな失敗」であったという例を小生は思いつかない。これは、日本政府というより、日本人という国民の特質に基づくものだろう。

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今は「政治主導」が旗印になっているが、では真の意味で政治主導になっているかと言えば、実はそうではないのではないか。

そもそも行政府の設計が政治(家)主導的になっていない。この点は戦前期も同様で、政治家が主導するものではなく、天皇が主導するものでもなかった。現代日本では議院内閣制とはいうが、政治家が組織する内閣が中央省庁内の事務次官、局長だけではなく、管理職である課長を直接任用できない。各省庁の前線部隊である「課」の運営は、国家公務員試験の合格者を充て、内部のルーティンに沿って機械的に人を配置するという中立的な方式を日本人は好むのだと言うしかない。

現場の人の配置を重要視してトップが誰であるかということから切り離したいと考えるのは日本人の性向であり、だから日本では現場が強いのかもしれない。

上層部が現場に介入することを日本人は強く嫌う。何しろ、高級官僚である東京高検検事長の定年を延長して検事総長への途を開くという決定ですら政治的に非難されているのだ。法務省の中の課長補佐を誰にするかで公務員試験合格者ではない人物を押し込もうとしているわけではない。行政府の高級官僚である。それでも政治家の介入は嫌われる。行政府内の法律専門家である検事の人事ですら政党から独立させるのが望ましいなら、厚生労働省の医系技官のトップを誰にするかでも、内閣の思う通りにはさせないという流れになるだろう。

英国では中央官庁の内部に与党が任用した人材と「女王陛下の臣下」である職業公務員が並存するが、こんな情況が日本で実現する日が来るとはとうてい想像できない。オックスフォード大学には「保守党クラブ」や弁論部として有名な「オックスフォード・ユニオン」があるが、例えば東京大学に「自由民主党青年会」や保守系、リベラル系の「政治研究会」が林立するとすれば、憂慮するべき社会問題として扱われるのではないだろうか。日本の大半の若者にとって「政党」より「会社」のほうが遥かに身近な存在だ。誰が自民党総裁や国民民主党代表になろうと、縁や義理を感じる日本人は極々少数であろう。縁が薄いという状態と一体感がないということは同じ意味である。

日本では確かに「現場が強い」。しかし、「強いトップを嫌う」、故に「現場が強くなる」。因果関係はこうなのかもしれない。とすれば、「強すぎるトップによる暴圧・虐待」が日本では稀であり、「弱すぎるトップが招いた混迷・下克上」が日本においては頻繁であることの説明もつく。

要するに、どこの国でもそうだろうが、「こうありたい」という風に実際にそうなっているのである。小生はこう思うようになった。

ロシアでは専制君主を望むので独裁的政治家がよく輩出する。日本人は強いトップを嫌うが故に、政府は常にノロマでスローモーなのであり、従って現場が強くなるのである。

★ ★ ★

現在の安倍政権は、「政治主導」を謳っているが、それは単なる旗印であって、実のところ政府内の膨大な数の国家公務員から真の忠誠心などは持たれていないはずである。その意味では、征夷大将軍とはいえ、幕臣とは何の縁も義理もなく、忠誠心など得られようはずもなかった最後の将軍・徳川慶喜と似た立場にあるのかもしれない ― というより、無為無策のままに歴史的な超長期政権を続け、幕府衰頽への道を開いた11代将軍・徳川家斉の時代と安倍政権の現代とが奇妙に重なっているとは感じているところだ。

大体、いま述べた議院内閣制も憲法、三権分立もヨーロッパ起源の輸入文化である。中国共産党政府が、『三権分立は欧米がやっていたことを世界に押し付けている方式』、『国際法は欧米が欧米中心の利益を守るために作りだしたもの』と時に発言しているのも、心情というか、伝えたい雰囲気は何となく分かるのだ、な。そもそも「議院内閣制」とはそんなものである。こう言えるのかもしれない。機能させたいならば、立憲君主制という点では比較的体制が似ており英語圏で情報が豊富な英国の方式をより忠実に模倣するしかないだろう。

司馬遼太郎ではないが、日本という国の形はいつの時代でも「舶来物」だった。奈良時代から平安時代には中国を崇拝し、明治時代にはイギリスやドイツを崇拝した。そして戦後日本はアメリカを崇拝してきた。外国起源で上手に扱いかねているから意思決定にも時間がかかるのだろう。融通もきかないのだろう。細かい点ばかり気にするのだろう。そんな風に思うようになっている。

2020年4月9日木曜日

一言メモ: これも極端な意見だネエ・・最近は「過激派志士」が横行しているようで

こんな見立てがネットには登場した:

小池都知事が訴えた「三密」に続いて、政府の感染症専門家集団を仕切っているN教授が提唱した「人との接触8割削減」のことである。

例えば、
しかし、非常事態宣言によって経済は停滞し、財政赤字は膨張し、失業者が増大し、数多くの人々が経済的苦境を経験する。政治家なら、「まあ、1人でも感染者が減ればそれでいいじゃないか」という態度はとれない。巨大な「責任」を背負うのだ。政治家に影響を与えた「専門家」も、当然、「責任」を負うと考えるべきだろう。
われわれ社会科学者は、通常、自分の発言には社会的責任がある、と考える。明言したことが事実と異なれば、社会的責任を負う。あるいは、わからないことをわからないと言い、推測であれば推測でしかないことがわかるように言う責任を負っている、と考える。
「専門家」の予測にも当然責任がある。まして自ら積極的にマスコミ・SNS・政治家に働きかけたというような経緯があったのならば、なおさらだ。
URL: http://agora-web.jp/archives/2045340.html

小生は数日前にこんな投稿をしているので、基本的には総理大臣に対して「専門家の意見に従っているのか」と詰問する姿勢には反対だ。専門家が社会を動かすという状態にも反対である。

権力行使の責任が最高責任者にある以上、専門家は最後の意思決定に関与するべきではない。専門家の意見具申を採用するのも却下するのも権限ある責任者の意思による。専門家が結託して、思い通りに行動しないトップを交替させようとしたり、部内を扇動したりする越権行為は厳しく処罰するべきだ、と。そう思っている。

***

一方、専門家の意見を斟酌して決定をした結果については、権限をもつ最高責任者が責任をとるべきである。意見を具申した専門家には結果に対する責任はないし、追求するべきでもない、と。専門家は質問に対して言うべき事を言うだけである。そう思う。

ずっと昔、小役人をしていた時分、その組織のトップが『専門家が理論的に最も適切であると思われる政策を立案しても、国民がその政策を容認しないなら、その政策は実行できないのだ。それが民主主義というものだ』と。この話は本ブログでも何度か書いている。当時は、何をバカなことを言うかと思ったものだが、今ではその意味を噛みしめているところだ。最後の意思決定の責任と権限は行政のトップにある、というより国権を代表する国会の両議院にあるというべきだろう。民主主義社会であれば有権者たる国民が自らの投票行為の結果に集団的責任を負担する筋合いにある。政治家が諮問する専門家は要請に基づいて自らが信じる学理上の意見を述べるに過ぎない。解説せよと依頼されれば、頼まれるままに自身の学問に基づいて考察と提案を語るだけである。

***

自然科学も社会科学もそうだが、全ての学問はそれ自体として存在意義があると思う。と同時に、社会のために貢献できることがあれば科学的立場から提案や意見を具申出来るかもしれない。「かもしれない」なのである。政治家は、「使える学者」を自分の政治資源として「利用する」かもしれない。それもまた「政治」であって、使われた学者の側に政治家がもたらした結果の責任を求めるのは、筋違いであり非条理であろう。

幕末、長州藩・長井雅楽は公武一和を理念とする「航海遠略策」を藩主に建白した。戦略的開国論である。時に文久元年(1861年)。長井の提案は公武合体策をすすめる幕府にも高く評価され一躍「時の人」となった。ところが坂下門外の変で老中・安藤信正が失脚し、長州藩もまた過激派志士が主導権を握る中で、長井は尊王攘夷派によって排斥され、ついに「朝廷をも惑わす説を述べた」かどを咎められて切腹を命じられた。長井は「わけが分からぬ」と言いつつ、『ぬれ衣のかかるうき身は数ならで唯思はるる国の行く末』という辞世の歌を遺して逝った。

権力は政治家がもつ。故に、政治家は動機の善悪ではなく、結果の善悪で評価されるべきだ。しかし、専門家は善意の動機によって評価されなければならない。結果からは免責されるべきである。

1941年の真珠湾奇襲作戦の全ての責任は司令長官であった山本五十六にあるのであって、作戦を立案した参謀・黒島亀人にはない。誰もがそう思っている現在の状況は実に理に適っており、落ち着くべき認識に落ち着いたと言うべきだろう。もちろん、ここでいう作戦とは「実行可能な作戦」のことを言うのである。

2020年4月8日水曜日

思いつき: マスク不足の問題解決

依然としてマスク不足が解決されないままである。需給がバランスしていない場合には市場価格がそれを調整するというのが経済原則だが、材料費が高騰しているにもかかわらず、マスクの販売価格を小売店が上げずにいる。上げることに過渡に怯えている。どうもそんな状況があるようだ。

これではマスク不足問題はいつになっても解決されない。利益が出ないなら生産しようという企業も登場しないからだ。いまささやかながらマスク生産に参入する企業が幾つか出ているのは設備投資助成金を支給しているためで、コロナ終息後の過剰なマスクを政府が備蓄として買い取ることを「口約束」しているからである。しかし、全量買い取るなどそもそも政府には出来ないことだろう。

経済問題は市場メカニズムか政府の統制によるしか解決できないことは分かりきっている。

★ ★ ★

思いついたこと:

マイナンバーカードの普及率はまだ15パーセントにも達していない。マイナンバーで売買データを管理できないから、政府はマスク配給制にも踏み切れない。踏み切れないので自由な店舗販売に委ねている。その結果、早朝から複数の店に並んで買い占められる状況に手が出せない。

マイナンバーマスク提供枠を設けて、一定量を政府が買い取ればよいだろう。指定した品目を政府に優先供給させるには新法を制定するか、「国民生活安定緊急措置法」の一部改正か、どちらかが必要にはなる。マイナンバーカードを自治体が指定した場所で提示すれば、無料(=財政負担あり)か公定価格で例えば毎月10枚を提示した人に手渡す。公定価格は「物価統制令」で決めればよい。政府買い取りは時限措置でもよいし、買い取り量を社会状況に応じて適宜増減させてもよい。医療機関、各種施設との取引も公定価格による長期契約になるだろう。

メーカーは余剰分を市中に出荷してもよいが、数量は大きく減少するので手に入れることは困難になるだろう。販売価格も高騰するかもしれない。

ずっと昔、日本でやっていた「食管制度」のマスク(及びその他品目)版である。標準米と自主流通米が並存していたのと同様、標準マスクと付加価値の付いた高価格・高級マスクが並存していても問題はない。

マイナンバーカード普及を加速させることになるに違いない。短期間に100パーセントに達するのではないか。

一挙両得である。

2020年4月7日火曜日

コロナ: これは理屈に合わないが

新型コロナ関係のニュースばかりである。偶に出てくるのは今後の景気見通し。「これは戦争です」と政府が言い出せば、「勝つまでは無際限に財政出動する」という意味になり、新規国債が無際限に発行され、中央銀行が(最終的には)それを引き受ける。勝利のあかつきには、売却される国債を買い支えて低金利を維持するため、大量の流動性が市中に拡散される。当然、過剰流動性となり株式・資産バブルもしくはインフレが高進する。こんな予想は既に多数の人の胸の中にあるはずだ。

まあ、いずれの予想が的中するか、である。

それはともかく、パッとみた瞬間に『理屈に合わねえなあ』というのが一つ:

新型コロナは8割が無症状か軽症。残り2割が重症化し、そのうち全体の5パーセントは重篤化する。そんな要約が以前から報道されている。

ところが現場の医師の印象では
『重症化とは人工呼吸器を装着しなければ自発呼吸ができなくなる段階を言います』 
『一度、重症化して人工呼吸器をつけてしまうと、かなりの人は戻ってこない』 
『人工呼吸器でも無理でECMOを使う段階になればほぼ確実に死に至る』
こんな印象を語る医師が相当数いるようだ。

感染者数を分母とする新型コロナの致死率はWHOによれば本日現在で5.6パーセント前後である。ダッシュボードから日本の致死率をみると2パーセントであることが分かる。

もしも一度重症化したらまず助からないというのであれば、軽症率が8割だから致死率は2割前後になっていなければおかしい。しかし、現時点の致死率は日本で2パーセントであって、「いったん重症化するとまず助からない」という現場の印象と大きく異なる。

これはパラドックスだと思った。

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この食い違いを理解するのに必要な情報は遷移確率である。

つまり例えば1週間単位で把握される以下のようなマルコフ行列である。


  軽症 重症 死亡
軽症 0.8? 0.2? 0
重症 0.2? 0.2? 0.6?
死亡 0 0 1



表の読み方だが、第1行では軽症者が次期に軽症のままでいる確率を8割、重症化する確率が2割としている。軽症者が次期に死亡する確率はゼロである。

ところが、いったん重症化するとまず助からないという現場の印象もある。これを2行目の遷移確率(数字例)で表している。重症化しても次期には軽症となりうるので、その確率を2割と置いている。重症患者が次期に重症のままである確率が0.2、死亡する確率を0.6と置いている。

実は、上のような状態遷移は吸収的(アブソープティブ:absorptive)である。言うまでもなく「死亡」が状態の中の「吸収壁」である。吸収的マルコフ過程では、軽症者もいずれは重症化し、最終的には全員が死亡してしまうと結論される。故に、感染者数を抑制するしか打つ手はない。

にも拘わらず、軽症者がその時点における全感染者数の8割を占めるというのは、新規感染者が感染者として加わり、新規感染者の症状はほとんど軽症である(だろう)からだ。

こう考えると、いったん重症化すればほぼ助からないという現場の感覚と全体の8割は軽症であるというデータとが矛盾しない。致死率のデータは5パーセント程度であるにもかかわらず、心の中ではいずれは重症化してそのまま死に至るのではないかという恐怖がある。その怖さはこの点に由来する。強い感染力が真のリスクを覆い隠しているという見方である。

が、以上の議論は退院(≒治癒)もまた多数発生しているという事実と明らかに矛盾する。もう一つの状態として「治癒」を追加して、4行4列のマルコフ行列にしなければならないわけである。

さらに考えると、軽症から治癒すると免疫ができ二度目の感染はない。そうすると、吸収壁は二つあることになる。状態としては「無感染」、「治癒」の二つを追加して、5行5列の遷移行列にすれば完璧だと思われる。

「無感染」から「軽症」への遷移確率は「感染率」に他ならない。

医療現場では遷移行列がそろそろ数値化されてきていると思われる。そうすれば、新型コロナ感染による最終的な感染率、治癒率と死亡率がどの程度の値に収束するか、また重症者数の推移がシミュレートできるだろう。

実際、Google Scholarで"covid-19 markov process"を検索してみると、SIRモデルとマルコフ過程との併せ技が幾つか論文として公表されていることに気がつく。遷移確率が感染状況によって変化するいわゆる「隠れマルコフモデル」である。

本日の投稿で書いた問題意識をズバリまとめると、
退院者数が増えているが、軽症のまま退院に至った人と、一度は重症化した後に軽症・退院という経路をたどった人と、この内訳を確認できるデータがあれば相当のことが分かってくる。それぞれの経路の平均的な経過日数が分かればもっと分かる。
そういうことである。


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上に書いたことは、今後は重症者の治療に重点を置き、軽症者は自宅ないし施設で経過観察するという新たな治療方針には、ほとんど意味がないという主旨ではない(念のため)。

2020年4月4日土曜日

世を惑わす「TV素人談義」の一例

経済危機の深刻化が予想される中、外出自粛で収入が激減している人たちへの所得補償がTVでも話題になっている ― ネット上では話題が適当に分散するので、一つの話題にフォーカスされることはそれほど目立たないのだが、TVは番組の放映時間に制約されることもあって、視聴率をとれる格好の話題に話が集中する傾向が強い。

商店街の食堂店主にインタビューしては『お客さんは9割減というところですかねえ』という声を流したり、ナイトクラブを訪問しては『営業停止命令を出してくれる代わりに所得を保障してもらうほうがずっとイイですね』などと応えてもらったりしている。

一番大事なのは、所得を保障してあげることですヨ、景気回復はその次でいいんですヨ、などと、一見理屈が通っているようでいて、実は街中の井戸端会議とほとんど同レベルの議論がTVカメラの中で進行している。

まあ、この位の話なら、家政学部にいたうちのカミさんでも出来るネエと感じることが、実は多いのだ、な。

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今回の新型コロナ禍では、(現時点での死者数の総人口に対する比率を見る限り)人的資源、物的資源が失われたわけではない。日本や世界の供給能力は不変であるが、需要が急速に減少している分野があるという経済危機である。しかし、経済危機に取り組むときは全体像をみておくことが必須だ。「とりあえずこの問題から・・・」という発想では、間接効果が波及することになって、混迷泥沼にはまるだけのことが多い。重点志向の原則は決してオールマイティではない。

超過供給と超過需要が併せて観察されるときは、資源配分が非効率である、と言うのが直ぐに下せる結論である。

前の投稿でも述べたように:
経済環境の激変で必要になるのは、資源の再配分である。資本、労働、マネーなどの生産要素を超過供給市場から超過需要市場へとシフトさせなければならない。(中略)今回の需要逼迫市場である医療サービス、新薬開発市場は資格、許認可が厳しい規制分野である。厚労省の「縄張り」である。超過需要(=24時間操業、疲弊、待ち行列)と超過供給(=閉店、休業、失業、etc.)は解消されないまま放置される可能性が高い。
超過需要と超過供給を全産業で合計すれば、必ず等しくなることは経済理論の重要な定理である。

そもそも本年初の時点では日本国内は「人出不足」であり、ほぼ完全雇用状態であった。超過需要が発生している産業分野が雇用を増やすためには、超過供給に陥った産業分野からマンパワーが移動していくしか解決のしようがないという理屈だ。平時では価格メカニズムが果たすべき調整だが、非常時の現在は行政による誘導が必要だろう。

つまり問題解決のための核心は「救済」ではなく「調整」にある。

超過供給分野(ホテル、観光、飲食などソーシャルディスタンス確保に脆弱な産業分野)では需要が急減しているので、生産水準を維持できず、そこで雇用されていた従業員、投下されていた資本には余剰が発生し、遊休化し、結果として所得が急低下している。反面、超過需要分野(医療、衛生、薬品、健康保健分野、宅配サービス、サプライチェーン寸断に伴う部品、パーツ、等々)では、人的資源、物的資源が不足するために環境変化に即応した生産拡大が困難な状況である。生産が拡大できないので、所得も増加しない。つまり、超過供給分野では生産維持が不可能、超過需要分野でも生産拡大が困難、結果として付加価値合計額であるGDPが急低下する。これが基本的なロジックだ。

【以下、加筆4月5日】上の議論に追加するべき要素としては以下のものがある。

  1. 例えば、学校を休業した場合に児童の保護者が職場に出勤することを難しくさせる効果がある — 学校のサービス生産はオンライン授業などを通じて継続するものとしよう。これはサプライサイドへのマイナス効果である。但し、労働需要が減少するわけではなく、理屈としては(より高い賃金で)所得機会を得る人々が現れうる。
  2. 職場で感染者が発生した後の事後処理で直接的、間接的にその企業の稼働日数、実労働時間が失われる。これもサプライサイドに対する制約として働く。これにはグローバルなサプライチェーンの中で日本国内に波及する生産阻害効果も含まれる。

サプライサイドに生じる所得減少要因もバカにはできない。であるので、GDP減少が予想されるからといって、需要不足によるデフレ加速が見込まれると必ずしも結論はできない。が、この点はまた別の機会に書くことにする。

★ ★ ★

TV画面では
所得を保障することが最重要だ
とそればかりを言う。ならば、いつまで、どの位の期間で失われた所得を保障するのか?そもそも所得を保障するということは、『今までの仕事を再開できるまでは、仕事をしなくとも大丈夫です』と伝えるようなものである。何の見通しもなく所得を保障して、これまでの仕事の再開を期待させながら「自宅待機」を奨めるなどは経済政策になっていない。

大阪の飛田地区で営業している料亭は一斉休業することを決定したそうだ。雇用されていた人たちは、当面は(離職票が発給されるとすれば)失業保険で所得を保障される。給付期間は最長1年間である。もし離職票が発給されなければ受給要件を時限的に緩和すればよい。自宅待機で給与の一部分が支払われるかもしれないが、こんな状況では持続可能ではないだろう。実際、アメリカでは新規失業保険申請件数(=失職者数)が爆発的に急増している。失職者が求人に応じることによって人的資源が望ましく配分されるのである。超過供給分野から超過需要分野へ人的資源が移動していくまでの生活保障として失業保険は機能している。求職者数が求人数を上回った時にこそ不況対策は必要である。

この位は経済学のイロハのイであろう。

移動をスムーズに進める職業訓練も要るかもしれないが詳細は省く。

人が移動していくプロセスと並行して、身軽になった店側、つまり経営資源を保有している側は利益の出る分野へ資本設備を転用していくという道筋が経済政策の常道である。それを支援する低金利融資が必要であることは言うまでもない。これまでと同じビジネスをただ続けたいというだけでは競争の激しい店舗経営を続けるのはそもそも難しい理屈である。

危機はどんな産業分野でも時に発生してきたことだ。かつてバブル崩壊のあと、日本は不良債権を表面化させないために弥縫策を繰り返した。倒産するべき企業に追い貸しをして生き延びさせるという失敗をした。それでなくとも、日本経済の弱みは危機に直面して廃業と新規起業の盛り上がりが海外に比べて弱いという所にある。弱みをそのまま保存するような発想は政策とは言えないだろう。ソーシャル・セーフティネットが日本にはないかのような雑談は素人談義であろう。

★ ★ ★

戦争で苦戦に陥ったときに必要な事は、勝利が見通せる敵の弱点に兵力を移動して集中することである。苦戦に陥った前線に兵力を小出しに追加投入して自陣を死守することは下策である。

この何日か、TV画面に登場している「自称専門家」が強調している「所得を失った人に保障してあげることが最も重要です」という指摘は、問題の指摘としては正しいが、考える筋道が混乱している。

「援軍を待って死守せよ」ではなく、「後退して、〇〇に速やかに移動し、友軍と合同して▲▲を攻撃せよ」という戦術的視点は、経済政策においても不可欠のロジックである。

最も大事なことは、苦戦している部隊に「助けるから頑張れ」とだけ伝えることではなく、全部隊に「何をすればよいか」という仕事を割り振ることである。いわゆる「ワンチーム」とはそういう事だろう。結局、資源配分の問題なのである。手持ちのリソースを上手に使えという事である。足らない、足らないというのは芸がない。そもそも日本は今年の正月までは人手がどこでも足らなかったのだ。

ま、総じて言えることなのだが、TV番組に登場する(医療以外の常任の?)「専門家」は多くが法律の専門家で、時に足元の景気分析が得意なエコノミストが出演したりしている。そのせいかどうか分からないが、何かにつけ『守りたい、守らなければ』とばかり口にする。『社会科学の基本を勉強したこと、この人、ないんじゃないの?』と感じさせられることは非常に多く、いまの米国のトランプ政権もそうなのだが(!?)、誠にお寒い陣容なのではなかろうか。

2020年4月2日木曜日

また再び「現場は頑張るのに上がダメ」になっているようでもあり

TVでは毎日「新型コロナ・ウイルス」で番組を作っている。が、今度のウイルス禍は短くて真夏で一段落、長ければ一段落もなく来年春まで1年間、あるいはもっと長く続く長期戦になる見通しだ。この間、連日ずっとTVでやるのだろうか ・・・。正直なところ、同じような話、同じ専門家、同じ解説を繰り返し、繰り返し視聴させられて、食傷気味。もはやウンザリだ。

3月の初めにアルコール系消毒スプレーをAmazonに予約注文した。3月28日以降発送グループに入っていたが、まだ「発送済み」の通知はない。予想だが、拙宅に到着する頃には近くのドラッグストアの店頭にも同じ商品が並んでいるのではないか、と。意味なかったよネエ。

昨日、安倍首相が反復使用可能な布製マスクを1世帯当たり2枚を配布すると表明したとのこと。4月上中旬から感染者が多い都道府県から順に全国に送るという。小生が暮らしている北海道は東京都、大阪府、愛知県に次いで4位に着けているので、4月20日過ぎには宅に届くのではないか。ところが、最近ではドラッグストアに行ったら偶然にマスクがあったという人が増えているようだ。マスクを買った人の半分程度は偶然に店で買えたと回答しているそうだ。政府が配布するマスクが拙宅に届く頃には、近くのドラッグストアでもマスクが買えるようになっているかもしれない。意味なかったよネエ。

必要な商品の増産は遅々として進んでいないようだ。戦前期においては強権的な国家総動員計画が見事に破綻し、戦後の民主的体制においては指導的権限を失った政府が何もできずに悠長にやっていると批判されている。

経済環境の激変で必要になるのは、資源の再配分である。資本、労働、マネーなどの生産要素を超過供給市場から超過需要市場へとシフトさせなければならない。その誘因としては第一に価格メカニズムがあると考えるのが標準的な経済理論である。が、今回の需要逼迫市場である医療サービス、新薬開発市場は資格、許認可が厳しい規制分野である。厚労省の「縄張り」である。超過需要(=24時間操業、疲弊、待ち行列)と超過供給(=閉店、休業、失業、etc.)は解消されないまま放置される可能性が高い。政府の判断が遅れればそれだけ資源配分の歪みが放置され、日本経済が毀損される仕組みがビルトインされている。

「あらゆる経済問題を解決するのは政府ではなく市場である」と語ったグリーンスパンを思い出すべき国としてまず日本が挙げられるかもしれない ― リベラル野党は飛び上がって反対するだろうが。

困難な経済状況を解決するために最も有効なツールは「自由化と自発的インセンティブ」である。口では「規制緩和」と唱えながら、安倍政権は本音では国家の指導を重視し、国家が資本主義経済と国民生活を誘導することの価値を信じてやまない傾向がある。2000年の前に死滅したはずの"Notorious MITI"のゾンビを視るのは小生だけだろうか。このゾンビは、経産省に限らず、複数の中央官庁、いやそれよりも政権周辺の諸々の与党政治家にコピーされ隠れているはずだ。その旗印は今更言うまでもないところだ。

であるとすれば、今のような政策哲学を信奉する政府が資源配分の歪みを解決できる理屈はない。

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消毒スプレーにせよ、マスクにせよ、はたまた医療体制整備にせよ、どうも政府上層部がやっていることは、即時的実行が伴わず、小田原評定を繰り返し、結局は「意味なかったよネエ」と判定される事をする。よく言われる"too little, too late"を地でやってしまう。外からみているとこの種の失敗が多いのではないか。

東日本大震災でも阪神・淡路大震災でもそうであったが、日本は『現場は素晴らしいが、上がダメ』だと、海外でもそんな風に言われることが多く、日本国内でも名著『失敗の本質』など、同じような指摘が多い。

現場は頑張るが、上はダメ

どうも今回もまた再び日本的弱点が露呈しているようである。

想定外の現実に際して、現場が持ち場を「死守」して頑張るのは、上がダメで状況判断が甘いからである(ことが多い)。では、なぜ上がダメなのだろう?この問いかけに対する解答は必ずしも自明ではない。一つの着眼点は業務繁忙の度合いである。現場が壊滅直前の状態で頑張っているのと同時並行的に上層部もまた戦略・戦術に休む間もなく頭脳を使っていなければならない。今回のウイルス禍の深刻化に際して、独裁的な中国も、民主主義的なヨーロッパも、政府は(賢明であれ、愚かであれ)何かの決断をして、行動をしている。失敗、成功という線引きではない。公権力を行使した断固たる意思決定をしたかどうかをみている。決断の背後には膨大な人的エネルギーの投入があったろう。

小生は何度か記したことがあるが投下労働量で価値が決まるという労働価値説に共感しているものだ。もしも上が下に比べてダメであるのが本当なら、それは上は下ほど<実質的な>仕事をしないからである、と。この極度にシンプルな観察は、意外に当てはまっているのではないかと自信があったりするのだ。

何しろ日本では太平洋戦争の勝敗の行方が混とんとしている真っ最中、英米では総司令官が参謀と寝食をともにして24時間頑張っている時に、東京の大本営に勤務する高級参謀は補給に苦しむ最前線をヨソに定時退庁していたと伝えられている、そんなお国柄である。集団主義とはいうものの真の意味で組織が一枚岩になれないところが日本にはある。それは何故なのだろうという問いかけである。

「日本は民主主義的であるので人権を尊重する」、それ故に政府は断固たる意思決定ができないのだという解釈は間違いであると思う。要するに、日本では政府上層部の判断が遅いのだ。これは何故かという問いかけである。民主主義や人権とは関係ない。どうも日本だけに典型的に観られる特質かもしれない。だとすれば、その原因は何であるかが分からない。