2020年8月3日月曜日

一言メモ: 「移り行く感覚」がいま共有されつつあるのかも

たった一つのスポーツから社会全体の事を連想するのは無茶かもしれない。

が、覚え書きまでに書こう。昨日が千秋楽であった大相撲7月場所(本来は名古屋場所であるが国技館で開催された)である。

照ノ富士が「奇跡の復活劇」を演じたのだが、昨日の登場人物をみていて多くの人が漠然と意識したのは、横綱・白鵬や鶴竜がもう「過去の人」になったという思いではないだろうか?

この漠然とした「移り行く」感覚、「盤石であった一つの時代がいま過ぎ去っていく」という感覚。この感覚は、国文学風にいえば多分「無常観」という言葉になるのだろうが、昨日の優勝争いをTV観戦していて、そんなことを想った。

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人間社会には、こんな「移り行く感覚」というのがずっと継承されてきていて、だからこそ250年、というより600年以上も続いてきた日本の武家社会も、短期間のうちに消滅し、まったく新しい明治日本に再生することができたのだろうと思っている。

このような感覚は、フランスでも、ソ連でも、はたまた中国でも、どこでもあったに違いない。「もうそんなことを言える時代じゃない」という漠然とした意識は急速な社会的変化の背後で共有されていた感覚であったに違いない。

むしろこんな感覚を持つことができなければ、人類は生き延びることができなかったのかもしれない。

多分、世界共通の新型コロナウイルスというパンデミックの中で、何かが終焉を迎え、新しい状態へと移り行く感覚が、グローバル・スケールで共有されることだろう。

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