先日の投稿ではちょうど100年前にあたる1920年の1月に永井荷風が罹患したスペイン風邪について記しておいた。
こんな風だ:
翌大正9年(1920年)の正月3日から空白が続き22日になって次の下りがある。
『悪熱次第に去る。目下流行の風邪に罹るもの多く死する由。予は不思議にもありてかひなき命を取り留めたり。』
スペイン風邪によるパンデミックは1918年1月から1920年12月までの丸3年間、3度にわたって大きな波が世界を襲ったと言われている。荷風は3度目の大波でスペイン風邪に罹患したと思われる。
先日参照していたのは岩波文庫『摘録・断腸亭日乗』だったが、あくまでも「摘録」であることに気がつき、念のため『荷風全集第19巻』の「断腸亭日乗」(大正6年~大正14年)で確認してみた。そうすると、文庫版では落とされていた記載が幾つかあったので以下で修正補足しておこう — 網羅的にではないが。
正月12日
曇天。午後野圃子来訪。夕餉の後忽然悪寒を覚え寝につく。目下流行の感冒に染みしなるべし。
どうやら発症は正月早々ではなかったようだ。潜伏期間を考えると、年始客の誰かからうつされたのかもしれない。実際、元日から鷲津牧師(次弟・鷲津貞二郎であろう)、春陽堂主人と会ったり、旧友・井上唖々と「宮川」で呑んだりしている。家具店にも寄っている。
その後、病勢はなかなか快方に向かわず、正月16日にも
熱去らず。昏々として眠を貪る。
20日になっても
病況依然たり。
と変わらない。正月19日には
病床万一の事を慮りて遺書をしたたむ。
と記してあるから、「ただの風邪」ではないと気づいたのだろう。
正月22日になって漸く
悪熱次第に去る。目下流行の風邪に罹るもの多く死する由。予は不思議にもありてかひなき命を取り留めたり。
先日投稿のこの日に至ったというわけだ。とはいえ、正月25日には
母上余の病軽からざるを知り見舞に来らる。
とある。2月2日にも『病臥』、3日には『大石君来診』と何度目かの往診を受け、2月15日になってもなお『雪降りしきりてやまず。路地裏昼の中より物静にて病臥するによし』という容態。やっと2月17日になって
風なく暖なり。始めて寝床より起き出で表通の銭湯に入る。
とある。
発症から数えて本復まで大体1か月。新型インフルエンザであったスペイン風邪に罹ると完治するまでにやはり1か月位を要したわけである。当時と今とでは医療水準に違いがある。が、医療が進歩した今も新型コロナウイルスには苦しんでいる。治るまでの相場としては今も昔もあまり変わらないネエと感じてしまうのは小生だけだろうか。「スペイン風邪」に対する当時の人の恐怖も何となく分かる気がする。いま世界中で猛威をふるっている新型コロナではエクモ装着まで悪化しやっと5カ月もたってから一般病棟に戻ることができた人もいる。治った後の後遺症も意外にあるようだ。多くが軽症・無症状とはいえ「罹らないにこしたことはない」と世間が怖れてやまないのも十分な合理性があるようだ。
当時の日本では(世界でも)「全面外出自粛」などは実行されてはいなかった。というより、外出自粛が必要なら「自粛」といわず政府はいつでも「外出禁止令」を発出できたはずだ。しかし、もしそうしていれば、それでなくとも同じ年の3月15日から株価暴落が始まっていたのであるから、第一次大戦後の経済恐慌はより激烈に日本を襲っていたに違いない。不満をもった労働者による暴動が全国都市部で多発していたに違いない。2年前の1918年には米価暴騰から全国に「米騒動」が広がっていた。外出禁止・失業増加という選択肢は政府にとっては《選択可能・実行不能》であったと思われる。
この年の荷風は、それでも春到来後は元気になり、築地路地裏の陋屋から麻布市兵衛町(現在の六本木界隈)の「偏奇館」に転居するのだから、結構、多事多端な過ごし方をしたと言える。
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