「言葉が最も大事なのです」と小生は考えているわけではない。言葉よりは行動が遥かに重要であるし、前に投稿したことがあるように『巧言令色鮮いかな仁』という格言は祖父だけではなく小生自身もそのとおりだと思っている。言葉上手は、広報部長あたりが適任であるし、小生の田舎の方言でいえば「キョロマ」である、と。経験的にそう感じているのだ
だからネットでよく目にする言葉を云々しても、所詮言葉というのはその程度のツールだといえばそうなのだが、一種の流行としてメモっておきたくなった。
「言論用語」とでも言いたくなる言い回しで「メディア用語」というわけではないが、こんなパターンの投稿を見ないだろうか。
▲▲という状況になれば、日本は生き残れるだろうか?
字面を追う限り「これは大変だ」ということになるわけだ。日本ほど戦争も内乱、暴動もなく穏やかな時間を過ごしている国はほとんどないと思うのだが、そんな日本で「これは大変だ」と思わせる書き込みを意外に頻繁にみるのは、パラドックスであろう。
上の文章は「生き残れない」と主張したい反語であるはずだ。しかし、これほど事態が切迫している状況があるなら、「近いうちに亡国の悲劇に至るであろう」と正面から予測する議論をあらゆるメディア媒体で目にしてもおかしくない。が、小生、目にしたことはない。
まあ、『日本沈没』というSFの名作があるくらいだから、「日本は助からない」と書いても、だから無責任だとはいえないし、ウソつきだとも言えない。
とはいえ、フィクションを真面目な意見のように書いて自由に投稿できるネットという世界を、「言論」の場と受けとってしまうと、やっぱり危ないネエと思う。
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これとは関係性が薄いが、ずっと昔の自民党政治家・金丸信が三人の政治家を評した名言がある。誰でも知っていると思うが
平時の羽田(孜)、乱世の小沢(一郎)、大乱世の梶山(静六)
という言葉だ。この言葉には、続きがあって、『政治の世界に平時はない』、そのあと『大乱世になれば自民党なんて政党はなくなっている』というのが真相であったらしいから、要は「小沢がいい」というのが主旨であったらしい。
『▲▲という状況になれば、日本は生き残れるだろうか?』の▲▲という状況が本当に現実になれば、日本だ、韓国だ、中国だ、などという話でなくなるから、日本は生き残れるかというテーマも吹っ飛んでなくなるのだろう。その意味では、上の三人の政治家評にどこか通じる話でもある。
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『〇〇という状況になれば、日本は生き残れない』というなら、『そのとき日本人は……となるだろう』という予測も書いてほしい。そして『助かりたいと思う日本人は、いまのうちに……を頼るべきである』と、命綱がどこにあるかも示唆してもらわなければなるまい。浮世のことはカネ次第だから、万が一のとき、助かりたい人は「▲▲万円は準備しないといけない、それも外貨で」、「2千万円じゃあ足りませんぜ」という指摘もしないといかんだろう。難民化した日本人が外国で食っていくには手に技があったほうがいいし職業資格も要る。いや、そもそも1億人か(何割かは助からないとして)何千万人もの日本人を受け入れてくれる国など多くはないだろう。となれば、今のうちに日本を脱出して、安全な海外に移住するべきだ、と・・・。要するに、こういうことを言いたいわけですか、と。このくらいの双方的な質疑応答は覚悟して書くべきなのだが、ネット上の投稿も基本的には一方通行なのだ、な。対面議論しているわけではない。つまり
一方通行の言論は信じる価値がない
これがあらゆる「言論」を読んだり、聴いたりする時の鉄則だろう。
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その昔、ローマクラブという専門家団体があり、『成長の限界』という報告を1970年代初頭に出版したところ、世界中でベストセラーになった。小生の先輩はこの本を評して言ったものだ:
ノストラダムスの予言のような本だなあ
時代は石油危機直前、一次産品価格が暴騰を続け、キナ臭い雰囲気に満ちていた。ゼミで一学年上の先輩がこれをテーマに卒論を書いて発表したところ、恩師は甚だしく腹を立てて(確か)『真面目に検討したいと何故考えたんだい?』という風なことを語っていたような記憶がある。
ま、この本、タイトル『成長の限界』も含めて、中東戦争勃発で第一次石油危機がやってくる市場環境としてはピッタリだった。儲けるための出版としては大成功であったわけだ。「言論」としてはダメだが、「ビジネス」としては上手い。昔からそんな例は多い、というよりその方が多いという事情は今も変わっていないようだ。
あらゆる予言や警告は、予測の前提を列挙して、結論に至るプロセスを述べ、反証可能性のある報告になっていなければならない。「日本滅亡論」もそう願いたいところだ。
論文の審査、出版の際の閲読、校正が重要であるのはそのためだ。最近は審査無用の論文公表の場も、例えば"arXiv.org"のような場も登場しているが、「言論の自由」という価値よりも「真理・真実」、つまり《真・善・美》という普遍的な価値の一つである《真》をより重視してほしいものだ。自由のための自由では言論が劣化する。「表現の自由」とは「嘘をつく自由」と同じではないだろう。「嘘をつく権利」はあるかもしれないが、小生は願い下げだ。そう感じる今日この頃なのである。
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