2020年8月8日土曜日

100年前の「多事多端」の歴史は繰り返すか?

 永井荷風の日記『断腸亭日乗』はもはや日本の日記文学の古典になっている。

大正年間から昭和戦後に至るまでの長い年月、継続的に書かれた日記というのは他には得難い価値がある。


一部を抜粋してみたい:


第一次世界大戦が終わった大正7年(1918年)の11月16日には

欧州休戦の祝日なり。門前何とはなく人の往来繁し。なほ病床にあり。…

と記されている。翌大正8年の5月25日には

新聞紙連日志那人排日運動の事を報ず。

これは日本が大戦中にドイツから奪取した山東半島利権の中国返還が認められなかったベルサイユ条約に憤激した中国知識人層が激しい排日運動を展開したことを言っているのだろう。いわゆる「五四運動」である。以後、中国の反帝国主義のターゲットに日本も入ることになり、アメリカによる対日警戒が高まることにもなった。その意味で歴史の分岐点となった年である。

同年7月1日には

独逸降伏平和条約調印紀年の祭日なりとやら(※紀年であって記念ではない)。

とある。 

翌大正9年(1920年)の正月3日から空白が続き22日になって次の下りがある。

悪熱次第に去る。目下流行の風邪に罹るもの多く死する由。予は不思議にもありてかひなき命を取り留めたり。

スペイン風邪によるパンデミックは1918年1月から1920年12月までの丸3年間、3度にわたって大きな波が世界を襲ったと言われている。荷風は3度目の大波でスペイン風邪に罹患したと思われる。

翌大正10年(1921年)11月5日にはこんな記述がある。

百合子来る。風月堂にて晩餐をなし、有楽座に立ち寄り相携えて家に帰らむとする時、街上号外売りの奔走するを見る。道路の談話を聞くに、原首相(=原敬)東京駅にて刺客のために害せられしといふ。

戦前期の日本では現職首相が襲われる事件が多発しているが、特に原敬首相暗殺は日本の国益にとっては致命的な損失であったかもしれない。

翌大正11年7月7日から9日にかけて文学上の師であった森鴎外死去を記している。

7月7日 

夜半与謝野君電話にて森夫子急病危篤の由を告ぐ。

7月8日

早朝団子坂森先生の邸に至る。表玄関には既に受付の設あり。見舞の客陸続たり。

7月9日

早朝より団子坂の邸に往く。森先生は午前7時頃遂に こう を属せらる。悲しい哉。

翌8月には

8月9日

曇りて風涼し。森夫子の逝かれし日なれば香華を手向けむとて向島弘福寺に赴く。

とある。明治・東京にまだ残されていた濃密な人間関係が窺い知れて懐かしい。

翌年の大正12年(1923年)は関東大震災があった年である。

9月1日 

空折々搔曇りて細雨烟の来るが如し。日まさに午ならむとする時天地忽鳴動す。…書秩頭上に落来るに驚き、立って窓を開く。門外塵烟濛々殆咫尺を弁せず。…予もまた徐に逃走の準備をなす。

このようにちょうど100年前の今頃は、世界大戦の終結、スペイン風邪大流行、総理暗殺と毎年毎年こうもあるかと思う程に多事多端であり、永井荷風個人にとっても師を失うという悲劇が重なった。

そして最後に関東大震災があった。

ちなみに荷風は、スペイン風邪・パンデミックの真っ最中であった1920年3月15日から始まった株価大暴落は全く記していない。第一次大戦中のバブル崩壊であり、1920年代中の日本経済の足取りを占う変動でもあったが、経済観念が意外に発達していた流石の荷風も「築地路地裏の家」から麻布の「偏奇館」への引っ越しで頭が一杯だったのであろうと推測される。

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 今回の新型コロナウイルスとスペイン風邪は怖さという度合いにおいては比較にならない。スペイン風邪は世界人口の4分の1が罹患し、死者は2000万人とも5000万人ともいわれている。日本でも1918年夏から翌夏までに25万人余、19年夏から翌夏まで12万人余、20年夏から翌夏まで3500人程度がスペイン風邪で死亡しているようである(Wiki)。当時の世界情勢も不穏だったが、いまも米中対立激化、香港問題、北朝鮮問題と何かとゴタゴタしている感じだ。アメリカの政治不安が高まるおそれもある。政治空白があるかもしれない。中国がより攻撃性、独善性を高めるかもしれない、等々。どこか100年前と今とで似ているところもある。

日本国内で40万人に迫る死亡者を出した「スペイン風邪大流行」という災禍が今日の日本人の記憶にそれほど強く残っていないのは、その直後の「関東大震災」によって上書きされたからだと思われる。関東大震災による死者はおよそ10万人である。それでも歴史を画するほどの大災害として記憶されたのは、それが江戸から連綿として続く東京の街を壊滅させたことと、何よりも東京の人が大正12年9月1日という1日を忘れなかったからであろう。

ともかく、度合いは全く違うものの、100年前と今とでどこか世相が似ていることを知ると、世間っていうのはいつまでたっても変わらないネエと、そう思ったりもする。

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ちなみにオリンピックは、第一次世界大戦中の1916年ベルリン五輪は流石に中止のやむなきになったが、戦後のスペイン風邪大流行時の1920年4月から9月(!?)にかけてアントワープ大会が開催されている。

近代オリンピックが中止されたのは、上にあげた1916年のベルリン大会中止、日中戦争激化による1940年東京五輪の返上・ヘルシンキ代替五輪の中止、そして1944年のロンドン大会中止。この3回しかない。戦争以外の理由でオリンピックを中止したことはないというのは本当である。総合スポーツ大会というより国際平和を希求する祭典として始まった近代オリンピック運動はいま「曲がり角」にさしかかったという認識の方が延期や中止という東京の一例よりはずっと意味深い、もっと大きな論点であるに違いない。


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