こんな会話をした。
小生: 「直観」と「論理」とのバランスだな。どちらが弱くてもうまく行かないよ。特に、仕事はそうだね。直観だけで論理がないと人を説得できないし、あいつは頭が悪いと思われてしまって笑われるだけだ。かといって、論理だけがあって直観に反していると、人は反対できない分、気持ちは納得できなくって、あいつはイヤな奴だってことになるかもな。
愚息: ・・・・・・
小生: だけどネ、直観と論理の基盤にあるもっと大事なものがある。それは何だと思う?
愚息: ・・・・・・
小生: 意志だよ。意志から発していなければ、一片の理屈なんて意味ないし、直観も単なる山勘だ。しかし、意志よりもっと深いところで全体を支えている本源的要素がある。それは何かな?
愚息: ・・・・・・
小生: 愛サ。分かると思うけどね。
愚息: 愛かあ・・・そうだね。
但し、夢の中の話しだ。この夏は名古屋から北海道に帰らない下の愚息が夢になぜだか出てきたのが面白い。
***
イエス・キリストはキリスト教の創始者であるが、それよりはユダヤ教の改革者というのが主観的には当てはまっていたという人がいる。つまり、ユダヤ教の「律法」ではなく、「愛」をもって人間の生の基本とした。
「律」といい「法」というのは、料簡が狭いものなのだ。狭い範囲のローカルな人間集団で通用する掟が「律法」である。「掟」と書けば古い村のシキタリくらいに思うが、「律法」なり「法律」と書けば何だか学問的な感じがして高尚だ。宗教に人間の血を通わせて、キリスト教という生きた世界宗教が生まれ出た所以である。
戒律と理論に終始した奈良仏教から平安仏教を経由して罪業を犯す悪人こそが救済されるのだと考える法然・親鸞の他力本願が登場してくる経緯とどこか似ているところもある。
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