2020年8月7日金曜日

「お盆の帰省は是か非か」は愚論か否か?

標題にしている疑問だが、敢えて回答するとすれば「愚論ではない」になると小生は思う。

「愚論だ」と即断する人も多かろう。が、現実にこの2、3日のTVでは『帰省をどう思うか』という話題でもちきりである。現実にこのような現象が生じている以上、それには合理的な原因があるのであって、目の前の世間の動きが「愚かだ」と言う人物がいるなら、その人物の方が物事の因果関係を理解できない愚か者である……、というのが小生の観方であることは最近何度か投稿してきた。

ただ、昨日も本日もこのブログ、どこか言葉の遊びになっている気がする。これも、政治タレントともいえる某自治体首長が行政を言葉の遊びにして弄んでいる今の世であれば、マアマア許されるのではないだろうか。

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いくら「△△は控えてください」と首長が連呼しても、帰省する人は帰省する。

似た例として気象庁の「避難指示」がある。

いくら100年に一度の集中豪雨で気象庁が「大雨特別警報」を発令して、「命を守ってください」と連呼したとしても、現実に「避難指示」に応ずる人は極めて少ない。
 今回のアンケートを集計すると、避難指示が出された地域の住民、計約177万3千人のうち、実際に避難所に逃げた割合は2・6%。自宅の2階や屋上に逃げる「垂直避難」を選んだ人もいるが、住民が避難を見送ったり、避難のタイミングを逸したケースが多いとみられる。(朝日新聞、2018年8月27日 11時14分配信)
 こんな報道があるくらいである。「お上の指示」を守る人は驚くほどに少ないのが現実である。引用記事は2018年の西日本豪雨被害に関連するものだが、九州を襲った先日の水害でも状況はそれほど違ってはいなかったようだ。

『お盆の帰省は自粛してください』と、限定的な範囲にせよ政府が緊急事態を宣言して「自粛指示」を出したとしても、その場合はその場合で『あくまでも要請ということですよね』という「解説」がTV画面からは流れるはずだ。「帰省しよう」と思っている人が「自粛指示」を守って予定を変更することはマズないと、小生には想像されるのだ。
政府の指示は、それ自体としては、ほとんど実効性はない。国民に望ましい行動をとらせるなら、そんな行動を自らとろうとする誘因を与える、そんな行動をすすんでとるのが合理的であるような状況を政府がつくっておくことが大前提である。「指示」どころか、「命令」であったとしても、国民は無条件にその命令に従うものではない。

一言で言えば、下手な命令には従わないのである。指示も同じだ。  

こういうことだと思われる。 

ドイツと日本は軍の精鋭振り、エリート振りで似たところがあると言われていたそうだが、ドイツでは『将校は上手に命令を出し、兵は命令をきくのが上手である』と。それに対して、日本については『日本兵は世界で最も勇敢である』、こんな言われ方をされていたそうな。日本の将校は命令を出すのが下手であったということでもあるのだろう。

命令を出すのが下手なら、指示を出すのも下手だろう。上が当てにならないから、下は「自分たちが頑張るしかない」と覚悟を決めて、自分の持ち場を死守したのかもしれない。だとすれば、上は下に支えられる存在であったわけで、だからこそ上は下をコマのようには扱わない、下もまたコマのようには扱われたくはない。一蓮托生。打って一丸。そんな気風が定着したのかもしれないネエ。こんな風にも思われるのだ。

話しのポイントは「民主的な戦後日本ではなく、中央集権体制であった戦前期の日本ですら、上のような冗句があった」ということだ。中央集権体制であった時代ですら、日本では組織間の意思統一に手間取り、部下は上司の命令にしばしば違反し、陸軍大臣、参謀総長の指示に前線指揮官が服するということはなかったのだ。

では何故そうなってしまったのか。それは小生にも分からない。

別に「GoToトラベルキャンペーン」で税金を投入せずとも旅行をしたいと思えば国民は旅行をする。ずっと我慢をしてきたからだ。別に「帰省自粛」を指示しなくとも、毎日の情報から「いまは怖い」と感じれば、自粛をするものだ。それでも帰省をする人は「自粛指示」があっても帰省するのである。

こんな簡単なことは、徴兵制の下で誰もが軍役を意識していた時代には当たり前の事実であったろうが、最近の世相をみていると「言葉が何より大事なのです」という一種の宗教に支配されているせいか、とにかく言葉のやりとりを求めてやまない。問題の解決とはほぼ無関係なのにそうしてやまない。そんな印象もあるので覚え書きにしておく次第。

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マスメディアは「お盆の帰省」についても「自粛指示」を出すべきだとさかんに強調しているが、指示を出せば出せばで、今度は『政府の指示は基本的人権である移動の自由を制限するものではありません』という議論を始めるのは必至である。こう考えると、たとえ「帰省自粛指示」が全国に出されたとしても、多くの人はやはり自由に帰省するであろう。小生はそう思っている。

要するに『ああ言えばこう言う、こう言えばああ言う』というのが世間である。

行動の自由が保障された社会で国民全体の行動を変えたいなら、それは「法」によるのが王道である。「自粛」に任せ、違反する者は「無責任な愚か者」だと非難して家族もろとも世間で叩くというやり方は、閉塞的な社会を醸成してヒトの心を暗くするばかりであって、方法論としても愚策に分類されるのではないか。

法が私権を(時限的にであれ)制限するとしても、その立法が民主的手続きによるならそれもまた民主主義社会の一つの選択である。実際、民主的な先進各国はそうやっている。日本で同じことをやっていないのは、「運よくやらずにすんでいる」からである。「日本モデル」という程のものではない。単なる「結果オーライ」である。

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ずいぶん以前に『日本には日本の戦い方があります。同調する日本人には命令がなくとも出来るのです。日本人には自分たちの戦い方があるのです』と、そんな「自慢話」をTVのメインキャスターは盛んに流していた。しかし、冷静に考えれば
外国にできることが日本にできないとすれば、それは日本にやる意志がないということである。逆に、日本人に出来ることがあれば、外国人にできないはずはない。できないとすれば外国人は同じことをする意志がないのだ。
こんなことは簡単に分かることだと思う。 

都市を封鎖するのは効果的である。あるいはPCR検査を徹底して陽性者を割り出し、個人別の移動履歴を公開して接触回避に役立てるのも効果的だ。IT技術を活用してもよい。個人番号を活用してもよい。他の方法もあるだろう。

しかし、有効だと分かっている方法はどれも人権を制限したうえで政府が国民に命令しなければならないようなのである。

しかし、日本政府は日本国民に命令することを嫌がっている。これは明らかだ。それは命令する以上、命令者は命と身体を張らなければならないからだ。命令が下手である理由は、一つには状況を理解できないという能力の問題もあるだろうが、命令で損害が発生した時の覚悟や振舞い方、ケジメのつけ方が分からないということもあるのではないか。

『日本人には日本人の戦い方があるのです』というのは半分は当たっている。しかし、日本人は命令を下すのも、命令に従うのも下手なのだろう。故に、戦うにしても組織的には戦わないのだ。「集団主義」と言っても、それは所詮は「仲間主義」である。本当は、誰も総理大臣の指示を待っているわけではない。知事の指示を待っているわけでもない。市町村長の指示を待っているわけでもないのだ。なので、「私たち日本人は戦っている」という言葉の表現に小生は反対である。

いまの日本社会には「戦い方」以前の問題があると感じる。

山を登るのも、山を下るのも、歩いている人の意志である。上らなければならないのに、下る方が楽だから下るとすれば、それは汗を流して上る意志がないからだ。「上り方」云々の議論にしてはならない。

同じ理屈で、現在の日本とコロナ禍との関係性においては、なるほど戦いは繰り広げられているが、「戦い方」を議論する状態ではないと思う。要するに、「目的」が日本人で共有されていないのである。目的を共有できないという日本社会の通弊は歴史を通して相当一貫している現象であると小生は考えている。その理由は分からない。

今日は書き過ぎて、混とんとしてきた。また改めて。

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