2021年2月23日火曜日

立憲民主党に希望が持てない主たる理由

2009年に民主党が政権を奪ったときには日本中が何かの大きな変化を予感したものだ。小生も同じであった。たとえ東日本大震災が発生するという運命は同じであったにしても、大きな勘違いをして失望を感じさせることさえしなければ、安倍長期政権はなかったかもしれない。

その失望した理由は、当時の小沢幹事長 — 既に代表を辞任していたと思う ― が経団連や日本医師会など自民党の支持基盤を訪問し始めたことである。

つまりは自民党の地盤を切り崩すという戦術なのだが、これでは選挙には勝てるだろうが、要するに自民党の支持基盤が民主党に移るだけの話であって、実行される政策は自民党が進めてきた政策と大きくは変わらない理屈だ。

『こりゃあダメだ』と深く失望したものである。ガッカリとはあのことだ。

詰まるところ、「誰のための政党」であるのか、民主党には主体的な自覚がなかった。”Of whom? By whom? For whom?" この自覚がないから自民党に投票していた人たちを丸ごと奪おうとした。これでは何も変わらない。

「国民のため」では何も言っていないに等しい。国民にも様々、色々な国民がいる。「どんな国民のため」を具体的に指し示さなければ、その政党は「政党」ではない。

民主党はここが駄目だった。ホント、落胆したのである。

***

今回もまた、今秋の衆院選を見据えて、立憲民主党は自民党の支持基盤を取り込む戦術にでているという報道がある。

全国の経済団体、業界団体から要望をヒアリングしているというから驚きだ。バカじゃないかと思う。

自民党の支持基盤は自民党に要望していることを立憲民主党に伝えるだけである。加えて、自民党支持基盤は、一度は浮気をした民主党がいかに「使えない政党」であるかを知ってしまった。立憲民主党を見る目も同じだろう。

仮に、安倍政権を支えた支持基盤の切り崩しに成功するとしても、そこに出来るのは「革新」の仮面をかぶった「安倍亜流」であるだけだろう。

何も変わらんネエ・・・こんな野党が存在する意味はあるのだろうか?

と感じる日本人は多いのではないだろうか。優勝するには最大のライバルを支えるエースと四番をとってしまえばいい。そんな安直な発想である、な。政治の低レベルは長続きしそうだ。

「対立政党は何を為すべきか」が、多分、分からないのだろう。まあ、「為しうることを為す」のは秀才であるから、政党マネジャーとして現代表はそれなりの素質はあるのだろう。が、いただけない。失望は深まる一途である。

一言メモ: これも「遅れている日本」の好例か

 別のテーマで投稿を予定していたが、最近の世相を象徴するような書き込みをネットで見つけたので覚え書きにしておく。まず、さわりのところ:

「キス魔」の“実績”

 しかし、それ以外のセクハラ成立の可能性を井口弁護士は指摘する。

「周囲の者に対するセクハラが成立している可能性が十分あります。パーティーの場であれば、見ていた人がいたことでしょう。セクハラの要件は相手に不快感を与える性的言動ですが、この『相手』とは定義上、性的言動が直接向けられている者に限定されていません。

 したがって橋本氏の性的言動を目撃した人が不快感を持てば、その人に対するセクハラになります。その人が自分へのセクハラと主張できるのです」

 酔うとやたらとキスをする、なんて逸話を持つ女性は芸能界などにもいるようだ。

URL:https://news.livedoor.com/article/detail/19741055/

出所:デイリー新潮、2021年2月23日8:00配信

言うまでなく、橋本新オリパラ会長に関連した話題である。

いやはや、閑人なのだなあ、と。

小人、閑居して不善を為す。

その一例でもある。他にやる仕事がないのだろうか・・・。デジタル技術、医療・保健支援等々、人手が絶対的に不足している経済活動分野は多々あるのだが。

小生が若かった時分の決まり文句《不純異性交遊》を思い出しました。まだ、問題になるんだネエ・・・21世紀も20年が過ぎているのに。

なぜ、マスコミや平均的日本人はずっと昔の《風紀委員》ご愛用の「不純異性交遊」という言葉を復活使用しないのだろうか。まあ、心で思っていても、「先進国」の手前、使うのが恥ずかしいのだろうナア・・・

日本のメディア企業が愛する「先進国」ではハグ、キスは当たり前である ― 試みに、春爛漫のセーヌ河畔に集うフランス人たちを見てみたまえ。イスラム教を信仰する人々には愉快ではない光景かもしれない。一般に、不快に思う外国人観光客もいるかもしれない。いるとして、その人たちの不快感は尊重しなくともよいのか?

日本の常識は海外では非常識。海外の常識は日本の非常識。

この事実がよく分かるだろう。

だから日本は遅れているんですよ。

これまたメディア企業が大好きな言葉をなぜ使わないのか?キスはいけないからか?ハグはダメなのか?「多様性」ではなかったのか?多様性とは、「価値の多様性」は除外するのか? 価値観だけは共有するべきなのか? 価値観だけは意識統一の対象であるのか?

出張の帰り、空港まで迎えに来てくれたカミさんをハグしてキスをしようとしたら、カミさんは「ダメ、ダメ」と言って、拒んだことがある。それからは手を一寸振るだけだ。

外国の習慣は日本ではタブー、日本のタブーは外国では当たり前。

こんな例を探すと両手に余るに違いない。

海外と日本と、これだけ違っているのを放っておいていいのか?将来、やっていけるのか?

「世論」とは、つまるところ「世間の噂」という程度のものである。「世論」、「世論」と祭り上げるのは好きではないが、21世紀の日本社会になってもまだ《風紀委員》というのが、私たちの社会を見張っているのだネエ、と。

小生はウンザリするのだが、現役世代は案外当たり前のことだと感じているのだろうか。よく分からない。

2021年2月20日土曜日

ホンノ一言: この非論理性もよく言えば「日本的直観」なのか

もともとは森喜朗オリパラ委員長の「女性蔑視とも受け取れるような発言」であって、言う必要もない刺激的な言葉であった以上、確かに「失言」であった。

大体、委員会に女性委員が増えると、時間が長びくという傾向があるとは小生だって経験と合致していない。時間を気にせず滔々と自説を展開して自己陶酔する御仁はむしろ男性に多いと小生は確信している。概して女性の意見は男性の意見に流されず、具体的であり、役に立たない理念論争にはまってしまうことを防いでくれたような記憶が多い — 漠然とした記憶だが。観察事実としても、だから、森発言は間違っていると思う。

ところが・・・

森発言がネットとメディアという「培養液」の中で自己増殖する中で、ついに「夫婦別姓問題」に火がついて来たというのだから、まったく、自分が暮らす日本社会ではあるが「わけが分からない」状況になってきたと思う。

それほどにまで、日本女性には不満が高じていて、すぐに引火するような危険な状態にあったのだろうか?

だとすると、TVの情報番組はまったくの社会オンチ、というか、これまた「差別用語」ということであれば「目が節穴」であったことになるネエ。

まあ、格差拡大の中で問題意識は「男女平等」を超えて、ついに「あらゆる不平等問題」に火がつき、相対的貧困世帯の怒りが大炎上してきたというなら話しが分かるのだが、「夫婦別姓問題」ですか・・・何だか「憲法改正」を叫んできた安倍さんのようだなあ、と。そんな感想もある。

そう言えば、ずっと昔、何かの雑誌で読んだのだが、熊本の舞台では何の関係もない芝居でも最後には鎧兜をつけた武者が出て来て

何という事なけれども まかり出でたり 加藤清正

と見栄を切ると、ヤンやヤンやの歓声があがったという。そんなものなのかネエ、「憲法改正」も、「夫婦別姓」も。幕末の「尊皇攘夷」も同じようなものだったか・・・。

話しが飛ぶのは、天才的直観に恵まれた人にはありがちな特徴だが、橋本聖子新会長が就任したかと思えば、夫婦別姓で激論が始まるとは・・・

いま新型コロナで職を失い、生活に困窮しているのは、主に女性非正規就業者である。これは本当の意味で解決するべき問題だと思う。なぜ、目の前の問題を議論しないのだろう?

「世論」には目も脳みそもついていないとよく形容されるが、「いま面白いのはこれだ」というノリ、というか「直観」でも働いているのだろうか?

マコト、不思議ジャ・・・。

2021年2月19日金曜日

一言メモ: それにしても五輪に対する世論の変わり様をなんと言えばいいのか

辞任した森喜朗オリパラ会長の後任が橋本聖子五輪相に決まったものの、五輪開催については日本国内で「再延期あるいは中止」を求める声が多数であり、今回の会長就任は「火中の栗を拾った」とも表現されているようだ。

それにしても、「どうせ開催は無理だろう」という声が日本国内で急速に増えているのは、正直、驚くべきことだと小生は感じる。

前にも、こんな投稿をしている:

オ・モ・テ・ナ・シの予定を気が変わってオ・コ・ト・ワ・リにしても世論がそうなら仕方がないが、テーゲーなところで「そろそろ限界です」とあきらめて、あとは一切謝絶するというのも、いったん立候補した開催国としてはいかにも誠実味がなくて、器が小さい話だ。

検査効率化、低コスト化、自動化を叫ぶなら理屈が通るが、GDP第3位の「経済大国」日本が、それもロクに検査もしないうちから、今から敗北主義に立って『検査費がかかりすぎるンですヨネ』と泣きを入れるとすれば、その弱虫振りはやはり恥ずかしいネエ。

何と言っても、どこに頼まれるわけでもなく、自らが決めて立候補して、「贈賄」を疑われるほどの強引な誘致活動を展開し、最後には当時の現職首相である安倍さんまでがマリオに扮して登場したのが五輪開催都市としての「東京」であり、それを支援した「日本」という国であった。

確かに、コロナ禍で世界情勢は一変したが、日本は欧米に比べると感染者数も死亡者数もずっと少ない。 

『もう無理ではないかと思うんですけど』と言うかなあ、正直、そう感じる。折しも、オーストラリアでは、アメリカから「クレイジー」と揶揄されながらも、厳重な感染予防体制をしいた上でテニスの全豪オープンを開催中である。

「オ・モ・テ・ナ・シ」できそうになくなったので、今度は「オ・コ・ト・ワ・リ」したくなったということですか・・・

「状況が変わればすぐに嫌になるんだネ」と、(もしも)そう海外から言われると、今度はメディア主導で「安全な開催に努力してこそ誠意というものだ」、「日本人には出来るんだというのを見せよう」と、またまた、連日のように「国民運動」を展開して叫びまわるのだろう。そう思うと、その騒動の五月蠅さが想像されて、いまから嫌になる。

状況の変化で気分が「蝶のようにヒラヒラと」変転する《気分屋》という日本人の国民性は、時に「もののあはれ」を感じとる繊細さにつながるのだが、一貫した目的をあくまでも追求する大地に根の生えたような強靭さとはほど遠い。

コロナの蔓延に失望するのは仕方がないが、失望しながらも可能な選択肢の中から選択をして、ノーアウト・フルベース・ノー・スリーのような状況になっても、冷静さを失わない姿勢というのは、それこそオリンピックという場で培うべき精神なのではないだろうか?

立候補しておきながら、早々と諦める薄情さということに加えて、この態度はそもそもオリンピック開催都市として相応しくない、と。小生はそれほどのスポーツマンではないが、そう思いますがネエ。

2021年2月16日火曜日

最大の差別用語は「先進国」、「後進国」であろう

昔、「誰かが言ってましたが」

論理にだけは、誰であっても服さなければならない。

論理で負けて意地を通せばバカだと思われるだけである。

その論理が最も透徹しているのは、数学ということになるが、その数学でも「公理」という大前提があって、公理だけは証明抜きで認めておく必要がある。

ユークリッド以来の幾何学の公理(の一部)を否定して構築されたのが非ユークリッド幾何学である。アインシュタインの相対性理論はその一つの結実である。

大数学者ガウスは、非ユークリッド幾何学が可能であることを知っていたが、生前それを公表しなかった。非難を怖れたからである。

誰もが認める公理は、数学の世界でも疑ってはならない大前提となり、否定したときに何が言えるのかという考察さえも抑圧する《価値》になってしまうのだ。

論理だけから構成されているかに見える数学にもこんな歴史があった。

とはいえ、誰もが服さなければならないのは、《論理》だけである、というのは小生の人生哲学である ― そのために犠牲になったことは、正直、多いのだが、幸いにして《被抑圧感》というのは感じずに過ごすことができた。

★ ★ ★

日本の家庭の中の役割分担、職場の中の男女の業務分担などには、確かに、現代社会と不調和なところが多い。

解決しなくてはならない問題は多い。ただそれらが全て「男女平等」という言葉からアプローチするべき問題なのかどうか。そこには理念がもたらす「認知バイアス」もあるとは思っている。

小生が、20年も昔に、初めて学科長になったとき、まず「断行」したのは女性職員が担当していた「お茶出し廃止」である。不必要な業務であり、不合理だったからだ。

主観的には「断行」であったが、提案してみると思ったよりも賛同者が多く、一部にブツブツ言っている御仁がいたものの、スンナリと承認されたものだ。まあ、「古い慣行」とでも言えばいいのだろうか、現実には続いているから続けているだけであって、積極的に支持している人は案外少ない、そんな慣行は非常に多く残っているのが日本社会の実相なのだろうと感じる。

提案しないのは、細かなことを言い立てて目立つのがイヤだからだろう。得になることはなく、損になるかもしれないことには、手を出さないのが日本人の傾向である。まだ残っている男女の問題もそんなタイプの問題であることが多いような気がする — もちろん全てではない。本当の問題もある。が、小さな問題を片付けていくだけで、風通しはずいぶん良くなるはずだ。

★ ★ ★

確かに、上のような事情はあるにしても、『だから日本は遅れている』、『先進国とは言えない』等々と、言われると『お前たちがいうか』と腹だたしくもなる。

というのは、どの国が「先進国」かと言えば、言うまでもなく「ヨーロッパ」と「アメリカ」、ヨーロッパの中でも特に英仏独といったあたりだ。

小生、可笑しくてならないのは、「自分たちは先進国だから」と自分たちで言うか? と、そういうことであります。

★ ★ ★

ヨーロッパの自称「先進国」は、どこもかしこも、かつての植民地宗主国であり、帝国主義国である。

最初は、軍艦で支配し、次に製造業で支配し、それが衰えると金融資本で支配し、それも崩壊すると今度は理念で支配しようとする。キリスト教が健在なら、宣教師も「先進国」による世界支配に参加している事だろう。

中国が欧米の傲慢に怒りを表明する気持ちは、一面、小生も理解できるのだ。

いまは「多様化の時代」といいながら、何かといえば「それは遅れている」、「その価値観は共有できない」というのが「先進国」である。語るに落ちるとはこのことだ。「多様化の時代」を唱えているのは自らの国益のためである。自らの国益を度外視して理念を語れば、口先では誉めながら、心の中では阿呆と思うのが国際政治の最前線だろう。

★ ★ ★

欧米の胸の奥は「見え、見え」である。にもかかわらず、「遅れている日本」を力説している日本のTV各局は、「恥の上塗り」と言わずして、どう言えばいいのだろう?

多分、同じ敗戦国のドイツはともかくとして、「米英仏」あたりに「ほめてほしい」。そんな心理が日本の上層部には働いているのだろうが、このような心理自体が、いま世界を支配している「差別構造」の本質であると感じるネエ・・・

我を通して傍若無人な迷惑行為を繰り返し、ついに実力行使で体罰をくらい、激しく叱責された幼児が、今度は親の顔をみながら一生懸命に「いい子ね」と褒めてもらいたいと願う。こんな風情だと思います。

ああ、恥ずかしい。といったところだ。


・・・ ・・・


とマア、こんな投稿があってもよいと思われるような あまりの最近の成り行きで御座います。

2021年2月14日日曜日

ホンノ一言: 「未来志向」という決まり文句について

日本人(ばかりではないものの)が好んで使う表現に

未来志向で行こう

というのがある。

未来志向は「善い結果」を目指すという発想だ。これは典型的な功利主義であって、英米の伝統的な社会哲学である。

が、前稿で述べたが、善い結果を目指すなら善いことをしているとは言えない。目的は方法を正当化しない。国益のための戦争は善い戦争だという論理はないと小生は思う。殺人は殺人である。武田泰淳の苦悩を忘れてはならんだろう ― とはいえ若者の大半は知らないだろうが。

未来をみるのではなく、過去と現在をみて、『本当に正しい道を歩いているのか」という懐疑を自らに向かって発するのは善いことだと思う。

歴史にとらわれるのは未来志向ではないと日本人はよく言うが、過去の行動を検証することは未来への第一歩だ。検証をすれば必ず「ありゃあ失敗だ」という行為も見つかる。それを掘り下げて考察することで、社会も自分も厚みを増すに違いない。


2021年2月12日金曜日

一言メモ: 「近代オリンピック運動」の終わりの始まりか?

新型コロナに、今度はオリパラ会長の森喜朗氏による「女性蔑視発言」が加わって、投稿のネタはつきない。

例によって、取材能力の限界、それに時間不足もあるのか、TVはいかにも浅掘りの報道を続けている。

昨日になって、後任が川淵氏になりそうだというので、今朝のワイドショーはその話題で持ちきりだ。多分、今日は一日中、すべての異なる情報番組で同じ内容を繰り返し伝えては「専門家」があれやこれやと意見を開陳するのだろう。

何だか、飽きて来たねえ・・・

と小生は思うのだが、TVをつけておくと時に臨時ニュースが入ったりするので、やはり便利なのだ。つけておくと、同じ話が自然に耳に入ってくる。

何だか、「国民運動」のようで、嫌な世の中だネエ・・・

と、黒船が来航して、「攘夷」だ、「尊皇」だ、「武士」だ、「平等」だなどなど、明治の10年頃までは、そんな雰囲気が日本社会に広がっていたのではあるまいか?

★ ★ ★

森発言でにわかに「男女平等」が日本で議論されるようになった。急に盛り上がってきたのだから、いかにも付け焼刃だ。

小生は、学生時代に「男女別・産業別労働需要関数」を勉強したことがある。ゼミの恩師の専門分野が実証的労働市場分析であったからだ。

人によっては『そもそも男女別に労働市場を分析すること自体がGender Discriminationである』と、科学的観点を無視した超越的視点から非難を加える向きもあるかもしれない。

今回の「男女平等問題」だが、憲法や法律では両性の平等は担保されているので、広く問題になっているのは「形式的平等」ではなく、結果としての「実質的平等」である。

小生は、経済学から入ったので、実質的平等を問題にするなら、なぜ『あらゆる所得格差、資産格差は許されない』と人々は言わないのか、実に不思議である。男女の不平等を遥かに超える実質的不平等が、今の日本社会には現に存在しているではないか。不平等より平等の方が善いと考えているなら言うべきだろう。

男女間だけが問題で、他の実質的不平等ならあってもよいのか?何故よいのか?

実に不思議だ。

これが一つ。

★ ★ ★

政府も「男女共同参画」という政策理念をかかげている。

最近投稿したように「男女共同参画」が必要になった背景は社会の現実として確かにある。しかし、あらゆる経済問題に言えることだが、

経済問題は社会の現実から生まれ、やがて理念という衣裳をまとう

小生はこう思っているのだ。

ビクトリア時代の英国に思想家(というより日本でいえば小林秀雄に類似するような評論家)トーマス・カーライルがいた。主著は『衣裳哲学(Sartor Resartus)』である。カーライルは夏目漱石も読んでいたはずだ。小生も原文をAmazonからダウンロードしているのだが、まだ全体を通読はしていない。やはり漱石の読書力はすごいと思う。

例えば、ネットで感想・レビューを検索したりすると、次のようなコメントが見つかったりする:

読了。良著だった。 科学が発展し神が宇宙の外の存在となった時代、功利主義的な思想の流行へ批判を加え、霊的・精神的な観念や宗教的なものへの評価を架空の哲学者の口を通し語った作品である。多々目を引くような巧緻な表現があったが、完全に理解するまでには至らなかった。能力不足を感じる。 いずれもう一度読んでみたいものだ。

URL:https://bookmeter.com/books/31682 

コトバンクには次のような紹介がある:

 ドイツの大学教授トイフェルスドレック (悪魔の糞) の伝記という形をかりて,カーライルがみずからの思想の発展を述べたもので,ドイツの超越的観念論の影響のもとに,感傷的ロマン主義と功利的産業主義を否定し,この世の人間的制度や道徳は,すべて存在の本質がそのときどきに身に着ける衣装で,一時的なものにすぎないという哲学を力説した。「永遠の否定」から「無関心の中心」を経て,「永遠の肯定」にいたる精神的危機の物語は,狭い主我的な懐疑と苦悩に閉じこもるバイロン的傾向を捨てて,明るく広いゲーテ的境地に救いを求めた,カーライル自身の経験による。日本では明治,大正期に広く読まれ,ことに新渡戸稲造,内村鑑三らに大きな影響を及ぼした。

私たちの現実の生活から色々な社会問題が生まれる。それらをどう観るか、どう解決するかは、本当は社会科学的な分析に基づく方法が最も有効である ― 必ずしもキレがいいという意味ではない。しかし、問題を解決するための方法に必ず理念という衣裳がかぶせられる。その方法は善なのだという思想が生まれる。思想が人々の頭の中を支配するようになる。本来は、問題を解決するということから始まることが、コレコレの理念を冒とくしてはならないという精神的抑圧の手段となって、人々を押さえつける。

英国の全盛期であったビクトリア時代にあって、善い結果を引き出すための方法は善いのだと断じる功利主義的哲学の危うさを批判的に指摘したカーライルには、夏目漱石という皮肉屋も大いに共感を覚えたわけである。

どうも「男女平等」、「男女共同参画」に関する今回の騒動をみていると、そんな風に感じるのだな。

何を解決したいのか?

もう一度、<日本の中の>問題確認を明確化する方がよい。男女平等については、地球上で色々な問題の諸相がある。欧州には欧州の、イスラム教国にはイスラム教国の、アジアにはアジアの、インドにはインドの男女不平等問題がある。男女共同参画は日本の中のいかなる問題を解決するための言葉なのか?そういう確認である。

★ ★ ★

今回、特に<先進的自由主義圏>と目される欧米のマスメディアから森発言への非難が報じられてきた。

その世界的世論(特にアメリカのTV局であるNBC?)に抗しきれず、IOCも会長辞任要求へと向かったことが辞任の直接的契機になったと言われている。

思うのだが、口先の言葉で男女不平等を容認する(とも受け取れる?)発言をして、それが許せずに退場を求めるならば、実際に基本的人権を抑圧する行為をしているのならば、もっと悪いわけであるから、中国の人権抑圧に目を背けてはならない。そういう理屈になるだろう。女性を男性に比べて不利に処遇するという人権抑圧よりは、女性も男性も含め一律に抑圧する方が、もっと悪いことになるのではないか。それとも

男女一律に人権を抑圧するなら、それは男女平等だからいいのです

こういう「へ理屈」を通すのだろうか?

香港市内やウズベク族居住地において人権抑圧行為が現に中国政府によって採られている以上、それに対しても声をあげなければ、理屈が通らない。小生はそう考えるのだが。

ちゃんと声をあげるのでしょうネエ・・・という疑問。これがもう一つだ。

今回、男女平等という理念を冒とくしたという咎で辞職を求めた以上、求めた報道機関は中国、のみならずあらゆる人権抑圧行為を繰り返している国の政府にも、五輪から退場を求めるべきだろう。

ロジックはそうならざるを得ないのだが、欧米にそんな覚悟はあるのだろうか?

これが三番目。

★ ★ ★

オリンピックは、本来、あらゆる国の政治的行為から独立して、スポーツによって国際平和の精神をはぐくむために生まれた運動である。「男女平等」は明らかに基本的人権にかかわる問題であり、基本的人権にかかわる以上、必然的に国際政治上の問題である。その問題に振り回される状況を受け入れたIOCはもう近代オリンピック運動の精神から逸脱している。

近代オリンピック運動の模範となった古代ギリシアのオリンピア — 町の古名だがこう呼んでおこう— は、例え戦争をしている当事国であっても、オリンピア開催期間中は停戦をして、競技に参加したと伝えられている。近代オリンピックの現状と何という大きな違いだろう。

アメリカのヘゲモニーの下で自由主義圏による集団的ボイコットが行われた1980年のモスクワ五輪より前にもオリンピックは既に政治的表現行為の舞台として利用されていた。IOCの存続とは裏腹に、近代オリンピックは「運動」としては精神的にもう敗北している、と小生は思っている。今回また一例が追加されたわけだ。

現在の五輪が20年後にまだあるかと言われれば20年後にはまだあると思うが、40年後にもまだ続いているかと問われれば、それは分からないと思う。

近代オリンピック運動は、消滅か、堕落か、変質か、いずれかの道を辿っていくのではないかと予想する ― ま、自分の目で確認するのは無理だろうが。




2021年2月11日木曜日

民主主義のために我慢を強いられる「騒音」は様々ある

民主主義に選挙はつきものだ。しかし、我慢するべきコストもある。ずいぶん前に、こんなことを書いている

 (Walkmanで好きな音楽を)聴いていると、街宣車、いやいや来週末にある市長選挙に立候補している誰かが選挙運動で周っている声がする。何を言っているか分からないが、スピーカーから大声が聞こえてくる。

ヤレヤレ、1分か2分、スピーカーで『この町を変えましょう、この町には問題が山積しています。変えましょう!』などと叫んで回ったからといって、誰が投票するかねえ、あなたに

せっかくの名曲も台無しになった。

まったく、叫んで走り回ったから票をもらえると本当に思っているのだろうか?だとすれば、阿呆である。

民主主義で我慢しなければならないのは「選挙運動の騒音」だけではないことに気がついた。負のバブルのようなSNS、ネット、TVの騒音である。 貴重な意見もノイズのような騒音にかき消されて、伝わってこない。

***

そもそも、小生は「変わり者」であるせいか、「言葉」や「文章」というものは全く信用していない。「説明」や「ご卓説」はいい。学生にも

説明はいいからさ、どんな計算結果になったか、それを見せて

だから、教育者としては落第であった。教育者には確かに「言葉」が大事だ。「教育」や「躾」は言葉が極めて大事な限られた分野であると思っている。

さて、 

前々回の投稿ではこんなことを書いている:

理にかなったことを提案すれば通るだろうし、無理な事を主張すれば通らないだろう。やっぱり「なせばなる なさねばならぬ」が現実だと思うのだ、な。年長者のせいではなく、行動できないのは、自分にその気がないからだ、と。そうとしか思えないのだが、違うのだろうか?

思うのだが、民主制だろうが、君主制だろうが、何事によらず結果を出すために必要なことは「なせばなる なさねばならぬ」のスピリットの方であって、「言えばなる」と考えるのは完全な間違いだ。「言えばなる」なら、とっくに世界平和が訪れている。核兵器も地球上から消失しているはずだ。難しい問題など何もないという理屈だ。

口で言うだけではダメで、実行しなければならないから、難しいのだ。

世間を支えているのは、実質のある仕事をしている人たちであるから、真っ当な人であれば「言葉」より「実行」が遥かに重要であることは誰もが分かっている(と思う)。というより、口から出てくる「言葉」こそ、最も注意しなければならない、往々にして騙されるのは「言葉」によってである。これまた実際に仕事をしている人であれば、骨身にしみて分かっている「常識」だろうと思う。

だからこそ、口先ではなく、書いた文章にしておく。これが契約である。ことほどさように口先の言葉に意味はない。口から出た言葉で「ああ言った、こう言った」と口喧嘩をするなら無害であり、却ってホンネを言い合って相互理解も深まるというものだが、言い合いもせず、ダイレクトに社会の実生活に影響が及ぶなどは、幼稚の限り、精神年齢を疑うというのが、小生の変わらぬ原理、原則であったし、この数日の世間の騒動振りを観察していると、ますますその思いを強くする。

***

言葉で勝負する研究者でもそれは同じだ。

研究結果を伝える道具はなるほど「言葉」である。しかし、伝える中身を得るために、どんな着想に立ったか、かつ一度の思い付きにとどまらず、どれほどの長い時間をかけて一つのテーマを追求し続けたかの方が、はるかに決定的である。無数に繰り返した実験、何枚も反古にした計算用紙、長時間の対面インタビュー録音、etc.、これらに現れる労苦が結果の価値を決めるという意味では(何度も投稿しているように)小生は労働価値説の支持者なのである。この辺の理を実感できるのは、なにも研究だけではなく、あらゆる開発、マーケティングも同じだろう。真っ当なジャーナリズムも言葉を支える土台は言葉以外の汗と労苦であることに変わりはないはずだ。

こんな投稿があった:

 ■森会長の状況は弁慶の立ち往生のようだ

 私はこういった究極の判断、局面を迎える時に、誰が矢面に立てるのだろうかと考えている。これまで、多くの与野党政治家やスポーツ界関係者が森会長を「弾よけ」にしてさまざまな事業を進めてきた。それにもかかわらず、その森会長が苦境に立たされている場面で誰も表に出てこない。

 このフワッとした世の雰囲気に、自分では何もやらない方ばかりの社会風潮。マスコミも一方通行な批判しかしない社会では、常にフワッとした空気に流されるだけで、私は本質的な日本社会を変えられないのではないかと危惧する。

 たとえ、森会長が大きな判断をされても、こういうズルい人たちがいては開催是非の判断という目の前に迫る最大局面を乗り越えられないと考えている。イメージ的には、弁慶の立ち往生のように森会長だけ無数の矢を受けて、安全な場所にい続けた方々に矢を受ける覚悟があると思えない。

(出所)President Online, 2021-02-11 09:16配信

 まあ、今の世に弁慶が生きていたら、完全に男権中心主義の信奉者であったろうなあ…というのは冗句であるが・・・それにしても、なぜ森会長、女性委員についてあんな話をしたのでしょうネエ。カミさんとはこんな話をした。

小生: 問題発言の前後をネットで読んでみたんだけどネ、これって「女性蔑視発言」になるのかなあ?

カミさん: 「女性は」って言わなくともいいでしょ!

小生: まあ、事実としては、会議で長広舌を繰り広げるのは、大体が男だな。だけど、喫茶店で居心地のいい一角を占めてさ、声高でおしゃべりを続けてさ、時々「キャアッ!!」とか、「エエっ!!」とかみんなが声を揃えて絶叫したり、悲鳴をあげては、周囲をビックリさせる。そんな行動をするのは、ほぼ全て女性グループだよ。男でも騒々しい連中はいるけど、騒々しくするのはもともと五月蠅い居酒屋の中だ。確かに、女性がおしゃべりに興じはじめると、時間を忘れるってところはあるわな。

カミさん: そんな目線がそもそも女には腹だたしいのヨ。

小生: ふ~ん、そんなものかねえ。女性は「男ってさ」ていうのは言わないの?

カミさん: お喋りでは言うけど、会議でわざわざ発言はしないわよ。

・・・とまあ、こんな会話をしたのだが、女性が増えてくると、それが自然になって『殿方たちは〇〇』とか『男性の方は、女性と比べて〇〇』という発言をしたりするようになるのではないか?

それで、カミさんとの雑談にはまだ続きがある:

小生: 大体、何を言ったかで腹が立ってもだよ、女性の立場で言い返せばいいんじゃない。言葉には言葉で言い返して、口喧嘩をすれば、それでいいように思うけどネエ。本来、腹が立ったのなら、口喧嘩をして、本音をぶつけあえばいい話だろ。腹が立ったから、「辞めろ」、「社会を変えろ」というのは、気に入らないことを言ったから、実力行使をするってことで、こりゃあ俺には「暗黒社会」そのものにしか見えんけどなあ。中世ヨーロッパ世界では「神を冒涜した」人物は牢獄に入るか、火あぶりになるかで、世間から抹殺されたけど、今の世は「男女平等の理念を冒とくした」ってことかねえ・・・。

カミさん: もうこの話し、したくない!!

・・・ということで、終わりになったのだが、口喧嘩をするのも不愉快だから、存在を抹消する。いま世界で流行しつつあるこの発想は極めて危険であるというのが小生の考え方だ。

行動志向こそ価値を生むのであって、言葉志向は近年目立つ幼稚化現象の象徴としか思えないのだ、な。おしゃべりは、詰まるところは、おしゃべりであって、口先の言葉に余り高い価値をおくべきではないし、おだてやお追従に笑みを浮かべるのは阿呆の証拠である。こんなことはシェークスピアの昔から分かっている。演説で扇動されるような社会は単に軽薄な国民性を示しているのだと思う。

***

やはり、民主主義であっても、民主主義であるからこそ、「なせばなる」が大事で、「言えばなる」は間違っているというのが基本だ。

気に入らないことを言う人間を排除していけば、結局のところ、残る人物はタレーランのいう

言葉が人間に与えられたのは、考えていることを隠すためである。

La parole nous a été donnée pour déguiser notre pensée.

この種のタイプの人物たちだけになるのではないかと危惧する。ちなみに、このタレーランの言葉はフランスの古典派劇作家・モリエールのパロディだ。

  La parole a été donnée à l'homme pour expliquer ses pensées

 「言葉は思うところを表現するために人間に与えられた。」

作家や言論界なら商売道具の「言葉」を賛美するだろうが、ウソと真実の境目で仕事をしてきた小生はとても言葉を信じる気にはなれない。 

2021年2月10日水曜日

「シャンシャン会議否定論」の危うい思想

結構長く仕事をしたが、日本は「会議の国」だという記憶はまだなお強烈だ。とにかく「会議」が多い、というか多かった。

どこでも会議の数を減らそうと努力はしてきたとは思うが、今はどうなのだろう?一時は、会議を減らすための会議があるとも聞いた。

会議にもレベルがあり、最高意思決定会議もあれば、その下の個々の現場に密着した会議もある。

オリパラの森喜朗会長の「女性蔑視発言」というテーマがとうとう作られてしまった中、延々と毎日繰り広げられている「世論?」をフォローしていると、『日本では会議の前に結論が出ている。会議は最後のシャンシャンでしかない』など、これは日本文化そのものではないかという議論にもなっているようで、五月蠅い、五月蠅い・・・

政府関連のハイレベル会議の委員などに任命されると、これで国の方向決定に自分も参加できると思う御仁もいるのだろう。ところが、アニハカランヤ、結論は委員長と事務方で事前に決まっている気配がして、自分が独り会議当日に異論をたてるのは遠慮らしい、せっかく時間を割いて多忙の中を出席しているのに何だかバカにされている。まあ、こんな感想をもつ委員はそれなりに多いのだろうと想像されるわけだ。

日本人は実に「会議好き」であるという日常の実感と、逆に、委員に任命されて出てみると、会議以前に結論が出ているようで、会議の意味がない。こんな不平もまた同時にある。

「会議好き」と「会議は形」と、どちらが本当なのだろうか?

例えば、株式会社の最高意思決定機関は株主総会である。

しかし、株主総会の当日に議論百出して、議事が紛糾し、紛糾の末に総会当日の深夜に至り、ようやくのこと社の運命を決する一大重要案件に結論が下された。そんな事例を小生は聞いたことがない ― というか、株主総会は完全に形骸化しているという事実は誰もが知っている。むしろ一大重要案件が株主総会まで持ち越されて結論が不確定であれば、経営不透明感からその会社の株価は暴落しているに違いない。

将来が視えないということはそれ自体「リスク」である。

リスクを最小化するべき努力が組織のマネージャーには要請される。多くの関係者に取り巻かれている組織であれば理の当然である。

であるので、一大重要案件については、それより下の取締役会議で、更にはその下の各事業部レベルで関係者と調整のうえ、あらかじめ結論を出しておく。その結論をオフィシャライズする。日本の会議はそのためにこそある、というより会議というものが果たすべき機能は、(外観はともかく)国によってさほど大きくは異ならないはずである。

つまり、意思決定の場である「会議」が重要であればあるほど、シャンシャン大会になるのは当たり前なのであって、多くの人は「確かにそうだよねえ」と想い返すはずだと思う。

よく考えれば、高々3時間か、4時間の「最高会議」が開催されるまでは結論が出ず、その会議でどの委員がどんな意見を述べるかも予想がつかず、従って会議でどんな議決がされるかは五里霧中であるという状況が日常的なのであれば、それこそ日本中の会社で「イギリスのEU離脱国民投票」で世界があっと驚いたのと同様な「不測の事態」が、同時多発的に発生する理屈である。

そんな杜撰なマネジメントをするなど、危なくて、とてもじゃないが日本企業には投資はできまい。多数の関係者から協力を得るには不透明感は何よりも禁物だ。

ずっと昔、国民経済計算(SNA)関係業務を担当していたことがある。SNA体系は国際的な統計基準なのだが、しばしば改訂される慣行でもある。

近々公表が予定されている新体系がどのようなものになるかという見通しは担当セクションの業務計画を決めるには重要な点である。日本は最終的決定を待って準備を始める姿勢をとることが多かった(という印象をもっている)。しかし、たとえば欧州では毎月のように(国によって、時によっては毎週のように)SNA専門家が会って意見交換や議論をしている。そんな日常的な作業や会議に基づいて、重要案件がハイレベルの会議の議題に提出されれるよりはるか以前に、結論は基本的に出ているのだ。そこには落ちついた安定感と方向感がある。実に合理的で着実な進め方をとっている。これには統計行政分野の大先輩であるK先生から聞いた話も混じっているのだが、この辺の「危なげのない進め方」を感覚する感性というのは、案外、国を問わず共通のところがあると小生は思っている。

うまくいかない場合、日本はその日常的なインナーサークルには入らず、公式の会議で最終案が出てきたあとから勉強を始めたりする。そうすると、勉強を始めた時点で日本の作業状況には遅れが発生し、そのために急ぎモードとなり、議論が足りず、消化不良のまま、書かれた文書を一生懸命に勉強して、一言一句に注意しながらついていく。そんな風になりがちである。むしろ、こんな状況において「会議」という形式は実質的な機能を果たすのである。「決定事項」であるというわけだ。

故に、小生は「会議」で物事を決めるのは状況が良くない証であり、諸事円滑に運んでいる時はむしろ会議はシャンシャンと終わるものだと心得ている。

『会議の前に結論ありき』ですという不満は、せっかく委員に任命された機会を有効に(かつ期待されたほどには)活用せず、結論形成に貢献できなかったというそれだけの事ではないだろうか。

組織や場所を問わず、色々なレベルの会議が数多開催されているが、会議をよく観ていると、積極的に会議に貢献している人、眠狂四郎のように斜に構えている人、誰かの意見の提灯ばかりを持つことにしている人、反対ばかりする人、一言居士等々、あらゆるタイプの人がいるものだ。会議の場で物事の判断を決着させることは、議長にとっても時に至難である。結論が出なければ「持ち帰り」となるが、みな多忙なので次回会議の日程調整がつかない。その結果、出すべき結論が出ないまま、それこそ10年裁判のように検討が長期化するのである。五輪のように後が切られている場合は、持ち越しができない。なので当日に結論を出すことが至上命題となる。であるので、会議当日の前と後の時間を活用して、理解の共有や定着を図ったりするのが日常である。

議長を補佐する事務方にとっては当たり前の実務である。会議の目的は、会議自体にはなく、会議で承認された決定事項の実行にあるのだから、会議当日の前と後がより大切なのである。つまり、最高意思決定会議自体は、理屈から言って、シャンシャンである、というより「あるべき」だ、というのが小生の実感だ。


この辺の理が分からないとすれば、頭が悪いからに違いない。『言論のための言論』、というより「おしゃべりのためのおしゃべり」ということなら無害であるが、実務とは無縁の御仁が、意思決定システムについて、それは「善い」とか「悪い」とか、徒然なるままに批評して言いまわる所為は、メディア売上高には貢献するのだろうが、これまた選挙運動と同じで「これも民主主義のためには我慢するべき騒音なのだろうか?」と。そんな疑念を抱かれるだけになる。目的をもった組織の意思決定システムは「善いか・悪いか」ではなく、「能率基準」が唯一の評価基準である ― 逆に、目的なき共同体組織においては平等や公正などのその他の評価基準が関係してくる。




2021年2月9日火曜日

ホンノ一言: 右肩上がりの昭和時代って、どんな勉強をしたのでしょうねえ・・・

 こういうのを「揚げ足取り」というのだろうナア、とは思う。とはいえ、ネットに「公開」設定で投稿するというのは、世間で自由な論評の対象にしてくださいという意味でもある。で、遠慮なしに述べるのだが:

昨日までの正解が明日以降も通用する時代なら、経験豊かな年長者に従うのが合理的ですね。右肩上がりの昭和の時代ならそれでよかったのかもしれません。

URL:https://blogos.com/article/515444/?p=2

こんな言い回しは、最近になって、非常に頻繁に使われている。

それにしても「右肩上がりの昭和時代」ねえ・・・と、小生などは絶句する。

***

昭和時代ほど、波乱に満ち、ジェットコースターのように上がり、下がりを繰り返した時代はレアなのではないだろうか?

結果として実質GDP(当時はGNPが主であったが)成長率が高かったのは敗戦国で遅れていたことと、外地から内地に戻った人たちによって国内人口が急増したからだ。最近の中国と同じ"The Advantage of Late-comers"が高度成長の背景で、昭和終盤には「海図なき航海」の時代に入っていた。

多分、引用した箇所の著者は、昭和と言っても「いや、もちろん、戦後のことですヨ」と言いたいのだろうが、戦後といっても色々ある。「イヤイヤ、独立後の時代です」と言うかもしれないが、安保騒動、ベトナム戦争、狂乱物価、ニクソンショック、石油危機、こんな事は一切、ひょっとしてご存じない? 結構、大騒動だったんだけどなあ・・・。新型コロナなんて、正直、大した脅威じゃあありません。

小生には、「右肩上がりの昭和の時代なら、経験豊かな年長者に従うのが合理的だった」 というよりも、事実は反対で「混乱に際して周章狼狽することなく理にかなった行動をした経験豊かな人たちがいたので、昭和戦後という時代は右肩上がりの時代となった」ように見える。

***

昭和戦前期は、日露戦後から大正デモクラシー、第一次世界大戦後の国際協調時代を支えた経験豊かな人々を排除して、「革新」を目指す「新官僚」と自称するような「元気のいい若手・中堅」が、議論ではなく力によって強引に組織内改革を断行して、自我を通そうとしたところに、その後の「意図せざる対米戦争」に至る迷走の主因があった。

小生は歴史の専門家ではないが、そう見えるし、実際、そんな事実の集積が日本の失敗、というより崩壊そのものであったと思っている。

ま、昭和戦後の復興と成長は、幸運と合理的行動が重なった奇跡と見るべきで、確かに「右肩上がりの時代」に見えることは見えるが、それは「成績」なのであって、「右肩上がりのあの時代なら何とか、かんとか」などという甘いものじゃあなかったと、決して現役として中核を構成した世代ではないが、小生はそんな記憶をもっている。

これだけ書けば、覚え書きとしては十分だ。

若手は、風などは読まず、KYに徹しつつ、自分の計画を提案して、組織に、社会に、世間に遠慮なく訴えていけば、それで十分だ。現代日本には検閲もなく、発禁処分もない。十分ではないか。理にかなったことを提案すれば通るだろうし、無理な事を主張すれば通らないだろう。やっぱり「なせばなる なさねばならぬ」が現実だと思うのだ、な。年長者のせいではなく、行動できないのは、自分にその気がないからだ、と。そうとしか思えないのだが、違うのだろうか?

ただ、小泉時代に群がるように登場したベンチャー起業家が、民主党政権から安倍政権にかけての10年間でまったく後を絶つように貧寒たる状態に落ちてしまったのは、やはり政治が為してきたことだと思う。この点ばかりは、臆病で愚かな年長者に「責任の一端」がある ― 全責任ではない、念のため。が、この話題はまた別の機会に回したい。

2021年2月7日日曜日

コロナ禍のもの憂き気分: これまた日本文化の実相かも

新型コロナも北海道のもの寂びた港町で暮らしていると喧騒は遠くなりいつもと変わらぬ平和な日曜日の午前である。

毎週の習慣でワイドショー2本を続けてみながら、こんな話をする。

カミさん: 森さん(=オリパラ委員長)の話ばっかりだネ、サンジャポも。

小生: 昔から失言の多い人だったからな・・・

カミさん: オリンピック、ホントにやるのかなあ?

小生: IOCがやると決めれば、日本は協力しましょうと言うしかないよ。

カミさん: 日本の方から「無理です」って言えないの?

小生: オリンピックが中止されたのは3回だけなんだけど、世界大戦以外で自分の都合で返上したのは1940年の東京だけなんだよ。IOCがやろうと言っているのに、今度また東京が辞退すれば、また東京か、ってことになるだろうなあ。とにかく恥ずかしいし、何を言ったとか、これを言ったとか、そんな次元じゃあない完璧な無責任だよ、それは。まああれだネ、もうこの先、二度と東京が開催都市に立候補することはないって割り切れば、出来るだろうけど、そんな覚悟はないんじゃない。IOCの方から「日本はどうします?」って聞いてくれるのをコッソリと期待するしかないんじゃない?

カミさん: 他人頼みかあ・・・

小生: ワクチンもこれからだし・・・

カミさん: ワクチン受けるの?

小生: おれは科学進歩を信頼しているから、当然、受けるよ。でも、まだ未承認なんだよね(笑)

カミさん: なんでも遅いヨネ、日本は。

小生: ワクチンも感染対策もみなそうさ。外国はワルツやコサック踊りのリズムで踊っている隣で、日本だけは能か日本舞踊の仕舞でユッタリと舞っている、そんな感じがするな(笑)。『高砂やあ〽 この浦船に帆を上げて〽』なんていうリズム感だからネエ、日本の中だけでみると、「美の極み」で、悠然、泰然、艶然ってことになるんだけど、外国と比べると単にノロいわけだな。

イギリスのジョンソン首相だって最初は「集団免疫」を目指しながら、国内から批判を浴び、自らもコロナに感染してしまったものだから、敢然と戦略変更して、その後の動きは誠に速い。マクロンのフランスもメルケルのドイツも思ったようには行っていない。ワクチン供給戦略では欧州は完全にしくじったようである。 それでも「政治不安」にはなっておらず、持ちこたえているようだ。

この「持ちこたえる」という感覚が日本ではいま一つ伝わってこない。予想外に早期のタイミングで「もう駄目だ」ということになっている。

太平洋戦争で犠牲となった日本の死者数は軍・民合計して300万人強である。数字は確かに巨大であるが、ドイツの侵略を受けたソ連の犠牲者は1800万人ないし2400万人と推計され、これはソ連の当時の人口比で14パーセントに相当する(Wikipedia)。戦争開始時の日本の総人口は概ね7千万人であったから、日本の人的損失比は4パーセント程度になる。誤差はあるだろうが、桁違いに小さいことは間違いないのではないか。言い方は悪いが、この水準でも「莫大な損害」と日本人は記憶しているのであって、もちろん「莫大な損害」であるのには違いないが、諸外国では10パーセントを上回るのが戦争被害の目安なのだから、これと比較すると、日本の損害は比較的軽微であったという実相が伝わってくるのだ。何だか今日の新型コロナ禍の中で「耐えられない」と口にする日本人的感覚に危機に弱い特有の過敏さをみるような思いがしたりする。よくいえば「繊細」なのだろうと思う。

ま、なぜこうなるのかは、また考えることにして、やはり日本は平和な島国で歴史の大半の時間を過ごしてきた。こういうことではないかと考えたりしている。




2021年2月6日土曜日

「男女共同参画」は時代の必要に応えるボキャ貧な言葉だ

 「男女共同参画」という言葉は小生の若い時分にはなかった、という意味では全くの「新語」である。ということは、新しい時代背景の下で初めて意味のある言葉であるということだ。言い換えると、古くて新しい問題ではなく、まったくの新しい問題に応じて生まれてきた言葉である。このくらいはすぐに推論できることである。

逆に言うと、ずっと昔には「男女共同参画」という言葉が必要な社会状況はなく、今日になって初めて「男女共同参画」という言葉が必要になってきた、ということでもあるのではないか?

***

要するに、本質的な点は、女性が働く場所がこの3~50年間の変化の中で解体されてきたということだろう。

いま、女性は「家」でも、「家族」でも、「親族」でもなく、まして「村」や「里」でも「地域」でもなく、いかなる血縁関係、婚姻関係、地縁関係からも切り離されて、文字通り「社会」の中で人生を生きていくしか居場所がない。少なくとも個人、個人の女性に「ない」と感じさせるような変化が、雰囲気として、価値観として、また生活実態的にも進んでいる。もちろん男もこの変化の中に漂っているが、女はより先鋭的に感じる、そんな変化の事である。

鴨長明は名著『方丈記』の中で、「人とすみか」と言っているように、どこでどう生きていくかを人生の主題とした。それと似た問題なのだと思っている。

19世紀の英国・プロレタリアートは、いかなる土地からも自由となり(=農地を奪われ)、大都市の労働者として身を売るしか生きるすべがなかった。同じ観点から、「働く女性」をとらえることが可能だろう。

いま女性が日本社会で仕事をしながら生きていくのは大変だ。これが本質的論点である。

男性の小生すら「組織」や「交友」に対して「疎外感」を感じることはママあったわけである。小生は、酒席も献酬も大嫌いであるし、大人数の宴会などはいかにして欠席するかを常に考えていたくらいだ。そんな場で、疎外されている感覚、余所者である感覚、仲間ではないという感覚を何度感じたか、数えられる回数ではない。大学に戻って何より有難かったのは、集団で仕事をする義務から解放されたこと。「変人」であることが「独創的」、「横紙破り」であるのは「進取の気性」として評価された点である。やはり

一般社会の常識は大学では非常識、大学の常識は一般社会では非常識

ここが嬉しかったのだ。ヤドカリが自分の住むべき貝を見つけたようなものだ。

つまり「常識」という圧力がある。多種多様であるべき常識をただ一つの「常識」に統一化したがる性癖が日本社会にはある。「意識統一」という言葉が以前にはあった。今でもあるかもしれない。ここに日本社会の生きづらさの病根がある。

世に従へば、身、苦し

従はねば、狂せるに似たり

鴨長明が生きた平安時代から鎌倉時代にかけての日本。その時代にも生きづらいと思う人物はいたわけだ。

女性は「社会」で生きていく。ここが20世紀以前の社会と21世紀以降の社会とが違うところだ。だとすれば、旧来の社会で感じさせられていたような疎外感を女性に感じさせるとすれば、それは既存の社会システムの側の問題である。仕事をする女性には気の毒というしか言いようがない。問題解決しなければならない。

***

とはいえ、何度も投稿しているが、男女の性差というのは明らかに観察可能である。男女の違いは、子供を育てる中で容易に確認される明瞭な傾向として誰もが気がついている事実であるに違いない。

つまり、男性には男性の比較優位が、女性には女性の比較優位がある。

小生が育てられていた時代において、男女の比較優位分野はそれぞれ、家庭・社会全体の中ではホボホボ半々であったように感じる。そして、「家族」は市場経済原理からも競争原理からも無縁な共同体である。

しかし、「社会」では競争があり、市場が働く。

男性と女性が性差に由来する比較優位に基づいて、得意分野により多くのエネルギーを注ぎ、結果として男性優位の業務、女性優位の業務が分離してくるとしても、それは当たり前のロジックである。ちょうど、製造業が優勢な国・地域もあれば、金融業が盛んな国・地域もある、農業地帯もあれば、油田地帯もあることと同じである。IT産業が、いま最も有望な産業だからと言って、どの国も、どの地域もIT産業を誘致しようとするのは、かえって自らの利益にはかなわない。自らの利点を活用しない非論理的な希望となる。男女の違いも同じ視点で考えればよい。

故に、あらゆる活動分野で男女が均等であるような政策目標を掲げるとすれば、これはそれぞれの良さを生かさない愚かな政策であると思われるのだな。

***

亡くなった母は「生涯一専業主婦」であったが、いま女性が母と同じ人生を送るのは無理だろう。

「家庭」でも「地域」でもなく「社会」で生きていこうとするときに、比較優位を表現できる適切な働き場所が社会の中に十分にある。こんな社会システムを構築する努力は必要なのであって、個人個人の「最大多数の最大幸福」に至る途でもある。

日常生活は時間効率化され余暇ができた。余暇‐所得選好図式によっても仕事への需要は高まるわけだ。そんな状況が続けば、賃金には低下圧力が生まれる。

その低賃金トレンドは、AI(=人工知能)導入などによる生産効率化投資を抑え、日本の経済発展にはマイナスである。働く世代の幸福にもつながらない。もし小生が元の職場の現役であれば、育児、失業、病気、高齢化という4大リスク(?)をカバーする公的保険を統合し、保険料の雇用者負担を引き上げ、実質的な高賃金状況をつくる。支給拡大による家計収入安定と企業側の効率化投資の促進を狙う。そんな原案をつくるに違いない。きっと面白い仕事になる。単なる「最低賃金引上げ」ではダメだ。リスクカバーと再分配につながらなければダメだ。

流れとしては、女性の生きる場が家庭から社会へ移っていくのは止めようがないだろう。しかし、急な変化には世代間の意識のギャップが日本では大きすぎるような気がするのだ、な。伝統的かつ支配的な「常識」の下で疎外感が形成されてはならない。

「男女共同参画」がいわばお上から押し付けられた努力義務として認識されてしまう所に学問的な貧困がある。多くの人もそう感じてはいないのだろうか。

2021年2月4日木曜日

一言メモ: 森・五輪委員会会長の失言について

東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長というえらく長い職名で呼ばれている森喜朗氏を知らない人はいないと思う。その森氏が、(昔から往々にしてあったのだが)また問題発言をしてしまって(以前は舌禍事件と呼んでいたが)、世間を騒がせている。「失言」という面では何度もやってしまっているのだから「劣化」ではない。近年の日本社会で目立つ「劣化現象」とは別のことがらである。ある意味で「一貫」しているのだ、な。

要するに、委員会の中で女性委員が多くなると、女性委員はしゃべりたがるので、発言時間を制限しないとダメだと。報道—するほどの価値があるかどうか疑問なしとしないが―によれば

女性の理事を増やしていく場合は、発言時間をある程度、規制をしないとなかなか終わらないので困ると言っておられた。だれが言ったとは言わないが

こんなことをオンライン会議で語ったという。

小生の個人的印象では、勤務先の教授会の場を思い出しても、特に女性教官だからといって「長々と意見を述べたり」、「争うように発言したり」することはなく、むしろ年配の男性教官が左翼的な立場から反学長的見解をトウトウと語る事の方が多かった。こちらの方が迷惑だった・・・そんな記憶の方が強い。

まあ、確かに「失言」であるのかもしれない。が、同氏は昭和12年生まれで今年84歳になる。戦前派ではないが、戦後日本の価値観が定着する前の焼け跡派世代には属する。

小生の父親は、戦前の旧制中学で軍事教練を受け、全寮制の旧制高校を卒業した完全な戦前派だった。理系に所属していたので学徒動員にはかからなかったが、カミさんの亡父は文科であったので赤紙が来て出征した。終戦時は満州にいた。復員したのは終戦後何年もたってからだった。

そんな父親世代なら何と言うだろうかと想像すると、やはり今回の森会長と同趣旨の意見、というか「女性観」は語るのではないかなあと想像するのだ、な。叔父達も(聞いたことはないが)同じだ。男性社会を代表するような父権主義的圧力を幼少時から体感してきたのだから間違いはないと思う。

なにしろ小生の父方の実家、例えば法事などでは「女子衆」が厨房を占め、読経のあと住職(=男性である)を囲む、会席の場では夫婦であっても男と女は離れて座る。カミさんなどはその情景を初めて見たとき、衝撃をうけていた様子だった — カミさんの実家は祖父が内務省の末端官吏であったせいか、より現代的であったわけだ。

これは多分に現代日本にある世代ギャップのなせる事だろうと小生は思っている。そのくらい、いま日本社会を構成している各世代のメンタリティには大きなギャップがある。隣国・韓国でも年齢によって考え方の大きな違いがあるようだ。これは認めておかなければならない事実だろうと思うし、否定したくとも現に世代ギャップはあるのであるし、仕方がないことだろうと思う。大きな戦争が「100年もたたないつい3四半世紀前に」やっと終わったばかりであり、つまり歴史の中では同時代に戦争をした国であり、だからこそ現代日本も帝国主義時代の「贖罪」をいまもなお隣国から求められているわけだ。

古い思想と価値観がまだなお日本社会に残存していても当然で、それはダメだと怒ってみても、あるものはあるのだから仕方がないだろう。加えて、現代日本の豊かさを築いた功労者は外ならぬ高齢者世代(の生き残り?)であって、決して若者世代ではない。いまの若者世代は、豊かさの享受者であり、まだ何物をも成し遂げてはいない。これもまた見ておかないといけない点だろう。

ある人は、言葉はともかく、ホンネの考え方がそうなんでしょう、それが問題ですと、こんな立ち入った暴言を吐く人がTV画面に登場したりしているが、内心で何を考えるかには絶対的自由がある。これが現代社会の基本である ― ポストモダンでどうなるかは分からないが。問題になりうるのは、対外的に何を発言するかという社会的行為のみである。TV局は、内心を問題とする発言には注意するべきだ。その対外的発言という点において、明らかな失言をした。これに尽きる。しかし、あの時代の人ならそんな暴言もはくワナ、と。

とまあこんな風に思われるので、最も若い人たちの感覚と価値観で、最も高齢の人たちの感覚と価値観を非難しつくすとすれば、それは「天に唾する」ほどの幼稚かつ傲慢な態度であろうと、そんな印象をもっている。

結局は、あんなことを言っているが、実力はあるのでしょうか?問題はこれだけになるのではないか?

詰まるところ、この世の中の評価はただ一つ「実績主義」である。ヒトの評価は「棺桶の蓋が閉じられたとき」に人生全体の合計値として定まる。まだ成果・実績がなければ、発言力もないのが、浮世の鉄則である。参政権などクソラクエである。人格・人柄などは現実には無力であり、ただ「鼠をとらえた猫だけが良い猫である」としかいえない。そう思うのだ、な。 ― 森会長がいかなる鼠を捕らえたかについては情報通がいる。少なくとも政治家としては、あまり大した実績は残せなかったのではないかと思うが、これは外野にいるものの憶測でしかない。

それはともかく・・・

森会長の失言は別として、今夏に延長された東京五輪はとても開催はムリじゃあないか、中止するべきじゃあないか、といった「意見」が日本国内でもずいぶん増えているらしい。

しかし、まず確認しておかなければならないのは、

日本の側から五輪開催の中止を要請するわけにはいかない

この一点ではないか。

第1回のアテネ大会が(日清戦争のすぐ後の)1896年に開催されてから、近代オリンピック運動は100年を超える歴史を歩んできた。その100年を超える歴史の中で、一度開催が決まった五輪が中止されたのは、僅か3大会である。

  1. 1916年:ベルリン大会(第一次世界大戦のため)
  2. 1940年:東京大会(日中戦争泥沼化のため日本政府が返上)、ヘルシンキ大会(東京大会返上のため代替開催となったが第二次世界大戦勃発のため中止)
  3. 1944年:ロンドン大会(第二次世界大戦のため)
第二次世界大戦が終わった直後の1948年大会は、直近の開催予定地であったロンドンで、ロンドンの次は東京の代替開催地に決まっていたヘルシンキで1952年に行われた。敗戦国の日本が五輪に復帰したのはヘルシンキ大会である。

この他に中止されたオリンピックはない。また、開催に立候補しながら、開催国の都合によって返上された大会は1940年の東京のみである。

もしも今回、世界の中では新型コロナ感染状況が軽度であるにもかかわらず、日本の側から五輪開催を返上したいとの意向を表明するとすれば、同一国・同一都市による2度目の返上となる。

こんな「英断?」を日本人がとるなら、今後は一切、東京がオリンピック開催都市として立候補する可能性はないものと考えるのが筋であろう。

近代オリンピック運動の理念に賛同しているからこそ、五輪開催に立候補した理屈である以上、IOCがあくまで開催するのであれば、日本としては徹底的に協力と支援を惜しまない姿勢をとるべきだろう。

単なる義理と人情ではない。過去の国家的我儘への贖罪にもなる、というものだ。


パリ、ロサンゼルスの後に開催が認められるかもしれないし、パリの代わりは無理だろうが、米、欧州の受けとり方次第では、ヒョッとしてロサンゼルスの前に開催できるかもしれないではないか。

何ごとも「短気は損だ」。細々したことに怒らず、大きな絵を描くべきだろう。

2021年2月3日水曜日

ブログより面白いAmazonの書評コメント

 Amazonで本を買うかどうかを決める時、アップされている書評コメントを一覧するのは誰もがやっていることに違いない。

中には、本ブログに並んでいる詰まらない繰り言より遥かに面白い投稿もある。

余りに素晴らしいので、引用したくなったものをここに転載しておく。堀田善衛『方丈記私記』に対する感想である。引用箇所が元のコメント。インデントなしの部分は、本投稿の地の文である。

★ ★ ★

ちくま文庫の『方丈記私記』は著者と五木寛之との対談を付録として含む。この中で五木氏が面白いことを指摘する。鴨長明におかまの匂いがするらしい。

そういえば、

 〇 つきはなした冷徹なものの見方

 〇 すべてに対する広い関心

 〇 一種の疎外感

つまり、いろんなことにとっかかりがあってしかもすべてから締め出されているところ。中途半端。何かことが起こると、その現場に行って確かめたいと言う内的逼迫。おっちょこちょい。これらはおかま的資質である。

(と、五木氏が言っている。)

ひょっとして、「小生もおかま?」と思ってしまいました。何にでも広い関心がありすぎて、知的関心が拡散してしまったことが、研究成果という点で我ながら物足りなく思う結末をまねいたと反省しているし、「つきはなした冷徹なものの見方」は、時に会議の場で意見として述べてしまうこともママあったりして、それが周囲の良心的かつ常識的な同僚たちを引かしてしまうことにもつながった。そんな反省と後悔の念は、このところ高まる一方なのだ。それで一種の疎外感をもったりしているのも、ズバリ、的中しているのだから、これはそうだな、と。

 高校で『方丈記』を学んだ。「無常観の文学」のひとことで片付けられたが堀田善衛はそんなもんじゃねえだろうと自分の体験を方丈記に重ねている。例えば1945年3月10日の東京大空襲。死者10万人超。3月18日の天皇による焦土視察は、朝9時に宮城を出発し、まず深川富岡八幡宮跡で下車、ついで汐見橋、東陽公園、小名木川橋、錦糸町、押上、駒形橋、田原町と経て上野経由、宮城帰着10時。たった1時間。永代橋では人びとは土下座して、責任は家を焼かれ家族を殺されたわれわれにあると天皇に詫びたという。「あの戦争をおっぱじめたものは、天皇とそのとりまきである」のは明らかなのにどうしてこんなことになっているのか。なぜいったい、死が生の中軸でなければならないような日本になってしまったのか?

まったくその通りだ。日本の「天皇制」がもたらしているもの、日本人に押し付けている「日本のお国柄」に向ける「冷徹なものの見方」がこれ以上明らかな形で表現されている文章を小生はあまり見ない。 戦後は、全てが180度逆転してしまって、生は無限に重く、死は無限に避けなければならないが故に語ってはならないことになってしまった。死は家族の間からすら忌み嫌われて排除され、砂を噛むようなルーティン的日常の繰り返しが不安のない人生に成り上がった。そしてその象徴に天皇がいる。何かに対して愚かなほどの忠義を感じる日本人の姿が浮かび上がるというものだ。

 そして『方丈記』に書かれていたことがこれと瓜二つだったことに思いが至る。当時の「皇族・貴族集団のやらかしていること」と「災殃にあえぐ人民」という図式は何も変らない。長く続くことが尊いことなのか。伝統ばかりが尊いことなのか。

「生む」ではなく、ただひたすら「守る」という日本社会の性癖にウンザリとする人は多いはずである。 

 ・・戦時中ほどにも、生者の現実は無視され、日本文化のみやびやかな伝統ばかりが本歌取り式に、ヒステリックに憧憬されていた時期は、他に類例がなかった。・・この考えかたは現在でも相変わらず続いている。個人の幸福を追求できない仕組みが日本の社会には厳然と存在する。これは日本民族の宿痾なのかそれとも麗しい美質なのか。

「個人の幸福」よりも「日本の伝統」とか、「古来の文化」を優越的な位置に置きたがる日本のお国柄への問題提起、というか一種の絶望である、な。まったく同感するところだ。 

この観点で『方丈記』を読みなおしてみると堀田善衛の目に見えてくるのは、鴨長明の偏執的ひらきなおり、ザマミロといった具合のふてくされ、厭味、無常というにはあまりにも生ぐさい態度、世を捨てたからこそなんにでもイチャモンをつけられる姿勢・・。鴨長明は楽器の名手で楽才があった。『方丈記』の文章からは強烈なリズムが響いてくる。もしラップが当時あったなら、長明はこころの奥に鬱積した怒りをぶちまけるすごいラッパーになっていたに違いない。

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ネット上にあふれかえっている数多の自称・専門家による社会時評を超える内容が、Amazonの書評コメントという世間の目をあまり引かない場所にヒッソリとアップされているとは・・・日本社会の知的レベルは、表面から心配されるほどには、劣化していないということかもしれない。

社会の表面で目立つ言動をしている人々は、それだけ人気欲、注目欲、名誉欲等々の▲▲欲という邪念に動機づけられているのかもしれんネエ、と。『石が浮かんで落ち葉は沈む 』、そんな転倒的な世相が21世紀序盤の日本社会というものなのだろう。