2011年6月20日月曜日

意識改革の必要性

今日の日経には、5月の貿易収支が巨額の赤字に達したことに対する官房長官のコメントが載っていた。文章をそのまま引用しておこう:

枝野幸男官房長官は20日午前の記者会見で、財務省が同日朝に発表した5月の貿易収支が過去2番目の赤字額だったことについて「東日本大震災でこれだけの大きな被害を受けたので、一時的にそうした状況になるのは想定されていたことだ。できるだけ早く脱していくことが求められている」との見解を示した。
そのうえで「それぞれの企業の努力もあって製造工程の回復に向けては当初の想定以上に進んでいるので、そう遠からず状況は変わってくるだろう」との認識を示した。〔日経QUICKニュース〕 
(出所:日本経済新聞WEB版、2011年6月20日11:39配信)
この点と経済産業省による原発再稼働の要請を考え併せると、政府の上層部はいまだに製造業立国、輸出立国の感覚から全くと言ってよいほど抜け出られていない。海江田大臣の記者会見は以下のようであった:
海江田万里経済産業相は18日、記者会見し、原子力発電所を持つ11社に指示した原発の短期的な安全対策について「適切に実施されたことを確認した」と正式に表明した。原発停止の長期化による電力供給不安は国内産業の空洞化などを招きかねないと強調。福井県など地元自治体との調整が付けば来週にも直接訪問し、再稼働に向けた理解を求める方針を示した。 
(出所:日本経済新聞WEB版、2011年6月18日11:10配信、同13:12更新)
心配の対象は、電力供給不安と国内産業の空洞化である。しかし、量の安定を心配するなら、電力料金も心配しなければ筋が通らない。一体、政府は電力料金が今後将来にかけて割高基調をたどるという見通しを受け入れているのだろうか?その覚悟はあるのだろうか?

もし覚悟がないなら、急速に脱原発を進めるのは不可能ではないか。だとすると、原発推進とは言わないまでも、原発重視政策を維持するべきではないか?エネルギー基本計画を抜本的に見直すなどということは言わないほうがよいのではないか。

電力供給不安は、エネルギー多消費型産業が海外に移転すれば解消する。こうした産業構造ヴィジョンを政府が既に持っているのであれば、菅首相が最近にわかに唱え始めているエネルギー基本計画の抜本見直しとは整合する。新エネルギー重視政策ともマッチする。新エネルギーによる余剰電力を固定価格で買い取る仕組みも望ましい政策となる。新エネルギー拡大政策は、既存の輸出型製造業の国際競争力強化の役には立たない。輸出型製造業が海外に移転するのを抑制ではなくて、促進する。

こう考えているなら、「現行のエネルギー計画を抜本的に見直します」というばかりでは足りない。「新しいエネルギー戦略に適した新しい産業構造を目指します」と言うべきだ。「新しい国民生活のあり方を展望します」、そう明言するべきだ。

貿易収支の赤字が心配で黒字にしたいのであれば、輸出型製造業の国際競争力を弱める政策を実施しないことである。新エネルギー政策を大幅に拡充することは無理である。原発推進路線を急に変更することは無理である。

貿易収支が赤字になったことが、それほどショックなのだろうか?

働いて毎月もらう給料(それには残業手当も多く含まれている)だけでは、家計費がまかなえなくなったとしても、持っている金融資産から入る利子・配当、持っている不動産から入る賃貸料、これらの資産運用収入が増えれば、一家の生活は楽にできる。楽に生活ができる状態になっているのであれば、豊かな生活を送るプラン作りに頭を使うべきである。働き方が悪いと言って、現役世代をもっと働かせるのは愚の骨頂である。労働所得では足りなくなったと言って、「もっと体を鍛えろ、もっと頑張れ」と言わんばかりの感覚で物事を見るのは、どこかおかしいのではないか。そう思いませんか?

モノの輸出が減って貿易赤字になることを心配している頭からは、円安待望論しか発想されない。円高悪玉論でしか頭が回らない。

安く売ることを考えるだけで、高くても買ってもらえる商品を提供しようとしない。
高く買っているのに、安く買えるメリットを求めようとしない。
政府の思考回路は、一面的である。国民は多様なのに、政府は一つの立場からでしか、見ようとしない。政府の見方が正しいと、誰がいつ決めたのでしょう?

安く買うメリットを考えないのは、お金を使うことを、重要だと思っていないからである。
今もなお財産を蓄えながら、死ぬまで使わず、残そうと思わせているからである。
しかし、相続税率は今後上がることはあっても、下がることはないであろう。
蓄えた財産は国庫に戻るだけである。
一体、何のために働き、何のために蓄え、何のために生きてきたのでしょう?

私は、こうしたこと全てが幸福をもたらさない国造りにつながっていると思う。

政権を代表する人のこうした発言を見るにつけ、私は先週末にも本ブログで紹介した野口悠紀雄氏の寄稿を、再度、お奨めしたいと思う。氏の懸念は、政治家、官僚たちが持っている古い観念である。国民や企業が、意識改革をして、せっかく新しい発想で、理にかなった行動を起こしている時、権力を行使する側に立つ人たちが、これまでどおりの考え方で、是非善悪を判断すると、国民全体が大いに迷惑をする。そういう心配をしている。

各自1個ずつのバケツを持って、個々バラバラに消火活動を行うよりは、組織化をして、池から火の元までバケツリレーを行うほうが、同じ水量を効率的にまくことができる。整然とした行動は、時に非常に効果的であり、社会をより早く前進させる。しかし、火のない所に水をまいてもそれは浪費である。間違った組織に従うよりは、各自がバラバラに自由行動をとったほうが、社会全体の利益になるだろう。

少なくとも人間は損なことは嫌がるものだ。多数の人が思い思いの行動をとっていることによる非効率はたかが知れている。しかし、間違った統制、誤った組織化による害悪は、人災と言うには忍びがたいほどの惨状を時にもたらす。私たち日本人は、そのような惨状をよく経験してきたが、決して「慣れてますから」と言うべきではない。政治家の思い違いには、いつでも敏感でありたいものだ。


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