2022年8月31日水曜日

ホンノ一言: ペレストロイカも遠くなりゆく、か・・・

ゴルバチョフソ連・元書記長が死去した。氏の唱えた《ペレストロイカ》、英語で言えばだれでも知っている《リストラクチャー》ということになるが、ちょうどその頃は母が亡くなり、自分もまた勤めていた役所を辞めて、同僚とも別れて、遠くの大学に行こうかと考えていた時期でもあったので、ゴルバチョフ死去と聞くと、その当時の暗い日常を条件反射的に思い出してしまう。窓の外は冷たい夜雨がソボソボと降っているとなれば余計に憂鬱になろうというものだ。

<ペレストロイカ>といえば、プーチン・ロシア大統領はまったく評価していないので有名だ。

ソ連末期と崩壊後のロシア社会の大混乱は、プーチン氏が強権統治による「安定」をアピールし、長期支配を続ける格好の材料にもなってきた。プーチン氏は1991年のソ連崩壊を「20世紀最大の地政学的悲劇」と評した。ウクライナ侵略を巡っては、かつてのソ連の版図回復が目的との見方がある。

URL: https://news.yahoo.co.jp/articles/2e4cc6272b2ca7731ec2d147d009168eb2711215

Source:読売新聞オンライン、8/31(水) 14:06配信

確かにソ連崩壊は「巨大な」地政学的悲劇であったというのも可能だと思う。しかし、ソ連崩壊とその後のロシア国内の混乱は、ゴルバチョフが、というより彼の政敵であったエリツィンに半ば以上の責任があるように思う。

というより、ソ連崩壊が「地政学的悲劇」というなら、大日本帝国崩壊もアジア・西太平洋地域においては歴史的な「地政学的悲劇」と言えるのじゃあないか。そのスケールは全アジアを覆うものだった、と言っても過言ではあるまい。大日本帝国が当時の国際政治環境の下で平和的に持続することが不可能な状況に陥っていたのと同じ意味で、ソ連の社会主義体制は経済面での非効率が許容限度を超え、社会が行き詰っており、持続不能になっていた。プーチン大統領が「地政学的悲劇」を嘆くのなら、日本の右翼勢力にも『大日本帝国の崩壊は地政学的悲劇であった』と嘆く思いがあってもおかしくはない理屈だ。

もちろんそんな暴論(?)というか妄言(?)を断固として言える蛮勇をもった政治家は今の日本には一人もいないと思うが、仮にそんな発言があるとすれば、歴史感覚が貧弱であるという点で共通している。ま、明治も10年になってから、薩摩の士族が西南戦争を起こしたくらいだから、イデオロギーというのはいつでも引火、爆発するものではある。というより、明治維新から73年も経ってから旧・摂関家の近衛文麿内閣が提唱した「大東亜共栄圏」は、「アジアの欧米列強植民地をその支配から独立」させ「大東亜の民族解放」を追求するという点では、幕末の尊皇攘夷を看板通りに決行したものとも見えてしまうわけで、まったく価値観というのは、時計とは違って、前にも後にも回る、「先祖返り」も決して珍しいことではないのだ。

プーチン大統領が実現した「安定」には歴史に沿った自然な前進が見られなかった。咲かせるべき花が枯れしぼむばかりだった。それはそもそも無理な事をしようとしていたからだ、と。そう思っている。もって<他山の石>とするべきだと思う。

2022年8月29日月曜日

ホンノ一言: 風車に突撃するドン・キホーテと化したFRBでなければイイが・・・

 (少なくとも?)株式市場では先行き悲観的な見通しがジワリと形成されつつあるようだ。日経でもこんな記事がある:

米金融政策を巡り、市場と米連邦準備理事会(FRB)が神経戦を繰り広げている。パウエル議長を始め、金融引き締めに積極的な「タカ派」発言がFRB高官から相次ぎ、市場が織り込む利上げのピークは約3.8%に再上昇した。利上げ警戒で株安が続くとの声も増え始めている。

Source:日本経済新聞、 2022年8月28日 2:00

《攻撃的インフレファイター》の役回りを果たそうと一切ブレない(?)FRBに経済界の注目が改めて集まっている、というのが現時点の状況だ。

NYTに寄稿しているクルーグマン(Paul Krugman)はこんな風に現状判断をしている:

And this may create a dilemma for policymakers. The Fed believes (correctly, I think) that the U.S. economy is running too hot and needs to be cooled off; it uses core inflation as a way to measure that overheating. But housing is a large part of core inflation. And pretty soon we’re likely to have a situation in which official measures of housing costs are rising although we no longer have a hot economy, because official measures are still catching up with the Virginia Woolf effect.

Source:The New York Times, Aug. 19, 2022

経済の実態は既にクールオフしてきているにも関わらず、FRBは誤った物価指標に基づいてインフレが進行していると判断している、と。

バージニア・ウルフは秀作『灯台へ(To the Lighthouse)』で著名な作家である。そのウルフは執筆には居心地の良い部屋がいると言った。その思いはテレワークに励むビジネスマンにも共通している。だから良い部屋を求め、家賃が上昇しているのだ、これは物価一般の上昇であるインフレとは別の現象だ。そう考えているわけだ ― それはそうかもしれない。が、何だか1980年代後半、首都圏の地価急上昇を『今の地価上昇は国際金融都市としての東京の将来性を先取りした現象であり、根拠のないバブルではない』、こんな解釈をしていた経済学者を思い起こさせるのではあるが。

これに対して、サマーズ(Lawrence Summers)はどちらかというと<インフレ・タカ派>である。最近の所見は次の記事から察せられる。

Meantime, China’s current slowdown “probably will” give some relief for the US in terms of inflation, in particular through its effect on commodity prices, Summers said. 

The former Treasury chief reiterated his call for Federal Reserve policy makers not to be lulled into thinking that decelerating headline inflation -- thanks to oil and commodity-price declines -- means that the inflation challenge is subsiding. 

Summers said that US inflation expectations -- which show confidence in price gains returning toward 2% over the longer haul -- have been propelled by oil and commodity-price declines. But core measures of inflation aren’t showing progress, he said.

URL:https://www.bloomberg.com/news/articles/2022-08-18/summers-says-china-surpassing-us-is-japan-1990-all-over-again

Source: Bloomberg、2022年8月19日 2:34 JST

Author:Chris Anstey

どちらの見方が「正しい」のだろうか?、・・・いや「正しい」というのは価値判断的であって答えは定まらない。「望ましい」のだろうか?と聞くべきだろう。が、望ましいという判断には「何にとって」という<何>を明言しなければならない。クルーグマンの場合、その<何>は「雇用」であるという立場は、常日頃から語っているところだ。サマーズは何を目的と認識してインフレ抑制の徹底を語っているのだろう?

株式投資家の利益を考慮してクルーグマンが上のように判断していると邪推するなら(いかにもそんな御仁はいそうであるが)、本人にとっては至極残念な事だろう。

いずれにせよ<投資家>と<一般労働者>の双方の利益は、対立的なものとは限らず、Win-Winの関係にある側面もあるわけだ。

投資家の利益ということなら、Telegraphのプリッチャード(Ambrose Evans-Pritchard)が論旨鮮明だ。

There is every sign that the Fed actively wishes to crater equity prices in order to restrain demand through the wealth effect. It wishes to push up junk yield spreads and restore some Schumpeterian discipline to corporate finance. It wishes to tighten financial conditions as a mechanism for choking inflation. It is a “tug of war” between the Fed and the markets, says Krishna Guha from Evercore ISI.

今後もドルベース流動性を削減し、世界を<ドル枯渇>に追い込む意図なのであろうと断じている。

  It intends to accelerate the pace of quantitative tightening (QT) in September with $95bn of monthly bond sales. It intends to drain liquidity from the world’s dollarised financial system, and the rest of us can drop dead. Fight this Fed if you dare.

 Source:24 August 2022 • 6:00am

2008年の「リーマン危機」を予見したので著名なルービニ(Nouriel Roubini)は実態は更に悪化するであろうと語っている。

There is ample reason to believe that the next recession will be marked by a severe stagflationary debt crisis. As a share of global GDP, private and public debt levels are much higher today than in the past, having risen from 200% in 1999 to 350% today (with a particularly sharp increase since the start of the pandemic). Under these conditions, rapid normalisation of monetary policy and rising interest rates will drive highly leveraged zombie households, companies, financial institutions, and governments into bankruptcy and default.

Source:The Guardian,  Thu 30 Jun 2022 07.00 BST

経済専門家が、現在のFRBの政策姿勢を大勢としてどの程度まで支持しているかは(小生の手元の資料では)明らかでない。が、少なくとも上のプリッチャード寄稿が言及しているように、このところ戻り基調を辿ってきたハイテク株をインフレ心理の燃えカスだと見なして、ジャンク債の相場を叩き金融引き締めを徹底することによって、最終的には《不健全企業》や《過剰債務世帯》を叩き潰すというシュンペーター的な《清算戦略》をFRB当局が追求しているのだとすれば、これは戦う相手を間違えている、と。現状認識としてはクルーグマンの指摘が現実的であるような気はしている。



2022年8月25日木曜日

メモ: これ便利だよね、だけではダメでしょうという話し

一面的な議論、一面的な批判、一面的な称賛。現代日本にはそんな風な騒ぎが毎日起きていてホントに喧しい。

本ブログは、始めてから間もなく休眠状態になっていたものを、東日本大震災後にそれまで30年間ほど書き続けてきた日記から、特に社会的な出来事を抜き取ってブログにしてみるかと、そんな思いつきから再開したものだから、要するに自分勝手に世相を記録するWebLogである。

プライベートな家庭内の事は別に節目、節目でオンライン文書にしているが(場所を問わず編集できるのが強みだ)、本日はこんな事を書いておいた。これは今日的世相の記録にもなるのでそのままコピペしておきたい。

本日、マイナポータルからマイナポイント付与の手続きを済ませる。本人とカミさん二人分。愚息たちは自分で手続きすればいい。感じたのだが、手続き自体はそれほど複雑を極めるものではないが、世間一般のいわゆる「手続き」と比べれば、ネット接続、関連アプリのインストール、本人確認の厳格化などが複合して、やはり「面倒だなあ」と意識されると思う。便利であるにも関わらず普及しないのは、利用コストが高すぎるからに決まっている。そのコストには、価格など貨幣的費用だけではなく、必要な知識、器材など非貨幣的な手間一切が含まれる。分かっている側の前提でサービスを設計しても、分かっていない側の事情に無知ならば、本来は有用なエネルギーが無駄に空回りするだけだ。高度成長時代の日本企業がどれほど営業で工夫をしたかを思い出すべきだろう。戦後日本の復興と高度成長は、簡単かつ楽チンに実現されたわけではない。

本来は有用なエネルギーが無駄に空回りしているケースは、現時点の日本の(ひょっとすると)あらゆる場所で数多く見つかるかもしれない。

日本の高度成長は世界の成長にうまく乗っただけだと心得顔で言ったりする人がいる。しかし、1990年代、2000年代の間、日本は世界の成長に乗れなかった。未だに周回遅れを挽回できていない。時代の波に乗ることは野次馬が口で話すほど簡単ではない。結果に結びつけるには運・鈍・根が大事であるのは今も昔も変わらない。この理はビジネスも研究も同じのはずだ。理論通りに成功に至る道があれば、誰でもとっくに成功している。が、「失われた30年」の間、日本は成功へ進むどころか、現状レベルを守るだけであった。世界から随分遅れた。この事に最近やっと日本人は危機感をもち始めた様子だ。ずっと喧しく駄弁っていただけだと気づくだけでも一条の光ではないかと思う。


カミさんに『この手続き、みんなスムーズにやっているのかなあ・・・』 と聞くと『無理だと思う』と応じる。本日は二人分の手続きを済ませたのだが、ネットには無縁の両親が今も健在なら、両家の祖父母4人を加えて、計6人分の手続きをやっていたことだろう。これも面倒だ・・・

危ない(とされる)インターネット経由とは別に、市役所など公的機関が中央サーバーに接続する専用回線を設けて、顔認証などで本人確認された市民は簡便に手続きできるような端末を、市役所の一角に設置するなどすれば、社会のデジタル化は加速するのじゃあないか。

とはいえ、サーバーに大事なデータを置きたくないという慎重な御仁もいる。そんな人にはUSBがいい。漏洩が懸念される預金口座番号や保険証番号、基礎年金番号、その他情報などは取り外し可能なUSB媒体にセキュリティキーと一緒に記録して住民に配布すればいい。上記端末を利用するにはそのUSB媒体を端末に挿入する。手元のメモをみて暗証番号を入れる。後は簡単だ。情報は外にあり、サーバーから漏出することはないので安心だろう。安全性への懸念もかなり弱まる。但し、そのUSBを忘れたり、なくしたり、落としたりすると、後処理がかなり面倒だ。

サーバーを信じるか、落し物はしないという自分の能力を信じるか、あるいは文明の利器には近づかず、敢えて不便を続けるか。結局は3択になる。

手続きが煩雑に過ぎれば、その分、価値がなくなる。「あったほうがいいよね」というのはコスト意識ゼロの役人的発想だ。便益から費用を差し引いた純益ベースで価値を測定するのが基本だ。


イノベーションはハードウェア分野で起きるとは限らない。売り手と買い手とのインターフェース、政策実行のインターフェース。40年も前にPCで起きたインターフェース革命と似た変革があってもおかしくはない。意識変革とも言える革新が待ち遠しいネエ。結局はITエンジニアの総体としての力量に帰着するのかも。ここも弱いのかな?

「どげんかせんといけん」のじゃないか・・・いま『夜明け前』なのだろうか?


2022年8月23日火曜日

ホンノ一言: 五輪汚職事件? フランス発捜査に日本も協力する?

元電通の高橋治之氏が逮捕された。容疑は東京五輪開催に係る収賄である。

以前から2020年東京五輪招致には巨額のカネが動いており、特にフランス検察は(どういうわけだか)五輪汚職に強い関心をもって捜査を続けていたようだ。東京招致に成功した時のJOC会長・竹田恆和氏は既に引責辞任しているし、その時の東京都知事であった猪瀬氏も別の理由であるが辞任した。そして今回の高橋氏と、東京五輪招致に貢献した立役者達は枕を並べて失脚してしまったわけだ ― 森・元首相も舌禍事件で逼塞状態である。

決定当時のお・も・て・な・し。それがコロナ禍で2020年はオ・コ・ト・ワ・リ、1年後の無観客開催でイ・レ・マ・セ・ン。遂にここに来て、ス・イ・マ・セ・ンになったという次第。 

フランス検察の協力依頼に対して恭順の姿勢を日本はとりはじめた様子である。


高橋氏はIOC部内にも顔がきくヤリ手のフィクサーであったという。同氏の前には、西武グループを率いた堤義明氏がスポーツビジネスの顔であった。堤氏はとっくに失脚し、高橋氏も今回失脚。もう活躍は出来ないだろう。何だか時代劇の舞台の

そちの働きには感謝しておる。しかし、そちに敵意を抱いている者も数多くいるようじゃ。放っておくと殿にも火の粉が飛びかねんでのう。すまんが、そちとの縁もこれまでと心得よ。

こんな感じで切られてしまったのかなあ、と。又々《使い捨て》の憂き目にあったのかなあ、と。そんな印象だ。

多分、元皇族である竹田さんだけは絶対に守る、と。高橋氏の首でフランスには納得してもらおうか。

先般、貴国よりお申し越しの捜査案件。日本も主犯と思われる人物を既に逮捕致した。今後、事件の真相は明らかにされるであろう。これで身は綺麗にした。札幌冬季五輪招致に問題はもう御座らぬな・・・

こんな思惑なのだろうかネエ?

遠く北海道の港町から事の進展を観ていても、そう思っちまいますぜ。

日本のマスコミは、全体シナリオを渡されているのか、お国の上層部が仏国と話しているとおりの筋書きで「寄席」を、いやいや「ワイドショー」を開いているように見える。客が増えれば、いや視聴率が上がれば、それでよろしかろう。「経営、苦しいによっての、誠に目出度い限りじゃ」。こんな塩梅でござろうか。

安倍さんもいなくなって、こんな展開になったか、と。そんな疑問もありまする。

2022年8月22日月曜日

断想: タコつぼ社会と責任の取り方、意外と根は深いようで

<現場を知らないダメな上>とは世界でもよく口にされる日本評だ。

もしこの「ダメな上」が客観的真相であるとすれば、ダメなエリート達を作っているのは、外ならぬその現場であるかもしれない。これもまた真実ではないか。そう考えるようになった。いわゆる「タコつぼ社会・日本」の議論である。

タコつぼ社会・・・誰だったかなあ、これを言い始めた人は?

そう思って、調べてみると戦後日本有数の政治学者・丸山真男であった。名著『日本の思想』に登場する概念だ。

読んだのだがナア・・・ドラマと同じで、忘れた部分が多ければ、再見も初見も同じである。かといって、本もドラマも暗記しておく必要はないのも事実だ。知識の形成は難しい。

さて、タコつぼ社会的な台詞の例としてこんな言い方がある。

現場は現場に任せてくれ

しかし、こればかりを言っていると、中枢部から現場視察に来たエリート達に弱みを見せたがらなくなる。弱みをみせると現場の責任を問われるかもしれない。それは怖い。そんな現場の雰囲気が出来る。それで、問題個所を中央には隠そうとする。

確かに現場の問題個所は現場に原因がある場合もある。その一方で、現場の問題は全ての現場に共通するシステマティックな原因から生起しているものもある。

そのシステマティックな問題点を確認するために、中央のエリートは現場を頻繁に観なければならない。しかし、それを嫌がる雰囲気が日本の現場にはある・・・。だとすれば、現場を知らないダメな上を作っているのは、当の現場である。それも一面の真実ではないか。


とはいえ、問題によっては、現場がいくら頑張っても現場では問題解決できないときがある。そんなシステムレベルの問題もあるのだ。

一般に、客足の悪いレストランがあるとして、

責任はホールやシェフにあるのではない。経営者にある。

「誰かがそう言ってました」が、けだし名言である。小さな問題の原因は現場にあるが、大きな問題の責任はトップにあるわけだ。

ということは、現場レベルを超えた大きな問題を解決する責任は中枢部にある。解決できなければ、中枢部が責任をとらなければならない。

それが出来る仕掛けになっているかがポイントである。

実は、タコつぼ社会ではそれが出来ない。

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おそらく、現場は現場の責任にされるのを嫌がって問題を隠し、エリートは責任を追及されるのを嫌がって問題個所を発見しようとしない。そんな実状だろうが、だとすれば、根底にあるのは《責任》という観念が実際の場でどう働いているかである。

問題があり解決が求められている時、現職の首を思い切って切り、新たな人物を充てる方がシガラミを断ち切り、速やかに対応できる・・・そんな組織戦略が有効な状況は確かにあると思う。日本史にもよくある話だが、江戸・旧幕時代では、問題が発覚した時の責任者が「問題が発生した」という理由で腹を切り、新たに着任した人物がその後の対応をするという解決手法がよくとられていた。現在の日本社会にすら、そんな感覚が色濃く継承されている。

しかし、環境が激変する時は、システム全体が危機に陥るので、問題は構造そのものに原因がある。そんな状態で現場責任者に切腹ばかりさせていると、最後には人材が一人もいなくなるのは当たり前である。実際、幕末の最終段階ではそんな人材切れの状態に近づいた。

責任の取り方と人材活用と。どちらを優先させるかは時代環境によって違う。

こんな当たり前のことは誰でも分かっているはずだ。

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2022年という現時点の日本社会でも、伝統的で固いモラル観を前提にした議論が後を絶たない。

19世紀後半の幕末、1920~30年代の国際政治環境の激変期には、日本の政治システムが対応できず、常にハードランディングを演じてきたのは、戦争モードと平和モードの転換が社会レベルで出来なかったためだろう。

戦争モード単一社会は<総動員体制>になって息苦しい。が、平和モード単一社会も<平和ボケ>が露呈して大きな問題に対応できないという欠陥がある。

「戦争」を「緊急時」と言い換えても議論はほぼ同じだ。

「戦争モード」と「平和モード」と、この二つのモード転換を行う責任をもつのは、統治構造のトップ、つまり明確に定義づけられた国家元首以外には考えられない。


ところが、日本においてはその国家元首が、実は平安時代に遡ってまで、ずっとハッキリしない。「と思っている」と言う方が正しいが、明らかな事実だろうと主張したい。

岩波新書『日本の近現代史をどう見るか』(シリーズ日本近現代史⑩)の第2章『なぜ明治の国家は天皇を必要としたか』にはこんな指摘がある:

天(天照大神)と君主が血統で直結していれば、「革命」は起こりえず、仁政を否定し人民を戦争にかりだしても君主権はゆるぎません。「万世一系」はむしろ近代にこそ”適合的”な君主論であり、・・・

こんな下りがあるのだが、これを読んだときは大げさに言うと目から鱗が落ちるような気がしたものだ。

君主が徳や仁を失えば「天」に見放され革命(王朝交代)に至る、という考え方

これが伝統的儒学の認める「易姓革命論」なのだが、もしこの古い政治哲学を日本人が確固として持ち続けていれば、1930年代以降の軍国主義が日本で進行することは、社会理念上、容認されなかったはずだ。他方、幕末時の危機においては、儒教と水戸学に忠実であった最後の将軍・徳川慶喜は、文字通り、統治の責任をとって「大政奉還」したわけだ。


統治権を脅かされることがないという建て前の天皇に仕えるのが官僚と言うエリートであった。天皇の臣下であるエリートが統治の対象である国民の暮らす現場にどう向き合うかと言えば、

統治責任を負うことなし

という姿勢になるのは非常にロジカルな結果である。であれば、国民の側にさまざま発生する問題を解決する責任は現場にあり、つまり国民の側にあり、トップにつながる上層部には責任が及ばない。こんな法理が導かれるのは自然だ。そして、こんな法理が認められるなら、究極的な統治責任につながるような構造改革が実質的な革命と意識され、実行不能になるのも、ロジカルな結論としては自然である。こうして「保守派」の岩盤が整う。

むしろ連帯責任が原則の江戸幕府においては<タコつぼ社会>という感覚は希薄だったのではないか。それは武威を背景に形成された<幕府>という実力政権が、統治責任を天皇の朝廷から奪い去り、自らが引き受けていたというロジックにも適うことだ。だからこそ政治状況に応じて<倒幕>という行動が理屈としてありえたわけだ。日本史の教科書では「明治維新」と現在でも書かれているが、「明治維新」は統治権の移動、その後の激しい社会変動を伴った明らかな「革命」であった。それを日本では「革命」と呼んでいないのは、「革命」を認めない明治政府の方針があったからだ。

そこで議論は、本稿の中段に戻る。

「万世一系の天皇」という概念は結果責任を含めず

という理屈になる。その原理が戦後日本の統治構造にも水で割られたウイスキーのように残っている。

「ダメな上」と「頑張る現場」とは、言い換えれば、「無責任な上」と「責任を怖れる現場」という言い方になるだろう。

《責任》という概念と《天皇》という伝統と。前者は「(最後は)国家元首が負うべきもの」であり、後者は「(永遠に)不可侵」。この二つは水と油だ。不可侵な存在は、理屈上、統治システムの中に居場所はない。現在のイランは、「神聖」なイスラムと統治という「俗事」を代表する二人の元首を置いていて、まるで江戸時代の「ミカド(天皇)とタイクン(将軍)」を連想させる。日本は未整理なまま21世紀を歩もうとしている。このまま行けるのだろうか?そんな大きな問題意識に思い至っているのだな。


話しが広がり過ぎた。今回はこんなところで。


2022年8月21日日曜日

一言メモ: 反社会的勢力? そんな言葉は昔はなかったネエ

加筆:2022‐08-22

ふと思いついた疑問。学生時代に思いついたなら、担当教授に質問したと思う。

反社会的組織に所属する人も投票権をもっている ― 服役中は(日本では)権利がなくなるが。政治に参加する権利をもっている。同じ有権者、同じ日本人である。その人たちの投票傾向はどうなのだろう?データがあるのかどうかすら調べたことはない。多分、実際の投票率は低いだろうが・・・

仮に、ほぼ(反社の)全員が自民党に投票しているとすれば、自民党政権は反社会的勢力に支持されていると非難されるのだろうか?

反対に、仮に全員が革命志向である共産党に投票しているとすれば、共産党イコール反社だとして非難してよいのか?

極端なケース(= Extreme Case)でどう応えるかを考えるのは理論を鍛えるための必須課題である。

「反社」に属する人たちは与党に投票してはいけないのか?それが不適切であるなら野党に投票しなければならない。しかし、野党も「自分たちに投票しないでくれ」と言いたいのではないか。

もしこのようであれば、そんな社会はどこかが狂っている。選挙がなく、投票権がなく、政治から排除されれば、税を課される義理もない理屈となろう ― 結構、面白い物語を創作できそうだ。


現世代の日本人は戦争を知らず、平和しか経験していない分、社会哲学、政治哲学の基礎が一面的で未熟な印象を感じるのは小生だけだろうか?

父の世代は、若い人たちには「上から目線」であったが、世間をみる目は確かに成熟していた記憶がある。

社会には《器の大きさ》が不可欠だ。もし日本が大陸国家であれば、生きづらいと感じる人々が大量に流出することだろう。

「反社会的」という単語は、それ自体が最も反社会的な単語だ。

2022年8月19日金曜日

メモ: 霊感商法?本気で洗い出しますか?

加筆:2022-08-20

前回投稿の補足をしておきたい。

いま世間を騒がしている「旧・統一教会」の関連で「宗教と政治」、「教団と政治家」といったテーマで個人的に考えている内容は先日投稿しておいた。そこではロシア=ウクライナ戦争のことも話題にしたが、分量的には教団がらみの投稿だった。

今もカミさんが毎日視聴しているテレ朝「モーニングショー」で毎日の恒例となった「政治家と旧・統一教会」、「自民党と旧・統一教会」をトピックにして特集報道をしているところだ。

それで、思ったりするのだが、テレビ朝日のこのワイドショーだが、年齢で層別化すると、特に50代以上の視聴率が突出して高く、20代から50歳未満の若手現役世代ではほとんど視聴されていないというデータが数日前に公表されている。要するに、「モーニングショー」は主としてシニア層向けの番組編成をしているということで、確かに日常の仕事に没頭する若い時分は政治向けの話題にはそれほどの興味を覚えず、それよりは直接に役に立つ暮らし向けの情報を提供してほしい、と。そう思うのは、小生の家庭を振り返ってもそうだったので、分かるわけだ。シニア層というのは、(概して言えば)子育ては終わり、仕事も引退するか、重い責任から解放されて暇な時間が増え、社会全体のことに興味が高まる、その分「天下国家」のことを話したくなる、そんな年齢層であるのは確かだ。

ただ不思議に思うのは、勤労所得よりは年金、財産所得などの不労所得の割合が増えれば感覚としては保守化するはずのシニア層に向けたワイドショー番組で、なぜいま旧・統一教会叩きとも言えるような番組編成に重点を置いているのかという点である ― 韓国で日本人信者たちによる偏向報道反対デモが起きたようで、日本国内にも同種の出来事が飛び火してくるのではないかと予想される中、元首相暗殺事件を契機にしたとは言え、あまりに突然の奔流のような教団叩きは、一体その背景なり動機は何だろうと感じさせるのだ、な。

それで「ああ、なるほどネ」と何となく思い当たったのは、現時点の国内シニア層は前後の世代に比較すると、際立って<反米>、<反自民>、<親共産>の感性が強い世代であったことである。1960年安保闘争、70年安保闘争、新宿駅前の沖縄デー騒乱、東大安田講堂攻防など多くの学生闘争を展開したのは、今の70歳代、80歳以上の人たちであった。

「三つ子の魂、百まで」という。現在のシニア層にターゲットを置いた報道番組は、自然と反自民党で政府・与党には厳しく、反資本主義的で、親・社会主義、自由主義には批判的となり社会的同調重視の立場に力点を置くであろう。そう思いついた次第。旧・統一教会は反共を原則として発足した教団である以上、共産党の視点に立てば旧・統一教会が敵であるのは明らかで、共産党シンパの立憲民主党もそれに近く、その共産党には若い時分以来の親近感を抱いている以上、シニア層は旧・統一教団には心理的な敵意を抱く傾向がある・・・「だから、こういう番組編成になるのか」と。ストンと腹に落ちて、納得したのだな。

・・・但し書きも記しておこう。朝日新聞、TV朝日は統一教会報道に消極的であるという批判がある。上の仮説とは整合していない感もある。確かに、TV朝日の上記ワイドショーも、しばらくの期間、他局を横目に不思議なほどに無視を決め込んでいた。が、そもそも、親リベラル、親左翼の牙城・朝日新聞社は、岸信介氏と親密でかつ反共姿勢を貫いてきた旧・統一教会には否定的であるのに決まっている。であるのに、報道を控えていたのは人権の核心の一つである宗教の自由を意識していたからだろう。親共産とヒューマニズムが日本では(不思議に)両立しているのだ。足元の方向転換は反自民、親共産に力点を戻したということか。他のメディア各社が(テレ東を例外として)重点報道しているのは、前稿でも述べたが、20年(?)の傍観に対して良心の疼きがあるのだろう。いずれにしても印象論である。

それはそれとして、問題になっている「霊感商法」だが、言葉だけを切り取って「霊感」をテーマにお布施を求める布教活動と言うことなら、母がまだ生前の頃に親しく交際していた親戚の叔母が母に強く薦めていた信仰もそれだったのかな、と思い出している。その叔母が熱心に信仰していた宗派では、苦悩や病苦を上級信徒が手をかざすことによって軽減できるというのであった。つい先日も手をかざして苦悩を取り去る宗派の集まりに安倍元首相が出席して「私も信者です」と述べたという動画があると目にしたが、この手の話しは小生の個人的経験以外にも日本国内で数知れず見つかるであろう。何も旧・統一教会にとどまらず、仏教に近い新興宗派、それも名もなき指導者とその教派と信者たちを探し始めれば、さて、日本社会はどんな騒ぎになっていくだろう・・・

ヤル気があるメディア企業は試みてほしいと思うし、小生もそんな取材報道を視聴してみたいと思うのは事実だが、しかしやるとして何かの役に立つかネエと疑問を感じるのも事実で、カネを溝に捨てるようなものじゃあないかとも感じるわけだ。

先日の投稿のポイントは次の一文に尽きる:

つまり、(宗派によらず)宗教に関連した事件、変事を防ぐには、不安をなくし希望に満ちた活力ある社会にするのがオーソドックスな近道である。真っ当なメディア企業なら、真にプラスになる情報を提供することに努力してほしいものだ。これが本日2番目の話題の結論であると言ってもいい。

暗殺事件を起こした山上容疑者の家庭環境は確かに同情するべきものだ。しかし、才能を開花させられるチャンスが豊かにあって、誰もが自分の将来を前向きに考えることができ、仕事が面白く、家庭を築くことができ、自分の人生に充実感をもって生きていける、そんな社会状況であれば、自滅的なテロ行為に走る動機はその分だけ弱まっていたはずである。

コロナ禍による経済抑制で自殺者がどれほど増加したかで東大の研究結果が東京新聞にも報道されている:

 2020年3月から今年6月にかけ、新型コロナウイルス感染症が流行した影響により国内で増加した自殺者は約8千人に上るとの試算を東京大などのチームが17日までにまとめた。最多は20代女性で、19歳以下の女性も比較的多かった。チームの仲田泰祐・東大准教授(経済学)は「男性より非正規雇用が多い女性は経済的影響を受けやすく、若者の方が行動制限などで孤独に追い込まれている可能性がある」としている。

URL: https://www.tokyo-np.co.jp/article/196435

Source:東京新聞、2022年8月17日 08時33分 (共同通信)

容疑者の家庭崩壊とその後の人生は、未来を閉ざされた若年層に広がる社会的問題の一例である。東大の研究結果を真面目にとりあげるTV局は皆無、文字通りゼロである。コロナ禍の中、仕事を奪われた若手勤労者がどのように暮らしてきたのかを特集報道してもバチは当たらないはずだ。同じ特集報道なら、こちらの特集報道の方が、よほど社会的意義がある ― シニア層にはアピールしないかもしれないが。本筋に沿った真面目な報道こそ、真っ当でない宗教の影響が広がる事態を防ぐことにもなるはずである。

確かに、元首相暗殺事件の容疑者が述べている(と伝えられる)言葉に基づいて、旧・統一教団を叩くのは理解はできる。スピード違反で人身事故が起きれば加害者を叩くのは心情として分かる。しかし、加害者 を叩くことがメディアの使命ではあるまい ― 旧・統一教会自体は元首相暗殺事件の加害者ではなく、加害者自身が「自分を犯行に駆り立てたのは団体Aである」と述べている、そのAの立場であるに過ぎないのだが。負の側面にスポットライトをあてて叩くよりは、この種の事件を減少させるための行政措置、法改正の必要性を指摘する方が社会的には生産的であろう。被害者の心情に寄り添うことは大切だが、被害者の代理人となって加害者を叩くことが、メディア企業の社会的役割であるとは(小生には)思えない。代理人たる弁護士は淡々粛々と自己の職務を全うすればよいわけで、メディアを自分たちの味方にする戦術は、動機を見れば同床異夢であるのは明らかで、小生は賛同できない。

旧統一教団と完全に縁を絶つかどうかなど、それより前に「反社会的組織」に認定するべきだと主張する方が先だろうと思う。それも主張せず、政治家は教団と縁を切れというのは、「その組織に入っている以上は、信者たちは組織の一員、つまり政治家から縁を切られて当然の非国民(候補?)である」と、そう主張しているのと同義ではないか、と。

政治は、民間企業とは異なり、すべての日本人が相手である。ビジネスで言えば顧客である。たとえ反社会的組織に属していても、日本人なら同じ有権者である。不適切であるからと言って、社会から排除することはできない。社会から排除できないなら、政治からも排除できない。現時点のマスコミはどうかしている。ワイドショーのMCやコメンテーターは報道担当者ではなく、演芸場、というか寄席に出ている芸人に近い仕事をしている、と書くのは流石にひどいナア — 実際、そうした一面も目立つのだが。こんな感覚が高まっている。


現時点で何よりも不思議な事だが、元首相暗殺事件をひき起した背景として警備体制の不備があったと多くの識者が指摘しているにも拘らず、事件後に責任をとった警察関係者は1名も発表されていない。そのまま職にとどまっている。そして、この事を厳しく非難するマスコミが1社もない。世間の非難から遠いところにいる。実に不思議だ。

また、(どうでもよいことだが)旧・統一教会の団体名変更の申請が(ある年、突然に)受理された背景に当時の下村文相(及び首相官邸?)の意向が働いていたのではないかという疑惑があった。ところが、メディア報道の流れは、下村・元文相の疑惑から萩生田・政調会長が教団信者の選挙支援を受けていたという話題へ急に変わってしまった。この急な流れの変化も奇妙なことである。

旧・統一教会から自民党議員が支援を受けていたであろうことは、「そりゃ、そうだろう」くらいの予想は多くの人がもっていたはずだ。当たり前だ。投票権をもつのは教団という法人ではない。信者である。その信者たちは、共産党に投票するはずはなく、親左翼的な民主党議員(≒立憲民主党議員)とも縁は遠かったろう。公明党ももちろん対象外である。であれば、多くの信者が自民党議員に投票したのは実に自然である。「選挙支援」というより普通の意味での「支持」というべきだろう。「旧・統一教会と政治」よりは、「旧・統一教会とメディア」の方が話しとしては面白かろう。

むしろ知りたいのは、

この20年間、メディア各社が旧・統一教会マターを取材せず、スポットライトを当てなかったのは何故か?

むしろこちらの疑問である。メディア各社は自社の報道方針を振り返り、自らが報道するべきではないかと思われる。


2022年8月15日月曜日

メモ: コロナ後の二つの難問か

加筆:2022-08-17、2022-08-18

1年の計は元旦にありと言うが、小生個人の日常習慣としては、1年の計は8月15日にありという方が気分的には当てはまる。というのは、亡くなった父の命日が7月31日、母の命日が9月23日、その間に広島原爆記念日、長崎原爆記念日、御巣鷹山慰霊祭、そして終戦記念日と国家ないし社会レベルの鎮魂行事が続く。下の愚息が通った幼稚園の縁で卒園後にずっと月参りをお願いしている寺の住職が10日前後に盆回向に訪れ、8月16日に盆が明けたあとは18日に寺である施餓鬼会に行く。そんな習慣が我が家ではずっと続いている。だから、暦を付け替えるだけの元旦よりは8月15日の方が1年の締めくくりとしては心理的にピンと来るのだ。もちろん個人的な習慣であるが・・・

というわけで、コロナ・パンデミックも世界では終盤に入った段階で、日本が直面しているかのような新たな二つの問題をとりあげておきたい。


一つは「ロシア=ウクライナ戦争」、もう一つは「旧・統一教会と政治の関係」であると言っても、多くの人は賛成するのではないだろうか?

そして、このどちらも、短期間にどうにか出来る問題ではなく、そもそも日本政府が処理できる問題ではないとすら、思ったりする。マスコミが毎日のように特集しても解決できるわけでなく、その意味では日本社会の無力感を感じさせる問題でもあるだろう。

大体、コロナ対応においても、日本政府、日本社会の対応振りは、原理・原則や基本戦略がなく、その時々の状況の変化に応じるだけの場当たり的対応を繰り返してきたという忸怩たる後悔や不満が、いま日本社会に底溜まりしているのではないだろうか?とすれば、もっと対応が難しい国際的安全保障や●●十万人レベルの宗教組織と対峙する際、コロナ対応とは打って変わって、切れのある鮮やかな行動を日本が見せられるなどとは、(今のところ)まったく想像できない、というのが正直なところだ。

今日はそれぞれ気になっている点を一つずつ。

まずウクライナ戦争。

マスメディアの報道では「ロシアが敗北しつつある」という見通しもあれば、「ウクライナも限界にさしかかっている」という見方もあり、文字情報のみでは何が的を射ているか分からない。

ただドイツでは今冬の暖房温度設定を19℃にするよう政府から指示が出たとか、公共施設では夜間照明を停止するとの方針が出たり、それでもエネルギー供給はギリギリであるとか、社会的不安は今後高まっていくだろうというのは、多分、本当だろう。

ロシアは占領した東部と南部をロシア領土に編入し、同化政策を進め、更には国外に避難したウクライナ国民が一定の誓約をする場合にはロシア国籍を与えたうえで復帰を認めるという段階もそのうちにはやってくると想像している。

そうした上で、(一方的な)停戦宣言をした上で、

ロシア領土を攻撃する軍部隊に対しては侵略とみなして核による反撃もある。侵略を命令する中枢部への核攻撃も検討対象に含まれる。

そんな(一方的な)核使用宣言も大いにありうるように思う。

旧・西側諸国はどう対応するのだろう?

次に「旧・統一教会」。こちらは簡単な一言ではすまない。もう何年も前になるが、同僚に『19世紀は科学の世紀、20世紀は科学を応用した戦争の世紀、21世紀はその反動というか、また宗教の世紀になると思うんだよネ』と話したことがある。同僚も『ま、世界がそうなる可能性はあるな』と返していた。

そもそも宗教は社会不安が高まるときに浸透、拡大するものだ。マスメディアが社会不安を煽ればあおるほど、それだけ(諸々の)教団の布教活動には追い風となるのが皮肉なロジックである。この点はいま日本社会ではあまり意識されていないかも。実に惰性的な「平和ボケ」にあるのは第一に情報のプロであるはずのマスコミであるのかもしれない。

キリスト教は(言うまでもなく)紀元ゼロ年以降にローマ帝国内で布教を始めるのだが、当初は「邪教」というか、弾圧の対象であった。コンスタンティヌス大帝が313年に「ミラノ勅令」を発してキリスト教を公認するまでに300年という長年月が過ぎているが、キリスト教が帝国内で急速に普及したのは、五賢帝による「ローマの平和(Pax Romana)」が終焉を迎え、腐敗した軍閥が皇帝を次々に廃立する「動乱の3世紀」になってからのことだ。この3世紀100年の間にローマ帝国内の人口は3割ほど減少し、婚姻率の低下や少子化、侵入した異民族との雑婚、混血が進んだとも伝えられているが、正に不安を抱えた社会でこそローマ市民は伝統的な多神教を捨てキリスト教に救済を求めたわけである。宗教は心の安定をもたらす特効薬という意味では正にマルクスが言ったように「心のアヘン」、「民衆のアヘン」とも言える ― 「アヘン」というのは言い過ぎで、「鎮痛剤」とでも言えばよいものを、とは思っている。少なくとも自殺防止効果において宗教と精神安定剤はドチコチないのではないかという印象をもっているところだ。ま、いずれにせよ

宗教の拡大と不安の高まりとは表裏一体である。

1980年代から90年代にかけての宗教的トラブルの続発には、社会学的・経済学的原因があったという風に、メカニズムを理解することが大事だ。そうすれば、「旧・統一教会問題」が再び浮上した今日の状況にも賢明に向き合えるというロジックになる。

つまり、(宗派によらず)宗教に関連した事件、変事を防ぐには、不安をなくし希望に満ちた活力ある社会にするのがオーソドックスな近道である。真っ当なメディア企業なら、真にプラスになる情報を提供することに努力してほしいものだ。これが本日2番目の話題の結論であると言ってもいい。

時代を問わず、国を問わず、西洋でも東洋でも財政破綻、政治不安、宗教組織の拡大は三位一体で見られ、同じ現象は幾度も繰り返され、中国では王朝交代にもつながることが多い。


~*~*~


さて、統一教会だ。思いつくままに書き足しておこう。

正直なところ、過去の記憶は残っているが、それほど意識しては来なかったのだ、な。

統一教会による「霊感商法」が国内で次第に社会問題化してきたのは、1980年代に入ってからと記憶しており、1990年代以降になると、その違法性が司法の判決でも認定されるようになった。小生の若い時分ではあったが、大雑把にそんな記憶をもっているのだ。ちょうどイラン革命がもたらした第二次石油危機とインフレ加速、その後のバブルによる地価騰貴から突然のバブル崩壊、増える不良債権、1997、8年の金融恐慌へと続いた20年にあたっている。

その頃は小生も某経済官庁でバリバリ(というよりペイペイ)の若手小役人であった。幾つかのトラブルを起こしながらも「統一教会」は、治安当局の「反社会的組織」に指定されることもなく、むしろマスコミの関心は90年代に入って重なるように注目を集め始めたオウム真理教の方へ集中する傾きがあった。そんな中で「統一教会」は日本社会の水面下で布教活動を続け、併せて政治家への浸透にも意を払い、その部分ではかなりの成果をおさめてきた、それも国際的な広がりを伴って、と。まあ、そんなザッとした記憶をもっている。

21世紀に入って以降は、マスコミは「統一教会」に関してはめっきりと関心を薄れさせたようで、ほぼ何も報道しない姿勢を続けてきた(と覚えている)が、つい先日の安倍元首相暗殺事件を契機にして、永年の無関心を(良心の疼きからか)まるで埋め合わせるかのように、このところ連日のようにTV画面で、また新聞紙面で、批判的な特集報道を続けている。これが今の現状だ。

ずっと以前は50万人程度の信者がいたそうだが、足元では数万人にまで減少しているとも伝えられている。それでも(日本国内に?)数万人の「統一教会」信者がいて、日常的にある程度まで熱心に活動しているのであれが、社会的には決して無視できず、足元の日本社会では「何だか気持ちが悪い」、「何とかしてほしい」、「政治家との接触を禁止してほしい」、「社会的な影響を許さないで」と、まあ、日本人は非常に<潔癖な国民性>であるものだから、そうした社会心理が広まりつつあるのではないか。そう観ているところだ。

何だか、40年ほどの歴史を簡単に要約した塩梅だが、筋道はホボホボこんな所だと思う。


ただ、どうなのだろうナア・・・??、とは思う。

あくまで個人的な見方だが、「宗教と政治」、「教団と政治家」というテーマだが、なにか社会を管理するPDCAサイクルのような観点にたって、それを「社会問題」ととらえて、何かの「問題解決」にまで落とし込むというそんな考え方から「旧・統一教会」についても一定の「解決策」へと至りたい、と。そう願っているならば、それは(少なくとも短期的には)非常に困難だと思う。率直に言って、《ノーマルな社会》という暗黙の前提に立った安易なアプローチで、これまた《平和ボケ》の一例になっていると感じる。一般論であるが、《社会》というのは、歴史をみても分かるように、変化し続けるのが本質であって、「元の正常状態に回帰する」という性質は本来もっていない。激動期には社会は大きく変化し、変わったそのままで安定し、変質し、進化して、元の状態には決して戻らないという理も分かっておかなければならない。

より本質的で掘り下げた考察が求められている。「考える」というのは、普通の人が面倒に思い、嫌がるものだが、多くの「大失敗」は概ね「性急、腰だめの、浅い考え」に原因をもつ。

大体、イギリスで主流の英国国教会("Anglican Church")は、聖公会という名の教会が小生が暮らす町にもあるが、アングリカン・チャーチの首長は英国王|英女王であり、現在はエリザベス2世がつとめている。政治と宗教との分離もなにもあったものじゃあないと、改めて批判をこめて言う人もいるかもしれないが、そうなっているのだから仕方がない。また、米大統領の就任式では新大統領はキリスト教のバイブルに手を置いて宣誓する慣習になっている ― ユダヤ教徒なら旧約聖書だろうが、もしイスラム教徒が大統領に当選すればどうするのか、甚だ興味深いところだ。ドイツだが前政権与党である「キリスト教民主同盟」、「キリスト教社会同盟」は保守勢力の代表である。日本の「公明党」が「日蓮宗公明会」と名乗るようなものだ。スカンディナビア諸国の国旗は「十字架」をシンボライズする意匠になっているし、イギリスのユニオンジャックも成り立ちを考えれば同じだ。フランスでは宗教勢力と政治との分離が厳格に法制化されているが、寧ろそれはフランスではカトリック教会の影響力がそれだけ深いという事実の逆説的な反映だろうと小生は思っている。

「宗教」は、人間の「宗教感情」から生まれるもので、宗教感情は「科学」とも「哲学」とも異質でありながら、それでも「人間性」の本質であるには違いなく、簡単にいえば

どれほど技術が進歩しても、何ごとも思うようには行かないものだ。人間にはそれぞれの運命があり、いつまでも生きられるわけではなく、生きるべき時、死ぬべき時があるものだ。

そんな思いが人間にある限り、宗教感情が消え失せることはなく、宗教が世界から消え去る日は永遠にやっては来ない。そう思っているのだ、な。実際、毎月僧侶が読む「仏説阿弥陀経」や十念の声が拙宅から消え失せるなど、困難と言うより、今となっては想像不可能である。そんなことは現実にはないが、もしも僧侶と政治向きの話しをすれば、それは宗教と政治が結び付く場面の一つにもなるだろう。

民主政治を支える一人一人の有権者の心に宗教感情があれば、政治と宗教を完全分離するのは、そもそも不可能なことである。

なので、「旧・統一教会」と政治との関係を論じる際も、「解決」するべき具体的問題点をまず提起する姿勢が日本社会の側にも求められる。そう思うのだ、な。「具体的問題」、つまりは行政上あるいは訴訟上の問題に限定することが望ましい。


日本から韓国へ信者が支払ったマネーが流出するあり方が不当であり、その経路を絶ちたいのか。仏具、イヤイヤ「神具」を販売する際の不当価格を規制するべきなのか。信者による巨額の寄付金がその信者の家庭崩壊を招くケースだが、一人の信者が独断で寄付するときに同居する家族の財産権はどう守られているのか。離婚する際にも配偶者には半分の財産を受け取る権利がある。信者の意向によらず同居家族にも守られるべき財産権があるはずである。司法はどう介入しているのか。また、寄付金に申告義務を課し、税務調査を徹底し、脱税の有無を調査するのか。まあ、色々様々な行政措置、行政指導は可能であるわけだ。

河野太郎大臣がはやくも消費者問題としてアプローチすると言明しているが、これも適切な切り口の一つであろう。

日本は法治主義であると国際的にも明言している。それを徹底するべき時だろう。


信仰や宗教という次元から「問題」を探すのは愚かで、かつ危険な人権侵害になる。公的権力は宗派の適・不適を論じるべきではない。「第4の権力」であるメディアも同列だ。勝てる見込みのない訴訟になる。発生したトラブルに法律で規定された犯罪行為がある場合に法的処罰をすれば十分である。それ以上の何ものも余計な勇み足。「現世」を否定し「来世」を志向するのは信仰の自由に属する。「人間本来無一物」と信じて全財産を喜捨(=寄付)するなどの行為も自由な宗教的行為だ。受け取る教団の側が固辞すれば、申し出た側こそ落胆するに違いない。日本国内の修道院もそのはずだが、修道士は私有財産を持たない。従って、(小生も伝聞ではあるが)国民年金保険料も修道会が納め、年金も修道会が受け取っている。だからと言って、個々の修道士の人権を教団が侵害しているとは誰も言わない。これも自由な信仰に属する。それが直観に基づく非合理な体系ともいえる宗教というものだ。〇〇百万円程度の寄付ならば小生の祖父も菩提寺にしている。金額が△△億円に達しなかったのは持っていなかったからに違いない。試みに近隣の寺や神社に足を運び境内を眺めてみればいい。寄付者の「ご芳名」を彫った「寄進者奉名板」を容易に見つけることができよう。それが嬉しいからそうするわけだ。富裕な御仁であれば、法主のために御堂の一つも建立して差し上げようと言うのは、後世にも伝わる文化活動であった。マア、実際に則して一般論を述べれば、こんな話しになる。家庭崩壊、宗教二世という言葉をいまマスコミは好んでいる。が、問題はあくまでも具体的な法律に基づいて把握し、法的に吟味するというのが、本筋だろう。

そもそも信仰自体は自由であるのが原則だ。社会が介入すれば定義として「弾圧」に該当する。教団からみれば「法難」である。故に、少なくとも法律上の議論にすることが不可欠だ ― たとえ既存の法律を適用したり新規立法によるとしても、それが「宗教弾圧」に該当する可能性は常にあることを歴史は教えてくれている。例えば、維新直後の廃仏毀釈運動などは国民的ヒステリーであったとも言えるだろう。ま、その廃仏毀釈運動のお陰で大寺院・興福寺が打撃を蒙り、今の「奈良公園」という市民のための憩いの場が提供されたのだから、何が幸いするか、事前には見通せないものだ。とはいえ、その当時の非条理な攻撃で哀しい思いをした多数の被害者を思えば、いま公園になっているからと言って、免罪されるものではないだろう。


こう考えると、信者数を考慮すると、何を議論するにしても5年ないし10年程度の時間をかけながら、日本社会との折り合いをつけていくしか、「旧・統一教会」に関してはとりうる対応方針はない、と。そんな風に思っている。

やはり、20年のネグレクトのツケは大きい。現状を所与として、何かを解決したいなら、今後将来にかけてやっていくしかない。連日の批判的な特集報道は信者たちの人権擁護の視点からも非常に問題が多いと思っている。営利上の動機としか見えない所がある。


2022年8月11日木曜日

断想: これも世代ギャップというものか?

ずっと昔から世代間の対立はあった(はずだ)。時代が激しく変動する中では父と息子の間ですら、価値観や世界観、愛読書、日常言語空間がまったく違ってくる。最近読み直しているのだが、島崎藤村の『夜明け前』に登場する主人公・青山半蔵と半蔵の父・吉左衛門は一つの典型であると思うし、天寿・天職を全うした父と世相が変転する中で悲劇的な人生を閉じた半蔵の対比は、その時代の中では極くありふれた家族像であったに違いない。小生と亡くなった父はまったく違った時代背景で成長したし、趣味も感性も考え方も違っていた。父と祖父が成長した時代もまったく別の世界であった。祖父は大正デモクラシーの空気を当たり前だと思い、父は政党の腐敗と軍部の清潔を人々が信じていた時代に育ったわけだから。

このようにジェネレーション・ギャップは日本にはずっと当たり前のように存在していたわけだが、最近のように《ジジイ連中》という括り方を頻繁に目にしたり、耳にしたりするようになると、すでに初老から「本じいさん」になりかかっている小生にはヤッパリ愉快ではない。というか、「じじい連中」の方は、そっちはそっちで《青二才の分際》などと日常的に話しているのが今の日本社会で、「ジジイが・・・」とか、「青二才が・・・」とか、英米などアングロサクソン社会の英語空間では、この辺の生活感情をどんな言葉で表現しているのかと、よく思ったりするのだが、これかという結果が見当たらず、どうもピンと来ないのだ、な。大体、次期大統領選挙にトランプ氏が再び立候補するとか、その対抗馬はバイデン現大統領よりヒラリー・クリントン氏のほうが勝てるのではないかとか、少なくともアメリカでは<ジジイ>、<ババア>は引っ込んでいろという声は日本よりは小さいようだ。イギリスも96歳のエリザベス二世女王が在位しており、英国民の中に<代替わり願望>が高まっているとは、まったく聞こえてこない。どうも年齢をめぐる感性というか、外国と日本とはお国柄が違うような気がする。

いずれにせよ、時代を問わず、国を問わず、二つの年齢階級をとって、ランダム抽出して同人数にそろえた上で、何かの基準で(例えば能力基準で)ソートして、上から同順位ごとに1対1で比較すれば、

高齢者は、実績と資産をもつが、体力・精力は衰えている。

青壮年は、実績が足りず、資産も乏しいが、体力・精力は旺盛である。

こうなることは自明だろう。故に、役割分担はそれほどの難問ではない理屈だ。

激動の時代には、時に若年でありながら、実績を示し、資産も形成できる極く少数の人間が出現する。そんな英雄が登場すれば、高齢者の出番はない。これもよく分かるロジックだ。


父の好んだ詩は島崎藤村『若菜集』にある「草枕」であった。長詩であるこの詩は:

夕波くらく啼く千鳥

われは千鳥にあらねども

心の羽をうちふりて

さみしきかたに飛べるかな

  

若き心の一筋に

なぐさめもなくなげきわび

胸の氷のむすぼれて

とけて涙となりにけり

こんな風に始まる。正に明治・新体詩の浪漫主義そのものだ。

藤村の詩作品は小生も好んだが、以前にも投稿したことがあるが、自分自身と一体化しているという意味になると三好達治である。藤村の『若菜集』に相当するのは、三好の『測量船』ということになるが、有名な『あはれ花びらながれ をみなごに花びらながれ』で始まる「甃のうへ」よりは、もっとモダンな散文詩「Enfance finie」が好きである。

海の遠くに島が……、雨に椿の花が堕ちた。鳥籠に春が、春が鳥のゐない鳥籠に。

約束はみんな壊れたね。

海には雲が、ね、雲には地球が、映つてゐるね。

空には階段があるね。


 今日記憶の旗が落ちて、大きな川のやうに、私は人とわかれよう。ゆかに私の足跡が、足跡に微かな塵が……、ああ哀れな私よ。

僕は、さあ僕よ、僕は遠い旅に出ようね。

URL:https://www.aozora.gr.jp/cards/001749/files/55797_55505.html
Source:青空文庫

実は、この作品のすぐ後にある「十一月の視野に於て」は、こんな風に始まる(一部の漢字を平仮名にしている):

倫理の矢にあたっておちる倫理のことり。風景の上に忍耐されるそのフラット・スピン!

 ことりは叫ぶ。否、否、否。私は、私からおちる血を私の血とは認めない。否!

 現代日本人とマスコミの好きな《倫理》が、その人の自由な生を束縛する檻のような存在として働き、その人を不幸にしている現実に目を向けている詩人の感性が何となく伝わって来るではないか。

個人の善悪を考える倫理と、善を求める社会に個人を従わせる共産主義の理念とは、実はホンノ一歩であるほど近い関係にあるということに、詩人といわれる人たちは非常に敏感であったことが分かる・・・ような気がするのは小生だけなのだろうか?

ま、どちらにしても、好んだ詩作品を対比してみても、父と小生の育った文化的背景の差が明らかに見てとれる。


足元で日本社会が問題視している「(旧)統一教会」は、安倍元首相暗殺事件の衝撃が後遺症のように尾を引いた一種のヒステリー症状だと観ているが、こんな世相の中では、「・・・を守る」と言いながら、実際にはごく一部の人を守りながら、その他の色々な人の繊細な悩みや迷いを山津波のように押し潰し、結局は最初に守りたかった人たちをも守れないという事態に至る・・・そんな結末が多いのが戦後日本社会の在りのままの実態である・・・と思うのは小生だけだろうか?

三好達治が『測量船』を発表したのは1930年12月で、時の民政党内閣首相であった浜口雄幸総理が東京駅で狙撃された翌月である。正義を求める日本人の殺伐とした世間に置かれていた一人の人間ならではの詩作であることがよく分かる。


長くなりすぎた。「旧・統一教会」については日を変えて感想をメモすることにしよう。

2022年8月10日水曜日

断想: 「野球留学」というものについて

夏の風物詩というと「甲子園」であるのはずっと変わらない戦後日本の習わしのようだ。亡くなった父の思い出話を覚えているが、父が少年時代であった昭和初期の頃には既にそうであったそうだ。中京明石の延長25回、海草中学のエース・嶋投手が演じた全試合完封+準決勝及び決勝の2試合連続ノーヒットノーランをリアルタイムで聴いていたなど(TV放送は日本では戦後文明の所産だ)、父の回顧談は驚きであるのと同時に羨ましくもあったものだ。

ずっと以前になるが、高校野球については、こんな投稿をした事がある:

県外から「野球留学」してきた選手がレギュラーとして出場しているチームも多く、毎年「規制するべきではないか」との声があがるが、とくにルールが設けられていないのが現状。 

「おらが街」のチームを応援しようとメンバーをみたら全員他県出身者だったとなれば、複雑な感情を抱く人がでてくるのは当然だ。 

 この投稿は日付をみると、もう6年も前になるが、上のような状況は益々進んで(感じ方によっては酷くなって)いるようだ。

上の下りの後、こんなことを書いてまとめている。

まあ、とにかく小生は保守的、つまりは昔は良かったと語ることが多い右翼である。だから、この件については「全員が県外出身者なんて、その地域代表であるはずがない」。そう断言する。

だって、プロ野球でも外人枠があるんだよ、と。優勝したいなら日本ハム球団だって、どこから選手を調達しても自由でしょ、と。プロなんだから。優勝したいのだから。しかし、外人枠でそれは制限されている。自国の日本人選手がチームの多数を占めること。そう制限されているんだよね、と。プロでもそうなっているのだ。

高校に入学するまで、本人も両親もその県のどこにも住んだ経験がなく、親戚もおらず、その県とはまったく無縁で、ただ野球をしたいのでその県内に進学したのであれば、その県からみれば「県外者」である。100パーセント、県外者で構成される野球チームは、現時点でもちろんその県に居住しているのだが、「地域代表」となる資格を欠いているのではないか。極めて常識的な問いかけである。

種目を問わず「ナショナル・チーム」を編成しようとすれば、その国と何らかの縁がある選手を軸にするべきだ、という意見には相当の人が賛成するのではあるまいか。サッカーのW杯に出る日本代表チームに生粋の日本人が僅か1人のみでは、まともに応援もしてくれないだろう。

都道府県代表と言いながら、地元の人たちと何の縁もなく、近隣住民から応援もしてもらえないなら、淋しいのではないかと思う。

もっとも野球部は県外から留学してきた生徒がほとんどだが、その他の生徒はおそらく地元から入学している学校も多いかもしれない。とすれば、同じ高校で学ぶ野球部が甲子園に出場するなら、応援してあげたくなるのも同級生なりの人情というべきか。子がそう思うなら、保護者たる親もその学校を応援する気持ちになるだろう。

とはいえ、小生の叔父は住んでいる愛媛の(愛媛県立である)松山商業が甲子園に出る年は、自分は松商OBでないにもかかわらず、「じっとしてはおれん」と言いながら夜の船に乗って甲子園球場に駆け付け、応援に声をからしていたものである。ほとんどが県外の野球留学生なら、そんな風に甲子園にかけつける地元の人は、広がりとしては、期待できまい。応援するのは、その学校に通っている生徒とその関係者のみ・・・かもしれない。

やはり淋しいなあと感じるのは、世代ギャップというものなのだろう。

2022年8月9日火曜日

メモ: 農産物価格のインフレはやはり投機のせいであったか?

日本国内の報道でも、この秋から本格的な食料品価格上昇が始まる、と。もう何度も話題になっている。

今回のインフレは、コロナ・パンデミック中の財政支援、その後のサプライチェーン混乱に、突然のロシア=ウクライナ戦争勃発という想定外の要因が重なって進行したものだが、どうやら怖れていたインフレもピークアウト近しという情況だ。

NYTに定期寄稿しているKrugmanだが、先日、こんな風に書いている。

Even so, historical experience wouldn’t have led us to expect this much inflation from overheating. So something was wrong with my model of inflation — again, a model shared by many others, including those who were right to worry in early 2021. I know it sounds lame to say that Team Inflation was right for the wrong reasons, but it’s also arguably true.

One possibility is that historical experience was misleading because until recently the economy was almost always running a bit cold — producing less than it could — and inflation didn’t depend much on exactly how cold it was. Maybe in a hot economy the relationship between G.D.P. and inflation gets a lot steeper.

最近年のように低圧経済下において生産、雇用と物価の間の関係はフラットになっていて、生産や雇用が弱めであっても物価は硬直的であった。であるので、生産が望ましい水準まで回復するとしても、インフレはそれ程は加速しないはずである、と。ところが、(予想に反して)今回の回復プロセスでは生産、雇用と物価との間の関係がより敏感(=steep)な関係になっていた・・・。

やや弁解を述べた最後に

Looking ahead, the economy is currently cooling off — the decline in first quarter G.D.P. was probably a quirk, but overall growth seems to be running below trend. And private sector economists I talk to mostly believe that inflation either has already peaked or will peak soon. So things may seem less puzzling a few months from now.

今回のインフレもピークアウトしたか、間もなくするかであり、分かりやすい状況になって来た、という具合にまとめている。

実際、農産物価格についてWSJは最近の価格急落を伝えている。

今年に入りインフレや戦争に伴う供給問題が懸念材料に浮上すると、商品価格の上昇を見込んだ市場参加者が先物市場に資金を注ぎ込み、相場を押し上げていた。小麦と大豆は最高値をたびたび更新し、トウモロコシは史上最高値に迫っていたが、ここにきて状況は一変した。投機筋は利益を確定してインフレ取引を手じまい、リセッション(景気後退)に備えて穀物市場から撤退した。

確かにグラフをみると歴然としている。

URL:https://jp.wsj.com/articles/speculators-exit-agricultural-markets-intensifying-crop-selloff-11659726280
Source:Wall Street Journal、2022 年 8 月 6 日 04:05 JST

このグラフをみると、実は2020年の年末近くから上昇を始めている。その後、2021年にはサプライショック、2022年にはウクライナ戦争が勃発して更に上昇したわけだ。今回の下落は、ウクライナ戦争による不規則変動をキャンセルした状態で、正に文字通りの《投機》であったことが分かる。

WSJの報道によれば、

ウクライナは今週、ロシアによる侵攻後で初めて海路で穀物を輸出したが、黒海経由の安全な食糧輸送を約束した協定はほごにされる可能性がある。協定が守られたとしても、ウクライナに滞留している穀物の在庫解消には数カ月かかりそうだ。米農務省は、今収穫期のウクライナからの穀物・種子輸出量は前期の半分程度になると予想している。

 一方、米国は記録的な猛暑と干ばつに見舞われ、作柄に深刻な影響が及んでいる。ゴールドマンのアナリストは3日のリポートで「トウモロコシ、大豆、春小麦の生育状況はここ6週間、ほぼ継続して悪化している」と指摘。米国の収穫量が2~3%減少し、トウモロコシと大豆は消費量に対する在庫量の割合が過去最低水準に落ち込むとの予測を示した。

基本的には《供給制約》が続くため、短期的な見通しとしては、元のトレンドに戻ってから再上昇する可能性が高い。そう予測しているようだ。

「この秋の食料品価格上昇」とだけ報道しておけばイイ状況ではないようだ。 

<報道>と言うのは、井戸端会議のように、思い出す時にだけツマミ食いのような気分で話題にするというのでは、寧ろ情報提供という面ではかえって有害であって、重要なテーマについては定期的にコーナーを設けて、地道に汗をかきながら伝えておくという地味な努力が大切であると思う。

状況は刻々と変わっている。最近のワイドショーは酷いもので、あの話題はスルーして触れない、この話題も何かの理由で都合が悪い、そんな思惑がアリアリと観察される状態で、これでは次にTV画面で話されるときには、映画で30分ばかり中座して、また観始めるようなもので、分かったような分からないような気分だけが残ることだろう。

いや、いや、最後はまたまた国内メディア批判でまとめてしまった。仕事に没頭した若い時分には日本のメディアのアラを意識しなかったのだが、少しゆとりが出来て、国内報道に触れるようになると、どうしてもフラストレーションがたまってくる。本ブログをそんな思いのはけ口にしたくはないが、これもWebLog、世相を記録する日々の航海日誌ということで。


 


2022年8月8日月曜日

ホンノ一言: 「ならぬものは、ならぬのです」じゃあ江戸時代と同じですぜ

新たな技術が研究開発され、文明が高度化する一方で、技術の恩恵を享受する側の一般消費者の側で<低脳化現象>が進んでいる兆しが、また一つ確認されたような気がする。

こんな話がある:

甲子園球場で「チアリーダー」を盗撮したら罪に問われる?

内容はこんな風だ:

全国高校野球選手権大会が8月6日から開幕した。甲子園球場の観衆をわかすのは、球児のプレーだが、チアリーダーの応援姿にもドラマがある。しかし、そのチアリーダーたちの衣装を見直すべきだという声があらわれている。スマホの普及とともに、チアリーダーの「盗撮被害」が増えていることが背景にあるようだ。

なるほど盗撮ですか・・・と。確かにネエ、目を奪われて撮影したくなる御仁も球場現場には多くいるかもしれない。野球を見に来ているのにネエ・・・。余計な催しが視線を奪ってしまっているわけか、そう思いました。

甲子園球場のある兵庫県の場合、「通常衣服で隠されている下着又は身体」を撮影した場合に犯罪になります。たとえば、駅のエスカレーターでスマホを使ってスカート内を撮影するというのが最も多い類型です。

URL: https://news.livedoor.com/article/detail/22640074/
Original:livedoor NEWS、2022年8月8日 10時39分、 弁護士ドットコム

確かに駅のエスカレーターで上にある対象物をコッソリと撮影する行為と、チアリーダーたちの動作の中の特定の一瞬間において垣間見える対象を本人の同意を得ることなくスナップ撮影する行為は、外見上かつ形式上、非常に類似している、とも言える ― 法律的思考は常に唯物論的で形式論理学的であるものだ。 


「これは破廉恥だと言えば、それで破廉恥なのである」と判定される理屈、というかそうした議論も時に有効だというのは、小生も商売柄なじみがある。

ここでポイントになるのは、何が破廉恥であると判定するかどうかの大前提は、

破廉恥だから破廉恥なのだ

という風に、証明不可能な価値観に立つしか方法がない。つまり

そう思うから、そうなのだ

という論法で、大前提から議論をスタートして、あとは外見上の類似に着目して、結論を下す。その点で極めて演繹的な議論をしていると言える ― この話題については先日も投稿した。

もちろん演繹的議論が説得力をもつかどうかには条件があり、それは出発点である大前提が正しいことは誰の目にも明らか、自明であり、大前提(=公理)が誤りであるとは到底考えられない、その位にまで確実であるときにのみ<大前提>たりうるわけだ。デカルトのいう

これを否定することは絶対にできない。 したがってこれは、誰もが受け入れられる、かつ受け入れざるをえない(ほどに確実なこと)

演繹的議論を起こすための大前提とは、本来、こういうものでなければならない。でなければ、帰結を含めて議論全体が怪しくなるのが演繹的議論の弱点だ。


しかし、人間の知性は全て演繹的に進めるべきものではない。実際、このような思考を極端に推し進めれば、中世キリスト教神学の暗黒時代に逆戻りすることにもなる。

特定行為を判定するのに目的に着目するのは法律的議論の本質を為すはずだが、目的論ではなく因果関係論に目を向けるのも大切だ。

破廉恥行為が確認されるのであれば、その行為がなされた原因は何であったのか、ここを確認しなければならない。人たるもの、誰もが<自由意志>をもっているが、だから行動はすべて自由意志に基づくものであり、原因を問うのは無意味であり、すべて結果には自己責任を負わなければならない、と。そうは割り切れないでしょ、というのがごく最近の流れであろう。つまり、行動はすべて自由意志による、故に破廉恥な行為をするならば、破廉恥な意思と目的を持っていたからだ、と。こうした目的論的な思考ではなく、ある特定の事象が発生していれば、多くのケースにおいて、特定の行為とその結果がもたらされる法則性が観察できるのであれば、時間的に先立つ特定の事象が、その後の結果の(蓋然的な)原因であると認識できる。こういう帰納的議論があっても大いに有意義であろう。

であれば、ある事象が先立って発生しており、その時に破廉恥と判定される行為が観察されるのであれば、破廉恥な行動が非であると判定すると同時に、その破廉恥な行為の原因をつくった側にも結果を誘発したという罪を認めなければなるまい。

(心理学的?)因果関係が存在するかどうかを追求するスピリットは、近代科学を支えている大黒柱である。

法律的議論に科学的思考が混じってはいけない理由はない。


2022年8月7日日曜日

ホンノ一言: 「オミクロンは風邪のようなものだ」に対する異論・反論について

加筆:2022-08-09

感染者が確認された都市では全数検査ないし広域大規模検査を実施する建て前の中国では、今回のオミクロン株感染者の概ね90%が無症状者であるという。無症状であるにもかかわらず、ロックダウンで外出禁止になるのではフラストレーションも増すというものだ。

日本では、よほど気になる向きを除けば、無症状者であれば検査はするまい。おそらく毎日発表される「新規感染確認者」の何倍もの感染者が、自覚もせず、検査されないまま、自然治癒しているという情況なのだろうと推測される。

今回のオミクロン株を風邪に似た疾病の一つとして治療体制を見直そうという提案が話題になっている。

これに対して、

後遺症を考えれば、とんでもない暴論である。

そんな反論が国内(と限ったわけではないとも思うが)にはある。たとえば

7月22日にアメリカとカナダの研究チームが「子どものコロナ後遺症」に関する最新の調査を発表した。子どもは軽症で済むからと決して侮ってはいけないコロナの現実が明らかになってきた。

という海外の研究結果を紹介した上で 

 最近SNSでは、子どもがコロナに罹患し、その後になって体に異変が現れたという投稿が増えている。

「小学生、後遺症で髪の毛が抜け始めた。ほぼ寝たきり」

「息子は学校で倒れたらしい。本人はブレインフォグ中で断片的な記憶しかない」

「下の子(小学生)が先月コロナに罹患して、一か月以上経過して、咳・たん・全身倦怠感」

症状は深刻で、心配する親たち、不安を抱える子どもたちの様子が投稿に表れている。脱毛、ブレインフォグ、倦怠感などは“コロナ後遺症”の主な症状だ。これまで大人ばかりが注目されてきたが、最新の調査で子どもにも“コロナ後遺症”がでることが確認されてきている。 

URL: https://news.yahoo.co.jp/articles/936206b2066530102aac454dd3d0d4987fd1ea7b

Original:TBS NEWS DIG、8/7(日) 8:01配信

厳重な注意を喚起している。が、中国で観察された無症状率から憶測すると、後遺症発生率の研究にはかなり「サンプル・セレクション・バイアス(Sample Selection Bias)」、というより"Censored Data"が結果に影響しているのではないかと思われ、解釈には注意が要る。

何かの提案をするならするで、当然のことながら、データに基づいて提案しているわけである。これに対して、その提案にネガティブなデータにスポットライトを当てて反対するのは、反対意見に共通する典型的なパターンであって、そうなる理由は「どのデータを最も重視するか」という観点の違いに帰することが多い。

実際、中国の<ゼロ・コロナ戦略>にも、西洋の<ウィズ・コロナ戦略>にも、そういう異なった戦略を採用する異なった理由があるわけで、更に掘り下げると、戦略の違いは何を目的とするかという目的の違いに帰着するのがロジックである。目的が異なれば、目的を達成するための最適戦略が異なるのは当然であり、いま国によって、地域によって、やっていることが違うのは、戦略の違いというより、目的の違いが根本的な理由である。

そして「目的の違い」と言うと、『要するに、経済を回したい、命よりも経済なんですよネ』と非難を込めて言い募る向きが多いが、単に「経済」というよりも

その人、一人一人の個人の基本的人権、特に自由を保障する社会であるべきだ

こんな言い方の方がより的を射ているのではないかと思っている。いま西洋、具体的には西側諸国ということになるが、コロナ感染抑止のための行動規制をほぼ撤廃しているのは、感染抑止を名目にした人権侵害(≒自由の制限)を極力避けるというのが、本質的な理由であろう、と。小生はそう観ているところだ。

命よりも、お金が大事。そういうことなンでしょ!

日本では頻繁に耳に入るこんな非難だが、その裏側には(補償金があるにせよ、ないにせよ)どこか全体主義的な統一志向、管理志向の匂いがするのだが、そう感じるのは小生だけだろうか?

社会全体として善いことであれば、一部の人が色々な事を我慢するとしても仕方がないという価値観には、特に西洋的伝統に忠実であれば、異論をもつ人は相当数いるだろう。

コロナ後遺症が重要な問題で、懸念しなければならないという指摘には、確かに賛成だ。しかし、後遺症発症者を可能な限りゼロにするという考え方は、事実上、ゼロ・コロナ論と同じである。

上にあげた提案の主旨は、当然だがウィズ・コロナ論から出てきている。「インフルエンザや風邪の治療体制に近い体制に移ろう」ということであり、つまりは《病態に沿った組織戦略》の提案である。その目的は医療資源の効率的使用にある。医療資源は、現時点では量的制約下にあるので、もし命が大切なのであれば最も効率的に診療サービスを活用するとき、医療のアウトプットは最大になる。この事は後遺症治療にも寄与するはずだ。

議論の本質はこういうことであり、『風邪と同じ』という言語表現をとるかどうかは、マア、どうでもよい些事である。やはり、ここ近年の日本に目立つ、言葉使いを批判する一例だと思う。

日本は心の底から《ものも言いよう》のお国柄なのである

ホントにそう思う。

言葉重視の原則は、マナーの第一歩でもあるので、反対するわけではないが、礼を重視するなら「言葉尻」に拘るのではなく、礼の本質、つまり「辞譲の心」に目を向けて語らなければなるまい。辞譲とは簡単にいえば「相手を立てる」ということであって、自分の意見を正論として主張し相手の意見を異論として否定するという態度とは正反対なのである。自分は礼なるものを捨て去り自己主張に専念しつつ、相手には礼に適った言葉づかいを求めるのは、二重の意味で<無礼者>に該当するわけだ。



2022年8月3日水曜日

ホンノ一言: 米下院議長の訪台に思う

 昨日は、米下院のナンシー・ペロシ議長が台湾を訪問する(だろう)というので、世界中が大騒ぎをしていた様子。その中で、日本のTV画面はコロナ第7波がメインの話題で、その辺は実に一貫して国内メンタリティ重視路線が貫かれていた。今日の報道では、ペロシ議長が乗った航空機の航跡を追跡する「フライトレーダー24」を台湾到着時には70万人以上の人が視聴していた、と。

フライトレーダー24のデータによると、ペロシ氏を乗せたとみられる米空軍所属の航空機は日本時間2日午後7時すぎにインドネシアのカリマンタン島付近、同午後9時半にフィリピン東方の海上を飛行した。中国が軍事拠点化を進める南シナ海上空を迂回して台湾に向かった。同機の航路を閲覧した人数は台湾到着時点で70万8000人だった。飛行時間は約7時間におよび、総閲覧者数は292万人にのぼった。

Source:日本経済新聞、 2022年8月3日 11:17 (2022年8月3日 12:30更新)

総閲覧者数が292万人というから相当の注目度であったわけだ ― 視聴者数の国籍別内訳などがあるともっと興味深いのだが。


この台湾訪問にはかなり批判もあったようで、NYTのコラムニストであるThomas Friedmanは"Why Pelosi’s Visit to Taiwan Is Utterly Reckless"というタイトルで寄稿している。

I have a lot of respect for House Speaker Nancy Pelosi. But if she does go ahead with a visit to Taiwan this week, against President Biden’s wishes, she will be doing something that is utterly reckless, dangerous and irresponsible.

全く向こう見ずで、かつ危険、無責任極まりないと酷評している。しかも、" against President Biden’s wishes"、つまり大統領の希望に反して、ということだから、共感の余地なしというところだ。結構リベラルなニューヨーク・タイムズでこうだから、あとは推して知るべし。

ただ、ここまで「愚か」というしかない行動になると、表面から判断してもよいのだろうかという疑問が生じるというものだ。

アメリカは<三権分立>を盾にして『行政府の長が立法府の議長に指示することはできない』、まあこんなメッセージを発して中国には冷静な対応を要請している由。

何だか胡散臭い。アメリカの政府はいかんとも出来ず、行ってはダメだとは言えない。が、アメリカという国家の意志は十分に分かったはずだ、と。中国から観れば、アメリカ政府こそ無責任の極みと映るに違いない。責任を持つべき国家元首は誰なのか、と。

ただ、北京政府はなぜこれほど怒るのだろう?(北京政府の言う通り)台湾は中国の一部である。仮にペロシ議長が深圳や南京、蘇州や天津を訪問したいと言えば、北京政府はウェルカムであったろう。台湾も中国の一部であり、アメリカ政府もそう認めているのだから、中国の一部である台湾を訪問しても怒る筋合いはないだろう。なぜ台湾訪問に限って北京政府は怒るのか・・・というのは屁理屈で、台北政府は自らの国旗をもち、総統を選び、法律も自ら制定して北京政府とは独立して台湾を統治している。つまり中国は今も中央政府に従わない地域が残る「内乱状態」にある。清朝初期、康熙帝の時代に発生した「三藩の乱」と類似の情況にある。その「賊軍」の拠点を訪問し、歓迎を受けるというのは、米国は北京政府に敵対する意志がある。ま、そんな理屈になるのだろう。が、それでも北京はワシントンに敵対する意志は持たないだろうと、小生は勝手に思っている。喜ぶのは、日本や東南アジア、インドであるのは明らかだ。戦前期・日本が苦労したように、これから中国は対米外交に苦しむ運命にある。

中国はモヤモヤした国際政治環境に追い込まれている。不愉快千万なことだろう。投資リスクは高まる一方だ。このままでは閉塞感が蔓延するだろう。いずれやって来る高齢化を考えると、お先真っ暗だ。これもロシアとの親密路線を死守しているからだ。そんな日和見主義、敗北主義が中国国内で頭をもたげてくるようなら、中国にとっては敗北の方程式になるかもしれない。


一口に言えば、(ホワイトハウスではないが)ワシントンによる恫喝である。ひょっとすると、今回のペロシ議長の訪台、ホワイトハウスと水面下では話がついているのだろう。