加筆:2022-08-17、2022-08-18
1年の計は元旦にありと言うが、小生個人の日常習慣としては、1年の計は8月15日にありという方が気分的には当てはまる。というのは、亡くなった父の命日が7月31日、母の命日が9月23日、その間に広島原爆記念日、長崎原爆記念日、御巣鷹山慰霊祭、そして終戦記念日と国家ないし社会レベルの鎮魂行事が続く。下の愚息が通った幼稚園の縁で卒園後にずっと月参りをお願いしている寺の住職が10日前後に盆回向に訪れ、8月16日に盆が明けたあとは18日に寺である施餓鬼会に行く。そんな習慣が我が家ではずっと続いている。だから、暦を付け替えるだけの元旦よりは8月15日の方が1年の締めくくりとしては心理的にピンと来るのだ。もちろん個人的な習慣であるが・・・
というわけで、コロナ・パンデミックも世界では終盤に入った段階で、日本が直面しているかのような新たな二つの問題をとりあげておきたい。
一つは「ロシア=ウクライナ戦争」、もう一つは「旧・統一教会と政治の関係」であると言っても、多くの人は賛成するのではないだろうか?
そして、このどちらも、短期間にどうにか出来る問題ではなく、そもそも日本政府が処理できる問題ではないとすら、思ったりする。マスコミが毎日のように特集しても解決できるわけでなく、その意味では日本社会の無力感を感じさせる問題でもあるだろう。
大体、コロナ対応においても、日本政府、日本社会の対応振りは、原理・原則や基本戦略がなく、その時々の状況の変化に応じるだけの場当たり的対応を繰り返してきたという忸怩たる後悔や不満が、いま日本社会に底溜まりしているのではないだろうか?とすれば、もっと対応が難しい国際的安全保障や●●十万人レベルの宗教組織と対峙する際、コロナ対応とは打って変わって、切れのある鮮やかな行動を日本が見せられるなどとは、(今のところ)まったく想像できない、というのが正直なところだ。
今日はそれぞれ気になっている点を一つずつ。
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まずウクライナ戦争。
マスメディアの報道では「ロシアが敗北しつつある」という見通しもあれば、「ウクライナも限界にさしかかっている」という見方もあり、文字情報のみでは何が的を射ているか分からない。
ただドイツでは今冬の暖房温度設定を19℃にするよう政府から指示が出たとか、公共施設では夜間照明を停止するとの方針が出たり、それでもエネルギー供給はギリギリであるとか、社会的不安は今後高まっていくだろうというのは、多分、本当だろう。
ロシアは占領した東部と南部をロシア領土に編入し、同化政策を進め、更には国外に避難したウクライナ国民が一定の誓約をする場合にはロシア国籍を与えたうえで復帰を認めるという段階もそのうちにはやってくると想像している。
そうした上で、(一方的な)停戦宣言をした上で、
ロシア領土を攻撃する軍部隊に対しては侵略とみなして核による反撃もある。侵略を命令する中枢部への核攻撃も検討対象に含まれる。
そんな(一方的な)核使用宣言も大いにありうるように思う。
旧・西側諸国はどう対応するのだろう?
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次に「旧・統一教会」。こちらは簡単な一言ではすまない。もう何年も前になるが、同僚に『19世紀は科学の世紀、20世紀は科学を応用した戦争の世紀、21世紀はその反動というか、また宗教の世紀になると思うんだよネ』と話したことがある。同僚も『ま、世界がそうなる可能性はあるな』と返していた。
そもそも宗教は社会不安が高まるときに浸透、拡大するものだ。マスメディアが社会不安を煽ればあおるほど、それだけ(諸々の)教団の布教活動には追い風となるのが皮肉なロジックである。この点はいま日本社会ではあまり意識されていないかも。実に惰性的な「平和ボケ」にあるのは第一に情報のプロであるはずのマスコミであるのかもしれない。
キリスト教は(言うまでもなく)紀元ゼロ年以降にローマ帝国内で布教を始めるのだが、当初は「邪教」というか、弾圧の対象であった。コンスタンティヌス大帝が313年に「ミラノ勅令」を発してキリスト教を公認するまでに300年という長年月が過ぎているが、キリスト教が帝国内で急速に普及したのは、五賢帝による「ローマの平和(Pax Romana)」が終焉を迎え、腐敗した軍閥が皇帝を次々に廃立する「動乱の3世紀」になってからのことだ。この3世紀100年の間にローマ帝国内の人口は3割ほど減少し、婚姻率の低下や少子化、侵入した異民族との雑婚、混血が進んだとも伝えられているが、正に不安を抱えた社会でこそローマ市民は伝統的な多神教を捨てキリスト教に救済を求めたわけである。宗教は心の安定をもたらす特効薬という意味では正にマルクスが言ったように「心のアヘン」、「民衆のアヘン」とも言える ― 「アヘン」というのは言い過ぎで、「鎮痛剤」とでも言えばよいものを、とは思っている。少なくとも自殺防止効果において宗教と精神安定剤はドチコチないのではないかという印象をもっているところだ。ま、いずれにせよ
宗教の拡大と不安の高まりとは表裏一体である。
1980年代から90年代にかけての宗教的トラブルの続発には、社会学的・経済学的原因があったという風に、メカニズムを理解することが大事だ。そうすれば、「旧・統一教会問題」が再び浮上した今日の状況にも賢明に向き合えるというロジックになる。
つまり、(宗派によらず)宗教に関連した事件、変事を防ぐには、不安をなくし希望に満ちた活力ある社会にするのがオーソドックスな近道である。真っ当なメディア企業なら、真にプラスになる情報を提供することに努力してほしいものだ。これが本日2番目の話題の結論であると言ってもいい。
時代を問わず、国を問わず、西洋でも東洋でも財政破綻、政治不安、宗教組織の拡大は三位一体で見られ、同じ現象は幾度も繰り返され、中国では王朝交代にもつながることが多い。
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さて、統一教会だ。思いつくままに書き足しておこう。
正直なところ、過去の記憶は残っているが、それほど意識しては来なかったのだ、な。
統一教会による「霊感商法」が国内で次第に社会問題化してきたのは、1980年代に入ってからと記憶しており、1990年代以降になると、その違法性が司法の判決でも認定されるようになった。小生の若い時分ではあったが、大雑把にそんな記憶をもっているのだ。ちょうどイラン革命がもたらした第二次石油危機とインフレ加速、その後のバブルによる地価騰貴から突然のバブル崩壊、増える不良債権、1997、8年の金融恐慌へと続いた20年にあたっている。
その頃は小生も某経済官庁でバリバリ(というよりペイペイ)の若手小役人であった。幾つかのトラブルを起こしながらも「統一教会」は、治安当局の「反社会的組織」に指定されることもなく、むしろマスコミの関心は90年代に入って重なるように注目を集め始めたオウム真理教の方へ集中する傾きがあった。そんな中で「統一教会」は日本社会の水面下で布教活動を続け、併せて政治家への浸透にも意を払い、その部分ではかなりの成果をおさめてきた、それも国際的な広がりを伴って、と。まあ、そんなザッとした記憶をもっている。
21世紀に入って以降は、マスコミは「統一教会」に関してはめっきりと関心を薄れさせたようで、ほぼ何も報道しない姿勢を続けてきた(と覚えている)が、つい先日の安倍元首相暗殺事件を契機にして、永年の無関心を(良心の疼きからか)まるで埋め合わせるかのように、このところ連日のようにTV画面で、また新聞紙面で、批判的な特集報道を続けている。これが今の現状だ。
ずっと以前は50万人程度の信者がいたそうだが、足元では数万人にまで減少しているとも伝えられている。それでも(日本国内に?)数万人の「統一教会」信者がいて、日常的にある程度まで熱心に活動しているのであれが、社会的には決して無視できず、足元の日本社会では「何だか気持ちが悪い」、「何とかしてほしい」、「政治家との接触を禁止してほしい」、「社会的な影響を許さないで」と、まあ、日本人は非常に<潔癖な国民性>であるものだから、そうした社会心理が広まりつつあるのではないか。そう観ているところだ。
何だか、40年ほどの歴史を簡単に要約した塩梅だが、筋道はホボホボこんな所だと思う。
ただ、どうなのだろうナア・・・??、とは思う。
あくまで個人的な見方だが、「宗教と政治」、「教団と政治家」というテーマだが、なにか社会を管理するPDCAサイクルのような観点にたって、それを「社会問題」ととらえて、何かの「問題解決」にまで落とし込むというそんな考え方から「旧・統一教会」についても一定の「解決策」へと至りたい、と。そう願っているならば、それは(少なくとも短期的には)非常に困難だと思う。率直に言って、《ノーマルな社会》という暗黙の前提に立った安易なアプローチで、これまた《平和ボケ》の一例になっていると感じる。一般論であるが、《社会》というのは、歴史をみても分かるように、変化し続けるのが本質であって、「元の正常状態に回帰する」という性質は本来もっていない。激動期には社会は大きく変化し、変わったそのままで安定し、変質し、進化して、元の状態には決して戻らないという理も分かっておかなければならない。
より本質的で掘り下げた考察が求められている。「考える」というのは、普通の人が面倒に思い、嫌がるものだが、多くの「大失敗」は概ね「性急、腰だめの、浅い考え」に原因をもつ。
大体、イギリスで主流の英国国教会("Anglican Church")は、聖公会という名の教会が小生が暮らす町にもあるが、アングリカン・チャーチの首長は英国王|英女王であり、現在はエリザベス2世がつとめている。政治と宗教との分離もなにもあったものじゃあないと、改めて批判をこめて言う人もいるかもしれないが、そうなっているのだから仕方がない。また、米大統領の就任式では新大統領はキリスト教のバイブルに手を置いて宣誓する慣習になっている ― ユダヤ教徒なら旧約聖書だろうが、もしイスラム教徒が大統領に当選すればどうするのか、甚だ興味深いところだ。ドイツだが前政権与党である「キリスト教民主同盟」、「キリスト教社会同盟」は保守勢力の代表である。日本の「公明党」が「日蓮宗公明会」と名乗るようなものだ。スカンディナビア諸国の国旗は「十字架」をシンボライズする意匠になっているし、イギリスのユニオンジャックも成り立ちを考えれば同じだ。フランスでは宗教勢力と政治との分離が厳格に法制化されているが、寧ろそれはフランスではカトリック教会の影響力がそれだけ深いという事実の逆説的な反映だろうと小生は思っている。
「宗教」は、人間の「宗教感情」から生まれるもので、宗教感情は「科学」とも「哲学」とも異質でありながら、それでも「人間性」の本質であるには違いなく、簡単にいえば
どれほど技術が進歩しても、何ごとも思うようには行かないものだ。人間にはそれぞれの運命があり、いつまでも生きられるわけではなく、生きるべき時、死ぬべき時があるものだ。
そんな思いが人間にある限り、宗教感情が消え失せることはなく、宗教が世界から消え去る日は永遠にやっては来ない。そう思っているのだ、な。実際、毎月僧侶が読む「仏説阿弥陀経」や十念の声が拙宅から消え失せるなど、困難と言うより、今となっては想像不可能である。そんなことは現実にはないが、もしも僧侶と政治向きの話しをすれば、それは宗教と政治が結び付く場面の一つにもなるだろう。
民主政治を支える一人一人の有権者の心に宗教感情があれば、政治と宗教を完全分離するのは、そもそも不可能なことである。
なので、「旧・統一教会」と政治との関係を論じる際も、「解決」するべき具体的問題点をまず提起する姿勢が日本社会の側にも求められる。そう思うのだ、な。「具体的問題」、つまりは行政上あるいは訴訟上の問題に限定することが望ましい。
日本から韓国へ信者が支払ったマネーが流出するあり方が不当であり、その経路を絶ちたいのか。仏具、イヤイヤ「神具」を販売する際の不当価格を規制するべきなのか。信者による巨額の寄付金がその信者の家庭崩壊を招くケースだが、一人の信者が独断で寄付するときに同居する家族の財産権はどう守られているのか。離婚する際にも配偶者には半分の財産を受け取る権利がある。信者の意向によらず同居家族にも守られるべき財産権があるはずである。司法はどう介入しているのか。また、寄付金に申告義務を課し、税務調査を徹底し、脱税の有無を調査するのか。まあ、色々様々な行政措置、行政指導は可能であるわけだ。
河野太郎大臣がはやくも消費者問題としてアプローチすると言明しているが、これも適切な切り口の一つであろう。
日本は法治主義であると国際的にも明言している。それを徹底するべき時だろう。
信仰や宗教という次元から「問題」を探すのは愚かで、かつ危険な人権侵害になる。公的権力は宗派の適・不適を論じるべきではない。「第4の権力」であるメディアも同列だ。勝てる見込みのない訴訟になる。発生したトラブルに法律で規定された犯罪行為がある場合に法的処罰をすれば十分である。それ以上の何ものも余計な勇み足。「現世」を否定し「来世」を志向するのは信仰の自由に属する。「人間本来無一物」と信じて全財産を喜捨(=寄付)するなどの行為も自由な宗教的行為だ。受け取る教団の側が固辞すれば、申し出た側こそ落胆するに違いない。日本国内の修道院もそのはずだが、修道士は私有財産を持たない。従って、(小生も伝聞ではあるが)国民年金保険料も修道会が納め、年金も修道会が受け取っている。だからと言って、個々の修道士の人権を教団が侵害しているとは誰も言わない。これも自由な信仰に属する。それが直観に基づく非合理な体系ともいえる宗教というものだ。〇〇百万円程度の寄付ならば小生の祖父も菩提寺にしている。金額が△△億円に達しなかったのは持っていなかったからに違いない。試みに近隣の寺や神社に足を運び境内を眺めてみればいい。寄付者の「ご芳名」を彫った「寄進者奉名板」を容易に見つけることができよう。それが嬉しいからそうするわけだ。富裕な御仁であれば、法主のために御堂の一つも建立して差し上げようと言うのは、後世にも伝わる文化活動であった。マア、実際に則して一般論を述べれば、こんな話しになる。家庭崩壊、宗教二世という言葉をいまマスコミは好んでいる。が、問題はあくまでも具体的な法律に基づいて把握し、法的に吟味するというのが、本筋だろう。
そもそも信仰自体は自由であるのが原則だ。社会が介入すれば定義として「弾圧」に該当する。教団からみれば「法難」である。故に、少なくとも法律上の議論にすることが不可欠だ ― たとえ既存の法律を適用したり新規立法によるとしても、それが「宗教弾圧」に該当する可能性は常にあることを歴史は教えてくれている。例えば、維新直後の廃仏毀釈運動などは国民的ヒステリーであったとも言えるだろう。ま、その廃仏毀釈運動のお陰で大寺院・興福寺が打撃を蒙り、今の「奈良公園」という市民のための憩いの場が提供されたのだから、何が幸いするか、事前には見通せないものだ。とはいえ、その当時の非条理な攻撃で哀しい思いをした多数の被害者を思えば、いま公園になっているからと言って、免罪されるものではないだろう。
こう考えると、信者数を考慮すると、何を議論するにしても5年ないし10年程度の時間をかけながら、日本社会との折り合いをつけていくしか、「旧・統一教会」に関してはとりうる対応方針はない、と。そんな風に思っている。
やはり、20年のネグレクトのツケは大きい。現状を所与として、何かを解決したいなら、今後将来にかけてやっていくしかない。連日の批判的な特集報道は信者たちの人権擁護の視点からも非常に問題が多いと思っている。営利上の動機としか見えない所がある。