2025年6月30日月曜日

断想: 仏理上の「真理」を分かりやすく言うと……

いま角川ソフィア文庫所収の『認識と超越(唯識)』(服部正明・上山春平)を読んでいるところだが、こんな一節があった:

同様の思想傾向を原始仏教にもたどることができる。『長部経典』十一には、この世のものはすべて「識」が「あることによって存在すると述べられている。……ことばで規定することができない「識」こそがすべてのものを存在せしめているのであり、「識」が滅することによってすべてのものは滅する、というのである。
実在するのは個々人の心の中にある「識」だけであり、「自我」も「世界」も心の中に映った映像に過ぎないというのは唯識論ならではの世界観である。

この箇所にKindleで手書きのメモを付けておいた:

たとえ人類が地球上から滅んでも、素数は素数であり続ける。自然数は可算無限であり、実数はそれより大きい不可算の無限である。真理が真理であることに変わりはない。何故なら証明された真理は知識として実在しているからだ。こんな宇宙観とは矛盾しているのかどうなのか、いまは判然としない。
こう書いておいた。

唯識論はなかなか難しい。この前には加藤朝胤監修『唯識 これだけは知りたい』(船山徹・石垣明貴杞)を読んだが、特に唯識論独特の「八識説」と「三性論」との関連は分かりづらい。ものの存在のあり方、というか私たちの側の知識のあり方というべきか、例の偏計所執性へんげしょしゅうしょう依他起性えたきしょう円成実性えんじょうじっしょうは、概念を理解すること自体が、難しい。いわゆる「誤認」は「偏計所執」であり、「おかしい、あるいは」というのが「依他起」、真理そのものが「円成実」だと理解した(つもり)が、欄外にこんなメモを書いている:

人を見ても、自動車をみても、素粒子の集合であると理解するのは円成実なのか?
いやあ、禅問答のほうが多くの人には面白味があるかもしれない。小生は、前にも投稿したことがあるが、素粒子が構成しているいわば抽象概念である「人」、「自動車」という観念こそが実在していると考える立場にいる。人を人たらしめている化学・生理学的反応プロセスを生み出した「自然知」、というか「究極的知性」が実在していると考えるわけだ。場所?そうネエ、実在する場所は「どこかに」か、「叡智界」か、それとも「イデア界」か、日本語でどう呼ぶかに関心はない  ― まあ、それを仏教では無常であり、空であると断じるのだが。

文脈的には、円成実という(否定できない)真理は、既に依他起の中に反映されているという意味では、どこかプラトンのイデアにも似ている。これはともかく、(この世界で、実験機器を含めて)感覚的に観察可能なエビデンスに基づいて検証される自然科学は、上のランクでいえば、依他起性をもった知識なのだろうと解した次第。

ということは、浄土系仏教が前提する浄土世界の実在だが、これが依他起ではなく、直ちに円成実であるという論拠があれば、その実在は信じるに値するという議論になる。ふ~~む、ロジックとしてはそんな理屈になりますか……、以上、覚え書きまで。

2025年6月27日金曜日

断想: AIによるホワイトカラー削減について

数日前に

「AIで管理職は減る」をアマゾンも認めた
というヘッダーの投稿をネットで見かけた。一読すると、結構、中身があるので、例によって抜粋させて頂きながらコメントを付けて自らの勉強としたい。

書き出しは

米アマゾンが「AIによる効率化で、管理部門の従業員数が減る」と発表したことが波紋を広げている。日本工業大学大学院技術経営研究科の田中道昭教授は「巨大テックCEOが『AIリストラ』を明言したのはこれが初めてだ。この影響は必ず日本企業にも波及するだろう」という――。
こんな感じだ。

Source:  President Online
Date:  2025-06-24
Author:  田中 道昭(以下同様)

ChatGPT等の生成型AIがホワイトカラーを代替するようになるだろうというのは、ほぼ確実に予測されている事で、今さらこの動きが現実化したからと言って驚くには値しない。そう思いながら読んでいくと:

2025年5月13日には、米マイクロソフトが従業員全体の3%近くにあたる約6000人の従業員を削減することが発表された。そのうち4割がソフトウェアエンジニアであり、AIによる業務自動化やそれに伴う組織再編などが主な要因と報じられた。
これは知らなんだ・・・。そうなんだ・・・アメリカのITメガ企業は着手が実に速い。

さらに、衝撃的なのはトップMBA卒の就職難である。ハーバードやスタンフォードといった超一流校でも卒業後3カ月で2割前後が無職という前代未聞の状況という。資料作成や定量分析など、これまでMBA新卒が担っていた業務の多くがAIに置き換えられたことが背景にある。
さすがにビジネススクールで統計分析の授業を担当していた身としては、気になる、というより『いま担当するとすれば、どんな事を話すのがよいだろうか?』と現場に復帰したいような気持になる。

人間にしかできない意味をつくる力こそが、これからのコア・スキルになる。

ふ~~む、確かにいま多くの人が同じような事を云っている。

これに対して、次のようなコメントをOne Noteに手書きで加えている。
そんなスキルは万人が身につけられるものではあるまい。
と。

一体、「人間にしかできない意味をつくる力」とは、具体的にはどんな力のことを指すのだろう。そんな力は、学校のカリキュラムを通して授業や演習で身につけられるものなのだろうか?もし学校教育で修得可能なスキルなら、それは客体化された技術であるから、AIでも教えれば出来ることなのではないか?そう思った。

議論は更に進む。

人間が仕事を通じてどのように社会と関わるのか、どんな価値を生み出せるのか、という仕事の意味そのものを問われているのだ。 ... ... これからは、「人材の見直し」「業務の再設計」「教育制度の再構築」という三つの課題が同時に進行する。 ... ... 学校と企業の間をつなぐ学び直しの仕組みや、個人のスキルを見える形で証明できる環境づくりが急務となる。 ... ... この問いは、効率の追求ではなく、人間という存在の意味を意図的に設計し直す行為に他ならない。
こんな風に、結局は学校や企業の、ひいては我々人間自身の存在の《再設計》へと話が展開されていく。

「しかしネエ・・・」と小生は思う。こんなコメントが付けられている。
人間が「発明」したAIが登場したために人間という存在の意味が意図的に設計し直されるという問題意識そのものがどこか歪んでいて不健康である。そもそも自分の存在意味を意図的に設計しなおすように迫られる人間を人間の造る技術文明が生むべきではあるまい。再設計される対象は「企業」という「社会組織」であるのは自明である。しかし、人間ではない。人間はそのままでよい。十分だ。そして企業が再設計されるとすれば、「生産」という概念が再定義されることになるのも自然なロジックである。
ずいぶん以前になるが、人工知能が窮極まで進化を遂げ、ほとんど全ての人間は働かなくとも「食っていける程には」マクロのGDPが生み出される。そんな社会になった時、雇用はどうなるのか、人間の生活や消費はどうなるのかについて投稿したことがある。そこでも書いたことだが、
もし全員が現役世代であれば、実質賃金の上昇は人の暮らしが向上することと裏腹の関係になる。
が、高齢化が進むと言うことは、働かずして所得を得る人の割合が増えるということだ。高齢者全体が得る所得はその社会の労働所得ではない。
... ... 機械への代替が進む中で賃金上昇は緩和される。人は減るので労働所得の増加も抑えられる。他方、資本集約化されることで生産活動は全体として減ることはないので、利益が拡大する。労働分配率は低下する。 「悪い低下」ではないだろう。
こんな風にまとめている。つまり、一つ残る問題は《分配》だけである。別の投稿では
ただ、上のような極限の状況では、現在の市場経済の下では労働需要がほぼゼロとなり、労働分配率もそうなる。ということは、資本所得に対する課税によって必要な所得を国民に再分配しなければならないという理屈になる。これは資本主義の体制とは異なる社会だ。
と書いた。

いずれにせよ、AIを悲観的にみる発想は小生には皆無だ。生産性の向上を約束してくれる科学技術の発展が人類にとってマイナスである理屈は最初からない(と考えている)。ただ、その恩恵を社会全体に浸透させるには、今までの社会慣行ではダメだ。そういうことであって、この点で《社会組織の再設計》は要請されて来ると思う。が、人間がAI社会に適応するため努力して自らを再設計するなどというのは、しっぽが胴体を振り回すような思考だと思う。

2025年6月23日月曜日

覚え書き: 王朝国家、民主主義国家を問わず、権力は必然的に腐敗する……ということか

毎月23日は母の祥月命日のため今朝も若住職がやってきて読経して帰った。終わって玄関まで見送りながら「今日は一枚起請文がなかったですネ」と聞くと、カミさんが「毎月メニュー(?)を変えているんですか?」とあいの手を入れる。すると「そうなんですヨ。ですけど、お盆で読むのはいつもと全く違うので、実はまだ覚えていないんです」と応える。「そりゃあ、お盆は一年に一回しかやって来ませんからネエ」と小生も納得の返事をする。

いまの住職がまだ若住職であった時に北海道に移住したばかりの小生は月参りを頼んだ。もう30年以上も前だ。が、30年経っても、大体はこんな感じで23日の朝は過ぎる。始めた当時は仏教に関心をもつというより、まだ亡くなってから記憶が鮮やかだった両親のために何かをしたかった、そんな動機だった。仏教の教義に関心を深めてきたのは極々最近になってからである。

唯物論では、つまり科学主義ではと言うのとほとんど同じだが、結局、この世界は理解できないし、説明もできない。そう気がついてから以後のことになる。それからド素人の勉強をしているが、学問や理論は人類の知恵の結晶であることをつくづくと感じる。

生活を便利にした多くの製品があるというより、そんな生産を可能にした科学技術。つまりは《知識》こそが、実在の本質である。その知識は「人類の知識」と言ってもいいわけだが、あえて「知識それ自体」が実在しているという意味で書いた。人類はその知識を発明したのではなく、発見したのだ、と。こう観るのが、いまの小生の立場である。

経済学的に考えれば

  • 国内要因で進行する物価上昇は財政緊縮や金利引き上げを行い総需要を抑える。
  • 国外要因で進行する輸入インフレは、輸入物価の上昇は国内に転嫁する  ―  転嫁しなければ購買力が国外に流出し名目GDPそのものが減少する。但し、国内転嫁がホームメイド・インフレにつながらないように過剰な賃金コスト上昇、便乗値上げの横行には目をひからせる。

これが理論に適った経済政策で、経済専門家が政策を決定していれば、上のような基本方針が確認されていたと想像する。

ところが……

  • 物価が上がった分、減税をするのが当たり前。支給金を配るのが当たり前。
  • 原油価格が上がったら、省エネに努力するのではなく、ガソリン税を減税して、ガソリンを買いやすくするのが当たり前。

こんな幼稚な愚論が、結構マジメに語られているのだから、日本全体のレベル低下には甚だしいものがある。世代ごとに進化しているのではなく、退化しているのが(少数例を除く大多数の意味で、さらに移民を除く?)日本人の現実だと観ざるを得ない。

大体、

物価が上がったから減税せよという理屈なら、物価が下がるデフレなら増税してもよい、と。マア、確かに生活に余裕はありますワナ・・・と。

デフレで増税して財政再建すれば総需要が落ちてデフレはますます酷くなりますゼ・・・。ヤレ、ヤレというところです。

1973年以降、更に1979年以降と二度に渡って世界は《石油危機》に襲われたが、特に第二次石油危機にどう対応するかで、日本は第一次での失敗に懲りてか、まさに優等生的な経済政策を展開した。石油高は受け入れる一方で、愚かなホームメイドインフレを抑え込み、これによって1980年代の"Japan As Number One"という評価へつながっていったのは、今となっては「日本政治」の伝説的な成功といえる。

思えば、「政治家はダメだが日本には官僚組織がある」。こんな観方が世間で吹聴されたのも、石油危機対応の後のことである。その信頼がバブル崩壊と大蔵・日銀スキャンダルの中で崩壊したのは、もう30年近く前になる。

ま、それはともかく

現時点の日本に、石油危機対応時のような冷静かつ理論に適った経済政策を採用する知的理解力などは、もうないであろう。

官僚組織も政治家も、そして有権者も、問題を知的に理解しようという気力も正直さもなくしてしまった。

「歴史人口学者」、「家族人類学者」という肩書になっているが、フランスのエマニュエル・トッドが『文芸春秋』の最近号に寄稿していて、それがマアマア評判になっている。小生も読んでみたが、次の一文には全面的に賛成する。

「選挙に当選する」  ―  それはもはや茶番でしかないが、しかし実際の劇のように特殊能力と労力を要求する  ―  という新しい仕事に忙殺されている(民主主義社会の)政治家たちには、国際関係への対応能力を身につける時間などない。こうして彼らは必要とされる基本知識をまったく持たずに国際政治の舞台に出ることになる。(略)そんな状態で彼らは本物の敵に直面するのだ。そんな彼らは敵に何の印象も残さない。(選挙から解放されている)敵たちには、逆に世界について考える十分な時間があったのである。

フムフムと思わず、引き込まれる。なお、引用文中、括弧の中は小生が追加した語句である。

プーチンや習近平に比べると、ジョー・バイデンやエマニュエル・マクロンの能力が明らかに劣っていることを西洋は目の当たりにし、劣っている理由も理解し始めたのである。

当選することに汲々としている西側政治家の知的劣化は著しいものがあります。

 正に、正論中の正論。しかし……、そんな政治家を選ぶ現在の民主主義陣営の有権者たちは、こういう評論など読む気もないだろうし、読んで理解することもないでありましょう。

「王朝国家」と「民主主義国家」の二つのうち、いずれか一方が無条件に優越しているという理論的な証明はない(と理解している)。近世から近代にかけて欧米が経験した政体に関する事実を根拠にして、特に第一次大戦、第二次大戦後は、「民主主義」が理想的政体であると、西側陣営によって事後的にか実証的にかどちらでも同じことだが、とにかく主張されてきた、と観る立場に(いまは)いる。

思うに、王朝が宮廷の華美によって次第に退廃し、財政が破綻するのと同様に、民主主義国家も自らの過大な要求から財政肥大化を免れることはできず、結局は破綻する。

宮廷の華美と放漫な財政が「悪」であると評価するのは容易である。が、民主主義国家の過大な財政は、国民の要望に応えるものであるが故に形式的には「善」である。形式的に善である事が、論理的には「間違い」であると証明し、かつその証明を有権者に理解させるのは、どれほどの天才的政治家にとっても民主主義社会では至難の課題であろう。

主権が王にあれ、有権者にあれ、

主権者は必然的に我欲をたかめて堕落する。権力は必然的に主権者の欲望の下に腐敗する。

この格言は民主主義国にも当てはまるのである。与党と野党が入れ替わる政権交代では解決できない。

王朝国家を打倒すれば、それは「革命」という美名(?)で記憶される。反対に、民主主義国家を打倒すれば、それは「クーデター」という汚名で記憶されるだろう。しかし、日本人には、どちらも「世直し」であって、実質は同じと思う人が多いように感じる。


【加筆修正:2026-06-27、07-18】




2025年6月21日土曜日

前稿の補足: 精神と輪廻について付け足し

前稿ではこんな風に書いた:

唯識論では、阿頼耶識あらやしきを除く第一識から第七識までは、身体的死と共に消滅する。

このようなロジックを組み立てる狙いは明らかで、つまり「自我」に執着するのは「煩悩」。煩悩はその人の身体的死と共に消滅する。浄土に往くにせよ、輪廻にとどまり次の生、即ち「次生」に再生するにせよ、相続される「精神」(と呼ぶべきか?)は、心の中から煩悩を除いた部分。つまり阿頼耶識だけである。

こう考えないと、そもそも煩悩塗れのままでは浄土往生は(浄土系宗派では救われるとしているが)オリジナルの仏理では難しいはずだ。自然な思考はこうなるはずである  ―  厳密に言えば、末那識は身体的死と共に消失するが、消失後に阿頼耶識に回収されるということだが、細かな知識は勉強していないので、そこまでは知らない。

実際に、阿頼耶識のすぐ近くで働く末那識まなしきは、

そうした阿頼耶識のスガタを不変で実体的な、それこそ自己の中核たる「実我」と誤認する心の深部のはたらき。それが末那識の恒審思料の内容です。もとより、そのように誤認された阿頼耶識は、第七末那識にとって愛着の対象です。
いま読んでいる多川俊映『唯識とはなにか』では、こう解説されており、その「恒審思料」の内容は
我癡(=自分の本来の姿を知らない)、
我見(=自分を実体視してしまう)、
我慢(=自負のあまり他者を侮る)、
我愛(=実体化された自己を愛して執着する)
末那識の働きである四煩悩についてこう述べられている ― 但し、括弧の中の注釈は筆者のものである。

こうした煩悩を滅却しようと努力する姿勢が仏道においては(凡夫であっても)期待されているわけで、だからこそ毎日の勤行で

煩悩無辺誓願断
と、「四弘誓」の中でこう唱えているわけだ。

とすると、煩悩に塗れたままの自分でよい、そのままで「解脱」が適うのだと考える

煩悩即涅槃
という思想は、現時点においては、小生の理解を超える。

マア、身体的死の時点で心の汚れた部分は、すべて消滅するのである、と。こう考えるなら、宗教的教義としては理屈は通るのかな、と。いまはこう理解しています。

ただ、生前の数々の愚行、悪行は、阿頼耶識が保持する種子しゅうじとなって次生に相続されるはずだがナア……、とも思われます。いいのかな……?
 

いずれにせよ、そうすると、

身体的死と共に消滅する自我と自我に発する煩悩は、物質的自己から発する意識であったのか? 
食欲、性欲などは、人体の物理化学的特性が意識に反映する感覚であるのと同様に、自我一般の意識、たとえば妬みや愛憎、偏愛、略奪欲なども人体の物質的作用の表われとして理解するべき形而下的現象であるのか?
こんな疑問もわいて来るのだが、これはまた別の機会に。

本日は前稿で言い足りなかった点の補足まで。

2025年6月20日金曜日

断想: デカルトの二元的宇宙観と唯識論

仏教の基礎にある唯識論哲学といえば、現在では奈良の興福寺の法相宗が本山という事になるのだろうが、それでも浄土系宗派で重んじる観想念仏は心の中に阿弥陀仏国や阿弥陀仏を観ることを重要視している。親鸞の浄土思想ではそれほどでもない(ようだ)が、実際、浄土三部経の一つである『観無量寿経』では、正に第一観の「日想観」から第十六観の「下輩生想観」まで、念想、念仏に心を集中する時間を持つべき事を強調している。

唯識論といえば、眼耳鼻舌身の五感に「意」を加えた六識、及び第七の末那識まなしき、第八の阿頼耶識あらやしきの八識論として知られている。そして、「意識」に対する「無意識」を構成する末那識と阿頼耶識のうち阿頼耶識の方は、身体的死によらず、今生から次生に相続されると考えられている点で、輪廻転生思想が仏教にもとり入れられる教義上の土台にもなっているわけだ。

実際、国も時代も遠く隔たった法然の『一紙小消息』の原文中にも

受けがたき人身を受けて、遇いがたき本願に遇ひて、

起しがたき道心をおこして、離れがたき輪廻の里を離れて、

生まれがたき浄土に往生せん事は、悦びの中の悦びなり。

という下りが含まれている。

「輪廻の里を離れて」というフレーズは、次は極楽という名の阿弥陀仏国に往って、苦に満ちた娑婆世界とはオサラバしたいという願いを表している。何もしなければ、「永遠」にこの世界で何かの生物に、できれば人間がマシなのだろうが、転生しながら、ずっとこの宇宙(=娑婆世界)で過ごしていく。そんな宇宙観がここには反映されている。

唯識論では、阿頼耶識を除く第一識から第七識までは、身体的死と共に消滅する。

デカルトは『我思う故に我あり』と書いたが、《思惟する我》は意識している「我」に決まっている。であるから、西洋哲学の「我」とは、唯識論における第六識「意」に対応する理屈だ。その「意」は、身体的死と共に消滅する、と。仏教にあってはそう考える。デカルトのように「精神と物質」の二元的構成はとっていない。

というか唯識論は、唯物論がすべてを素粒子の運動に還元して宇宙や人間を理解しようとする姿勢とは真逆で、全てを心の中の変化、出来事として理解しようとする一元論である。その心も、転変とするから、一切が無常という理屈になる。


言い換えると、デカルト的な合理主義哲学では精神と物質の二元的宇宙観をとったが、仏教はそもそもが「無我」の思想であり、「我」という存在は身体的死とともに消失すると考える。そもそも《自我》への執着は、阿頼耶識と意識の間にある末那識の働きである煩悩だと、そんな組み立てになっている。

阿頼耶識の流れが生命を貫いて相続される。相続されながら、一つの生ごとに変容され、善悪に染まり、一つの結果として客体化され、次の生へと継承される。阿頼耶識自体が変化の相にあるので、結局、永遠不変の実在は、仏教思想では一つもない。言い換えると《空・無我・無相》という仏教共通の哲理はこの辺にある、と。

永遠不変の真理は《イデア界》に実在し、それは《思惟》によってとらえることが出来る。そんなプラトン思想との知的格闘から発展してきた西洋哲学とは、そもそもの基本が違う。

今のところ、そんな受け取り方をしています。


ただ、《空》とは言っても、一切何も無いというわけではない。

生命という現象は確かにある。生命体をとりまく環境、つまり世界は確かにある。阿頼耶識という(エネルギーの?)流れは確かにあって、生命を貫いて流れている。

こうは考えているわけだ。

全てを否定すれば否定され切った後に残る何かがなければならない。否定しようとしていた対象があった場が空っぽになったまま最後に残る。それすらも否定しようとすれば、否定した後はどうなるのかという問いが残る。空そのものを空じるという論理がどうしても残る。

デカルトは知的な精神世界から物質を追放して物質機械論を構成した。唯識論は、阿頼耶識を除く全てを無常のものとし、阿頼耶識もまた不変の実在ではないとしながら、阿頼耶識の流れはある、と。

唯識とは云うもののどこか二元論的薫りがする。

2025年6月17日火曜日

断想: 自由・平等・民主主義は和風と洋風のチャンポン。邪道だと感じるが……

 ロシア=ウクライナ戦争の勃発後、西側諸国の結束(?)に煽られたか、最近はよく標題にある語句を見かける。

語句だけをみると、いかにも戦後日本の文化を象徴する現代的なキーワードだと感じたりするが、この中の「自由」と「平等」は仏典にも登場する古い日本語である。だから、日本人にも馴染みのある言葉である、というより「あった」と言うべきか。

「平等」の方だが、毎朝読経をする習慣になった小生は、文字通りの「毎朝」、見ている単語である。使っている「日常勤行式」の「総回向文」は

願以此功徳(がんにしくどく)
平等施一切(びょうどうせいいっさい)
同発菩提心(どうほつぼだいしん)
往生安楽国(おうじょうあんらっこく)

となっていて、第二句に平等という語が使われている。

この総回向文は法然上人が重んじた中国の善導大師(612–682)の『観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうしょ)』の末尾「十四行偈」に収録されているそうだから、おそらく鎌倉時代の日本人信徒ですら、《平等》という言葉と観念は馴染のものであったと推測される。

次に「自由」だが、こちらも仏典には数多く登場するようで、特に日蓮宗では馴染みの語句であるということだ  ―  たとえば、こんなサイトもある。

このように「自由」や「平等」は何も西洋から教えられなくとも、古来、日本人には馴染みの観念であり、それが現代日本にも当たり前の感覚として継承されていると思ってイイ。これが小生の日本社会観である  ―  但し、欧米文化で前提される自由や平等と日本人が継承してきた自由や平等とで、両者は同じなのか違いがあるのかという比較文化論上の問題はある。学生への課題にはちょうど良いかもしれない。

これに反して、「民主主義」という言葉と観念は、日本文化とはよほど縁が遠い。というより、日本に民主主義的体制が誕生したのは、長い歴史の中で現行憲法が施行された1947年5月が初めてで、以来2025年6月までまだ78年間しか経っていない。無論、誕生の理由は「敗戦と占領」で、押し付けか強制か、言語表現はともかくとして、伝統的な非民主的日本は戦後に民主化されたというのが、現時点で標準的な歴史観になっている。

だからというべきか、自由・平等・民主主義という言葉をみると、何だか蕎麦屋に入って、天ぷらと熱燗のあと、盛り蕎麦とクラム・チャウダーを注文するような鈍感さ、というか筋悪なセンスを感じるのだが、これは小生だけの感覚なのか?



2025年6月14日土曜日

ホンノ一言: 既に、AI>・・・>メディア・コメンテーターという現実?

検索エンジンをGoogleからChatGPT Searchに変更したのだが、これがかなりイイ。検索する際のキーワードをどう入れれば、使える結果が返って来るかなど、考えなくともよくなった。

Googleで検索するのは、単純な事柄を確認したい時だけになってしまった。

とりあえず疑問に対して回答してほしいんだけど・・・

という場合は、Googleのマニュアル検索より、AIによる自動レポートが遥かに使えると感じている次第。


今日も

日本が輸入米を増やすという方向をどう考えればいいですか?

と質問した。

ワイドショーでもMCが何かといえば出演中の専門家(?)にコメ関連の質問をしては回答させている。というか、連日、同じ話題で同じような議論を繰り返しているのが、4月以降のメディア風景になっている。

聞くたびに

もっとマトモな回答は出来んのかなあ?

と感じる場面が余りに多いのだ、ナ。


そこでChatGPTにきいてみた。

上の問いかけに対して、すぐにレポートが返って来る。使用モデルは"4o"だから、無料アカウントで誰でも利用できる(はずだ)。拡張機能としてインストールしておけば、Google Chromeで使えるし、これをデフォールトのサーチ・エンジンにしておけば、普通に検索すればChatGPTのWEB検索になる。

上の問いかけに対する回答を、以下、星印の仕切り線で引用しておこう。


★ ★ ★

日本が輸入米の増加を進める背景には、複数の要因が複雑に絡み合っています。この動きは、消費者、農業従事者、政策立案者にとって多面的な意味を持ちます。以下に、その主なポイントを整理します。


✅ 輸入米増加の背景と現状

  1. 価格高騰と供給不安
    2025年初頭、日本では「令和の米騒動」とも呼ばれる米の価格高騰が発生しました。その背景には、猛暑による収穫量の減少、訪日観光客の増加による需要増、そして流通業者による買い占めや売り惜しみなどがありました。政府は備蓄米の放出を行いましたが、価格の安定には至らず、輸入米の活用が現実的な選択肢となっています。 youtube.comedenred.jp

  2. 消費者の受容性の変化
    かつては敬遠されがちだった輸入米も、現在ではカリフォルニア産の中粒種「カルローズ」などが、カレーや牛丼などの料理に適していると評価され、一定の受け入れが進んでいます。 cigs.canon

  3. 制度の柔軟化
    日本はWTOの合意に基づき、年間約77万トンの「ミニマム・アクセス米」を輸入しています。その一部はSBS(Simultaneous Buy and Sell)方式により、外食産業向けなどに流通しています。この制度により、輸入米の市場への供給が柔軟に行われるようになっています。 edenred.jp+3tradinate.co.jp+3kaku-ichi.co.jp+3


⚠️ 輸入米増加のリスクと課題

  1. 国内農業への影響
    安価な輸入米の流入は、国内米の価格下落を招き、特に中小規模の農家にとって大きな打撃となる可能性があります。農業従事者の高齢化や後継者不足が進む中、農業の持続可能性が懸念されます。

  2. 食料安全保障の懸念
    輸入に依存する体制は、国際的な供給網の混乱や輸出規制などにより、食料供給の安定性を損なうリスクがあります。特に主食である米の自給率が低下すれば、有事の際の食料確保が困難になる恐れがあります。 mbs.jp+1maff.go.jp+1

  3. 政策の一貫性の欠如
    政府は一方で米の輸出拡大を目指し、2030年までに輸出量を約8倍にする目標を掲げています。しかし、国内での供給不足や価格高騰が続く中での輸出拡大は、国内市場とのバランスを欠くとの批判もあります。 mbs.jp


🔍 今後の展望と考え方

  • 輸入米の位置づけ
    輸入米は、価格高騰時や供給不足時の「安全弁」としての役割を果たす一方で、国産米との共存を図る必要があります。用途や品質に応じた使い分けが求められます。

  • 農業政策の再構築
    減反政策の見直しや、農業の生産性向上、若手農業者の育成など、国内農業の強化が不可欠です。また、輸出と国内供給のバランスを考慮した政策設計が求められます。

  • 消費者の選択と支援
    消費者が国産米を選びやすい環境を整えるため、価格の安定化や品質の向上、情報提供の充実が必要です。また、輸入米との違いや特徴を明確に伝えることも重要です。


日本が輸入米の増加を進める背景には、価格高騰や供給不安などの現実的な課題があります。しかし、これを一時的な対策とするのか、長期的な戦略とするのかによって、国内農業や食料安全保障への影響は大きく異なります。持続可能な農業と安定した食料供給を実現するためには、輸入と国産のバランスを慎重に考慮し、総合的な政策対応が求められます。

★ ★ ★


深堀はしない。一往復のみ。それでも、ゼミで作成させる学生レポートとしても、相当まとまっている出来栄えだ  ―  逆に、なにを「教育」で身につけてもらうかで迷いを感じる教員も多いだろう。


「輸入米増加のリスクと課題」で挙げられている第3点は大事な要点の一つだ。

最近になって、「コメの輸出拡大」に力を注ぐべきだと、自称(?)専門家がTV画面の中でさかんに力説するようになっている。が、輸出を志向するなら「コメ保護」は撤廃とまでは行かなくとも、露骨な高関税率でコメを保護するような政策は止めなくてはなりますまい。そうでなくては、海外が納得しません、テ。

つまり国産米の輸出志向とは、

コメ輸入関税率の撤廃ないし大幅引き下げを断行する。と同時に、米の生産効率化とコスト節減を徹底して日本農業の国際競争力を引き上げる。

この二本柱に軸足を移していくという提言に他ならない。とすれば

大企業への農業経営開放

こんな方向を出していかなければ、成算が立ちますまい。

どんな状況になるか分かっていますよネ?

と逆に聞きたいところだ  ―  個人的には、それでもイイと思っているし、農業というのは都会の大地主(≒大資本)と小作人(≒農業労働者)とが役割分担して行う産業なのだと割り切るしかないとも思っているのだが、戦後日本社会の最も良質な側面がこれで崩壊するに至るのは、何だか淋しく感じるのだ。

AIも触れているが、現在の高コスト体質をそのままにして、コメの輸出を増やそうとしても、輸出余力などはないし、国際競争力もない。輸出補助金などを予算化すれば、それこそ自由貿易の否定ともなるし、TPPの精神はどこへ行ったのかと非難もされるだろう。下手に輸出を増やせば、(AIも触れているように)国内のコメが不足し、輸出と同じ量の外国米を輸入するハメになり、日本国まるごとコメディを演じるという恥ずかしい仕儀になるだけだ。

初回の論点整理としてはイイ出来栄えだ。


日本の大事な政策を議論する際には、まず誰でも利用できるAI作成のレポート位は、視える化したうえで、番組編成、紙面編集なりを考えるべきではないだろうか? ― メディアお気に入りの知人に取材してもカタチだけで「使える情報」にはなりません。無駄です。


いまの現状から予測するに、もはやテレビに出演している専門家もコメンテーターも不要である。

ギャラは最先端の技術開発に振り向けるべきだ。

フェイク・コメンテーターを創作、キャラクター化して、AI同士で論争させ、それを視聴したり読んだりするのが、最も低コストでかつ生産的な情報発信になる。有害な主観が排され、客観的で真っ当な報道にもなるはずだ。何度も投稿しているが、日本のメディアを守って来た《言語の壁》はもうない。だから、日本のメディア企業が及び腰でも、海外企業が事業化して日本に進出するという可能性もある  ―  《サブスク》でいくらでもアクセスできますから。

どうなるか分からない。そんなご時世になった。

2025年6月10日火曜日

ホンノ一言: 与党と野党の関係性は、本当は「対立」ではなく、「共有」なのだナア・・・と感じるのだが

日本は、いずれかの政党に所属する人が国家元首たる「大統領」に任ぜられる国ではない。有権者が国会議員を選んで、あとは議員が中心になって、内閣を組織して日本国を運営してくれ、と。そんな議院内閣制の国である。

確かに、考え方には人それぞれの違いがあるから、どんな政策をとるかで対立状況は必然的に生じる。そこで政党が生まれ、与党と野党に分化することになる。

このロジックは分かる。

しかし・・・と、最近は疑問に感じる事が増えた。

昨秋からの米価高騰を批判し続けていれば、野党は何千万人もの消費者の共感を得ていたはずだ。

関税率引き下げによる民間輸入拡大と、コメ関税収入増収との見合いで同時並行的に米作効率化を進めて、食品価格を引き下げろと政府に要求すれば、何百万人もの農家票は失うが、代わりに一桁多い都市人口の支持を獲得できていたはずだ。

食品価格が下がれば、高止まりしているエンゲル係数も下がる。

生活を楽にする提案を野党が行えば、拍手喝さいする有権者は多い。野党支持率は上がるはずだろう。

しかし、こうはならなかった。

多分、「食糧安全保障」とか、「農家保護」とか、クサグサのキーワードが脈絡もなく党内議論で噴出して、名案も正論も消滅していたのだろう……と想像している。


結局のところ、・・・《米価引き下げ劇》は自民党の小泉新農相が演じることになり、野党は小泉氏の周りに群がる野良犬のように、隙を窺うくらいが出来る事の全てになった(ようにみえる)。

野党が声高に叫んでいる《消費税減税》は、世論調査では寧ろ「税率維持」を支持する人の方が多いくらいで、まったくアピールできていない。減税の財源は、「赤字国債」とか、「企業増税」とか、「今後検討」とか、涙がこぼれるようなお粗末ぶりだ。

それも「1年限りの消費税減税」なんて、営業現場やエコノミストの失笑をかっているのを、知らないのだろうか?・・・本当に知らないのだろうナアと思ったりします。


そもそも消費税を減税して喜ぶのは高齢者だ。消費税率を下げれば社会保障の財政が行き詰るのは確実だ。いずれ年金・医療・介護の保険料は上がる。しかし、高齢層が年金保険料を負担することはない。

消費税率を下げて保険料を上げると、年金保険料を払っていない分、高齢層は助かる。勤労者の収支はそれほど変わらない結末になって終わる。

消費税率を上げて保険料を下げると、年金保険料支払い減をうけない分、高齢層に負担がかたよる。

この位の理屈は、もうほとんど全ての人は、分かってますゼ。

だから消費税減税は、(実際には)高齢層優遇の政策提案である。更に、多額の消費税を支払っている富裕世帯が喜ぶ政策でもある ― 消費税廃止の声がいつまでも止まないのは一面ではこの点による。

極端な場合、

消費税率を上げて、国民年金保険料を廃止すれば、高齢層(=年金受給者層)は確実に負担増。他方、勤労者の負担は消費増税のマイナスと保険料ゼロによるプラスが(ほぼ)相殺する。 

勤労者下位層は、定額の国民年金保険料負担がなくなる分、プラスの恩恵をうけるはずだ  ―  但し、未納者は年金保険料負担がなくなるという恩恵を受けない。が、保険料でなく税で国民年金をまかなう分、将来の定額受給が確実になるので、プラスだろう。

これは明らかに《現役勤労者シンパ》の政策だ。

しかし、いまどの政党もこんな提案をしてはいない。つまり、与党も野党も退職高齢者の怒りをかいたくないのである。思いが同じなら、与党も野党もない。

つまり、

与党と野党の対立は《退職高齢者 vs 現役勤労者》の世代対立を反映するものではない。

こういう見立てが論理的である、と思うのだナ。 つまり、与野党ともすべて《退職高齢者シンパ》である。

自民党なら仕方がないと諦めもつくが、「働く労働者の味方」を謳いながら、実は「退職高齢層の味方」として振る舞うのは、日本の野党の最も不誠実で狡猾なところだと小生は観ている。


では

本当のところ、与党と野党は、どんな点で対立しているのだろう???

そもそも前回の衆議院選挙で勝利した以降、久しぶりに《政権交代》への機運が浸透しつつあったと思っていたのに……、本当にもったいない事だ。

なぜ「反政府」という点でしか、与党と野党は敵対しないのだろう?

政治学者ではないので、日本政治の与党と野党が本当はどこで対立しているのか、実はよく分からないのだ。

言っている事を観察していると、「世代対立」が与野党対立をもたらしているわけではない。かと言って、「都市 vs 農村」の対立状況が反映されているわけでもない。「農業 vs 非農業」の対立が与野党対立に現われているのでもない。「富裕層 vs 中下位層」の対立でもなく、「伝統産業 vs 新興産業」という対立が与党と野党の対立を生んでいるとも言えなさそうだ。

外交なんて言っちゃあ駄目ですヨ。外交は内政の続きです。国防も内政の続きです。対外的にどうするというのは、国内事情から決まるものだ。だから、与野党の対立軸は、日本国内に求めなければならない。これが基本的なロジックである。

では、(あるはずの)《対立軸》は、どこにあるのだろうか?

経済専門家が関心をもつ「小さい政府 vs 大きな政府」という対立軸は日本にはない。

分からぬ・・・


最近、一つ気がついたことがある。

ほとんど全ての国会議員(および地方議員も?)は、議員に当選すると、《職務専念義務》を要請され、何度も当選を重ねるうちに、「国会議員」が「職業」に化してしまう。場合によっては「家業」にすらなる。つまり「落選」はいわゆる「失業」、というか「没落」を意味する。

もし議員を職業とみると、これほど非独立的で非安定的な職業はあるまい。任期は4年とはいうが、普通は任期満了以前に解散となって選挙の洗礼をうける。常に失業におびえなければならない。

毎年の株主総会で洗礼を受ける株式会社の取締役の方が厳しい境遇ではある。が、取締役は能力・実績、つまり十分なプロフェッショナリテイ(Professionality)がなければ、投資家の信頼が得られない。一度評価されれば(よほどのヘマをしない限り)その地位は安定する。それに比べれば、議員、というか政治家を選ぶのは、一般有権者であり「政治の専門的能力」(?)など関係なく、その日の風向きや気分で投票する人たちだ。そこにロジックはないと言ってもイイ。いわば人気商売である。

スキャンダルに極めて脆弱なのはそのためだ。メディアに期待しながら、他方では嫌がるのは、潔癖な(?)な大衆を顧客とする芸能人と同じ心理である。

人は、同じ状況、同じ境遇に立てば、ほぼ同じことを考え、同じことを発言し、同じように行動するものだ。故に、与党の議員も、野党の議員も、議員である以上は、同じ社会状況において、同じことを考え、同じ行動をとりたがるはずである。

この面で与党と野党と対立してはおらず、同じ感覚を共有しているとすら言えるだろう。

まして日本の戦後体制では、国会議員は(支持層ではなく)全ての国民に奉仕する国家公務員であると規定されてもいる。である以上、国会議員が同じエートス(=気質)を共有しているとしても道理は通るわけだ。


してみると、日本の国会で「与党」と呼ばれ、「野党」と呼ばれる陣営に属している方々は、決して本質的な政治方針で対立しているわけではなく、むしろ議員としては共有している部分が多いくらいで、その意味では与党は国民という飼い主に優遇されている「飼い犬」、野党は政権という犬小屋を与えられない「野良犬」に似た存在である・・・

ここで話は本日の始めに戻るわけだ。が、こんな酷い譬え話しが無礼であると非難されるような実相を見せてほしいものである。


今日述べたような側面があるような感じがして、むしろ国会議員の職務専念義務を外すほうが、現実の政治力学に合致した均衡点を目指すうえで有効だ、と。最近はそう思うようになった。

全ての国民に奉仕する義務を負うのは、政権交代によって異なった政党に仕える可能性をもった官僚である。官僚が特定の政党を支持し、ある政党を忌避するのは、容認できない。しかし、政治的意思決定を行う国会議員は、(議員の任期に限って、だが)全ての国民に対する奉仕義務を免除するべきであろう。

これが民主主義だと思うがいかに?

【加筆修正:2025-06-11、06-12】

2025年6月6日金曜日

ホンノ一言: 合法だがモラル的には問題あるって・・・?

旧・統一教会の専門的ジャーナリストである某氏が、『いま韓国の統一教会本部に向かって大量の日本人信者が訪韓しているのは《合法的マネーロンダリング》だ』と。こんな見解をネットでも発信している。

小生、旧・統一教会が日本で犯してきた数々の非行は、正直なところ、そのどこが犯罪であったか、その思考ぶりを正確にフォローできない所もあるのだが、それより

合法的マネーロンダリング

この言語表現については、へえ~~~っと感じました。


確かめたい問いかけがあるとすれば、

要するにいま進行中の大量訪韓は合法とお考えですか?それとも違法と言いたい?どちらですか?

これである、ナ。

小生の判定基準では

合法なら問題なし。違法なら検察当局が起訴するべきだ。

実にシンプルな方式でしか、考える回路をもっていない。

合法ではあるが、マネーロンダリングにあたる以上、感心できない。

率直に言って、そんな思考は極めて不健全だと思うし、違反もしていない信者がマネーロンダリングに協力している(?)という批判、というか「当てこすり」は、真面目な(?)信徒たちに対して無礼であろうと感じる。


それより以前にこの筆者の頭の中の構造だが

合法である行為の集合を$L$とする。この集合$L$は、モラルとしても許される集合$M$とモラルとして問題がある集合$L-M$という二つの部分集合に分割される。即ち、法的に問題がない行為でもモラル的には問題があるケース、つまり$L - M$が空ではないという可能性がある。

どうもこうなっているらしいのだ。

小生はこれとは真逆に考えている。即ち

モラル的に問題がない行為であっても法的には問題がある行為がある。上の記号で言うと、$M \subset L$ではなく、$L \subset M$と考えている。

例えば、親を殺害された子が逮捕もされず逃げおおせた犯人を自ら探し出して仇を討つという行為は、(小生の)モラルとしては共感できるところだ。しかし、殺人である以上は、この復讐は近代的法制の下では絶対に許されない。

つまり、小生の個人的価値観では

モラルとして許される行為は、法的には許されない部分と法的にも許される部分に分割されている。記号で表せば、モラルに合致する集合$M$は合法である部分$L$とモラルには合うが法には反している$M - L$の二つに分割される。

こう考えているわけだ。

逆に補集合をとると

法的に許されない行為の方がモラル的に許されない行為より広汎で範囲が広い

こんな論理で小生は考えているわけだ。なので

モラルとして許されないわけではないけど、法律上は(一応)違法なんだよネ、残念ながら・・・

こんな結果が生じるのは、小生の価値基準に基づけば当然の理屈である。

ところが、最初に引用した筆者は、小生とは真逆の思考回路を持っているようで

法律上はいいんだけど、モラルとしては許されないんじゃない?

こう言いたいようだ。言い換えると

法は寛大だが、モラルは厳しい

世の中はこうなんだ、と。

小生はこれに反して 

法は厳格だが、モラルは寛大

こちらの方が好きだ、と。こういうまとめ方になる。


刑務所から出てきて、親族が集まって、

大変だったナア、これから頑張れよ、お前は本当は悪くなんかない。世の中には本当に悪い奴もいるけど、そんな奴は必ずつかまる。お前は違う。そう思ってるヨ・・・

個人的には、そんな世間の方が生きやすいように思う  ―  もちろん冤罪を犯さないことが最も大切であると思っているのは言うまでもない。逆に、法律的には何の問題もないのに、何だか非難がましい目線で他人をみるような社会は、「イヤだネエ」と感じてしまう。

法律が認めてるなら放っておけばいいだろうに・・・

なので、最初に引用した「マネーロンダリング氏」の見 解には同意できない。





2025年6月4日水曜日

断想: 数の世界の不思議さ

時系列データをダウンロードしてはガチャガチャと解析するのを趣味の一環として来たが、最近は若い頃に読んだ、というより当時は「難読」であったり、「完読」できなかったりした基礎的なテキストを読み返すほうが面白くなってきた。以前は分からなかった箇所が分かるというのは気持ちのよいものだ。

仕事の何かに使えるかと思いつつ読むと、それは自然と「勉強」になる。ちょうど「この人はいつか使える」と思いつつ知人と付き合うのが(単なる?)「交際」と呼ばれるのと相似形である。

知的興味だけから知識を整理するのは、勉強とも交際とも無縁で、ただ好きでやる完全に自発的なもので、こんなときは非常な自由を実感する・・・と云っても、これはやってみるまでは分からなかった心理だ。

勉強にしろ交際にしろ、何かの狙いがあって、目的合理的な行動を強いられるのが浮世というものだが、逆に言うと、合理性への強迫から解放されるとき、人は心から満足を感じるものかもしれない。そう思うようになっている。してみると、《合理性》とはこの世で生きるために理性に服従するというギリギリの戦略が要請するものであって、本来は理性の奴隷になどなりたくない、合理的になど生きたくはないという、そんなホンネが人の心には隠れている。こういうことかもしれない。


それはともかく・・・


で、つくづく不思議に感じるようになった点もある。下らないといえば下らないのだが、

実数は、加減乗除の計算をしても実数空間で閉じているが、虚数空間は閉じていない。虚数同士を足したり引いたりしても虚数のままだが、虚数同士を掛けると(あるいは割ってもいいが)、結果は虚数になったり、実数になったりする。しかし、複素空間に拡大すると、どんな計算をしても複素数で閉じている。

古代ギリシア人なら有理数は有理数で閉じていたと、有理数の世界の単純明快さを力説することだろう。何しろ「モノ」は何でも「数えられるはず」の存在だったからだ。

人類が虚数を発見したのは、早くも二次方程式の根を求める時にも、虚数が顔をのぞかせるからだ。


ま、当たり前のことなのだが、虚数空間は閉じていないという点に面白さを感じる。

とにかく、宇宙や量子の世界は、複素空間として記述される。しかし、観察可能なこの世界で検証できる仮説は、すべて実数解になっていなければならない。虚数部分が混じると検証不能である。

それでいて虚数はあくまでも"Imaginary Number"であって嘘の数ではない。

この辺が面白い。


そういえば、文字通りの無限大($\infty$)はこの世界では観察できない。無限小の数値も観察できない。

数字のゼロを発見したのは古代インド人である。無限小はゼロとは違うが、いかなる値よりも小さい数である。しかし、ゼロではない。

この辺も面白い議論だとつくづくと感じる。

【加筆修正:2025-06-05】

2025年6月1日日曜日

断想: 「ハラスメント基本法」はやはり不可欠なのではないか?

販売を目的とする商業メディアに比べて、 ネットは発言・表現が自由だ。それもあってか、

令和の日本は少しおかしい

という投稿が目立つようになっている。


具体的には、生産現場、営業現場で普通に行われるコミュニケーション、つまり普通の意思疎通すら、場合によっては

ハラスメントだ

という抗議の的になりうるという《アブナイ》社会状況を指しているわけで、

これでは正常なソーシャル・メカニズムが機能しない

そんな危機感が表面化しつつあるような感覚だ。


勘違いや誤解は日常茶飯事であるのが、確認や質問をすっ飛ばして

舌足らずとか言い間違いとか、そんなのは許せぬ

「言葉」に対して極端に不寛容な社会に現代日本がなりつつあるというのは、小生も感じている  ―  マナーや礼儀に対して厳しいわけでは決してないところが情けない。

いずれ近いうちに「揺り戻し」の局面に移るのは間違いない。

ずっと以前の投稿だが、《ハラスメント基本法》が必須かつ不可欠だと書いて投稿したことがあるのだが、ますますそう感じる今日この頃であります。最近では、こんな投稿もしているから、ますますその感を強くしているということだ。


小生が幼少期の頃は(と、思い出話をすること自体が、最近はモラハラ認定されると極論を言う人がいるので、もはや日本社会は劇場化、コメディ化、お祭り化していると観ているのだが)、喧嘩が弱い少年は小さくなり、喧嘩が強い男子が大きな顔をして、学級内をしきる……、年齢を問わず人間集団の中に入れば、これが、自然界とも合致する当然の摂理だと(子供ながらも)感覚していた。まあ、こんなことは端的に「常識」でもありました。

それが現代日本では、というより「先進国?」全体でそうなっているのか、

喧嘩の強い子が実力を発揮すれば、単なる暴行、暴力、イジメとして社会的に排除されてしまう

どうもこんな風な世相になって来た。


なるほど、こんな生活感覚で暮らしていれば、日本が経済成長を続けるためには不可欠な《競争原理》に背を向けたくもなるだろう、と。そう感じます。

競争とは、一口に言えば《自然選択》であって、《人為的措置》よりは《自然》を信頼するということだ。

人生に置き直して言うと、《努力と運によって成功が約束される》と。そう認めるところから、全てが始まる。そんな感覚のことで、誰しもそんな風に考えて、生きるのが少し以前までの社会であった。

よく言われる

運も実力の内。

今でも使われているのだろうか?もし案に相違して失敗して落ちぶれても

天運、我に味方せず

嘆きつつも、そうつぶやいて肩をすくめ、『いま不覚をとったのもワシの業の拙さよ』と平静に己が運命を受け入れる。そんなサッパリとした、淡白な人生観を、誰しも「理想」としては認識していたように記憶している。ま、最近になって多くの人が口にする「サムライ」とは、こんな心意気を指すはずだ。

そりゃあ、そうです。自分の人生は自分のものであり、日本社会に従属する家畜だなどという自己認識など、持つはずがない。そんな人生は真っ平御免ってものでしょう。

ある人が形容しているが

弱者が弱者であることを武器にできる社会がやってきた

本当にそんな社会意識が蔓延しつつあるのだろうか?なにか非現実的だと思うが・・・


もちろん純(?)客観的に考えれば、グローバルな国家間競争において、弱い国家は淘汰される、真に強い国家が生き残るのがロジカルである。多分、現実はこうなのだろう。

しかし、残酷なグローバル競争の中で、その国ごとに支配的になるのは、数的にマイナーな強者の声ではなく、相対的に多数を占める弱者の人たちの声であろう・・・声の大きさだけを考えれば確かにそうだと考えるのが、合理的な見方かもしれない。

弱者は弱者の人権を主張する権利は当然のこととしてある。しかし、これが「武器」になりうるというのは、・・・よく分かりませぬ。


おそらく

表現の自由及び幸福追求の自由、それに対するに一人一人の人権の尊重と

この二つが矛盾する社会的状況が増えているのだろう。

強者と弱者がフェアに競争すれば、ほぼ確実に強者が勝ち、支配的な地位に立つ。強者が社会を支配し、弱者は支配される。

正にニーチェなら喝采しそうな見立てである。つまり、ある意味では理想である。そんな思想も確かにあるわけだ。そして、実はこれがリアルな世界史であるし、日本国内の歴史でもあった。そんな哲学をする人も確かにいるはずだ。

ところが、(ごく最近になって)こうではダメだと。間違っている。これを事実として認めてはいけないと。"Be"ではなく"Should"が大事なのだと。そう考える思想が説得力をもってきた。少なくとも音量があがって来た感覚はある。

自然ではなく、人為的修正を選ぶ  ―  極めて社会主義シンパの感性である。


こんな世相が、「階層分化と定着化」という、これがひょっとすると「社会的収束点」であるのかもしれないが、そこに向かっている間の一過性の歴史的一コマに現れる乱気流に似た「ノイズ」なのか、それとも反対に社会主義的な平等原理志向と現実との乖離に不満を高める多数者による不安定化への動きなのか、一体どちらに解釈して社会を観察すればよいのか、分からなくなることが多い。

が、歴史的なベクトルの見通しは別として、社会的に許容できない《ハラスメント》の概念は、明確に定義し、線引きしたうえで「保護してあげるべき名誉や人権の範囲」と「尊重するべき思想・表現の自由」、「幸福追求の自由」とのバランスを法的規定として確立しておかなければ、今後の日本社会はより不安定になり、混乱するような予感がするわけだ。

白河の 清きに魚も 住みかねて 

     もとの濁りの 田沼恋しき

寛政の改革を主導した松平定信のモラリスト的態度を揶揄った狂歌に激怒した幕閣のようであっては社会が停滞する。結局、定信は失脚し、最終的には文化文政時代の(今度は本当に?)退廃した社会がやってきた。

そんなものだ。「揺り戻し」は必ず(それも激しく)起こる。生きやすい世を普通の人は望むのだ。

ものいえば くちびる寒し

では、楽しくない。だから、マグマは貯めるべきではない。


よく思うのだが、人権の主張と自由の主張とが正面から衝突すれば、必ず強者の自由が最終的には通る。これが小生の歴史観だ。が、実はいま世界的に強者必勝への動きが加速しつつあるのかもしれない  ―  振り返ると、1980年頃の「新自由主義」の復活からずっとそうであったような気もするが。

アメリカのトランプ政権による「ちゃぶ台返し」は、(やっている事の意味は逆だが)その兆しかもしれないと観ているところです。もしそうなら、しばらくは続くだろうし、日本はアメリカ社会を追いかける傾向があるので、日本社会の雰囲気も突然これまでとは逆方向に走り出すかもしれない。

非常に不透明感がある社会だ。

ともかく、

弱者の集団が強者を抑えこむのではなく、強者の自由を認めたうえで、強者が獲得した果実をそのまま独占させるのではなく、弱者へのいたわりを実現するような社会こそ、あってほしい社会だと思うがいかに?

というまとめで、とりあえず。 

【加筆修正:2025-0-02】