2019年6月30日日曜日

一言感想: G20をみて安倍内閣と高橋長期道政を思い出す

無事"G20 Osaka"も終了してメディアでは色々な報道をしているようだ。が、大した事は何も決まらなかったし、何も特段とりたてて発表されたわけでもなかった。無事、ホスト役を努めおわった。そんなところではないだろうか。

そういえば安倍内閣も発足してもう7年弱になるか…かなりな長期政権になったが、時間がたった後、どのように評価されるのだろう?

言葉の選択に困るのだが、北海道で暮らしている小生には安倍首相と高橋前道知事とはどことなくスタイルが重なって見えるのだ。

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高橋前道知事も16年間の長期政権だった。堅実な行政を重ね、批判にさらされる局面もなかったと記憶しているが、一方では泊原発が停止したまま道内のエネルギー需給をどうするか、特に原発再稼働をどうするのかについては明確な姿勢を示さずじまいだった。それと道内の公共交通体系だ。行き詰ったJR北海道をどのように経営支援するのかというのは大きな政治課題だが、この問題解決も曖昧にしたまま任期を終えた。大過なく、というか着実に仕事を全うしたが、大きな政治課題を後任者に遺した。そんな印象をどうしても受けてしまうのだ。

安倍総理も(メディア好みの)不祥事は幾つか発生させたものの、特に大きな失政を犯したわけではない(と思う)。何と言っても、米国が抜けたあとにTPPを残り11カ国で締結にまでもっていくのに大きな貢献をした。欧州とも「日EU経済連携協定(EPA)」を締結するところまで持っていった。この二つだけでもレガシーに値する(と思う)。加えて、「共謀罪の新設」、「集団的自衛権行使に向けた憲法解釈変更」、それに「特定秘密保護法」がある。リベラル派には不評だが、やはり為すべきことを為したという評価もあり得るほどの結果である。

とはいえ、「税と社会保障との一体改革」を骨抜きにして消費税率引き上げもこの10月にやっと10パーセントというのは到底誉められたものではないだろう。年金システムを筆頭とする社会保障制度全体を「人生100年時代」にふさわしいものに改革するという大問題は全て後回しになっている。

「エネルギー政策」もそうである。原発をそもそもどう位置づけるのかが曖昧なままである。事実がさきに進んでいて再エネ比率がずいぶん向上してきているが、ではベースロード電源は原発にするという計画のままでよいのかどうか。ハッキリしない。

「移民政策」も人手不足時代の中で現実的必要に迫られてとりあえず法環境を整備したが(整備と言えるのかどうかも不明だが)、基本計画のようなものはない。何より「少子化」をどう問題解決するのか。長期プランのようなものはない。「働き方改革」とはいうが、現行制度を変えるというのは明確だが、変えることによって将来的にどのような日本社会を構築したいのか。そんなビジョンが具体的かつ総合的に提示されているわけではない。

ずっと昔には「経済審議会」があって、そこで日本全体の「総合計画」が定期的にまとめられていたのだが、現在は毎年の夏、予算編成に使うための「骨太の方針」が作成されるだけだ。以前の「総合計画」に比較すれば、毎年の「骨太の方針」などは本当は「来年度予算の基本方針」という程度の無機的なタイトルをつけられてもよい程度の資料だと小生は感じてしまう。

日露間の外交課題、つまり北方領土については進展がない。日中間については中国の外交戦略がたまたま対日融和に振れてきているだけである。日韓関係も周知のとおり。

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このように列挙すると、確かに幾つかの大きな成果はあるが、巨大でリスキーな政治課題には着手せず、具体的で成果が見通せる問題に答えを出してきた、と。どうもそんな印象である。

『7年間弱も時間があったのなら7年は時間をかけないと解決できない大課題に取り組めばよかったのに』と、そんな意地悪なことも言いたくなる。どうも安倍長期政権ではあったが、大きな政治課題は後任者に遺してしまいそうだ。高橋前道知事の16年間の治世も『16年も時間があったから大きな課題も解決できたんですよネ』と、そんな風にはどうも思われない。小生だけかもしれないが、安倍長期内閣と高橋長期道政と、どことなくスタイルが似ているなあ、と。長い政権ではあるが、1年1年を合計して長くなったのであって、長い時間が最初から必要だったわけではない。長い時間が必要な課題に取り組んだわけではない。そう感じるのだがおかしいだろうか?




2019年6月27日木曜日

日韓対立は愚かな「平和ボケ」だ

米波対立でホルムズ海峡が再び危機に陥る中、日本と中国、韓国は一層明瞭に経済面で利害を共有するようになりつつある。アメリカはシェールオイル、ガスの立ち上がりで、エネルギー自給が(まずまず)可能である。アメリカのコストで中東地域の安全を維持する動機は薄れつつあるようにも見える ― 「もうどうでもよい」というのは言い過ぎだろうが。

このところ国益を落ち着いて計算できるだけのゆとりを持てるようになった日中関係は別として、日韓は「お話にならない」状況だ。

本来は、日韓両国は単独では世界に対して十分な影響力を持てず、かつ地政学的には非常に多くの分野で利害を共有する。歴史的にも長い交流がある。幾つかの不幸な出来事、紛争もあったが、同じようなことはロシアとポーランド、ドイツとポーランド、フランスとドイツ、イギリスとアイルランド等々、無数に数えられる。歴史問題が残っているのはそれだけ長く交流してきたことの裏返しだ。経済面での相互関係を改めて指摘する必要はないだろう。競合する分野もあれば補完関係もある。

本来なら、日韓両国が「結託」して「共同利益」を追求する戦略を実行すれば、大規模な国際的問題を有利な形で解決することも可能なはずである。

ところが最も有利な戦略を日韓両国とも選択できない。いうまでもなく「歴史問題」が主たる原因だ。

そうすれば得になる事は分かっている。助かることも分かっている。もっと強くなることも分かっている。しかし、お前とだけは協力しない。真っ平御免だ。

要するにそういうことなのだろう。

馬鹿なことをやっている。

共同利益を最大化する戦略がうまく行かない原因は、山分けルールが確定しないためである。利益山分けの段階では、日韓は「タカハトゲーム」をプレーする。どちらが上か、どちらが片方のいう事を聞くかが決まるまで状況は均衡しない。互いにイーブン、どちらが上でも下でもないという状況は実は戦略的に不安定である。

不安定なゲームを安定化させるには長期のゲームで考えることだ。そのためには「契約」がいる。契約には「合意」と「違約した場合のペナルティ」が必要だ。日韓基本条約に違約した韓国に怒る日本には一定の合理性がある。しかし、他方で韓国には韓国で日韓基本条約締結以来続いている現行の外交枠組み全体に「もう嫌だ」という感情が潜伏しているのだろう。怒りも嫌悪もどちらも感情に過ぎず非合理的な選択を平気でする。しかし所詮は損になることは長続きできない。持続可能ではないのだ。

日韓両国とも十分なほどに損をして初めてオーソドックスな戦略に戻るだろう ― 安倍・トランプ蜜月でリカバーできると言うのは「まやかし」である。

まったく愚かな外交だと思う。

日米安保、韓米安保体制が、その馬鹿な選択を背後で支えている。この理屈も認められるのではないか。

結局、日韓ともアメリカに依存した平和ボケである。平和ボケといってまずいなら「モラル・ハザード」、「道徳的退廃」、「鈍感」、「傲慢」、etc.……言葉ならいくらでもある。政治の機能不全が露見している ― 実は、日韓関係だけではないと思うが。


・・・今日の投稿はかなりバランスが悪いか?本当はもっと低レベルかもしれない。この点だけ断り書きということで。


2019年6月25日火曜日

一言メモ: 「それができる人がいない」、これが日本の社会保障で最大の問題では?

年金問題はすぐに炎上しがちである。先般炎上した「老後に備える2000万円説」もそう。国民年金保険料の実質的納付率がいまだに40%程度にとどまっている事実がワイドショーでとりあげられれば、これまた数日はその話題でもちきりになるだろう。

政権・与党がどう言うとしても、労働市場の現況、基礎年金の現況をみれば、既に日本の年金システムは大半の日本人に老後の不安を与えている、この事実を否定することはもはや無理だろう。

『そこで例えば……』という話は、(とりあえず)カミさんとの雑談の形で本ブログでも少し書いておいたのだが、「安心できる社会保障システム」を構築したいなら、成功例は欧州型の20パーセント付加価値税(≒消費税)方式か、でなければ全面的に国有化するソ連流の社会主義の二つしか思い浮かばない、というよりこの二つのいずれかでしか成功しないと思う。これが長い歴史を通して確認された経験である。後者の社会主義国家建設は既に失敗した国家モデルになった。であれば、長寿社会の中でほぼ全員が安心して長生きできる国にしたいのであれば、欧州型ではなくて他にどんな社会保障モデルがあるのか、非常に疑問である。高累進度の所得税を主たる財源にして、節税や租税回避を招くことなく安定した老齢年金を実現している国があれば教えてほしいくらいだ。

日本の消費税率は30年間の平成時代から令和の初めにかけて3%からようやく10%にまで上がるかという状況である。それでも何とかなったのは現役世代から保険料を徴収したからだ。少額の基礎年金も現役時代の保険料支払いに基づくが、それのみの自営業者には定年がない。サラリーマンには定年があるが、現役時代の厚生年金保険料の半分は雇主が負担する。一見すると公平である。しかし、これでは出来る保障が限られるのは当たり前である。

「現状のレベルがよい」と日本人の多くが感じるなら、それでよいのである。しかし、日本人の心理がそうであるとはとても思えない。だから問題意識を持つ必要がある、というのが今日の一言メモである。

公務員給与を引き下げるのが先であるとか、行政改革が先であるとか等々、すべてヤリクリと組織いじりであって、こんな細部の話を今後10年続けても問題解決には至るまい。平和ボケである。

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現在の年金システムが信頼できないのであれば、信頼可能なシステムについて「臨調(臨時行政調査会)」、「臨教審(=臨時教育審議会)」、「行政改革会議」のような大型の臨時機関を設けて国民的な議論に持っていくのが有効である、それがこれまでに得た経験則である。つまり、歴史的使命を終えた国鉄、電電公社、専売公社を一挙に民営化するというレベルの、その時の内閣一つでは解決不能と思われるほどの課題をそれでも解決するにはどうすればよいかという、その成功体験をもっている。

成功体験をそのままなぞったからといって次回もうまく行くとは限らない。とはいえ、これ以外のどんな方式で年金システムの改革案をまとめられるだろう?

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こんなテーマを色々と思案しながら、風呂に入っていると結構面白いものだ。

しかしながら、いまの日本で一体だれが上のような国民的審議機関をまとめられるだろう?

臨調、特に鈴木・中曽根内閣が設けた第二次臨調の中心人物は大物財界人であった土光敏夫氏であった。瀬島龍三、加藤寛といったある意味で「力量」のある論客も参加していた。臨教審も中曽根内閣時に設けられたが、当時の慶應義塾長であった石川忠雄氏は肝のすわった大学人であった。財界人・中山素平氏の発案力も当時の世間においては著名であった。

ま、人物談義は本日のテーマではない。

いま例えば「臨時社会保障制度改革調査会」を立ち上げるとしても、一体、まともな結論に集約できる人物が現在の日本にいるのだろうか?その問いかけである。

汗が出るまで風呂につかっていても、財界、官界、学界、論壇を含め、小生には誰一人思いつかなかった。

いつかは将来の日本の年金制度を検討しなければならない。そんな問題はずっとこの20年間、潜在していたと考えるべきだ。
もっと早期に人を得て、発足させておくべきだった。遅きに過ぎた。今となっては、まとめられる人物がいない。
残念ながら、そんな感じがする。





2019年6月24日月曜日

断想: ドッグイヤーで未来予測をみてみたい

”DOG YEAR"という表現がある。犬の寿命は人の何分の1かであるので、時間は犬にとって人の何倍もの速さで過ぎ去る。ま、そんな意味合いである。

時々、時間尺度を”DOG YEAR"にして人間社会の変化を見てみたくなる。

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小生が子供の時分には人生60年だった。少し昔には「長寿社会」だなどと自画自賛したが、そのとき人生は80年になった。小生の頭の中は「人生80年」という意識になっている。ところが、つい最近になると「人生100年」などと政治家まで口にし始めた。もうついていけないという気持ちになる。

人生100年だから”DOG YEAR"にすると、通常の7~8倍、ひょっとすると10倍速で時間が過ぎる。

録画したドラマを早送りするとき2倍にしたり、4倍にしたりするが、6倍にすればもうセリフも何も分からなくなる。1時間のドラマも10分で終わってしまう。10倍速なら10分が1分、10秒のワンカットがたった1秒で瞬時に終わって結果が分かる ― なにがどうなっているか途中はサッパリ分からないが結末だけは分かる。

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10年ひと昔というが、"DOG YEAR"で早送りすればたった1年のことである。

結末だけを知りたい。それなら"DOG YEAR"モードで地球の未来を見るのが便利だ。そう思ったりするのは小生だけではないだろう・・・。

10倍速では足らず、100倍速くらいで見ないといけないか……。そうすれば1年先の未来も3~4日あれば「イッキ見」することができる。

途中で真っ黒な画面になって、『アレッ、これってどういうことなの…』とつぶやく。そんな可能性もあるとは思うが、ちょっと見てみたいものだ。

2019年6月22日土曜日

一言メモ: 足元の景気見通し

米FRBは年後半の利下げを検討しているよし。米中貿易対立に対応した措置である。

このところ何度か投稿しているように、2016年初以降の景気上昇局面は既に3年を経過しており、一度は後退局面に入っても不思議ではないとみてきた。しかるに2018年になってからは特に大きな株価崩落劇が起こることなく、そんなところに米中対立が加わってきたので、この10月辺りにはNYダウが▲1000$くらいの暴落を演じることもあるのではないかと、そんな可能性もあると考えてきた。

ところが……

世界景気の現況を移す鏡としては信頼性のある銅価格をみると下図のようである。


Source:  Investing.com

これを見ると、2016年の国際商品市況下落は世界景気の中期循環を反映したものであることが明瞭にみてとれる ― もちろん、このような見方は日本政府公式の景気判断とは異なる。公式の国内景気判断は2012年11月以降ずっと景気拡大が続いている、という話になっている。

日本公式の景気判断は横に置いておいて、上の図をみるとどうやら今回の景気停滞は2016年初め以降の中期的拡大の中の小循環を形成しつつある。そんな見方もできるのではないか?

この秋に大崩れして2009年のリーマン危機以来の大底を形成するというのも実体経済の現状をみると、非現実的に思える。近いうちに株式市場をも襲うはずの景気後退はそれほどの大規模な落ち込みにはならないのではないかと、そう思うこともある。

が、中期的景気上昇期の中で「暗黒の▲▲曜日」が発生することもある。例えば1987年10月19日の"Black Monday"はそうであった。そういえば、あの時の発端は香港市場の大暴落であった。アメリカ‐イランの関係が極度に緊迫化している状況も共通している。タンカーが攻撃されたことまでまったくの瓜二つだ。

歴史は繰り返すのか?

おそらく次回の世界的株価大暴落も香港か、上海かの中国市場であるには違いないと小生は予想しているところだ。

2019年6月21日金曜日

昨日の続き: いま「守るべき弱い人たち」はどこにいるのか?

昨日の投稿でこんな下りがある:

弱い人はだらしがない人、物事ができない無能な人

本日は昨日の「断想」の続き、というか補足。もっと端的にいうと旧い世代の「八つ当たり」であるかもしれない。

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その昔、「弱い人たち」といえば幼い子供や女性たち、年寄り、病人、障害を抱えた人たちなどを指していた。中でも、まだ小生が小学生であった時代、決して虐めてはいけない人の典型は1に「年下の子」であり、2に「女の子」であった、そんな思い出話をここに書いても、同世代の人から異論はあまり出ないものと思う。

体格や体力、運動能力において歴然たる男女差がある。平等の条件で身体的に争えば、ほぼ確実に男性が女性を組み伏せるだろうことは最初から分かる。オリンピック発祥の地である古代ギリシアでも競技に出場して戦った選手は全て男性である。「であるが故に」と言ってもよいと思うが、一生懸命にこの厳しい浮世で生きている女性たちに可憐さと健気さを感じ、だから「守り」、「支援」したいという心情が男性の側に自然に形成されてくる。そんな側面が昔は確かにまだ残されていたように記憶(というより実感)している。

男女の違いをあげたが、同じ道理は年寄りと若者にも当てはまる。成人と子供も同じだ。

人間社会のこの客観的な事情は本当は今でも大きく変わってはいない。

いま男女別のスポーツ種目をすべて廃止して、同一種目に男女を問わず出場してただ一つの優勝杯を争う形に「戻す」ならば、強さや速さ、高さを争うほとんどの競技において男性選手が優勝するであろう―その場合でも、体操やフィギュアスケートなど女性の優位が際立つスポーツ種目が消え去ることはないはずだ。

本来は、この状態が人間社会の「原初の自然状態」に沿っていると小生は思う。

男女別のスポーツ種目が設けられているのは(色々な理解の仕方はあるだろうが)やはり「機会の平等」を確保するためだと小生は思っている。この「機会の平等」がスポーツだけではなく、政治、経済、教育、家庭生活等々、あらゆる側面で求められている点が現代社会の大きな特徴だと小生は見ている。そして、このような方向付けは相当人為的であり、ある特定の理想にたった施策であると思ってみている。

もちろん現代社会の潮流を非難する意思も悪く言うつもりもない。

しかし、あらゆる局面で「機会の平等」が図られる極限的な社会状況に至ってしまうとして、それでもなお競争の敗者は世の中に出てくるだろう(多数派にはならないだろうが)。それは必然的結果だ。その「敗者たち」は、最初から弱い立場に置かれていて守るべき人たちであったわけではなく、単に当人の努力不足、能力不足、頑張り不足等々、本人に帰属する原因によって社会で劣後してしまった人たちである。論理としてはそうなる。

そこで昨日の下りをより正確に書いておく。

弱い人は、負けた人。だらしがない人、物事ができない無能な人。

もはやこの世界の競争場裏で最初から諦め、つつましく可憐に、片隅で生きている愛すべき人達ではない。単に劣った人たちである……

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何という皮肉だろう!

原初の自然状態で元々生きていた「弱く守られるべき人たち」に公平な機会を与え公平な処遇を提供しようとして始めたことが、最後にはどのような場においても敗北する「真に劣る人たちを視える化」するという結果をもたらすとすれば……。

よく言えば「透明化」といえるが、むしろ「暴露趣味」でもあり、「不人情」、「非人情」の極みでもあるだろう。

人間一人一人の機能を評価する現代社会にはそんな非情なロジックがある。

善意が善い結果をもたらすとは限らない。そうではあろうが、それにしても……あまりに非情かつロジカルな結末になりそうだ。

今の世は「非情」を埋め合わせるのに「法律と政策」を願望する。人情が消えて非情な人工的な社会が進化する。永井荷風なら愛したはずの衰頽の情緒がそこに入り込む余地はないのである。裏町に隠された美を賞味する感性はもう誰にも共有されず、汚くて治安が悪く女性が安心して歩くこともできない界隈は、再開発して無くしてしまうのが一番と考えるのが現代社会である。弱いという点では本当に弱い劣後者たちはそうして居場所すらも無くしてしまうのが現代社会である。

どうも月並みな話になってしまった。今日はここまでで。




2019年6月20日木曜日

断想: 家庭内体罰の禁止に思う

昨日、参議院本会議で改正児童虐待防止法と改正児童福祉法が可決され、家庭内体罰が法律上禁止されることになった。刑罰規定は伴わないが、今後、民法で定められている親の子に対する懲戒権も審議される予定だ。

日本社会も新しい時代に入りつつある一つの証左である。

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小生は体罰を加えながら二人の愚息を育てた。と同時に、小生もまた家庭内体罰を「受けまくって」育った世代である。小生の両親は、といっても父親を指すのだが、戦争も体験しているし、学校時代には軍事教練もあった。家庭内体罰どころか、鉄拳制裁も普通であった時代だ。更に、その前の時代といえば、もう語る必要もないだろう。明治維新前に遡れば口減らしのための間引きや姨捨などの慣習も家族の生き残り策の一つであった。武士の家庭では家門の名誉を守るために一人責めを負って腹を切るくらいのことは当然の道徳とされていた。

時代は変わるのである。

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家庭内から暴力を一掃したとしても、公権力は人々に対して懲役という体罰を課すことは許されているわけであるし、究極の体罰として「死刑」も(当面は)存続する見通しだ。

なので、日本社会から指導や懲戒のための体罰がなくなるわけではない。家庭に変わって社会がその役割を引き受けると理解するしかないだろう。

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小生が育った時代には家庭内で体罰が行われていた。

観方によれば暴力が家庭内にあった、と。そんな観方もあるわけだ。

しかし、その時代の「傾向」を思い出すと、現代と明らかに違う側面もあった。

亡くなった父に殴られたことはあったが、同時に頻繁に言われた言葉もあった。それは『喧嘩をするなら強いものとやれ、自分よりも弱いものと喧嘩はするな』という戒め、というか命令である。なぜなら『それは卑怯な男がすることだ』という一言で父は済ませていた。

いやまったく、簡単かつ明瞭な時代であった。『卑怯な振る舞いはするな』、『男なら男らしくしろ』の一言で息子を指導教育できたのだから……、現在の日本では「卑怯」という単語はほとんど死語になっているのではないだろうか。

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小生が通った学校でも同じような雰囲気であったと記憶している。喧嘩は毎日教室内であった。取っ組み合いである。もちろん顔を殴ったり、のど輪を食わせて息ができなくすることもある。実に荒々しかった。小生は弱虫であったので女子と一緒に後ろで見ていた ― 小生は本が好きで物知りであったので、その限りでリスペクトはされていた。

しかし、数人がかりで一人を攻撃するという状況は、小生は見たことがないし、聞いたこともない。なかったとまでは言わないが、現代でいうような「イジメ」はレアケースだったのではないだろうか?ひょっとすると、懐疑的で大人びた子供が多い大都市圏ではあったのかもしれないが、よく知らない。

まして数人の男児が一人の女児を長期間いじめるという行為は、小生の世代の「男子」ならば「感性」として、しようとしなかったはずではないだろうか?

ま、その後の人生を経てすでに老境にさしかかった現在、いまの時点で女性を殴るという行為をするかしないかと言われれば、それはありうると言うしかないが、まだ子供であった昔に「おんなの子」を数人の男がいじめるという情景は成立し難い……、当時の心情を思い出すとそう思ってしまうのだ。理由は単純。「かわいそう」だからだ。

ここで
惻隠の情は仁のはじめなり
という孟子の名句を引用するのは嫌味だろう(が、連想してしまったので書いておく)。

昔は「体罰」があったという時の「体罰」とは、上にいう様な感性を共有した時代の「体罰」である。

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時代は変わった。日本社会も随分と変わった。

『強いものと喧嘩をしろ』とはいうが、強いものが力を振るうことは犯罪となっており、もう強いものはいなくなっているのかもしれない。『弱いものをいじめてはいけない』というが、そもそも「女の子」はもう弱く、区別される同級生ではないのかもしれない。「弱い人はだらしがない人、物事ができない無能な人」と、単純にそんなイメージが出来上がっているのかもしれない。そんな感性が共有されてしまったのかもしれない。だとすれば、大変な時代であり、それは矯正されるべきだと小生は思う。

そんな新しい時代において家庭内体罰を法律で禁止するというのは、社会が新しいステージに変化したということの反映である。

「家族」という営みが「家」や「一族」という旧来の慣習の名残であると受け止めるなら、家族が果たしてきた機能を停止するという選択が、ひょっとすると社会的な「進化」にあたるのかもしれない。あるいはどこかで社会の基盤が「解体」されてきているので、国が必要な機能をやむをえず引き受けようとしているのかもしれない。

小生には分からない。

2019年6月18日火曜日

一言メモ: 「人権」と「自由」とのバランスをとる仕組みが要るのでは?

大阪・千里山駅前交番で発生した警察官刺殺未遂事件。時を経ずして箕面の山中で確保された犯人と目される男性は、裕福(?)な家庭で育てられたものの現在は心理的不安定からか精神障害者保健福祉手帳(2級)を持っていることが分かった。

保護者である父親は「世間」へのお詫びを既に書面で寄せている。

先の「登戸事件」では「ひきこもり者」に社会がどう向き合うかで各TV局のワイドショーが沸騰した。

今回の事件がきっかけになり、今度は「精神障害者」に社会はどう向き合えばよいのかについて喧しい争論が沸騰するだろう。

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日本で暮らす人は一人の例外なく「基本的人権」をもっている。「人権」は保護されなければならない。

この点は憲法で明記されており、憲法の中でも最も力点が置かれている点の一つである。

この当然の事柄についてすらマスメディアは「世間の常識(≒第三者の視点)」を錦の御旗にして無遠慮に非体系的な異論や反論を放送し、流し続ける。そんな事態になってくるのではないだろうか。それ自体が当人や家族、親戚、友人たちの人権保護という観点から最も問題になる行為である。

そんな展開が、小生、今から心配だ。

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これは「提案」という程のものではない。なぜ未だにないのかが不思議なので書いておきたい。

問題であるとする放送の一部を視聴者は自由に切り取って録画し、それをネット上のポータルサイトにアップロードし、『これが人権侵害に該当する放送であるか否か?』についてWEB投票する。「人権侵害に該当する」と判断する賛成票が例えば3か月以内に10万人なり、20万人を超えるとか、あるいは5万人の投票者で賛成率が80%を超えるなどの条件をみたせば、「著しい侵害が認められた」と判定し、自動的に日弁連や法務省の人権擁護委員や監督当局の総務省に伝達されて審査が行われる。

そんなメカニズムが必要な時機に来ているのではないか、と。自由企業のSNSも企業行動規制が議論されている。お上の認可企業であるTV局などはなおさら行動規制を受けるべきである……。そんな理屈は当然にある。

そう感じる昨今である。

2019年6月12日水曜日

補足: 金融庁のレポート

昨日投稿の補足である。

カミさんとその後こんな話もした。

カミさん: またテレビでやってる。

小生: ああ、2000万円の話ね。大体、持っている貯金の平均値が1200万円か、1300万円だからね。年金だけでは足らない、2000万円貯める必要があるなんて政府が言ったらさ、そりゃみんな怒るわな。

カミさん: レポートを書いた委員会の人たちって、普通の人の感覚、もってないんだね…

小生: 昔はこんな報告をまとめるときは、主婦連の人とか、労働組合からとか、いろいろな分野、階層の人から選んで、おかしなことを書かないように気を付けたんだけどね。ワーキンググループのメンバーをみると、法律専門家とか、エコノミストとか、金融関係とか、結構エリートが多いみたいだなあ……

カミさん: それって意味ないヨネ!

小生: 年金の目安は現役時代の5割程度だから、理屈では当たり前のことを金融庁は書いたんだよ。

カミさん: それって、普通の人は知らないよ。それにサ、現役時代の半分って、おかしいんじゃない? 年収1000万円の人が老後に500万円の生活をするのは出来るだろうけど、130万の人は65万円だよ。それだけで1年暮らすなんてできないワ。

小生: まあね。年収3000万円だった老夫婦に1500万円の生活を国が保障してあげる義務もないだろうね。やっぱり、国が保障する年金には、<最低でもこれだけは支給する>という最小基準がある。どんなに現役時代の収入が高くても年金給付には<最高でもここまで>という最大基準がある。そうでないと変だよね。払い過ぎた保険料は、税金のようなものになるかもしれないし、そもそも年金保険料に上限を設けておくのかもしれないけど、国が高額な年金を支給するのは確かにおかしい。低い方を重視するべきだよな。

カミさん: 今はそうなってないでしょ。平均額が22万円くらいって、10万円台の人もいると思うし、ひょっとして30万円台の人もいるんじゃないの?

小生: 30万円を超える年金かい? それはいないんじゃないかなあ・・・共稼ぎで夫婦合計で30万円超というのはザラだけどねえ。年金も自動車保険と同じだよ。自賠責なんて最小限で、普通は民間の任意保険を使うだろ。老後の年金もサ、国は基礎的な部分だけにして、あとは各自が収入に応じて民間の年金保険を使うのが一番公平で文句がないやり方じゃないかねえ……、日本は社会主義社会じゃないんだから。それにつけても、基礎年金が税込みで毎月6万円ちょっと、それも保険料未納期間があると減額なんて状態じゃあ、自営業の人もいるしサ、そりゃあたいていの人は不安になるわなあ。

【14日加筆】ちなみに厚労省『国民生活基礎調査』(平成29年)から全世帯の所得のメディアンをみると年間442万円になっている。「貧困線」は、通常、メディアンの50%とされているので、上の金額の半分である221万円、月々では18万円余の所得が老夫婦二人に保障されるなら様子はずいぶん変わるだろう。夫婦二人が老後の生活を送るうえで最低限の安心感は提供できるかもしれないと、そう期待できる可能性はある ― 高齢者世帯に限定したデータを参照基準にするべきだという意見が出てきそうだが、データはあくまでも現行制度下の実績値であるので、現行制度自体の適否を議論するための材料には使えない。ところが基礎年金のみを受給する世帯は一人毎月6万5千円程度、夫婦二人で13万円である。これで保障される生活は「貧しく」したがって老後が「不安」になる国民が少なからず出てくる。ま、当たり前のことである。

カミさん: 国民年金保険料なんてやめて、消費税率を20%くらいにしちゃったほうが簡単なんじゃない?

【15日加筆】消費税率を引き上げ実質消費が仮に変わらなければ名目の消費支出が増え、貯蓄が減少し、資金過不足、つまり家計全体の財務状況が悪化する(逆に政府の財務状況は改善する)。しかし、食品など必需財に軽減税率を課せば低所得層の財務状況悪化は緩和され、主に中高所得階層の資金余剰が減ることになる。しかし、日本の株式市場の動向は海外投資家の売買で決まっているのが実情だ。それほど心配はないだろう。高所得層は株価が上昇トレンドにあればキャピタルゲインが得られるので基本的に満足のはずだ。合計効果を予想すると、内閣支持率は上がるのではないか?少なくとも、国内の政治的不安定にはつながらないと思う。

小生: そりゃ僕もそれがいいとは思うけどサ、そうするならそうするで新聞は騒ぐ、TVも騒ぐ、野党は反対。どんなにいい事でも、非難する人が多いと悪い事のようにみんな思ってしまうんだよ、今の世の中は……

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確かに年収200万円の人、130万円の人に対して、『年金というのは現役時代の半分程度を目安にしていますから』などと、政府が言っているようじゃあ救われない。政治になっていない。

そもそも非正規労働者は資産を形成したくとも形成する余裕がない。そして老後を迎える。

これだけは確かに言えることである。

2019年6月11日火曜日

金融庁ワーキンググループ報告書について

年金だけで老後を生活するには足りなくて2000万円の貯蓄が必要だという数字が金融庁報告書に記載されていたというので「一大騒動?」になっている。

レポートをまとめた担当課長はおろか、担当局長、いや金融庁長官までもが、政権幹部から大声で怒鳴られたのではないかと予想する ― パワハラではない。昔からある事務方のチョンボという奴だ。何をいうにもタイミングと言い方がある。

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上で「言い方がある」と述べたが、今回の騒動には不思議な面もある。

そもそも年金の平均受給額が21万円~22万円程度であることは以前から周知の事であったし、毎月の一世帯当たり平均支出額が25万円~26万円程度であることも、経済統計をみる人間には当たり前の常識的な数字であった。なので、引き算をすれば『毎月4万円くらいは足りませんよネ』という話になるわけで、その位は世間の誰でもが薄々にしろ知っていはずである。マア、4万円の引き算が5万円になったという違いはあるが。

要するに、今回初めて明らかになった数字ではない。とっくに分かっていた数字である。

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現実にはいろいろな人がおり、カミさんの友人の集まりでも「まあ21万円もらえれば何とかやっていけるよね」というお喋りで一件落着したそうだ。「それじゃ足らないよね」という人はいないとのこと。

「ホントに毎月25万くらい使っている人がそんなに多いの?」と今朝もワイドショーをみながらカミさんが言うものだから、「平均値だからネ、毎月30万円以上使っている富裕層がいれば平均値は上がるのさ」というと、「すごい財産持っていれば、そのくらいは使えるからねえ…」と納得顔をしている。「うちだって相撲を観に行ったりしただろ?あれは生活費じゃなくて、僕の配当収入から出したんだよ、『年金だけではゆとりのある暮らしには足りません』、報告書に書いているとおりだよ」。まあ、こんな話になるのではなかろうか。

いくら野党の政治家でも、「相撲観戦旅行くらいは支出できるくらいの年金額にしろ」とは言うまい。

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そんな事情がある中で、改めて<2000万円必要説>となって政府から公表されたというわけだ。それが炎上するとは予想しなかったのだろう。とすれば、この騒動、<自然発火>ではなく、<放火>であるに決まっている話だ。

マア、あれである…『こんなことを書けば、「2000万円貯めろ」という趣旨で受け取られてしまいますヨ」と、小生なら席上で言ったと思うが、委員というのはやはり無責任なのであろう。誰も何とも言わなかったと見える。まあ、当たり前すぎる数字であるので、無感覚であったのかもしれない。

【後刻加筆】おそらく金融庁の担当部局は「年金だけで足らないのは資料からハッキリしたわけですから、投資非課税枠の拡充がどうしても必要です」と。財務省への予算要求資料に活用しようと考えていたのだろう(とも憶測できる)。もしそうであれば、作戦が巧緻に過ぎた。財務省へ概算要求する前に、「年金だけでは2000万円不足する」という言葉だけがつまみ食いされて炎上してしまった。もうこの資料は使えないだろう、というより麻生財務相が報告を受け取らないと言明してしまった。お蔵入り。作戦失敗である。

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今朝もカミさんと話したのだが、「貯金を取り崩せば足らないと感じるサ、投資しろっていうことなんだよ、これは」というと、カミさんは不満顔である。「たとえばネ、100万円を貯金して金利が0.3%なら3千円の利子しかつかないんだよ、それを例えば日本たばこ産業(JT)の株に投資すれば配当が6.1%もらえるのサ。6万1千円だヨ。貯金にこだわれば3千円。だから足りなくて取り崩す。投資すれば6万円余りもらえる。いま日本では450万円くらいの貯金をもっている人が一番多いんだけどネ(統計ではモードと呼ぶ)、それをいま一番有利な投資先であるインフラ投資法人に投資すればネ、税込みで8.3%の分配金がつく(エネクス・インフラ投資法人のケース)。年間で37万円、月々3万円にはなるのサ。毎月5万円足らないといっても、無駄な出費を2万円だけスリム化して、3万円を投資収益からもらうとすれば、誰でも…イヤイヤ「普通の」世帯でもだ(だから統計的なことは要注意だ)バランスするんだよネ。貯蓄を取り崩す必要もない。このほうが賢いじゃないか。要するに、こういうことを言いたいレポートなんじゃないの?」。こんな風にいうと、「でも周りの人はみんな投資なんて嫌がってる!元本が下がったらどうするの?」。「十分な配当があれば、たまに下がっても気にしなければいいだろ。それに下がったものはまた上がるんだよ。大体、取り崩しておきながら、元本が下がるのは嫌って、なんなんだよ」。「それでも価値が下がるのは嫌だなあ…」。「君が嫌がるから僕がやってるのさ」。それで、今朝の話はおしまい。

投資は嫌い。であれば、不足額は貯蓄を取り崩すしか(一世帯の立場にたてば)選択肢はない。しかし、こんな姿勢は経済的に不合理である。不合理なことをやっていると損をするばかりである。

やはり『2000万円の資産が必要です』という言い方は、あまりにも刺激的で幼稚にすぎた。とても専門家の報告書とは言えないレベルである。しかも、選挙直前のこの時期に・・・。一体、ワーキンググループの座長は誰だ・・・「危ないですよ」と指摘しなかったのか…などと思って調べる人は多いに違いない。

2019年6月9日日曜日

一言メモ: 言葉に鈍感なTVメディア

「言葉に鈍感なメディア」と言っても、メディア各社の正規社員というより依頼されて出演しているコメンテーターであるから、「一般に日本の社会では」という形容句の方がより適切かもしれない。

「引きこもり」へのネガティブ・イメージについては直ちに賛成できないというのは既に投稿した。

今日の事だったか、昨晩の事だったか、どこの局であったかは忘れてしまったが、聴いていて吃驚した。というのは『引きこもりがいけないってサ、部屋にこもって小説書いてるとか、編集部から缶詰めになってね、それって引きこもりだよネ…』。

そんなことを言えば、毎日デリバリーで食事をしながら在宅勤務している独身の人々は原則「引きこもり」になってしまう。確かに「淋しくないですか?たまには人とお喋りしたくないですか?」と聞きたくなるが、本人がそれで満足なら<持続可能>である。幸福ですらあるかもしれない。なので解決するべき問題がそこにあるとは小生は感じない。人の生き方は人様々、自由なのである。

TVは言葉の使い方がいい加減だと感じた。

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いま問題になっている「引きこもり」というのは、学齢期にあっては登校するべき学校に<不登校>を続け、あるいは学校卒業後であれば<無職無収入>であり、(多くの場合)<親元に寄食し>、(多くの場合)部屋に閉じこもり家族との会話がなく、(多くの場合)実際に病院に通いながら<治療中>である、そんな状態なり、症状を指して使われている言葉であると、小生は理解している。

教育を受けるべき年齢にありながら学校に通学しないというのは少なくとも「健康」であるとは小生には思われない。何らかの原因があって「登校できない」のでその状態を続けているのだと考えるのが合理的だろう。また社会人として働くべき年齢に達していながら、求職活動をせず(できず)、収入を得る努力もせず(できず)、いずれかの保護者の下で寄食を続ける(しかない)という状態はやはり「不健康」である。これも何らかの原因が作用してその状態に陥っていると理解するのが科学的見方というものだろう。

学籍を有すれば学校に行き、社会人であれば職業をもち独立した生計を立てるのが「正常(normal)」、あるいは「自然(natural)」、あるいは「普通(regular)」等々、どの言葉を使ってもよいのだが、このように考察するのは因果関係を当てはめるための方法論である。善い、悪いという道徳的なニュアンスは何も含まれていない。咳が続けば悪魔がついたとみなしてお祓いをするのが前近代の慣習だ。悪魔がつくと考えるのは最高度のネガティブ・イメージだろう。現代医学では検査を行って真の原因を調べる。解決するべき問題と考えるのはネガティブ・イメージをもっているからではない。

とはいえ、政治や法律によってインフルエンザの患者を直すことはできない。同じように、引きこもっている人の悩みを行政や役人が解決できるかというと小生は疑問だ。しかし、適切な厚生行政と公衆衛生の徹底によって、インフルエンザに感染する患者数を抑えることは可能である。その意味で、何十万人と言われる「ひきこもり者」に適切な注意をし、併せて「引きこもり」で悩む人の数を増やさないための体制やシステムを構築することは可能であるはずだ。これは政治や法律の縄張りである。

いま世間で話されているのは、要するにこのような事であり、「作家だって缶詰めになれば引きこもりだ」などというのは、演芸場の高座でしか通用しない話である、と。そう感じたのだ、な。

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言葉を拡大的に再定義して、「だから問題はありません」というレトリックは、戦前期に帝国陸海軍が愛用した修辞法であり、「これは不届きな行為を懲らしめる正義の行動でありまして、断じて戦争ではありませぬ」と。よくこういう言い方をしたものである。どんな場合でも、武力をもちいて紛争が生じれば、それは「戦争」か、「戦争直前」を指す。

「引きこもり」に対してネガティブ・イメージを持つべきではない。しかし、だからと言って「問題ではない」とするのは「それでも構わぬ」という見方と表裏一体であり無責任である。上のように定義すれば、「引きこもり」という状態は少なくとも「不健康」であり、問題解決が必要だ。そう定義して「引きこもり」という言葉を使うべきだ。

言葉に鈍感であるのはメディアが自分を否定するような側面がある。

2019年6月8日土曜日

転載: ロボット化と未来社会、労働需要

こんな報道がある:
Amazon(アマゾン)がラスベガスで行なわれたイベント「re:MARS」にて、配達用ドローン「プライム・エア・ドローン」と共に倉庫で活躍するロボット「Xanthus」と「Pegasus」を発表しました。

ちなみにこの「Xanthus=クサントス」はギリシャの神馬の名前で、英語読みだとカワサキのバイクと同じ「ザンザス」になります。そして「Pegasus=ペガサス」は天馬として知られていますよね。
(中略)
オレンジ色の「ペガサス」は「ザンザス」より小型のロボットで、上部にベルトコンベアがあり、荷物を運ぶのに適した形をしています。しかもAmazon blogによりますと、デンバーの倉庫にはすでに800台が配備され、なんとロボット工学の下地がない若い女性作業員を含む5人が管理しているというのです。
「ペガサス」は、配備から半年で150万マイル以上(241万km)を走破してして、今後デンバー以外の選別センターにも配備が始まるそうです。
倉庫の単純作業をゲーム化しているというAmazonは、ちょっと前に倉庫内でこうしたロボットたちに轢き殺されないよう、センサー内蔵のサスペンダー型ロボット避けベスト「ロボティック・テック・ベスト」を導入した、という話がありましたし、倉庫の外では「プライム・エア・ドローン」だけでなく、Amazonの6輪宅配ロボ「Scout」もテスト中という話もあります。

ついでにAmazonではないものの、Agility RoboticsとFordが共同開発している、「ラスト・1マイル」を2足歩行で配達してくれる運搬ロボット「Digit」というのも存在します。このようにネット通販と配達業のロボット化が目まぐるしく進む時代、あとはスカイネットに繋ぐだけって感じですね。

URL: https://www.gizmodo.jp/2019/06/amazon-xanthus-pegasys.html

 これに対して、こんなコメントをNewsPicksでつけておいた:

最近再びブレークしている人工知能(AI)とロボット技術、VR(仮想現実)の進化を極限まで追求すると、製造現場、サービス現場のほぼ全ての面で人手は不要になってしまう。つまり、付加価値のほとんどが資本所得として分配され、労働所得はほぼゼロになるという状態に最後は行き着く。

まさに「こうなるのではないか」といま心配されているのだが、人手をかけずして必要な財貨・サービスを生産できるのは、俗にいえば「技術の勝利」でもあるわけで、本来は人間が自由に自分のしたいことをできる時代がやってくる。その技術的基盤ができる。そうも考えられないだろうか。

ただ、上のような極限の状況では、現在の市場経済の下では労働需要がほぼゼロとなり、労働分配率もそうなる。ということは、資本所得に対する課税によって必要な所得を国民に再分配しなければならないという理屈になる。これは資本主義の体制とは異なる社会だ。

生産現場が100パーセント自動化されることはない、人間によるサービスへの需要は必ず残る、だから求められるスキルを持てる人材でなければならない、労働市場が消失する事態は起こりえない云々、というのが経済学の常識だが本当にそう予測できるのだろうか?

ただ足元をみると、現在の日本は人出不足であり、ロボット化と自動化で賃金上昇を抑えるという道筋にある。そのための投資需要は景気の維持に役立つ。

当面は労働需給のミスマッチ、人材の産業間移動として問題が意識される。が、基調としては効率化と労働分配率の低下が続く、というよりそんな方向を推し進めなければ日本は競争優位を失うだろう。そして、労働分配率が低下する中で生産を維持するにはマクロ的な均衡がカギとなる。それは企業課税の強化を通してとっていく。

つまりロボット化と企業課税の強化は並行して進む。Atkinson『21世紀の不平等』ではもっと夢のある意義づけをしているが、要するにこういうことではないか。たしかにアトキンソンが述べるように、「雇用」という概念を考え直し、「資本の共有」にまで踏み込めば、大きな問題の解決にはなると思う。ただ、二つのスピード調整が難しい。

うまく行くだろうか?

どうしてもこんな風な未来が頭によぎってしまう。

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上のコメントの部分『人間によるサービスへの需要は必ず残る、だから求められるスキルを持てる人材でなければならない、労働市場が消失する事態は起こりえない』という経済学の常識についてだ。

このロジックには前提がある。それは「需要が限りなく減少すれば価格はゼロになる。もし労働要素の賃金率がゼロに低下すれば、資本コストが同時にゼロにならない限り、必ず資本よりも人の雇用を選ぶ」、つまり実質賃金率が限りなくゼロに向かう途中で必ず労働需要が生まれるという推論がされるわけだが、ここには実質賃金率が限りなくゼロに向かって低下できるという前提がある。

しかし、これは不可能だ。人が生きるには最低限の食糧、衣服、住居といった商品を消費しなければならない。生存コストはゼロではない。自家生産は自家雇用とみなせる。だから現実に実質賃金率がゼロ近傍にまで落ちることはない。正値の下限がある ― 資本要素については資本コストがゼロである極限を考えることは可能だ(可能性としてだが)。

そもそも学習する人工知能(AI)は費用ゼロで資本ストックを増やしていることと同じである。機械学習して能力を向上させる資本には回収するべきコストは伴わないのではないか。故に、労働から資本へ限りなく代替が進むことはありえるのではないか……。資本と労働の等量曲線で<雇用量ゼロ>のコーナー均衡が起こりうるか、である。

生産の基礎理論には落とし穴があるのかも…、理論分野で進展はあるのだろうが、最近はデータ解析の方で仕事をしているので当該分野の現状が分からない。ちょっと心配。


2019年6月7日金曜日

一言メモ: 「進化」と「守る」は両立するのか?

現代の日本社会は「進化」という言葉が大好きである。社会経済システムの進化、教育方式の進化、企業経営の進化、働き方の進化、そして政治の進化等々、未来にふさわしい、これまでにはなくイノバティブな、即ち進化を体現した変革を願望している。

ところが、進化をもたらす自然選択プロセス、つまり自然淘汰と言ってもよい、分かりやすくいえば「競争」とか「優勝劣敗」というものに対する感覚的忌避感をいまなお日本人は捨てられずにいる。

「進化」とともに日本人が最も好きな言葉は「守る」という言葉であり「継承」という営みである。

継承されてきた特質を守りながら、進化することは可能なのか?二つは矛盾するのではないか?

小生には分かりかねるところがある。しかし、矛盾を矛盾として抱えたまま人が生きていくのは難しい。社会も同じことである。対立する二つの方向を願いながら将来を構想するのは難しい。

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昨年夏に下の愚息夫婦がいる名古屋にいった。ちょうど大相撲の名古屋場所が開催されていた頃である。それも見たいので近くの名古屋城にも寄った。猛暑、というよりも狂暑であった。天守閣に向かう道筋に何の日陰も設けられていないことに憤慨の気持ちを感じたものだ。

旧幕時代、城内は今と同じように日陰もなく、ただ広々とした地面が広がっていたのだろうとは推測できる。

そのままの姿を守って未来に伝えていきたいという気持ちは理解できる。オリジナルに価値があるというのは理解できなくはない。しかし、その時々に生きている世代の利便を考えて、花壇があってもよいと思う場所には花壇をつくり、酷暑の夏に歩きやすいように遊歩道を設けるなどは、継承した遺産をむしろ生かす行いである。その時々の社会に旧い資源を溶け込ませるにはリフォームは必要なことだ。昔ありにし姿とは異なれど、名古屋城の旧跡と一体となった未来の空間があそこに作られるとすれば、それが文字通りの「進化」ではないか。そう思うのだ、な。

***

忠実に昔のままの姿を守ると決めた姿勢から進化は出ては来ない。未来を迎えることはできない。進化の中ではイノベーションが進むわけであり、これを日本語で言えば「創造的破壊」になる。新しいものが旧いものを消滅させていく過程が進化のプロセスに他ならない。こんなことは誰もが分かっているのだと思う。

あの250年ものあいだ固定した伝統墨守体制で育った日本人がなぜ明治維新の激動に耐えられたのだろうか?資本主義社会に生きる現代日本人はなぜ根本的変化を好まない(ように見える)のだろうか。この点が、小生、一番不思議だと思っている。それとも、個人的な思い込みにすぎないのだろうか。わからぬ……


2019年6月6日木曜日

今年の正月の覚え書き

まだ今年の正月の事を覚え書きにしていなかったのでメモしておきたい。

昨年の七夕の日に下の愚息が入籍という形で結婚した。その息子夫婦が初めての正月を拙宅で過ごすことになった。

新妻と  そく 訪ね来る 松飾り
ところが宅につくなり愚息はインフルエンザで寝込んでしまった。それで嫁のMさんは感染しても気の毒であり、愚息が嫁さんの実家に行くのも不可能になったので、1泊だけして芦別の実家に行くことになった。

帰省して  そく 病み伏せて 嫁はまた
    我が家を発ちて 芦別へ往く

拙宅で寝込んで正月を終えた息子は病気も癒えて赴任先の大阪へと帰って行った。

帰るなり  そく  病みふせる 年始かな

バタバタとした正月であった。二人がいなくなったあと

読経中 屁をひる我は 親不孝

この位は亡くなった両親も笑って許してくれるだろう。昨日、こんな落書きをみて思い出した。

2019年6月5日水曜日

一言メモ: FRBの金利引き下げ示唆について

昨日の投稿で以下のように加筆した:

【後刻加筆】敢えてFANGの株価暴落を招く方針を固めたのは、トランプ政権がFRBに発する「利下げ要求メッセージ」、というか(それよりも)「早期の景気後退演出と来年初以降の景気回復」が目的ではないか。そんな可能性もある。インサイダー取引の臭いがするからと言って、そう決めつけることは必ずしもできないと気がついた。マア、いずれにせよ粗暴で向こう見ずな政権である。
すると今日は早速、次の見通しが出てきた:
米連邦準備制度理事会(FRB)当局者は最近、エスカレートする貿易摩擦の行方を注視している。ジェローム・パウエル議長は4日、景気見通しが悪化すれば利下げで対応する可能性があるとの考えをほのめかした。
(出所)WSJ、2019年6月5日

近い将来において景気が後退局面に入るのは<ほぼ確実>だ。株価は現水準から更に25~30%は調整すると小生はみている。というより、昨年後半以降の銅、アルミニウム、原油などの国際商品市況の低下を考慮すると、株価は更に下がってもその位でおさまるのではないかということだ。いずれにせよ、現在は実体経済にバブル的兆候は認められず、実態に応じた株価の調整で済むとみている。

その流れの中で早くも<金利引き下げ>の可能性を示唆とは……。
山高ければ、谷深し
である。現在のような景気局面において株価を高値圏にキープする試みはむしろ有害であると思っている。

政治的ノイズが懸念される。

2019年6月4日火曜日

FANG株暴落とアメリカ独禁当局の姿勢について

ロイターがアメリカの巨大ICT企業”FANG"に対して独禁当局が調査を始めるというので、昨日のニューヨーク市場では関係企業の株価が5~7%程度の暴落を演じた。
こんな報道だった:

[ワシントン 3日 ロイター] - 米政府は大規模な市場支配力を有するアマゾン、アップル、フェイスブック、アルファベット傘下グーグルへの調査準備を進めている。関係者が3日、ロイターに明らかにした。
関係者2人によると、国内の独占禁止法順守を手掛ける米連邦取引委員会(FTC)と司法省が4社に対する監督を分担し、アマゾンとフェイスブックはFTCの、アップルとグーグルは司法省の監視下に置かれるという。
ハイテク大手を巡っては、その過大な支配力により、ユーザーや競争市場に悪影響を及ぼしているとの見方が台頭。米国内のみならず、世界中でハイテク大手に対する反感が高まっている。トランプ米大統領はグーグルやアマゾンを批判しているが、根拠は示されていない。 
報道を受け、フェイスブックとアルファベットの株価はこの日、6%超の下げ。アマゾンは4.5%安、アップルは1%安となっている。

(出所)ロイター、2019年6月4日

NewsPicksで以下のようなコメントをつけておいたので転載しておく。

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独占のデメリットとは「市場支配力」、より端的には「価格支配力」の行使によって独占利潤が形成され、エンドユーザーを含めたその他市場参加者の利益が侵害されることにある。

ずっと<昔>は高すぎるシェアが必然的に独占価格の形成につながるとみて独禁政策の必要性が説明されたが、その後はシェアの高さでなく実際に市場支配力を行使しているか、また行使できる環境に置かれているかに着目するコンテスタブル・マーケットの見方が広まってきた。

FANGは確かに巨大化し、市場支配力の行使が懸念されるほどの企業に成長してきた。反面、自動車企業も最近は同じような状況だが、インターネット・ビジネス拡大期において、必要な研究開発や設備投資を進めグローバルな競争優位を形成するには、それだけの企業規模が必要であったという面もある。

もしもFANGの拡大戦略が実行されていなければ、成長するマーケットの中で世界のICTビジネスはどうなっていただろうか?アメリカ経済の成長エンジンはどうなっていただろうか?こんな視点にも意味があるのではないだろうか。

独占禁止当局に与えられた課題は、具体的にどんな点において「交渉上の優越した地位の濫用」が行われ、エンドユーザーも含めた市場参加者の利益を侵害してきたかを立証することにある。

まあ攻略のための攻め口は(ある程度)見当はつくが、決してやさしい問題ではないと思われる。

小生のあくまでも個人的な印象だが、FANGのいずれをとっても、(各社個別に見ると企業行動は一様ではないが)将来にかけてあってほしいビジネスを提案してきた企業であり、またグローバル市場において潜在的な新規参入企業の脅威やアグレッシブな既存企業との激しい価格競争にさらされている、そんな風にも感じられる。

それにしても、アメリカの独禁当局が米中貿易(経済)紛争の真っただ中というこのタイミングで、このような方針をとったこと自体の政治的意味合いの方が、面白いテーマであるのじゃないか、と。そんな気もしている。

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つけたコメントは以上だ。

……トランプ政権は1年ほど前になるかAmazonのベゾス会長を非難して同社の株価暴落を引き起こしたことがある。今回はFANGである。ト大統領が来年の大統領選挙での再選への意志を明確にしたタイミングである。小生は限りなくインサイダー取引の臭いを感じる。今後、史上最悪の大統領として不動の一位を占めてきたWarren G. Hardingのポジションを奪う事態にならないよう祈るばかりだ。

この投稿、まさかホワイトハウスの圧力で削除なんてことにならないよネ…、念のため原稿を保存しておくことにしよう。

【後刻加筆】敢えてFANGの株価暴落を招く方針を固めたのは、トランプ政権がFRBに発する「利下げ要求メッセージ」、というか(それよりも)「早期の景気後退演出と来年初以降の景気回復」が目的ではないか。そんな可能性もある。インサイダー取引の臭いがするからと言って、そう決めつけることは必ずしもできないと気がついた。マア、いずれにせよ粗暴で向こう見ずな政権である。

2019年6月3日月曜日

一言メモ: 「引きこもり」へのネガティブ・イメージには直ちに賛成できない

前稿で取り上げた悲惨な殺傷事件の加害者がともに「ひきこもり」を続けている人物であったことから、「ひきこもり者」への一般的なネガティブ・イメージに結び付き、それに反対する意見が表明されるなど、一連の論争が発展しているところだ。

今日は一言メモ:

殺傷事件については経年別、地域別にデータが蓄積されているはずである。なので、事件発生時の加害者の属性ごとに犯罪行為を実行する条件付確率を算出することは容易であるはずだ。また、その他の属性と併せて、犯罪行為要因分析を行うことも決して無駄ではないだろう。

一言で殺傷事件とはいえ、酒に酔った末の暴行が絡む事件、自動車運転時の死傷事故、近親者間の事件等々、多数のタイプに分けられる。そして、各タイプについて統計的に当てはまる関係も異なるだろう。

おそらく関係分野の専門家は相当の分析を蓄積しているのだと推測する。これらの結果に基づいて、何らかの「ネクスト・アクション」が提案されてくるなら、これもまた学問の社会的意義というもので、問題解決に向けた社会的なPDCAサイクルが機能している一例になる。

「引きこもり」全般に対するネガティブ・イメージには賛成できない。とはいえ、アルコール摂取量が増えたり、喫煙をしたり、運動不足であったり、果てはギャンブルにのめりこんだり、ドラッグを用いたりと、実証的な意味でネガティブな効果が確認されている「生活習慣」も幾つかあるわけである。「引きこもり行動」がマイナスの結果を誘発する傾向が統計的に有意であると判定されれば、「その種の行為は望ましくない」というネガティブなイメージをもつとしても、それは科学的な結論として適切である。

現段階では「ネガティブなイメージ」と言っても、それはまだ印象的なものであり、非科学的である。

念のために加筆しておく。咳をするから発熱するわけではない。真の原因として風邪か、インフルエンザなどの罹患があり、その真因から咳や発熱という諸症状が起きるのである。引きこもりやギャンブルへの依存が原因となって何かの犯罪行為を実行するに至るという因果関係はないのだと思う。何かの原因が別にあって、その真因が望ましくない生活習慣や社会的に許されない行動をその人にとらせるのだと小生は思っている。とはいえ、咳をすれば病気が疑われ要注意であるのと同じロジックで、「ひきこもり」は要注意な生活状態である。こんな結論がデータから確認されても小生は驚かない。

2019年6月2日日曜日

川崎事件に関連して: 解決困難な新種の問題の兆候なのか?

登戸駅周辺で発生した「無差別殺人事件」に関連して、「拡大自殺」という(犯罪心理学上の?)術語が世間で使われ始めている。

もしこの用語が学問上の普遍的な術語であるなら、制度・慣習ならいざしらず人間性そのものは現代と昔とでそれほどまで違うことはないわけだから、戦前期の日本にも観察されていたはずである ― そんな目で探せば、戦前期の日本農村においても凄惨な事件はあった。例えば有名な「津山事件」などはそうだ。

***

思うのだが、今回の川崎事件とはちょうど逆向きの事件に位置づけられるのが、農林水産省の元事務次官による息子殺人事件ではないだろうか。

この人の名は小役人をしていた小生にも記憶がある。なので、今回の報道は相当な衝撃であった。職業的な有能さと成功に比較して、その家庭上の失敗は何という悲惨さであろう。小生はこの他にも成功と失敗が同居する幾人かの先輩を知っている。

元次官は永年引きこもっていた中年の息子を刺殺した。近隣の人は、老夫婦(息子の両親)が二人で買い物に外出する姿をよく見かけたそうだ。しかし息子が同居していると今回の事件で知って驚いたとも話しているよし。

ここから先は、小生だけの憶測なのだが、息子の家庭内行動にドメスティック・バイオレンス(DV)に発展する兆候を認めたなら父親はどう行動するだろうか?この状況は川崎事件の加害者を保護してきた伯父夫婦とも幾分かは共通しているかもしれない。

一方は、自分が先に死去したあとに残される老妻を心配し、また世間にどんな「迷惑」をかけるかと懊悩し、自分が死ぬ前に最後の義務として自分の息子の命を自らの手で奪う。これもまた自分の人生の一つの清算の仕方であるかもしれない、と。社会的責務であるかもしれない、と。小生も(もしも同じ状況に立たされれば)そう考える「可能性」がある。かたや、自分たちが老いた後の介護について市役所と相談し、その後引きこもっていた甥が単独で事件をひき起こす結果になった。そう観る人もいるかもしれない。

つまり、どうも二つの事件は現代社会の未来像について考えるための何かの素材であるのかもしれない。そうも感じるのだ。

自分と同居する子弟が世間に迷惑をかける「可能性」があれば、「何よりもそれが申し訳なし」と感じてそれを予防する義務感から家庭内で自分の責任において「始末」しようとする意志を「社会的正義」として認めるかどうかである。

「可能性」の具体的内容にはあらゆる内容が含まれ、「始末」の程度にもあらゆる度合いが含まれる。要は、家族は社会においてそのような働きをするよう期待されるのか否かなのだ。

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それが「善」であるかどうかという倫理学の観点にたつなら、一方には「善意志」の作用に着目しそれが「善」であるとみる立場もあるだろうし、一人の人間の命が意図的に奪われたという結果に着目し、それは「悪」であるとみる立場もあるだろう。

しかし今の主題は「個々の家族の内部においてとられるそのような行為に社会的な意義を認めるどうか」である。

家族は世間に対して迷惑をかけないほうが善いに決まっている。では、世間、社会と呼んでもいいが、家族の成員が周囲に迷惑をかけないようにするため、どこまで真剣に努力するべきなのだろうか? 家族が<主体的に>、<意志的に>迷惑をかけないようにするためにとる行動を、社会はどのように受け止めるべきなのだろうか?

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家庭内の「体罰」を法律で禁止しようとする潮流が表面化している現在、「家庭内の制裁」には真っ向から反対する意見が多いのだろう。しかし、『家の中の問題は家の中でまずはケリをつけてほしい。世間に迷惑をかけないでほしい』、そんな感情も現代日本には濃厚に残っているのではないだろうか。

現代社会において、本当に「家族」が風化し、解体されるのであれば、あとは社会が家族の善いところも悪いところも引き受けるしかないのが理屈だ。本当に、そんな日本社会を構築できるのだろうか?

深い考察を加えずして、『体罰は良くないよネ』という程度の軽いノリで家族の機能を弱体化させてしまえば、社会がそのツケを負担する。それだけの覚悟を日本の社会は持っているのだろうか?もしそんな覚悟を持っているなら、何か大事件を引き起こした加害者の両親に関心をもつような取材は控えるべきであろう。責任は、そんな大事件をうんだ日本社会にあるという論理になるのだから。

日本の伝統的な「家族」においては、警察も家庭内の事件には「深入り」しないものであった。いまは家庭内で子供の尻を叩いても社会が法を根拠に入ってこようとしている。であれば、社会が国民を一つの家族にまとめ、叱責も懲戒も社会が行う理屈だ。そして、社会が課する究極の体罰として「死刑」がある。(後日加筆: 社会による懲戒・懲罰には変更がなく、家族が担ってきた役割は風化するのだとすれば、その分だけ全体としては人間関係が希薄化し情愛の少ない住みづらい空間にこの世がなってしまう理屈になるのではないか?それとも家族による懲戒機能を停止することによるプラスの効果が大きいと判断できる実証的根拠はあるのだろうか?)

そもそも本当にこのような考え方で人は幸福を築けるのだろうか?

そもそも現実に存在し機能するのは「家族」であるべきなのか? 「社会」であるべきなのか? 「国」であるべきなのだろうか?

「秩序」に関する日本人の感覚がどのように変わりつつあるのか、また変わらずにいるのか。何が責任をもつのか、どう分担するのかという問題なのだと感じる。そして、いかなる秩序も、現実に生きて暮らしている人間の幸福をもたらすものでなくては、何の意味もない。そして国や社会は関係者(=住人)が取り決めた法的で慣習的かつ擬制的な存在であって、それ自体が幸福を追求できるものではないのだ。