2019年6月21日金曜日

昨日の続き: いま「守るべき弱い人たち」はどこにいるのか?

昨日の投稿でこんな下りがある:

弱い人はだらしがない人、物事ができない無能な人

本日は昨日の「断想」の続き、というか補足。もっと端的にいうと旧い世代の「八つ当たり」であるかもしれない。

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その昔、「弱い人たち」といえば幼い子供や女性たち、年寄り、病人、障害を抱えた人たちなどを指していた。中でも、まだ小生が小学生であった時代、決して虐めてはいけない人の典型は1に「年下の子」であり、2に「女の子」であった、そんな思い出話をここに書いても、同世代の人から異論はあまり出ないものと思う。

体格や体力、運動能力において歴然たる男女差がある。平等の条件で身体的に争えば、ほぼ確実に男性が女性を組み伏せるだろうことは最初から分かる。オリンピック発祥の地である古代ギリシアでも競技に出場して戦った選手は全て男性である。「であるが故に」と言ってもよいと思うが、一生懸命にこの厳しい浮世で生きている女性たちに可憐さと健気さを感じ、だから「守り」、「支援」したいという心情が男性の側に自然に形成されてくる。そんな側面が昔は確かにまだ残されていたように記憶(というより実感)している。

男女の違いをあげたが、同じ道理は年寄りと若者にも当てはまる。成人と子供も同じだ。

人間社会のこの客観的な事情は本当は今でも大きく変わってはいない。

いま男女別のスポーツ種目をすべて廃止して、同一種目に男女を問わず出場してただ一つの優勝杯を争う形に「戻す」ならば、強さや速さ、高さを争うほとんどの競技において男性選手が優勝するであろう―その場合でも、体操やフィギュアスケートなど女性の優位が際立つスポーツ種目が消え去ることはないはずだ。

本来は、この状態が人間社会の「原初の自然状態」に沿っていると小生は思う。

男女別のスポーツ種目が設けられているのは(色々な理解の仕方はあるだろうが)やはり「機会の平等」を確保するためだと小生は思っている。この「機会の平等」がスポーツだけではなく、政治、経済、教育、家庭生活等々、あらゆる側面で求められている点が現代社会の大きな特徴だと小生は見ている。そして、このような方向付けは相当人為的であり、ある特定の理想にたった施策であると思ってみている。

もちろん現代社会の潮流を非難する意思も悪く言うつもりもない。

しかし、あらゆる局面で「機会の平等」が図られる極限的な社会状況に至ってしまうとして、それでもなお競争の敗者は世の中に出てくるだろう(多数派にはならないだろうが)。それは必然的結果だ。その「敗者たち」は、最初から弱い立場に置かれていて守るべき人たちであったわけではなく、単に当人の努力不足、能力不足、頑張り不足等々、本人に帰属する原因によって社会で劣後してしまった人たちである。論理としてはそうなる。

そこで昨日の下りをより正確に書いておく。

弱い人は、負けた人。だらしがない人、物事ができない無能な人。

もはやこの世界の競争場裏で最初から諦め、つつましく可憐に、片隅で生きている愛すべき人達ではない。単に劣った人たちである……

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何という皮肉だろう!

原初の自然状態で元々生きていた「弱く守られるべき人たち」に公平な機会を与え公平な処遇を提供しようとして始めたことが、最後にはどのような場においても敗北する「真に劣る人たちを視える化」するという結果をもたらすとすれば……。

よく言えば「透明化」といえるが、むしろ「暴露趣味」でもあり、「不人情」、「非人情」の極みでもあるだろう。

人間一人一人の機能を評価する現代社会にはそんな非情なロジックがある。

善意が善い結果をもたらすとは限らない。そうではあろうが、それにしても……あまりに非情かつロジカルな結末になりそうだ。

今の世は「非情」を埋め合わせるのに「法律と政策」を願望する。人情が消えて非情な人工的な社会が進化する。永井荷風なら愛したはずの衰頽の情緒がそこに入り込む余地はないのである。裏町に隠された美を賞味する感性はもう誰にも共有されず、汚くて治安が悪く女性が安心して歩くこともできない界隈は、再開発して無くしてしまうのが一番と考えるのが現代社会である。弱いという点では本当に弱い劣後者たちはそうして居場所すらも無くしてしまうのが現代社会である。

どうも月並みな話になってしまった。今日はここまでで。




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