2019年6月9日日曜日

一言メモ: 言葉に鈍感なTVメディア

「言葉に鈍感なメディア」と言っても、メディア各社の正規社員というより依頼されて出演しているコメンテーターであるから、「一般に日本の社会では」という形容句の方がより適切かもしれない。

「引きこもり」へのネガティブ・イメージについては直ちに賛成できないというのは既に投稿した。

今日の事だったか、昨晩の事だったか、どこの局であったかは忘れてしまったが、聴いていて吃驚した。というのは『引きこもりがいけないってサ、部屋にこもって小説書いてるとか、編集部から缶詰めになってね、それって引きこもりだよネ…』。

そんなことを言えば、毎日デリバリーで食事をしながら在宅勤務している独身の人々は原則「引きこもり」になってしまう。確かに「淋しくないですか?たまには人とお喋りしたくないですか?」と聞きたくなるが、本人がそれで満足なら<持続可能>である。幸福ですらあるかもしれない。なので解決するべき問題がそこにあるとは小生は感じない。人の生き方は人様々、自由なのである。

TVは言葉の使い方がいい加減だと感じた。

***

いま問題になっている「引きこもり」というのは、学齢期にあっては登校するべき学校に<不登校>を続け、あるいは学校卒業後であれば<無職無収入>であり、(多くの場合)<親元に寄食し>、(多くの場合)部屋に閉じこもり家族との会話がなく、(多くの場合)実際に病院に通いながら<治療中>である、そんな状態なり、症状を指して使われている言葉であると、小生は理解している。

教育を受けるべき年齢にありながら学校に通学しないというのは少なくとも「健康」であるとは小生には思われない。何らかの原因があって「登校できない」のでその状態を続けているのだと考えるのが合理的だろう。また社会人として働くべき年齢に達していながら、求職活動をせず(できず)、収入を得る努力もせず(できず)、いずれかの保護者の下で寄食を続ける(しかない)という状態はやはり「不健康」である。これも何らかの原因が作用してその状態に陥っていると理解するのが科学的見方というものだろう。

学籍を有すれば学校に行き、社会人であれば職業をもち独立した生計を立てるのが「正常(normal)」、あるいは「自然(natural)」、あるいは「普通(regular)」等々、どの言葉を使ってもよいのだが、このように考察するのは因果関係を当てはめるための方法論である。善い、悪いという道徳的なニュアンスは何も含まれていない。咳が続けば悪魔がついたとみなしてお祓いをするのが前近代の慣習だ。悪魔がつくと考えるのは最高度のネガティブ・イメージだろう。現代医学では検査を行って真の原因を調べる。解決するべき問題と考えるのはネガティブ・イメージをもっているからではない。

とはいえ、政治や法律によってインフルエンザの患者を直すことはできない。同じように、引きこもっている人の悩みを行政や役人が解決できるかというと小生は疑問だ。しかし、適切な厚生行政と公衆衛生の徹底によって、インフルエンザに感染する患者数を抑えることは可能である。その意味で、何十万人と言われる「ひきこもり者」に適切な注意をし、併せて「引きこもり」で悩む人の数を増やさないための体制やシステムを構築することは可能であるはずだ。これは政治や法律の縄張りである。

いま世間で話されているのは、要するにこのような事であり、「作家だって缶詰めになれば引きこもりだ」などというのは、演芸場の高座でしか通用しない話である、と。そう感じたのだ、な。

***

言葉を拡大的に再定義して、「だから問題はありません」というレトリックは、戦前期に帝国陸海軍が愛用した修辞法であり、「これは不届きな行為を懲らしめる正義の行動でありまして、断じて戦争ではありませぬ」と。よくこういう言い方をしたものである。どんな場合でも、武力をもちいて紛争が生じれば、それは「戦争」か、「戦争直前」を指す。

「引きこもり」に対してネガティブ・イメージを持つべきではない。しかし、だからと言って「問題ではない」とするのは「それでも構わぬ」という見方と表裏一体であり無責任である。上のように定義すれば、「引きこもり」という状態は少なくとも「不健康」であり、問題解決が必要だ。そう定義して「引きこもり」という言葉を使うべきだ。

言葉に鈍感であるのはメディアが自分を否定するような側面がある。

0 件のコメント: