2019年6月7日金曜日

一言メモ: 「進化」と「守る」は両立するのか?

現代の日本社会は「進化」という言葉が大好きである。社会経済システムの進化、教育方式の進化、企業経営の進化、働き方の進化、そして政治の進化等々、未来にふさわしい、これまでにはなくイノバティブな、即ち進化を体現した変革を願望している。

ところが、進化をもたらす自然選択プロセス、つまり自然淘汰と言ってもよい、分かりやすくいえば「競争」とか「優勝劣敗」というものに対する感覚的忌避感をいまなお日本人は捨てられずにいる。

「進化」とともに日本人が最も好きな言葉は「守る」という言葉であり「継承」という営みである。

継承されてきた特質を守りながら、進化することは可能なのか?二つは矛盾するのではないか?

小生には分かりかねるところがある。しかし、矛盾を矛盾として抱えたまま人が生きていくのは難しい。社会も同じことである。対立する二つの方向を願いながら将来を構想するのは難しい。

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昨年夏に下の愚息夫婦がいる名古屋にいった。ちょうど大相撲の名古屋場所が開催されていた頃である。それも見たいので近くの名古屋城にも寄った。猛暑、というよりも狂暑であった。天守閣に向かう道筋に何の日陰も設けられていないことに憤慨の気持ちを感じたものだ。

旧幕時代、城内は今と同じように日陰もなく、ただ広々とした地面が広がっていたのだろうとは推測できる。

そのままの姿を守って未来に伝えていきたいという気持ちは理解できる。オリジナルに価値があるというのは理解できなくはない。しかし、その時々に生きている世代の利便を考えて、花壇があってもよいと思う場所には花壇をつくり、酷暑の夏に歩きやすいように遊歩道を設けるなどは、継承した遺産をむしろ生かす行いである。その時々の社会に旧い資源を溶け込ませるにはリフォームは必要なことだ。昔ありにし姿とは異なれど、名古屋城の旧跡と一体となった未来の空間があそこに作られるとすれば、それが文字通りの「進化」ではないか。そう思うのだ、な。

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忠実に昔のままの姿を守ると決めた姿勢から進化は出ては来ない。未来を迎えることはできない。進化の中ではイノベーションが進むわけであり、これを日本語で言えば「創造的破壊」になる。新しいものが旧いものを消滅させていく過程が進化のプロセスに他ならない。こんなことは誰もが分かっているのだと思う。

あの250年ものあいだ固定した伝統墨守体制で育った日本人がなぜ明治維新の激動に耐えられたのだろうか?資本主義社会に生きる現代日本人はなぜ根本的変化を好まない(ように見える)のだろうか。この点が、小生、一番不思議だと思っている。それとも、個人的な思い込みにすぎないのだろうか。わからぬ……


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