2020年7月22日水曜日

非合理なのは経済学か、日本人の全面自粛か?

新型コロナウイルスが大きなリスクであること自体については医療関係者と経済学その他専門家とそれほど大きな認識の違いはない。

しかし、経済学者の一部には『新型コロナウイルスは季節性インフルエンザが少し危険になった程度』、『過度に危険性を強調し経済活動を停滞させることによる損失の方が遥かに巨大』といった認識に立つ人が相当数いるのも事実だ。

確かに、日本国内のインフルエンザに関連した死者数は年間でざっと1万人。感染者総数がザックリと1千万人程度であるから、致死率は0.1パーセント程度になる。

飛行機に乗って事故で死亡する確率は0.0009パーセントであるそうだから、世の中、飛行機事故よりインフルエンザで死亡する確率の方がずっと高いわけである。

インフルエンザが流行してもパニックにならず、ワクチンも接種せずに平気で通勤してきた日本人が、平気で飛行機を利用するのは極めて合理的であった理屈になる。

では、日本人が新型コロナウイルスをこれほど怖れる原因は何だろう。今のところ、新型コロナウイルスの致死率は国ごとの違いがあまりに大きく、まだ確かな目安がない。が、日本国内でみると感染確認者数に対する死亡者数の割合は3.8パーセント程度である(参照)。特に、3月から4月にかけて確認感染者が急増した時のことは記憶に新しい。重症化した場合の怖さはTVでも繰り返し報道されていた。欧州の医療崩壊も映像を通して十分に(十分以上に?)周知された。その一方で、新型コロナウイルスの場合は、大量の無症状感染者がいることも分かってきた。検査能力の制約に悩んでいる日本では、無症状感染者の相当割合が未確認感染者として水面下に隠れているに違いない。この春も水面下では無症状感染者が未確認のまま同じように激増していたはずである。なので、新型コロナウイルスの怖さは、「よく分からない」というのが正確なところだろう。

客観的に言えば、季節性インフルエンザも怖い感染症なのである。簡便検査キットや特効薬があるから怖くないのだと多くの人は言うが、毎年1万人前後(!)の人はその関連で亡くなっている。救命できなかったのだ。インフルエンザ流行期に学級閉鎖や学校閉鎖は行われる。しかし、全面的外出自粛やロックダウンなど誰一人として言わない。

おそらくのところ、新型コロナウイルスの致死率は、表面致死率よりは余程低く、季節性インフルエンザと同程度かもしれず、それよりは危険である可能性も残るが、インフルエンザに対する社会的な反応と比べてみると、一部強気の経済学者が新型コロナの感染よりは不況の深刻化をより怖れるべきであると警鐘をならすのに、一定の合理性はあると小生は思っている。

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合理的である経済学者からみれば、新型コロナの感染防止が不況の深刻化よりも一層緊急度の高い課題であると、一斉に声をあげる日本国民はどこかが狂っている、あるいは何かにミスリードされている。とにかく非合理であると考えるに違いない。

しかし、もしこの世に合理的である存在があるなら、それは学者の頭が合理的であるのではなく、現実そのものが合理的なのである。この点ではヘーゲルが言ったように
合理的なものは現実的であり、現実的なものは合理的である
小生もこれが原点であると思っている。これがあらゆる科学の出発点であると思う。

自分は合理的であるから、自分に説明のつかない現象は非合理的である。非合理的な状態は矯正されるべきである。さすがに大自然に向かってこんな阿保らしい叫びをあげる物理学者は一人もいない。しかし、社会科学者には往々にしてこの種の勘違いに気がつかない御仁もいるのである。

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インフルエンザを怖れることがない、予防接種すらも怠って平気な日本人がなぜ新型コロナウイルスをこれほど怖れるのか?

一見非合理的なこの日本人の集団的反応を《合理的に》解釈する理論をみつけるのが、社会科学者、とりわけ経済学者に与えられた課題だろう。医療専門家の「過渡の懸念」を言挙げして、同じ土俵に参入して、ニワカ論争を吹っ掛けることに学者の良心があるとは、小生にはどうしても思えないのだ、な。

非合理的な現象は要するに「不思議な現象」なのである。不思議な現象が実はなにも不思議ではなく、当たり前の反応なのだということを解明することこそ、科学的思考の本質であり、科学的成果だけが新型コロナウイルスを怖れる日本社会を正常化させる第一歩であるに違いない。

この仕事は、経済学者が担当する筋合いだとは思うが、ひょっとすると公衆衛生や医療社会学を専門とする学者が斬新な理論モデルを提案するかもしれず、今後の学問分野間の生存競争がどのように収束するかは予断を許さないと思っている。

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実のところ、経済学分野で上の問題は既に解明されつつあるのではないかと小生は推測している。斬新な政策を提案できる時も間近いものと予想している。

「標準的」な投資理論では期待値‐分散の2次元情報で意思決定をするものと割り切る。確かにあらゆる事象は確率を乗じて集計されることによって確率変数の特性が定まる計算になる。しかし、代表値と散布度という二つの特性値で伝えられる確率的性質は余りに大雑把だ。日常的に使用される特性値の定義も古典的・限定的であり簡便だから使っている面が大きい。更にまた、どれほど確率が小さくとも飛行機事故で死亡すればミクロ的な損失は負の無限大である。故に、本当は飛行機を利用するときの期待損失はマイナス無限大であり、有限の期待利益を必ず上回る。それでも人は飛行機に乗っている。確率を頻度と理解してもよいビジネスでは飛行機を使うのも合理的かもしれない。しかし、ミクロの意思決定を行う消費者の視点にたてば飛行機を利用して旅行するのは合理的ではない。こんな非合理性も実は合理的に説明できるようになってきたのが、かつ経験的実証にも耐えられるほどの成果を出してきたのが、最近の経済学上の成果だろう。

インフルエンザで死亡する人が1万人もいるのにそれを怖がらず、予防接種すら怠る人が多数いるにも拘わらず、それとホボホボ同程度の新型コロナウイルスは全面的外出自粛を甘んじて受け入れるほどに怖れている。この非合理的な違いもまた、《合理的》に説明されなければならず、本当に効果的な政策は有効な理論に基づいてのみ提案されるべきだろう。


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