いま同僚と書いている本は、ビジネス・エコノミクスである。その柱は「需給バランスの論理」、「戦略的思考」そして「イノベーションと産業構造」。この三部構成にしている。戦略的思考は、特に1990年前後から以降、経済学の基本ツールとして不可欠の役割をはたすようになったゲーム理論が軸になる。しかし、クラシック音楽のソナタ形式ではないが、ゲーム理論に基づく合理的思考では経済の発展を説明できない。それは主題の一つではあるが、最終的に否定される。経済の発展は、新しい商品、新しい産業の誕生と拡大、つまり産業構造の変化として認識できるが、その根底には創造的破壊がある。均衡を崩す反力学の世界。そこにアントレプレナーが生きている。その意味では、価格メカニズムに基づき経済社会を理解する新古典派ではない。長期均衡価格をむしろ経済的な「死の世界」と認めるシュンペーターの味付けに近い。
その同僚が、同じ狙いでアントレプレナーシップの系譜について書きたいというので、草稿を見せてもらった。昨日は、肌寒い北運河近くにある石造りのカフェに腰を落ち着け、随分議論をした。彼は、アダム・スミスとシュンペーター、そしてドラッカーを「時空を超えたトライアングル」として位置づける。アダム・スミスといえば先ずは「神の見えざる手」を思い出すだろう。小生も実はそうだ。というか、経済学の発展と精緻化は、スミスが着目した価格調整機能を理論的に彫琢してきた歩みに他ならない。スミスの後には、デビッド・リカードが続き、ジョン・スチュアート・ミルに引き継がれ、そうしてアルフレッド・マーシャルにおいてイギリス古典派経済学は新古典派経済学として壮麗に再建される。時は1890年。最初の"The Great Depression"の真っ最中だ。創業者利得が消失し、自由な参入と価格競争を通して、経済の「あるべき状態」に落ち着いた時代。超低金利と超低利潤。しかし消費者余剰は最大になる。この理念は、経済をみる基本的な目線として、現代経済学にも連綿と受け継がれている。こうした見方の元祖であるはずのアダム・スミス。間違いでないが、しかし、このアダム・スミス像、甚だ、一面的な理解であるわけだ。
マーシャルとは別に一般均衡理論を確立したレオン・ワルラス。シュンペーターにとってクラシカル・セオリーとはワルラスの一般均衡モデルであった。すべてがバランスする矛盾のない経済世界。しかしそんな世界に成長はあるのか?発展はありうるのか?ワルラスから、歩き始めたのがシュンペーターだ。やはり新古典派を機械的にはとらえない。ちゃんと調理する。
ま、あまり書くと、業務上の秘密に触れる。友人の著作が刊行されたら改めて案内をさせていただきます。
そのシュンペーターだが、ずいぶん昔、若い頃には、「資本主義・社会主義・民主主義」が必読書として指定されていた。そう厚い本ではなく読みやすいところが、シュンペーターには珍しい。先日、書店で中山智香子「経済戦争の理論」(勁草書房、2010年2月)を見つけた。ざっと見ると、シュンペーター、ポラニー、モルゲンシュテルンという三人のオーストリア人が主たる登場人物になっている。その三人が、第一次大戦、戦間期、第二次世界大戦と時を経ながら、それぞれのやり方で資本主義社会の崩壊と未来について大著を世に問うた。資本主義社会、この深くて、手を焼かせる難問について、中々ドラマティックに叙述しているのです。その場で買った次第。いまも興味深く読んでいるところだ。
この中に、民主主義について書いているところがある(58~63ページ)。こんな概要だ。かなり小生の脚色が入っているので、そのつもりで。
第一に、資本主義社会では、政治に関心のない大多数が、少数者に政治をまかせるようになる。それは「公」に奉仕する社会的階層を市民(=ブルジョワジー)が侵食し、解体するからなのだな。これ即ち民主化プロセスであり、日本で1980年前後まで進んだ「一億総中流化」現象と似通っている一面もある。言い換えると、社会の単一階層化だ。そうした単一化の中で、人々の生き方やモラル、人生の目的は、ますますビジネスに集中し、個人的成功を誰もが求めるようになり、国益に寄与する動機や意識はますます弱まる。これは必然だという目線である。
第二に、専門家は社会を有益な方向には導かない。匿名集団による<世論>が専門家の提案を規定する、というのが理由だ。これと逆の見方であると思うのだが、専門家は、Social Interestの拡大を直接の目的とするわけではなく、専門家である自分にとってのSpecial Interestを求めるものであるという指摘がある点は、先日の投稿でも紹介した。いずれにしても、ケインズ流の「ハーベイロードの前提」、プラトンの「哲人政治」等々、古来より有識者による寡頭制共和主義を支持する向きがインテリには多い。しかし、それはうまく機能しないのだ、という認識である。
三つ目は、民主主義とは<物事の決め方>であって、それ自体が目的であるわけではない。この社会哲学だ。シュンペーターは、第一次世界大戦での敗北後、解体消滅したハプスブルク家オーストリア・ハンガリー帝国を愛していた。「帝国」という政治行政制度が、時代遅れで適切な意思決定を妨げるものであるという心配から、様々の改革案を幾度も帝国政府に上奏したと言われる。単に「人々による統治」というだけでは、民主主義であることを意味しない。ということは、人々による統治は、民主主義の必要条件ではあるが、十分条件ではないと解釈する。
上に上げた三点のいずれも、この数日の政争劇をみる有益な観点ではないかと、小生は思っているのだが、特に第三点。人々が参加しているからと言って、その社会が民主主義社会である保証はない。ここは大いに勘所だ。
大事なことは物事の決め方だ。その観点から、再生エネルギー法案の審議に入ることを条件に総理大臣を退くという「政治家だけの井戸端会議」を眺めると(退くと明言しているわけでもないが)、日本は民主的な憲法を持っているだけのことであって、実際には民主主義にはなっていない。そもそも日本国の公職のあり方と日本国民の公益のあり方を密室でバーターする権限が一部の国会議員にのみ与えられているのかどうか、その根拠については甚だ疑問だ。たとえ市民運動が民主社会にのみあり、いま市民運動家が政治の責任を負っているとしても、現在の政治は、もはや民主的ではない。市民運動家が民主社会にのみ生存するのなら、現首相は、もはや市民運動家ではない。それは偽装だ。最初から偽装であったのかもしれない。
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